夫婦の秘め事
「屋敷の、改修ですか?」
雪子は新婚の夫の言葉に瞳を瞬いた。
「そう。この建物もかなり古くなっているし、あちこち使い勝手が悪いだろう? 代替わりに伴う騒動も落ち着いてきたから、これを機に色々直すのも悪くないと思って」
先々代の妾腹であった蓮治が井澤家の当主になって早半年。
当初は口煩い親戚からの干渉が喧しかったが、最近はかなり静かになった。それもこれも、彼の経営手腕が並外れて優れたものだからだろう。
今や井澤家は呉服商だけでなく、洋装や靴、宝石に化粧品なども扱う総合的な大店へと変わっていた。
勿論、収益もうなぎ上りだ。これでは親類縁者がいくら蓮治のことを面白くないと感じていても、文句のつけようもない。
口さがない者からは、総一郎よりもいい跡取りに恵まれて、むしろ幸運だったと囁かれているほどだった。
「だけど家内のことは雪子さんが主人だからね。貴女の意見を聞かせてほしい」
「それは……蓮治さんがなさりたいなら、私は反対しません」
愛する彼のすることに、否やがあるはずもない。雪子は当たり前のように頷いた。
「しばらくは人の出入りが多くなるし、騒音もあるけれど構わないかい?」
「はい。ですがどの辺りを直されるつもりですか?」
一日の仕事を終え、疲れた様子の蓮治から羽織を受け取りながら、雪子は首を傾げた。
毎日誰よりも遅くまで帳簿付けやら明日の準備やらで忙しく働いている彼は、すっかり井澤家当主に相応しい貫禄を備えている。店の従業員たちからの信頼も厚い。
対して、新妻である自分はまだまだ新米だ。
長年女中として働いてきたため炊事洗濯の技能は身についているものの、それらは『奥様』になった現在、求められることがなかった。
手持ち無沙汰で、女中らを手伝おうと台所に顔を出そうものなら、『主人としての自覚をもってくれ』と美津に叱られる始末。
元同僚であった友人は、雪子の結婚をとても喜んでくれたが、立場の違いはきちんとつけなければいけないと何かにつけて言ってくる。
こちらとしては急に態度を変えることもできないので、今まで通り仲のいい友達として接してほしいけれど、そう簡単な問題ではないらしい。
―――でも他の良家の奥方のように、習い事やおしゃべりに一日中興じる気にもなれないし……身体を使って働いている方が私は向いているんだもの……
ようは、雪子が貧乏性なのだろう。
奥座敷でちんまり座っているだけなのが、性に合わないのだ。
とは言え、そうとばかりも言っていられない。
今の自分は井澤家の若奥様。立ち居振る舞いに気を付けねば、夫である蓮治が笑い者になってしまう。それだけは絶対に嫌なので、気を引き締めねばならないところだ。
しかし、現実的に雪子が毎日できることと言えば、こうして夫の帰りを待ち甲斐甲斐しく世話を焼くことだけ。
彼の羽織を受け取るのは、大事な仕事の一つだった。
「大々的に工事をするとなれば、近隣にご挨拶をしておいた方がいいかもしれませんね。そこまでの規模ではありませんか?」
店に手を加えるなら方々への根回しも必要だと、雪子は案じた。
正直、立派な屋敷である井澤邸に、改修が必要だとは思えない。確かに経年劣化から隙間風や軋みが気になる場所もあるが、深刻な問題でもない気がした。
「―――母屋と違って離れは長年手つかずだからね。使用人部屋を中心に改修してはどうかと考えている。ここで勤めてくれる者たちに、少しでも良い環境を与えたいし、男女を隔てるために行き来しにくい造りにするのは、効率が悪いと思う。だったら最初から別棟にした方が合理的じゃないかい? あとは―――地下への階段を埋めてしまおうかと思って」
「え……」
