ソーニャ文庫

歪んだ愛は美しい。

会員限定特典小説

遅れてきたラブレター

 本格的な冬が到来し、街道も塞がったある雪の日。
 オルコネン侯爵領の侯爵邸に来客があった。

『ただいまー』

 重なったふたつの声に、王都でのあれこれに振り回されたあとでようやく落ち着いたオルコネン侯爵家の面々はそろって顔を強張らせた。
 オルコネン侯爵邸の本館に長く勤めている家令のヘンリクは、王都で起こったことを前侯爵であるアハトから手紙で知らされ、どうしてそこに自分がいなかったのかと悔やみ、カルヴィネン侯爵を憎んだ。
 しかし、戻って来たルーカスとアイラの仲睦まじさを見て、ようやく自分の心も落ち着いた。
 ルーカスの両親、サロモンとレベッカが辺境に来たのは、そんな時である。


 差配する女主人ができたことで、男しかいなかった屋敷に何人かの女性が入るようになり、以前より賑やかになりはしたが、基本的には従僕のヨハンと下男のユリウス、厩番のマルク、そして家令のヘンリクで屋敷を回している。
 そんな、限られた使用人しかいない屋敷の中は、急な来客に慌ただしくなった。
 ヘンリクはまず、領主夫妻にルーカスの両親の来訪を伝えた。
 その頃、一週間溜まった仕事に向き合っていたルーカスは、最愛の妻であるアイラに励まされ褒められてやる気を出していた。
「がんばれルー! すごいわルー! 素敵ねルー!」
 という掛け声はどうかと思うが、それに乗せられて、ルーカスは溜まった書類仕事をあっという間にさばいてしまうので、問題なし! と使用人全員は気にしないことにしていた。
 夫婦仲が良いことはいいことだ、とヘンリクも思っている。
 両親と離れて辺境で自由に暮らしていたルーカスだが、寂しくなかったわけではないのだ。
 頭がよくてなんでもできてしまう、言わば天才肌のルーカスは、幼い頃から他の誰とも違っていた。
 それがますますルーカスを孤独にさせてしまう原因かもしれないと、あの手この手で構ってみたものの、足りなかったかもしれないとヘンリクは後悔していた。
 それでもルーカスが孤独になり切らなかったのは、祖父であるアハトがいたからだ。
 アハトはルーカスをよく理解し、オルコネン侯爵家の当主に必要な能力であるからと、辺境騎士団の訓練や仕事を欠かすことのないようにと躾けた。
 身体を動かすことは好きだったようで、騎士の仕事は飽きずに続けてくれたし、他の騎士たちとも繋がりもできた。
 だが、一番やっかいだったのは、アハト譲りの整いすぎた顔立ちで、幼少時、王都で両親と暮らしていたころから人付き合いが苦手――というか嫌っていたルーカスを、行動力と度胸がありすぎる辺境の女たちが追いかけまわしたことだった。
 そのおかげでルーカスはますます人から隠れるようになったし、自分の容姿にも構わなくなり――だらしないというよりも変人らしくなってしまっていた。
 しかしついに。
 ルーカスはようやく、自分の心の落ち着く場所、護りたいものを見つけたのだ。
 血の繋がりはなくても、ずっとアハトと共にルーカスを見守って来たヘンリクとしては、孫のように思っているルーカスの幸せを、アハトと同じように噛み締めていた。
 ルーカスが求めてやまないアイラも少々変わった女性だが、普通の貴族令嬢などではルーカスの妻どころか辺境での暮らしもままならないから本当に良かったと思う。
 アイラは使用人の仕事を熟知している上に、女主人としての毅然とした態度も満点だ。その上、引きこもり癖がまだ抜けないルーカスをうまく扱い、身形を整えたり世話をすることができる。
 なんてできた嫁だろう。
 いろいろな能力を持っているアイラだが、その力は、彼女の過酷な生い立ちが身に付けさせたものだった。
 だからこそ、ルーカスだけでなくアイラも幸せであることを願っていた。ヘンリクは、いや、辺境に住む誰もがアイラの嫁入りに喜び、ルーカスとの幸せが永遠に続くように、と願っていた。
 ルーカスの両親が姿を見せたのは、本当にそう思っていた頃なのだ。

