ソーニャ文庫

歪んだ愛は美しい。

会員限定特典小説

ハッピーエンドのその後で

 ハッピー・エンドのそのあとが幸せであると、必ずしも保証されているわけではない。
 少なくとも、ヴァレリはいま、幸せを実感しているとは言いがたかった。
 事の発端は、婚約者の父フィンツィ伯爵による、こっそりとした耳打ちだ。
『君、考えてもみたまえ、ルチアはバルシャイ公爵との婚約が破談になったばかりだろう? その理由は、公爵とパスクァーリ子爵令嬢が不埒な関係を結んだからじゃないか。そんななかですぐに君たちが結婚してみろ、とんでもないことになる。よもやルチアのほうが、公爵よりも先に浮気していたのではないかなどとばかげた憶測を呼びかねない。口うるさい雀どものうわさの的になってみろ、かわいいルチアは、この先どうなってしまう? 歩くたびに『淫乱』などと、心ない言葉を浴びせられることになる。それはあの子の父として、断じてゆるせることではない。よって、君とルチアの即座の婚姻は、いくら既成事実があるといえ、認めるわけにはいかないのだよ。聡明な君であれば理解してくれると私は信じているのだが』
 当時、ヴァレリはその言葉をもっともだと考えた。自分はどうあっても、ルチアが肩身のせまい思いをするのだけは嫌だった。そのため、ほとぼりが冷めるまで結婚を待つことに同意した。しかし、おかしいと思い至ったのは二週間後のことだった。
(くそ。なぜこの僕が、門前払いを喰らわされなければならないんだ!)
 そう、ヴァレリは毎度伯爵に門前払いされ、この二週間、ルチアに会えずじまいになっていた。やっと想いを確かめあい、いまがもっとも離れていたくない時期だというのに、ルチアが隣にいないのだ。それは耐えがたいことだった。
 伯爵家の錬鉄の門は、憎たらしくも、いつのときでもぴたりと貝のように閉じている。思わず蹴り飛ばしたくなるほどだ。
 怒りをどうにもできないでいると、伯爵家の裏口から、ガタイのいい男が歩いてきた。
「これはこれはヴァレリさま、お久しぶりです」
 ルチオの従僕ニコロだ。
「ところで、きのうもいらしていたようで。もしや今日もいらっしゃるかと思って出てきてみれば、案の定……ふふふ」
「なにが案の定だ」
「で、今日は馬車でいらしたのですか?」
 確かに馬車で来たが、なぜそう問われるのかわからなかった。
「おまえに関係ないだろう。ルチアに取り次いでくれ」
「それはできかねます」
 ヴァレリが猛烈に眉をひそめると、ニコロは淡々と続ける。
「なぜなら俺もあの方にお会いできていませんからね。当然、Ⓜ︎スカルキ商団の面々も。じつは俺、八方塞がりで非常に困っているんです。想像してみてくださいよ。ごろつきに取り囲まれ、詰め寄られるあわれな俺の姿を」
「知ったことか。で、おまえすら会えないとはどういうわけだ?」
「当然ながらあなたとルチアさまの一夜が原因です。おかげでいま、伯爵さまとルチオさまにとってすべての男はくそ虫以下。もれなく駆除対象です。屋敷じゅうの男がルチアさまに話しかけることはおろか、姿を見ることもできません。無害のこの俺すらも、ルチアさまを狙うごみと認定されてやれやれです。このままではルチアさまは二度と外へ出られないでしょう」
「それはないと思うが。伯爵は、僕とルチアの結婚を認めると言ったし、ほとぼりが冷めるまで待てと」
 話の途中で、ニコロはばかにしたように、ふん、と鼻を鳴らした。
「ヴァレリさま、あなたという方はとんでもなくまじめな方。額面通りに言葉を受け取っておられる。あなたにとって、フィンツィ伯爵はまさに鬼門といえるでしょう。なにせ、伯爵さまにとって常識人なあなたほど御しやすい方はいない。伯爵さま自身がくそまじめな方ですので、同類のあなたはやすやすと先を読まれてしまうのです」
 ヴァレリは人を分析しても、自分を分析されることは好まない。訝しげにニコロを睨む。しかし、彼は物ともしなかった。
「俺、あの日の夜、言いましたよね? ばか正直にルチアさまを伯爵家に返してしまえば、下手をすれば二度と会えなくなるかもしれないと」
