戦女神は寝ぎたない
炎だ、と思った。それも、業火だ。全てを焼き尽くす、灼熱の輝き。
戦う彼女は、全てが凄まじい。荒々しく、強く、揺るぎない。
彼女の怒りが、願いが、信念が、その姿、表情、動き、全てに現れ出ているようで、漆黒の甲冑を身に着けたその細い身体からは、眩く白い炎が立ち上がる幻が見えるかのようだ。
クーデターを起こした反乱軍に混じり、先陣を切って剣を振るい、敵を薙ぎ払っていく皇女の姿に、ウルリヒは一瞬で心を奪われた。
(女神みたいだ……)
白い顔を返り血で汚し、悪鬼のような表情で敵の首を斬る女の姿を見て、そんな感想を浮かべる自分は、どこかおかしいのかもしれない。
けれどウルリヒには、彼女が美しく見えたのだ。
「すげえ……本物の長剣って、あんな音が鳴るんだ」
食い入るように皇女を見つめるウルリヒの隣で、エスが剣戟の音に感嘆するように呟いた。城の中は人々の怒号や、泣き叫ぶ声、者が壊れる音などで溢れ、耳を塞ぎたくなるほどだ。その中でも剣戟の音だけを拾うエスの耳は、さすがとしか言いようがない。
ウルリヒとエスはこのクーデターの争乱の中、皇帝の城にこっそりと忍び込んでいた。
指導者であるオイゲンに、今日は『蟻の巣』の宿舎から一歩も出ないようにと厳命されていたのに、こうしてここにいるのはもちろんその言いつけを破ったからだ。一歩間違えば死ぬような過酷な訓練を科すオイゲンのことを、『蟻』の子ども達は皆恐れながらも憎んでいて、隙あらば反抗してやろうと目論む気の強い者もいる。エスはその典型だ。
それだけではなく、エスは『蟻』の中でも特に好戦的で、戦うことに喜びと誇りを持っている。だから今回のクーデターに参加できなくなったことに、大いに不満を抱いていた。
当初、オイゲンはクーデターに『蟻』の子ども達を使うつもりでいたのだが、皇女ライネリアの大反対にあい、取りやめとなったのだ。
『皇女サマが余計なことを言うから、おれの見せ場がなくなったぜ!』
とエスはぼやいていたが、ウルリヒはそうは思わなかった。『蟻の巣』には、自分たちよりずっと幼い仲間もたくさんいる。未熟なあの子たちが戦争に駆り出されれば、ただでは済まないことくらい考えなくても分かる話だ。
(皇女はおれたちを守ろうとしてくれているのに)
だが、それは身分の高い者が施す偽善なのだろうなと、ウルリヒも思っていた。すんなりと他人を信用するには、自分たちは踏みつけにされすぎていた。
それでも偽善であっても、皇女のその発言で守られる命があるのも事実だ。ウルリヒは、仲間たちが死んでいくのは嫌だった。望む未来がないこの世を疎みながらも、いつか、誰かが自分たちを救ってくれるのではないか。その時を、その幸福を、待ってみたいと思う、一縷の希望が心の奥底に残っていたのだ。
(あの人が、そうなのかもしれない)
ウルリヒの目は、未だ皇女に釘付けのままだ。
皇女は激しく戦っている。返り血を浴び、自らも怪我を負いながら、黒い髪を振り乱し、雄叫びを上げて剣を振るっている。
(偽善だけで、こんな真似、できるはずがない)
まして、あの人は皇女だ。何もしなければ、やんごとない身の上として贅沢をし、何不自由のない生活を送れていた人だ。
それを蹴って、実父である皇帝を打倒してでも、彼女には通したい正義があるのだ。
(これは偽善なんかじゃない。信念だ)
戦の女神のように勇ましい彼女の姿は、ウルリヒの目には、民を正しい道へと導く公正と慈愛の女神にも見えていた。
正しいと思うことを貫ける人間がどれほどいるのか。
正しいことを証明するために、自ら剣を取って戦うことができる人間が、どれほどいるのか。
その精神の真っ直ぐさ、潔さに、なにより、強さに、ウルリヒは心ごと鷲掴みにされるのを感じた。
(おれの、女神だ)
欲しい、と思った。
あの眩く、輝かしい戦の女神を、自分のものにしたい。
この手はまだ小さく、頼りないけれど、いつか、必ず――。
「女神……」
自分の寝言で目が覚めて、ウルリヒはぼんやりと天蓋の絵を見つめた。
戦の女神が太陽に向かって剣をかざしている、神話をモチーフにしたもので、ウルリヒが選び職人に作らせていたものが、昨日ようやく完成して届いたのだ。
(……なるほど、これが原因か)
ウルリヒが戦の女神を選んだ理由は、もちろんライネリアだ。
初めて彼女を見た時の衝撃を、未だに鮮明に覚えている。戦の女神のように、神々しい姿だった。
(……懐かしい夢だったな……)
まだ夢の名残りを漂いながら、ウルリヒはごろりと寝返りを打った。
隣で眠っているのは、ひと月前に妻になった、愛する人だ。
彼の女神こと、ライネリアは、白いシーツの上に艶やかな黒髪を波打たせ、白くしなやかな肢体を丸めて健やかな寝息を立てている。黒々とした長い睫毛が呼吸の度に揺れる様に、無垢さと妖艶さの両方を感じて、ウルリヒは悩ましく眉根を寄せた。
(もう少し眠らせてあげるべきか、それとも……)
もっと顔をよく見ようと身体を動かすと、ウルリヒの巨体に悲鳴をあげるようにベッドが軋んだ。
だが眠りが深いのか、ライネリアはウルリヒの身動ぎにも起きる様子はない。