以前は雪子も女中部屋で寝起きしていたから、離れが快適なものではないことは知っている。狭いし、暗い。何よりだいぶ古い。
畳だって、もう何十年替えていないのやら。
だが、井澤家は特別待遇が悪いわけではなく、一般的な部類だ。劣悪な環境とまでは言えないし、雪子も働いている当時は『こんなものか』と納得していた。
それ故、使用人たちを気遣ってくれる蓮治の言葉には感激しかない。つまりこの提案には概ね大賛成である。
気になるのは『地下への階段』が予定に含まれていたことだった。
「あそこを……封じるおつもりですか?」
母屋の奥まった場所にある、秘密の階段。代々の当主だけが、扉を開く鍵を管理してきたらしい。
長く真っ暗な階段を下りてゆくと、そこにあるのは―――
「……っ」
嫌な記憶を掘り起こしそうになり、雪子は慌てて思考を断ち切った。
もう心の整理をつけたつもりだったのに、強張る身体はどうしようもない。
あの晩のことは、全ては終わったこと。何もかも過去になり、今の雪子を脅かすことはない。それでも―――勝手に震える膝や冷たくなってゆく指先は、あまりにも正直だった。
―――いつまで引き摺って……駄目ね、私……
何故、井澤家の地下にあんな場所が設けられたのか、雪子は知らない。蓮治も聞き及んではいないそうだ。
ただずっと以前から、人知れずあったとだけ。
全てを知っていたかもしれない先代の松之助がいないのでは、もはや探る術もなかった。
「……先代の旦那様と奥様は納得済みですか?」
「―――勿論。僕から話を通してある。異論はないとおっしゃっていただいたよ」
ほんの僅か、蓮治の返事に奇妙な間があった気もするが、彼がそっと雪子を抱き寄せ髪を梳いてくれたので、疑問はどうでもよくなってしまった。
蓮治の手は、いつも雪子に安らぎと安心をもたらしてくれる。
こうして触れているだけで、怯え竦んでいた肢体は瞬く間に強張りを解いていった。
井澤家の先代当主夫妻である松之助と久子は、とある悲劇から大怪我を負い、今は気候の温暖な地で療養中だ。
とても遠方な上に船でしか行き来できない島だということで、雪子自身は見舞いに行ったことがない。けれど蓮治が全て手配してくれたから、何も心配はしていなかった。
夫に任せておけば、万事上手くいく。
博識な彼は、貧しい農村出身の自分では計り知れないことを、何でもよく知っている。それに行動力があって、信頼できる素晴らしい人だ。
その彼が『あの二人』の回復は順調だと言うのだから、その通りに決まっている。また、松之助たちが屋敷の改修に賛成してくれているのなら、問題は一つもないと思った。
「そういうことでしたら……美津たちも喜ぶと思います」
「良かった。雪子さんは地下のことを思い出したくないだろうから、告げずにこっそり埋めてしまおうかとも思っていたんだが……家の中のことは妻である貴女の領分だからね。やはり話を通すのが筋というものだ」
「そんな……私に気を遣ってくださったのですか?」
未だ満足に女主人の役割を果たせていない自分を、蓮治が立て尊重してくれているから、雪子は何とか頑張っていられる。
ほとんどの使用人は雪子に協力的だが、嫁入り当初、中には雪子をもの知らずの小娘として軽く扱う者もいた。そんな不届き者が心を入れ替え仕えてくれるようになったのも、蓮治が支えてくれたからこそだ。
彼がいついかなるときも雪子を妻として大事にしてくれたおかげで、井澤家での立ち位置を築けたのは疑いようもない事実だった。
「当たり前だ。雪子さんは僕の伴侶であり、かけがえのない宝物だ。何事も貴女に相談しないとね。僕らは夫婦なんだから」
額に口づけられ、雪子の胸が大きく脈打った。
祝言を挙げ、既に半年が経っていても、二人の間に漂う甘い空気は微塵も薄れることがない。