「僕はルチアを返したつもりはない」
 ニコロは人差し指をぴんと立て、ちっ、ちっ、ちっ、と、振り子のように動かした。
「あなたにそのつもりがなくても、既成事実を見せつけたあの日、ルチアさまを残してあなたは帰ってしまわれた。あれを返還と言わずしてなんと言うのでしょう」
「僕が騙されたとでも?」
「ええ、残念ながら。あなたは、まんまと伯爵さまにまるめこまれたのです」
 ヴァレリの鼓動はせわしく打ちだした。
「……だが、僕はあの時、ルチアを連れ帰るわけにはいかなかった。その判断が間違いだとは思えない。公爵の結婚と同時にルチアが僕のもとに来ようものなら、彼女の外聞が悪くなる。それはだめだ。僕は、生涯ルチアを守ると決めている」
「しかしながらヴァレリさま、フィンツィ伯爵家は恐ろしい家だということをお忘れなきよう。重々お伝えしたはずですが? このニコロ、少々学習が足りないのではと告げたい口を抑えるので必死です。伯爵さまもルチオさまも、ルチアさまを手放す気などさらさらないのですから」
 ニコロの顔が、ずい、と近づいた。
「ルチアさまは、あなたが思うよりもはるかに純粋です。いわばかごのなかのねずみちゃん。もっともらしく言われてしまえば、疑いもせず信じてしまう。いま、なにが起きているのか、なぜあなたがそばにいないのか、あの方は理解できていないでしょう。おそらくは、ひとりでくよくよ悩んでおられる。悩むことについては大のベテランですからね」
 脳裏にまざまざとルチアの顔が思い浮かんだ。いま、きっと彼女は眉根を下げている。ぐすぐすと泣いているかもしれない。
 にぎっていたこぶしを開いたヴァレリは、その手でニコロの首もとをつかんだ。
「ルチアに会いたい。言え、僕はどうすればいい?」
「おや? 胸ぐらをつかむとは、ごろつきになるおつもりで? ……ふふ、冗談です。そう怖い顔をなさらないでください。双方大満足の、ウィン・ウィンの交渉とまいりましょうか」
 言ってみろ、とばかりにヴァレリがニコロから手を放したところで話ははじまった。
「俺はいま、Ⓜ︎スカルキ商団にほとほと手を焼いているんです。ごろつきとは、しつこい生き物ですからね。彼らはルチアさまと連絡が取れずに大ピンチ。ですから、あの方への取っ掛かりと思われている俺も迷惑すぎてピンチです。なにせ、拳闘の試合でやつらに席を埋め尽くされ、言われのない野次を飛ばされていますからね。勝っても野次とは、俺のガラスのハートはこなごなです」
 Ⓜ︎スカルキ商団の組織力はばつぐんだ。ヴァレリはよく知っている。
「僕にやつらをどうにかしろと? できるわけがないだろう」
「いえいえ。俺の知るかぎり、あなたにしかどうにかできないのです。あなたは彼らをうまくまとめた経験をお持ちではないですか。ね? 彼らの話を聞いていただけませんか? あなたはラ・トルレ校で優秀な成績をおさめ、投資もなさっている。ルチアさまがいない間の時間稼ぎをできるのは、夫となるあなただけです」
「僕がルチアの代わりをするのか」
「ええ。あなたがⓂ︎スカルキ商団のお守りをしてくださるのなら、このニコロ、ルチアさまとお会いできるように手を尽くさせていただきます。ね? ウィン・ウィンでしょう」
 ヴァレリは、ルチアを抜きにしたⓂ︎スカルキ商団を信用しているわけではない。ごろつきたちとの共闘は、本当に苦労した。だが、彼らに恩があるのは確かなことだった。
 しばらく思いをめぐらせたあとで、ヴァレリは「いいだろう」としぶしぶ言った。
「おい、お守りというのは──」
「決まりですね?」
 ニコロは、にたぁとにやついて、ぱん、ぱん、と二度手を打った。
 その瞬間、裏口がぎいと開き、登場したのは、大柄の男女四人だ。
 いわずもがな、Ⓜ︎スカルキ商団──新米庭師パオロとその妻マダム・スカルキ、そしてごろつきのガスパロとロッコが、のしのしと歩み寄ってくる。
 全員、長い期間滞在するつもりのような大きな荷物を持っていた。
 あろうことか、ニコロと彼らは、うまくいったとばかりにそれぞれ親指を立て合った。
