王室近衛騎兵連隊長は早く家に帰りたい
頑健にして美麗な国王の執務机に置かれた金の時計を、ウォレスは焦れる思いで見つめていた。王室御用達の工房で作られた置時計は、文字盤以外はすべて金でできており、宝石もあしらわれた豪華な宝飾品である。しかし何よりの価値は、一秒たりとも狂うことのない正確な秒針の動き。
午前中は教練場に視察に向かい練兵を視察、午後は軍務省で国内外の軍の動静について報告を聞き、いくつか会議をこなした後、国王のもとにやってきた。自分が見聞したことを書面にまとめ、それを提出すれば今日の仕事は終わりである。とはいえ、ただ提出するだけというわけにはいかない。質問があった際すぐに答えられるよう、国王が書面に目を通し終わるまで、御前に控えていなければならない。
(だがしかし――)
本日、国王は多忙らしく、ウォレスが提出した書類を一度脇に置き、他の仕事を優先させていた。
「すぐ終わるから、そこで少し待っていてくれ」
執務室内に置かれた応接ソファを指してそう言われてしまえば、退出することもできず、腰を下ろしてひたすら待つしかない。
ロワディ王宮内にある国王執務室が、新たな主を迎えてから七年がたった。即位時にはわずか一三歳だったユスティニアン国王も、今では立派に成人し、隣国の王女と婚約し、来年にも盛大な結婚式に臨む予定である。
毎日精力的に政務をこなす国王は、宮廷でも、国民からも評価が高い。……のは大変結構なことだが。
(できれば、今こなされている仕事を一度休止し、私が提出した書類に目を通していただけないだろうか……)
「すぐ終わるから」という言葉とは裏腹に、このソファに腰を下ろしてから、金の時計の長針はすでに一周している。滑らかに動く秒針を、恨めしい気持ちで眺め続けた。
(帰りたい――)
六年前にジゼルと結婚した際、ウォレスは国王から王室近衛騎兵連隊長という身に余る役職を得た。名誉あるばかりでなく、「制服が素晴らしいわ! ウォレスはいつもカッコいいけれど、この制服を着ていると三割――いいえ、五割はさらに魅力的に見えるわね!」と、ジゼルの顔を輝かせることのできる、ありがたい役職である。
実際この制服を身に着けていると、彼女の目がうっとりと自分に向けられるのを感じ、この上なく幸せな気分に浸ることができる。
それはさておき。
この役職の困ったところは、国王の都合に左右されやすいという点だった。護衛は部下に任せておけばいいとはいえ、直近の軍人として仕える分、他の者よりも無理を言われやすい。
例えばウォレスと同等の階級であっても、大都市の基地隊長が相手であれば、国王はこのように放置したきり一時間も待たせはしないだろう。
(家ではジゼル様が、息子たちの相手をしながら、私の帰りを待っていらっしゃるだろうに……)
信じられないことに、今やウォレスは三児の父である。それも息子ばかり。やんちゃで元気いっぱいの子供達であるため、おとなしいジゼルの手に余る。乳母やメイドたちの手を借りて、なんとか世話をしているようだが、きっと疲れているだろう。早く帰って交替したい。そう、とにかく早く帰ってジゼルの顔を見たい。今日も一日、彼女の笑顔のためにがんばったと伝えたい。そして彼女と子供たちを抱きしめたい。できれば彼女から褒美のキスをもらいたい。暴れる子供たちを抑えつけてのことにはなるだろうが……。
頭の中では、帰宅してからの楽しい光景がこれでもかというほど思い浮かんでいる。しかし実際は――
ふと、執務机で仕事をしていた国王と目が合う。
「すまないな。あと少しだ」
ほほ笑んでそう言われてしまえば、だまってうなずくしかない。帰りたい気持ちよ届けと、眼差しで強く訴えながら。
「ジゼルさん、わざわざ足を運ばせてごめんなさい」
白を基調にした瀟洒な部屋で、薄紅色のドレスを身に着けた少女に迎えられ、ジゼルは恐縮して腰を折り、礼を取った。
「セシリア殿下、この度は私事でお心を煩わせてしまい――」
「いいのよ。わたくしが気になってお知らせしたのですもの」
侍女を引き連れたこの少女は、国王の婚約者にして、今年十八歳になる隣国の王女である。
政治的な事情から早々にロワディにやってきた彼女は、物おじしない朗らかな人柄で、あっという間に宮廷の人々を魅了してしまった。好かれる理由は、気遣いの細やかさにもあると思う。