むしろ蓮治の口調が親密になり、更に以前より憚ることがなくなった分、濃密になった心地がした。
流石に人前で恥ずかしげもなく寄り添うことはないけれど、二人きりで過ごせる時間はどうしたって離れがたくて仕方がない。
多忙な蓮治と夕餉を共にできる機会は少なく、彼は大抵、店で簡単に済ませてしまうことが多い。
今夜も同じで別々に食事をとった雪子は、夫と過ごす時間をもう少しだけ引き延ばしたくなった。
「あ、あの……お風呂の支度は整っていますので、どうぞゆっくり……」
「ありがとう。今日は蒸し暑かったから、少し汗をかいてしまった」
優しく微笑んだ蓮治が風呂へ向かおうとする。その瞬間、雪子は考えるより先に彼の背中側から抱きついた。
「……雪子さん?」
「あ、あの……私……っ」
自分から入浴を促しておきながら、矛盾している。
それは重々理解していたものの、蓮治の腹の前で組んだ指を解くことができない。あと少し、もう少しだけ、愛しい人の温もりを感じていたい。
そんな淫らな欲求に衝き動かされ、雪子は真っ赤に熟れた頬を彼の背中に擦りつけた。
蓮治を慕う気持ちは、日々募る。毎日膨らむ一方で、戸惑うほど。この幸福がいつか弾けてしまうのではないか、同時にどこか不安があった。
「―――……一緒に風呂へ入りましょうか?」
「ええっ?」
苦笑と共に落ちてきた言葉に驚いて、つい顔を上げた。そこには、麗しい顔を綻ばせた最愛の夫が立っている。
綺麗な瞳の奥に揺らぐ誘惑の色。
とろりとした空気が濃く香る。
情欲の灯が灯った彼の眼差しに炙られて、雪子は上気した頬でコクリと頷いた。
「は、い―――」
二人で入浴などしたことはない。今だって、そういう意図で蓮治を引き留めたつもりはなかった。だが彼に誘われて、拒む選択肢は雪子にない。
嫣然と唇で弧を描いた蓮治に手を引かれ、浴室へ向かう。
彼の希望で、母屋に出入りする使用人は最小限の人数だった。ましてこの時間帯は、女中らも自分たちの部屋に戻っている。
蓮治の代になり、時間外の労働は基本的になしになったため、雪子たちの都合で呼び出すこともしない。
つまり今夜この刻限、母屋にいるのは蓮治と自分だけ。
それはいつも通りでもあるのに、今日に限ってはひどく淫靡な気持ちにさせられた。
軋む廊下を二人で歩き、屋敷の端にある風呂場へ辿り着く。
かつては暗がりばかりのこの家を恐ろしく感じていたけれど、蓮治と暮らすようになって雪子はすっかり平気になった。
総一郎が使っていた部屋へ出入りする気には未だなれないが、それは特別用がないからでもある。
陰鬱な雰囲気が漂っていた昔とは違う。久子が家内を取り仕切っていた頃とはガラリと変わり、美津などは『空気が良くなった』と笑うほどだ。
そんな中、唯一の例外とも言うべきなのが、地下にある『秘密の座敷』だった。
あえてこれまで口にして来なかったけれど、雪子とてあの場所があることが心に引っかかっていたのは否定できない。だがら、蓮治の方から閉ざしてしまおうと言ってもらえ、とてもホッとしている。
―――やっぱり蓮治さんは優しいな……いつも私を助けてくれる……
辛いとき、悲しいとき、そっと手を差し伸べてくれる彼に改めて恋に落ちた気分だ。
きっとこの先も何度でも、自分はこうして夫に惚れ直すのかもしれない。
そして素晴らしい人に見初めてもらえた奇跡に、雪子は心から感謝した。
「今夜の雪子さんは大胆だね。まさか一緒に風呂に入るのを許してくれるとは思わなかった」
「わ、私……はしたないですか?」
「いいえ? とても愛らしい奥さんだ。それに考えてみれば雪子さんは案外突拍子もないことを言い出す人だった。僕らの始まりは、ある意味納戸でしょう? よくもあんな場所でと、今は後悔している。雪子さんの初めては、もっと大事にしなければならなかったのに……」