「待て。どういうことだ? 僕の目には、最初から仕組まれていたようにしか見えない」
 ヴァレリが、「言え」とニコロの胸ぐらをひねりあげれば、ニコロは飄々と言いのけた。
「彼らをよろしくおねがいします」
「なにがよろしくだ! やつらを連れ帰れと!?」
「はい。Ⓜ︎スカルキ商団の今後は、あなたの双肩にかかっています。くわしくはパオロから。ね? 今後の運営についての見解や幅広い意見をうかがえればと」
「きさま、どこがウィン・ウィンだ! だいたい、なぜ四人も来る」
 ヴァレリがニコロに詰め寄るなか、「ヴァレリのにいちゃん」と声がかかった。
「いいからさっさと行こうぜ? いまよ、伯爵家の空気がとんでもなく悪ぃんだ。馬もくそ生意気に荒れていてよ、ここにいたくねえんだわ」
 と、ガスパロかロッコかどちらかが言ったが、ヴァレリに区別はつかない。
「知ったことか。くだらない理由でうちに来ようとするな!」
「まあそう言うなって。俺たちはワン・チームだろ?」
「誰がワン・チームだ!」
 しばらく押し問答をくり広げたものの、ごろつきたちはゆずらない。しつこさは増すばかりだ。
 埒があかず、結局ヴァレリはぎゅうぎゅう詰めの馬車を操り、侯爵邸に向かう羽目になったのだった。

 それからのヴァレリはルチアと再会するまで大変な思いをした。
 ごろつきたちの勝手な振る舞いはいわずもがな、聞きたくもないのに、パオロに聞かされたⓂ︎スカルキ商団の営みや、今後の方針、強制的に見せられた資料がとんでもないものだったからだ。それはめまいを覚えるほどだった。
 Ⓜ︎スカルキ商団は、なぜこれが成り立っている? と逆に感心してしまえるほど、型破りでめちゃくちゃだ。経営学などまるで学んでいないのだ。
「おい、おまえたちは運まかせなのか?」
 資料に目を走らせるヴァレリの問いに答えたのはパオロだ。
「ああ、俺のやり方は運まかせ。だがよ、いまはひと味ちがうぜ? 俺たちにはルチアさまっていうガチな強運の女神がいるからよ。最強も最強、うまくいくしかねえってもんよ」
「ばかか、強運だと!? 運に頼ってどうする。そもそもルチアの資金がなければ立ち行かなくなる状況はおかしいだろ。不確かな要素が多すぎて寒気がする」
 実際、ヴァレリの肌は総毛立っていた。Ⓜ︎スカルキ商団は、砂上の楼閣に見えるのだ。
「いまよ、カルミネの銀山開発や、王都の利権争いで金がいるからよ。ルチアさまにはじゃんじゃん稼いでもらわねえと」
「だまれ、あれこれ手を広げすぎやがって。僕はルチアをおまえたちとともに泥舟になど乗せるつもりはない! いまはよくても、一度の失敗でⓂ︎スカルキ商団は脆く崩れる。基盤がしっかりしていないくせに運まかせとはそういうことだ!」
 どうやらルチアは、投資の時期やタイミングは天才的に合わせられても、その後の金の流れは無頓着で興味がないらしい。おそらく彼女にとって、投資は遊戯でしかないのだ。また、パオロは天才的に嗅覚が鋭くても、すべてが力技で詰めが甘すぎる。Ⓜ︎スカルキ商団は、そのふたつの才能が奇妙なバランスをとっていただけにすぎない。残るは、マダム・スカルキが威圧を持って周りを制していたのだろう。健全・堅実・安定志向のヴァレリにとっては、ありえないことだった。
 それを一から正すため、ヴァレリは寝るひまもないほど忙しくしていた。
 ルチアが巻きこまれてしまうと考えれば、必死に知恵を絞るしかなかった。
 苦労を重ね、ようやく当面をしのげるように計画を練り直した時には、あろうことかひげが伸びていた。髪もぼさぼさで、目の下にはくまがある。鏡を見たヴァレリは、自分のみすぼらしさに驚いた。こんな姿、死んでもルチアに見せられない。
 額に手を当てていると、なぜか自分に影がかかるので、そちらを向いた。
 ガタイのいいパオロが顔を上気させている。
「ヴァレリのにいちゃん、俺はあんたを見誤っていたぜ。ただの性欲ばかだと思いきや、あんたは最高だ! ルチアさまといい、ふたり揃って千人力。やったぜこらぁ」
「誰が性欲ばかだ」