なんとなく悪戯心が湧いて、その白い頬をむにむにと抓ってみるが、ライネリアは「む……」と唸ったものの、またすぅすぅと幸せそうな寝息を繰り返す。
「ふむ……」
ウルリヒはその寝顔を見つめて、小さく首を傾げた。起きないとは思っていたが、やはり起きない。顔の輪郭が変わるくらいの力で抓っているから、それなりに痛いはずなのだが、眠りから覚める気配は欠片もない。
「ここまで来ると、一種の才能だな……」
ライネリアは、寝ぎたない。とにかく寝起きが悪く、一度起こしてもまたすぐに二度寝に入ろうとするので、繰り返し何度も声をかけねばならない。それでも起きないこともしばしばなので、ウルリヒは強制的に掛布を剥ぎ取って、寒さで目を覚まさせるという起こし方をしていた。
最初に知った時には、このぐうたらな大人が本当にあの女神と同一人物なのだろうかと疑ってしまったほどだ。
「眠っているあなたも可愛らしいですが……そろそろ起きてください、ライネリア」
ライネリアの耳に息を吹き込むようにして囁きかけると、ピクリと肩が動いたけれど、それだけだ。
「ふむ……」
ウルリヒはニヤリと唇の端を上げた。
「ねえ、ライネリア。あなた昨夜、俺の誘いを『明日起きられなくなるから』と言って断りましたよね?」
クスクスと笑いながら、ウルリヒはライネリアの夜着のリボンをシュルリと解く。
結婚してからというもの、新婚だというのに互いに公務に明け暮れる毎日で、共に過ごせるのは夜だけという有り様だ。ライネリアの隣に立つためにこの地位を得たのだから、納得しているつもりだが、それでもこれまで一日中ベッタリと彼女に張り付いていたウルリヒにとっては、ライネリア不足で不満が溜まっている。
結果、その不満は一緒に過ごせる時間に発散されることとなり、ライネリアは毎晩ウルリヒに組み敷かれるという日々を送っていた。
ライネリアが一般的な女性よりも逞しく、体力があるとはいえ、相手がヒグマと揶揄されるような体格の自分となれば、毎晩……はさすがに限界だったらしい。
昨夜は『今日はナシだ! ナシ! 明日の朝ちゃんと起きたいから!』と懇願されて、渋々諦めたのである。あまりしつこく迫れば、腹に一撃くらいは食らわされてしまう。ライネリアの拳や蹴りは、そんじょそこらの男の一撃よりも重く痛い。できれば回避したいところである。
「とはいえ、ちゃんと眠った朝なら、別に構いませんよね?」
眠ったままの彼女に爽やかに言い置いて、ウルリヒは愛妻の夜着を剥いていく。
素肌に手を這わせ、滑らかな皮膚の感触を楽しみながら、彼女の感じやすい場所に愛撫を加えた。
「……ん、ぅ……」
ライネリアはまだ眠ったままだ。こんなに触られてなお眠っていられるのが、逆にすごいと思ってしまう。
「どこまで起きないか、試してみましょうね」
実に楽しい実験だ。鼻歌を歌いたいような気持ちになりながら、ウルリヒは形の良い乳房に舌を這わせた。昔から、この乳房が好きだった。彼女の入浴介助をするたび、いつかこの美味そうなものに齧りついてやる、と野望を抱いていたものだ。乳房の上に実った赤い実を舐めしゃぶりながら、先程の夢を思い出す。
(あの頃の自分に、今の自分を見せてやったら卒倒するだろうか)
一目で魅入られた女神の裸にむしゃぶりついているのだから。
だがすぐに、いや、と頭を振った。
(あの時から俺は、この人を自分のものにするつもりだったからな)
あの頃でも自分なら、当然の未来だ、と満足げな笑みを見せることだろう。
愉快な想像をしながら、ウルリヒはライネリアの長くしなやかな脚を開かせ、そこに口をつけた。
その瞬間、悲鳴が上がった。
「ぎゃっ……! ウルリヒ、お、お前、何してるのよ!?」
おや、とウルリヒは彼女の股座から顔を上げる。すると顔を真っ赤にして目を吊り上げる愛しい女神の顔があった。
「おはようございます、ライネリア。もう十分寝たでしょうから、昨夜の分をさせていただこうかと……」
「は!? ちょっと! 言いながら続けようとしないで……ぁっ、もう! ちょ……!」
文句を言いながら暴れようとするライネリアの脚を、両腕でがっちりと抱え込んで動けないようにして、ウルリヒは愛撫を再開する。なんだかんだ文句を言っても、ライネリアは自分に甘い。ついでに言えば、快楽にも弱い。眠っている間に施した愛撫で、彼女の身体は準備を整えつつあるから、このまま押せば流されてくれることは想定済みだ。
「ね、眠ってたのに……!」
「起こしましたよ? それに、触られているのに起きないあなたがいけないのでは?」
「眠ってるのに触る方がおかしいでしょう!」
半分泣き声で応えるライネリアは、もう諦めたのか、身体の力を抜いて抵抗をやめている。それが可愛くて、愛しくて、ウルリヒは目を細めて囁く。
「愛してます、ライネリア」
「あ、愛は免罪符にならないからね!?」
「愛は免罪符にはならないかもしれませんが、きっと世界を救います」
「は!? 世界!? って、も、ぁあっ……!」
なにしろ、自分こそが生き証人なのだから。
幼かったあの時に誓ったように、彼女を愛したことで今こうして救われて、幸福の絶頂にあるウルリヒが言うのだから、間違いないのである。