「陛下ったら、ウォレスさんが早くお家に帰りたいのをご存じでいながら、わざと足止めをして意地悪されているようなのだもの。見過ごせないわ」
「はぁ……」
というわけで、セシリアはジゼルに夫を王宮まで迎えにくるよう、使いをよこしたのである。
そして今、セシリアはジゼルを連れて国王の執務室に向け、廊下をまっすぐに進んでいる。
「もちろん、悪意からではないのよ。ちょっとした悪ふざけのおつもりのよう。でも良くないわ」
「ですが……わたしが出しゃばって、よろしいのでしょうか……」
「あら。陛下は以前、ジゼルさんをお姉さまのようだと仰っていましたもの。ジゼルさんが困っていると伝えれば、きっとすぐにウォレスさんを解放されるでしょう」
軽やかにそう言い、彼女は執務室の前にいた衛兵に声をかける。
「急ぎの用事です」
衛兵はすぐにドアを開け、彼女とセシリアとジゼルを通してくれた。豪華な執務室の中に踏み入れると、ソファにいたウォレスが弾かれたように立ち上がる。そして花のような笑顔を浮かべる。
「ジゼル様……!」
結婚したのだから、呼び捨てでいいと何度も言っているというのに、彼はいまだにジゼルに敬称をつけて呼ぶ。実にうれしそうな笑顔に、ジゼルも自然に顔がほころんだ。
「ウォレス――」
ジゼルがそちらに向かう間に、セシリアは国王の前に立った。
「お仕事中に失礼しますわ、陛下。ウォレスさんのお屋敷では現在、三人の子供たちがお父様の帰りを待ちわびているそうです。もう夕食のお時間だというのに」
「へ、へぇ……」
美しい婚約者の登場に、ユスティニアンはややたじろいだようだった。しかしおもしろくなさそうに、唇を尖らせる。
「僕にはまだ仕事が残っているよ」
「だからといって、他の人を巻き込んでよい理由にはなりません」
「あの――」
若い二人の間に、ジゼルはあわてて口をはさんだ。
「家では乳母が子供の面倒を見ておりますので、どうかお気遣いなく。わたしもここで夫と共に、陛下のお仕事が終わるのをお待ちします。お一人での執務はさみしいでしょうから」
「いやそういうわけでは……」
もごもごとつぶやく国王に、セシリアが冷静に返す。
「陛下が子供のようなことをなさるからですよ」
「わかったよ!」
ユスティニアンは、ウォレスに向けて手を振った。
「今日はもう帰っていい。質問があれば明日訊くから」
「――――……!」
その瞬間、ウォレスは片方しかない琥珀の瞳を、誰の目にも明らかなほど輝かせたのだった。
「驚きました。まさかジゼル様がいらっしゃるとは……」
二人で帰りの馬車に乗りこんだ後、抱きしめてきたウォレスが言う。ジゼルはそんな夫に身を寄せつつ、顔を上げた。
「今日はどうしても早く伝えたいことがあって、午後にセシリア様にお目にかかった際、それとなく申し上げたの。それで気を利かせてくださったんだわ」
「早く伝えたいこと、ですか……?」
小首をかしげる彼を見つめながら、ジゼルは少し身を離した。そして彼の手を取り、自分のお腹の上に置く。
「お医者様に言われたの。新しい赤ちゃんがいるって」
「――――……」
ウォレスが喜びに目を瞠る。ジゼルはうなずいた。
「その時にね、なぜだかぴんときたのよ。この子は絶対女の子だって。きっとあなたに似た女の子よ……!」
はしゃいで抱きついた妻を、彼は深く抱擁してきた。
「女の子なら、ジゼル様に似てほしい」
「でも長男と三男はわたしに似ているから。次はあなたに似た子が生まれる番」
「どちらに似ても、私がまた新しい宝物を得ることに変わりはありません」
そう言うと、彼はジゼルの右手を取り、指先に恭しくくちびるを押し当ててくる。
「尽きることのない幸せをもたらしてくださる私の女神に、永遠の愛と忠誠を誓います」
「わたしはあなたの妻よ。夫からの優しいキスが一番のご褒美という、幸せな妻」
熱っぽい琥珀色の瞳を見つめ、うっとりと返す。そんなジゼルのくちびるが、やわらかく塞がれる。
待ち望んでいた、甘い甘い世界一のご褒美を、ジゼルは心行くまで堪能する。
家に着くまでの間、二人は互いを腕の中に閉じ込め、結ばれたばかりの頃と変わらぬ情熱に浸り続けたのだった。