「性欲ばかじゃなけりゃ、あんな純粋なルチアさまを手篭めにできねえだろ? すっかりルチアさまを性欲旺盛に変えやがって。一体何発やったって話よ」
「下品なやつめ……」
 ヴァレリは上機嫌すぎるパオロに肩を抱かれたが、それが妙にむかついた。なんとなく、自分がⓂ︎スカルキ商団の一員にされているような気がするのだ。
「気安く触れるな。……放せ、もう寝る」
 入浴してひげを剃った。ヴァレリが寝台に横になるのは七日ぶりのことだった。
 部屋にいると、いやおうなしに思い出すことがある。それは、侯爵邸を再現してくれたルチアのことだ。
 ヴァレリの引き出しのひとつには、ハンカチがぎっしりつまっていた。ルチアが刺繍したのだろう、犬の刺繍が多かった。腕前は、九歳からまるで成長が見られない。しかし、ヴァレリはうれしく思う。彼女が以前くれたハンカチは処分してしまっていたからだ。
(ルチア、好きだ)
 彼女に見立ててクッションを抱きしめると、下になにかあるのに気がついた。
 探れば、それは紙だった。そこに書かれた文字を見つめる。
“ヴァレリさま、ずっと好きです。愛しています”
 ルチアの筆跡だ。いつしのばせたのだろうか。
 ふいに、ルチアに冷たくしていたころを思い出す。ひどい言葉をたくさん投げつけ、彼女を忘れる努力を重ね、旧市街を出ようとしていたときのことを。
 ヴァレリはごろごろと寝台に転がり、身悶える。
「……あ──くそ。あのころの僕を殺したい。……ルチア」
(会いたい。死にそうだ……)
 うめいたヴァレリは、クッションに顔を埋める。
 もう一度会ったなら、二度と離すものかと誓った。

「ヴァレリさま、ヴァレリさま」
 強く揺すられ、目を開ければ、そこに従僕ニコロが見えた。
 最初、夢かと思った。自分の部屋にニコロがいるはずがない。しかし、たしかに立っている。
 時計の針は、真夜中すぎる午前一時を指していた。
「いやあ、ヴァレリさま。大変助かりました。どうやらⓂ︎スカルキ商団はうまくいっているようで。パオロは現金にも口ぶえを吹いていましたからね」
 ろうそくに照らされているニコロには濃い影がさしかかり、おどろおどろしく見えた。そのため、ヴァレリの心臓は不覚にもばくばくと音を立てている始末だ。
「──ふざけるな。なぜおまえが僕の部屋にいる」
「木を登ってきたのですよ。まさかまた登ることになるとは。久しぶりすぎて苦労しました。ほら、汗だくでしょう?」
 その言葉は本当なのだろう。風がびゅうと吹きつけ、ニコロとヴァレリの髪がなびくのは、フランス窓が開け放たれているからだ。
「また登ったと言ったな。以前はいつ登った」
「細かいことはいいではないですか」
「非常識な男め、不法侵入だ!」
「まあ、大目にみてください。あなたもいまから非常識な不法侵入をするのですから」
 ヴァレリは猛烈に顔をしかめる。
「じつは、ルチアさまに関しては八方塞がりでして、このニコロ、泣く泣くルチアさまのお祖母さまに相談したのです。すると彼女は言いました。『さらっておしまいなさい』と」
「さらうだと? 本当に先代フィンツィ伯爵夫人が言ったのか?」
 ルチアの祖母は厳格だと噂で聞いたことがある。だからこそ、フィンツィ伯爵も厳格なのだと思っていた。
「きびしい方なのだろう?」
「ええ。ですがそれも過去の話。現在は恋愛小説が好物の気さくな方です。そのため、若者の恋にも理解が深い。最近はペトリス地区や旧市街にも興味がおありのようで」
「貴族がめずらしいな」
「ルチアさまの影響かと。というわけで、現在伯爵さまは、お祖母さまの手によりぐでぐでに酔いつぶれておられます。いまが千載一遇の大チャンス。この隙にルチアさまをかすめ取ってしまいましょう」
 まるでならず者のような真似をしなければならない。まじめに生きてきた自分が。
 けれど、どんなことをしてでも、ルチアだけはほしいのだ。
 ヴァレリがため息をついていると、ニコロは続けた。
「いまの機会を逃すと、次の機会はいつ訪れるかわかったものではありません。計画にのります? それとも、まだ正攻法を取ろうなどと、愚かな努力を重ねますか」 