「そ、その件は忘れてください……っ」
脱衣所で向かい合ったまま、蓮治がわざとらしく片眉を上げる。その上大袈裟に肩を竦めた。
「僕の妻は無理なことを言う。あんなに衝撃的な出来事を忘れるなんてできやしない。それに僕にとって最高の思い出でもある。長年焦がれ続けた人に、ようやく触れることを許された記念日なのに」
「……ぁっ」
手際よく帯を解かれ、着物を脱がされた。
襦袢一枚の姿は、心許ない。簪を抜かれ解かれた雪子の髪が、白い首を艶めかしく擽った。
「僕に抱いてほしいと言ってきた雪子さんは、信じられないほど淫らで可愛らしかった」
過去を思い出したのか、うっとりとした彼の声が雪子の鼓膜を震わせる。湿った呼気に肌を炙られ、うなじがチリチリと焼けつく。
肌を辿る男の指先に、雪子の内側でもどかしい熱が生まれた。
「蓮治さん……っ、恥ずかしいことを言わないでください……っ」
「恥ずかしい? 僕は今でもあのときの雪子さんを思い出して、堪らない心地になるのに?」
「……っ、ぁ」
そっと手を取られ誘導されたのは、形を変え始めた蓮治の楔だった。
まだ着物を纏ったままの彼のものが、布越しに脈打っているのが感じられる。その雄々しい漲りに、雪子の喉が上下した。
「貴女のことを考えるだけで、僕はいつだってこうなってしまう。……雪子さんは?」
柔らかく細められた蓮治の双眸に映るのは、上気した頬が淫猥な女。期待に潤んだ眼差しで、愛してやまない男を見つめていた。
「……わ、私も……蓮治さんを想うと、心臓がどきどきして苦しくなります……っ」
「―――ああ、本当だ」
「……ふ、っぁ」
直に乳房に触れられて、雪子はか細い声を震わせた。甘い愉悦が全身を駆け巡る。
膝から力が抜けかけ、慌てて両脚を踏ん張った。
「……汗を、流さないと……っ」
「そうだね。でももっと汗塗れになってしまうかもしれないな……」
まだ湯に浸かってもいないのに、蓮治の美声にのぼせてしまいそう。くらくらする頭で、雪子は彼に取り縋った。
「……んっ、納戸も改修するんですか……? ぁ、ん」
「その予定だ。不用品の処分も兼ねて整理しようと思っているけれど―――もしかして雪子さん、嫌?」
「い、嫌ではありませんが……っ」
勘のいい蓮治は、雪子の仄かな躊躇いに気がついたらしい。
彼の案に反対するつもりは毛頭ない―――が、ほんの僅かに残念な気持ちがあったのは確かだ。
離れを使用人たちのために手を加えることは大賛成なのだが、納戸には二人の思い出が詰まり過ぎている。それ故、叶うならそのまま残しておいてほしい気もした。
「あそこは……蓮治さんとの関係が変化した大切な場所なので……」
初めて肌を晒したのも、彼のものになれたのもあの狭い小部屋。どんなに古く汚れていても、雪子にとっては替えの利かない場所だ。
勿論、正式に蓮治と結婚した今では、足を運ぶことはないけれども。
「あの……駄目なら仕方ありませんが、床板が抜けそうだとか、壁が崩れそうなどの問題がない限り、できればあのままにしてほしいと言うか……」
「ふふ、雪子さんは本当に可愛らしいな。分かった。納戸はそのままにしておこう。僕ら二人だけの秘密が詰まった大事な場所だから」
「蓮治さん……!」
雪子の愚かな希望を聞いてくれる夫が愛おしくて、つい華やいだ笑顔になる。すると彼が強く雪子を抱きしめてくれた。
「―――また、あそこで睦み合いましょうか? 皆が寝静まった後に……」
「……ぇ、れ、蓮治さんったら……」
淫らな誘いに鼓動が速度を上げる。
雪子は夫の腕の中で、恥じらいつつも小さく頷いた。