「のるに決まっている」
 手早く着替え、外套を羽織ったヴァレリは、ニコロに導かれるままフィンツィ伯爵邸にやってきた。やっとの思いで塀をよじ登り、ルチアの部屋を目指す。
 以前のように、ニコロがテラスに梯子を立てかけると、ヴァレリはすぐさま登っていった。が彼は、ルチアの部屋に入ったとたん、またすぐに梯子を伝ってニコロのもとに降りてきた。
「ええ……。ヴァレリさま、どうしたんです? ルチアさまをお連れせずに戻ってくるなど。ばかですか?」
 ヴァレリは険しい顔つきで、きょとんとしているニコロの首もとを引っつかむ。
「おい、ルチアの隣にルチオが寝ていた。どういうことだ!?」
「──ああ、ルチオさまですか。伯爵さまに気を取られ、すっかり忘れていました。あのおふたり、幼少のころより毎日いっしょに寝ているんです。ですので、お気になさらず」
「気になるに決まっているだろう。いくら姉弟でもとんでもないことだ」
 ニコロは「いえいえ」と肩をすくめた。
「その点においては、ルチオさまは世界でいちばん無害な方だと断言します」
「なぜ言い切る」
「ルチオさまは、ルチアさまに対してだけはとてつもなくシャイな方。できても手つなぎか抱きつくだけで、なにも起こるはずはありません。チュウすらできない始末ですからね。ルチアさまとの結婚式にファースト・キッスをするのをわくわくと待っているような、そんなかわいらしいピュアな方。……ふふ、どうです? 無害でしょう」
「つべこべ言わずに一刻も早くあいつをつまみだせ」
 せっつくと、ニコロは「やれやれ」と面倒そうに梯子を登り、ほどなく窓から合図してきた。ルチオをつまみだしたのだろう。
 ヴァレリがいざルチアを目指そうとすると、それより先に、テラスにルチアが顔を出した。逆光でよく見えないが、その表情は想像できた。
「ルチア」
「ヴァレリさま……。夢みたい。もしかして迎えに来てくださったの?」
「ああ、迎えに来たんだ。おいで」
「すぐに、着替えるわ」
「必要ない。梯子を抑えているからここに来るんだ。なにも持たなくていい、行こう」
 大きくうなずいたルチアは、本当になにも持たずに、化粧着のまま、こちらにするする降りてきた。靴すら履いていなかった。そして、ヴァレリの胸に飛びこんだ。
 ねぐせがあるのが愛おしい。
「お会いしたかった。ヴァレリさま、好き」
 ヴァレリはルチアの栗色の髪に頬ずりをし、頭頂部にくちづけた。すると、そこじゃないとばかりに、ルチアが唇をヴァレリに向けて突き出した。
 しっとりと唇同士を重ねれば、思わず泣きそうになり、こらえるのが大変だった。
「僕は、おまえをもう伯爵家に返すつもりはない。ずっと、僕のそばで生きてくれ」
「うれしい。わたくしね、ヴァレリさまに会いたくて、ずっと窓の鍵をかけてなかったの。願いが叶ったわ。二度と、離れたくない」
 ルチアが口を吸ってきた。それに応えて、ヴァレリも吸った。
 以前は積極的なルチアに戸惑っていたものの、いまは求められるのがこんなに嬉しい。
 ヴァレリは自身の外套を薄着の彼女に巻きつけた。
 互いに見つめ合えば、ルチアはぐすぐす泣いていた。
「ヴァレリさま」
 そのうるんだ瞳は雄弁だ。愛しているという思いが伝わってきて、ヴァレリはうなずく。
「行こう」と裸足の彼女を抱き上げ、歩き出せば、ルチアがぎゅっと抱きついた。
「早く、ひとつになりたい……」
「僕との行為が好きか?」
「うん、好き。ヴァレリさまをいちばん感じられるから。……ヴァレリさまは?」
「好きに決まっている。僕たちは、きっと子だくさんになるな」
「どうして子だくさんになるの?」
 しばらく顔を見合わせた後、ヴァレリは小声で言った。
「……まさか、行為の意味を知らないわけじゃないよな?」
「もちろん知っているわ」
 ヴァレリが訝しんでいると、ルチアが「たくさんしたい」と付け足すものだから、身体が熱くうずいて、息が切れた。
(いつまで紳士でいられるだろう。……無理だ)
 ヴァレリは、ふたりで馬車に乗りこむ前に、御者に「屋敷に着いても扉は開けるな。放っておけ」と命令した。
 馬車に入れば、すぐに華奢な身体を抱きしめた。
「ルチア、おまえは僕を悩ませてばかりだ。なぜルチオとともに寝ていた?」
「ルチオはさみしがりなの。だから……」
「だが、僕にとってあいつは男だ。頼むから金輪際、僕以外と寝るのはやめてくれ」
「わかったわ。ヴァレリさま以外と眠らない」
 ルチアの唇に口を押し当てながら、椅子に座らせると、馬車がゆっくり発車する。
 ヴァレリは彼女の隣に腰掛けることなく、ルチアに脚を開かせて、その間にひざまずいた。
 なにが起きるのかルチアは知っているのだろう。自ら化粧着をたくしあげ、ヴァレリの行為の先を読む。晒された秘部は、すでに濡れているようだった。
 ルチアの脚を抱え、ぺろりとあわいに舌を這わせれば、ルチアは「あふ」と悩ましげに息を吐く。襞を割って吸いつくと、ルチアの脚はぷるぷる震えた。彼女の身体を知っているので、果てさせるのは慣れていた。
「気持ちいいか?」
「んっ、あ……っ。気持ち、いい」
「余裕がなくてすまない。入れていいか?」
「早く入れてほしい……」
 ヴァレリは濡れた口もとを拭って、ルチアの隣に腰掛けた。すぐに下衣をくつろげれば、猛りきった性器が露出する。
 ルチアを上に座らせようとしたけれど、彼女の視線は下腹部に釘づけだ。
「……気になるか?」
 ルチアは小さく首を、うん、と動かした。
「ヴァレリさまの性器がわたくしのなかに入るときと入らないときがあるみたいなの」
「なんだそれは、入るに決まっている。ほら、来てくれ」
 けれどルチアは指示に従わず、そそり立つ性器を指でつっついた。
「わたくし、これを舐めてみてもいいかしら?」
「──は?」
 ヴァレリは信じられない思いでルチアを見たが、どうやら冗談ではなさそうだ。
「なぜ? こんなもの、舐めるものじゃないだろう」
「舐めるものらしいわ。ロッコが言うには舐めるととっても気持ちがいいのですって。ガスパロもパオロもニコロも、してもらうのが大好きって。ヴァレリさまも絶対に好きなはずだって言っていたわ。歯を立てないようにやさしくって教えてもらったの」
「待て。やつらとなんて会話をしているんだ」
 とんでもない状況に、ヴァレリはなかば放心していた。
 しかし、その隙にルチアはぺたんと床に座りこむと、小さな口を開け、ぱくっとヴァレリの先に吸いついた。
 とたん、ヴァレリの腰の奥から頭の先まで、激しい快感が貫いた。
「あっ……、……っ、ルチアやめろ、汚いんだ」
 彼女の舌の感触がなまなましい。ちゅくちゅく吸ったり、両手で包まれる。
 まさか性器を口に含まれるとは思っていなかった。理性がなくなりそうになる。
 そこに全血液と全神経が集まってゆくようだった。
「う……だめだ……、──あ、やめろ。頼む、おまえに入れさせてくれ」
「口は、嫌?」
 ヴァレリは自分が性の行為をすることに慣れていても、されることには慣れていない。おまけにヴァレリのなかで、ルチアという存在は、初恋であり、ひたすら清らかだ。そのため、彼女にもたらされる官能により、罪悪感と背徳感が増幅させられた。
 混乱をきたしたヴァレリは、とにかく、一度頭のなかを整理して落ち着きたかった。
「──っ、いいから、早く僕に跨ってくれ」
 切羽詰まって伝えると、ルチアはすぐに言葉のとおりに跨った。
 彼女の腰を固定して、焦りながらも下ろさせると、ずぶずぶとルチアのなかに猛りが埋まる。彼女の熱に、身体が即座に反応し、脈打った。
「……ふ。あ……ヴァレリさま」
 ルチアは悶えるが、ヴァレリも共に悶えていた。馬車の振動で刺激が強い。
 彼女と口を塞ぎあい、舌を絡めて互いの声を食べあった。腰も、示し合わせることなく動かした。それが官能を高め、激しい渦へと誘って、世界でふたりきりのような気になった。
 欲望だけではないのだ。好きだという思いがヴァレリを駆り立てる。
 汗が吹き出し、暑かった。馬車は、呼吸の音と、きしむ音が充満した。
 蠢動するルチアのなかが、彼女が果てたことを教えてくれる。その搾り取るような感覚に、つられてヴァレリも熱を吐く。
 肩で息をしていると、頬を包まれ、ルチアの唇がぷちゅ、とくっついた。
 ルチアからのくちづけは、いつだってヴァレリの胸を高鳴らせる。
「ヴァレリさま……ごめんなさい」
「は……、なぜ謝る?」
「勝手に舐めてしまってごめんなさい。嫌いにならないで」
「ばか。なるわけないだろ。死んでも嫌いにならない」
 ルチアの頭をくしゃくしゃと撫でて、抱きしめる。
「性器は、その……驚いただけだ。舐められるなど想定していなかった。おまえのものとは違い、僕のは汚い。だから、舐めさせられないと思った」
 ルチアはぶんぶんと首を横に振る。
「汚くないし、汚いと思わないわ。わたくし、ヴァレリさまの性器が大好きよ」
 ヴァレリは「大好きって」と思わず噴き出した。
「そう言われるのも微妙だ。さては僕ではなく、身体目当てか?」
 冗談めかしてルチアの額を指で小突くと、「わたくしはヴァレリさま目当てだわ」と、強くしがみついてきた。
「ルチア、僕は突然でどうしていいのかわからなくなったが、気持ちよかったと思う。二度目は平気だから、その……、おまえさえよければ部屋でためしてくれないか?」
「舐めてもいいの?」
「ああ」
「たくさん出してね」
「…………は?」
 思わぬ言葉に驚愕していると、ルチアの小さな唇が、ヴァレリの口にぴとりと重なった。
「ヴァレリさま、好き」
「……あ? あ……ああ、僕も好きだ」
 ヴァレリは背中に汗を感じた。ルチアと行為を重ねて、ひとかどの男になったと思っていたが、まだまだ未熟者らしい。この先、今日のように戸惑わないよう、徹底的にあらゆる性技を調べるつもりだ。

 ふたりがヴァレリの部屋に移動したのは、車内で二度目の行為を終えてからだった。
 部屋にたどり着き、それぞれ裸になって、くちづけをたくさん交わした。
 ヴァレリは、寝台にルチアを押し倒したことは覚えているけれど、その後はあやふやになっていた。このところ徹夜続きだったため、行為をはじめる前に意識を失った。
(なんてことだ……)
 窓から差しこむ光のなかで、ヴァレリはぼうぜんとしていた。
 隣には、裸をさらしたルチアが、すうすうと寝息を立てている。
 おなかが冷えてはいけないと、毛布をかけようとしたところ、腕がルチアの腕とひもでぐるぐる結ばれていることに気がついた。きっと、ルチアが離れたくないと思ってやったのだ。
 胸がせつなくうずいて苦しい。しばらく彼女を見つめていると、扉が二度叩かれた。
「誰だ」
「ヴァレリさま、お話ししてもよろしいでしょうか」
 声は、老齢の家令トーニオのものだった。
「ああ、話してくれ」
「いましがた、フィンツィ伯爵ならびに先代フィンツィ伯爵夫人が訪問なさいました。ルチアさまがこちらにいらしているのではとお尋ねになっていますが」
 時計を見れば、午前七時になろうとしていた。
 貴族の活動時間としては早すぎる。伯爵は、よほど慌てて来たのだろう。
 ヴァレリは、ルチアの栗色の髪を自身の手に絡ませた。
「ルチアはここにいる」
 一瞬、伯爵に意趣返しで門前払いを食らわせてやろうかと思ったが、ルチアの祖母もいるのだからと思いとどまった。
「この部屋にお通ししろ」
「お取りこみ中なのでは? よろしいのですか」
「ああ、かまわない。屋敷に大声がひびくと思うが、なにも問題ないから気にするな。伯爵は娘を失うんだ。怒鳴る権利がある。それから、今日からルチアがここに住む。食事を用意してくれないか。彼女が喜びそうな菓子もほしい。なにかあるか?」
「でしたらカンノーリかスフォリアテッラ、もしくはババはいかがでしょうか」
 以前、九歳のルチアは、侯爵家のカンノーリをおいしそうに四つも食べていた。あまりにもおいしそうに食べるものだから、ヴァレリの分もあげたのだ。当時を思い出すと、知らず笑みが浮かんだ。
「カンノーリをたのむ」
「かしこまりました。では、お客さまをお連れします」
 ヴァレリは、遠ざかる家令の足音を聞きながら、ルチアの頬にキスをする。唇がルチアの口に移った時に、すみれ色の瞳が見えた。
「ルチア、伯爵が来る。起きよう?」
「……お父さまが……?」
 ルチアの視線は、腕に巻きつくひもを確かめ、そしてヴァレリの顔に移った。
「もう離れないわ」
「わかっている。僕も離れるつもりはない」
 ヴァレリはルチアに毛布をかけて、抱きしめた。
 大きな足音を立てて現れた伯爵の怒鳴り声がひびいたのはすぐだった。
 怒れる伯爵の演説は、終わりがないと思えるほどに続いた。
 ルチアが頬をぱんぱんにして、「お父さまのわからず屋」と言っても終わらなかった。しかし、先代フィンツィ伯爵夫人が口を挟んだことで様子が変わった。
「まだぐちぐちと細かいことを言っているの、エルネスト。いい加減になさい」
 伯爵は夫人に向けて、「母上はだまってください」と言った。
「この私の思いは誰にもわからない。わかってたまるか。どんな思いでルチアを育ててきたか──」
「子は巣立つものです。考えてもみなさい、鳥の巣に雛が残り続ければどうなるか。想像するだけでも奇妙なことです」
「だったら雛が残れるよう、大きな巣を作ってみせます」
「情けない、あなたは子離れできていないのです。だいたいあなたは前回も三時間以上ヴァレリさんを怒鳴りつけていたじゃないの。器が小さいにもほどがあります。わたくしはあなたをそんなチンカスに育てた覚えはありませんよ」
 伯爵は、夫人の言葉にわなわなと震えた。
「チ、……母上、なんてことを……」
「チンカスにチンカスと言ったのです。そう言われたくなければ、おとなしくルチアを祝福しなさい」
 伯爵は絶句している様子だが、ヴァレリも絶句していた。
「エルネスト、あなたがルチアを甘やかすものだから、見てみなさい。ルチアは十八のわりには子どもすぎます。ひとり立ちさせるためにも、結婚の日までアルビノーニ侯爵家に預かっていただきましょう」
「な……! 断固反対に決まっています。母上見てください、この惨状を」
 伯爵の目が、ほぼ裸でいるヴァレリとルチアに向けられた。
「あの男はけだものです。ルチアの腕を緊縛し、逃げられなくするとは、なんて破廉恥な」
「おだまりなさい。わたくしがあなたのお父さまに嫁いだのは十五のときです。それを考えればルチアは遅すぎるほどでしょう。いいですか、わたくしたちは邪魔者なのです。あなたはこれ以上、さらにひどいチンカスになるおつもり?」
「意味がわからない」
「行きますよ、さあ」
 先代伯爵夫人は、強制的に伯爵をひっぱった。
 嵐のように去ったふたりを目で追っていたヴァレリは、腕をつん、つん、とつつかれた。瞳をきらきらとさせているルチアと目があう。
「あのね、じつはチンカスはどんな屈強の男の人でも言われたくない魔法の言葉なの」
(だろうな)
 ヴァレリは頭が痛くなってきた。
「おまえが先代伯爵夫人に教えたのか?」
「ええ、教えたわ。でも、だいたいはわかるのだけれど、どんな意味なのかよくわからなくて……」
「知らなくていい。金輪際使用禁止だ。その代わり、後でなんでもしてやるから」
 ルチアは何度もまたたきをすると、恥ずかしそうに小さく言った。
「なんでも? ……いいの?」
「ああ、なにをしてほしい?」
「わたくし、後でヴァレリさまとひとつになりたいわ」
 後と言わずいつでも歓迎だ。
 ヴァレリはルチアの後頭部に手をまわし、その唇に唇をぴたりと押し当てる。
 目と目を合わせれば、ルチアは「好き」とはにかんだ。とたん、腰の奥がどうしようもなくうずまいた。
「……僕は一日中していたいが、ルチアは?」
「したいわ。ずっと……」
 もう一度、角度を変えてキスをして、ヴァレリはルチアに先を越されないように言った。
「僕が必ずおまえを幸せにする」
「わたくしも、必ずヴァレリさまを幸せにするわ」
 ヴァレリは、ルチアに特別なにかをされずとも、ただ側にいられるだけで幸せだ。
 心のなかでも『幸せにする』と誓いを立てて、彼女をゆっくり組み敷いた。
 

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