   *

 家政婦長となったイーダはヘンリクの連絡を受けて、彼と二手に分かれることにした。
 ヘンリクは客の相手をし、イーダは領主夫妻の用意をするためだ。そして、早く何も知らないだろうアイラに基本的な情報を伝えなければならなかった。
 アイラが他の使用人と同じ、メイドの服を着ているからだ。
 ルーカスの両親だから気にする必要はないのかもしれないが、アイラ自身の体面もある。
 せっかくこんなむさ苦しいだけの辺境の屋敷に来てくれた、大事なオルコネン侯爵家の嫁だ。能力にも容姿にもなんの問題はないが、何もないところに問題を見つけようとする者だっている。それにルーカスの両親に、アイラを見下されたくなかった。
 アイラの新しいドレスは王都で作ってもらったばかりのもので、急いで揃えたとはいえ辺境の屋敷で着ることなどないから新品同然だった。ルーカスとアハトが王都で注文したものも続々と届く予定らしいから、クロゼットはこれから華やかになるだろう。
 イーダは、アイラのコルセットを締め付けながら、こんなにも素晴らしい奥様にあのふたりを引き合わせるのは、できるなら避けたいと思っていた。もう一生辺境に来なければいいのに、と思っているくらいだ。
 ルーカスの両親は、イーダからするとそんなふたりなのだ。
 まず、ルーカスを放置したことが一番気に入らなかった。
「サロモン・アンデル様と、レベッカ・アンデル様……家名が違うんですね?」
 アイラの問いに、顔を顰めたまま、イーダは頷く。アイラが主人なのだから、イーダに敬語は必要ないと言っても、アイラの性格上、目上の人に命令するのは難しいようだ。
 人前ではちゃんとする、と言われてしまうと、ルーカスと同じく可愛い孫のような存在のアイラにイーダが強く言えるはずがない。
「サロモン様……アハト様のご子息は、王都でレベッカ様と結婚してそのまま向こうの家に婿入りされたものですから。生まれた子供をオルコネン侯爵家の跡継ぎにする、という約束を設けた上でですが」
「……なるほど、だからルーが跡継ぎに」
「それに……」
「それに?」
 準備が整ったアイラは、とても美しかった。
 もちろん、動きやすいドレスにエプロンをした、侯爵夫人には見えない姿であっても、アイラは素敵な女性で、イーダからすると文句のないルーカスの妻だ。
 辺境でずっと暮らして、領主一族のことだってよく知っているイーダですら見放していた領主屋敷をあっという間に復活させた手腕は誰だって尊敬に値する。
 若い女主人に、イーダはその先を言っていいものか、少し逡巡した。
 愚痴のようなものだったからだ。
 しかしアイラの視線は、イーダを信頼し、こちらの気持ちを慮ってくれる優しいもので、つい絆されて言ってしまった。
「……あのおふたりが辺境に来られるのは、ご自身たちのご結婚のご報告以来で」
 それについてもイーダには気に入らなかった。
「それは……」
 アイラにも、イーダが言いたいことがわかったのだろう。
 サロモンは人付き合いが得意で、仕事も出来るし、次期領主として期待が高かっただけに、王都でレベッカに出会ってすっかり骨抜きにされてしまったことが、イーダには残念でならなかった。
「つまり、え……っと、あの方たちが辺境に来たのは……」
「――ええ、ルーカス様が生まれる前ですから……もう二十七年ぶりになります」
 いったい何をしに来たのか。
 イーダが警戒するのも、無理もないことだった。

   *



 久しぶりとはいえ、改まる客ではないと、ヘンリクが案内した居間には、海神騎士団の隊服に身を包んだ者がふたりいた。すらりとした肢体はまだ現役で、鍛えられているというのがよくわかる。

 だが、前領主であるアハトによく似た顔で海神騎士団の隊服を着ていることに違和感を覚えるのは自分だけではないだろう、とヨハンは思った。

 ヨハンは辺境騎士団に入ってから、同年代のサロモンの側にいることが多かった。

 もうずいぶん前のことになるのだな、とかつての出来事を思い出す。

 アハトとともに王都へ行ったサロモンは、運命的な出会いをした、と言い出し、そのまま海神騎士団に入ってしまったのだ。

 「惚れた女に一途」というのは、オルコネン侯爵家の血筋だからと、アハトは早々に諦めていたが、辺境に一緒に帰るものと思っていたヨハンにしてみれば、寝耳に水の話で、呆気に取られて目が点になった。

 侯爵家の嫡男と結婚するのだから、嫁に入るほうが普通だと思っていた自分の頭がかたかったのだろうか。

 いずれにしてもサロモンが選んだレベッカ・アンデルという女は規格外の女だった。

 子爵家に生まれながら女の身で騎士を目指し、若くして頭角を現し実力でその地位を手に入れたご令嬢だ。

 辺境で生きていくのだから、人の世話にならなければ生きていけない女性よりも望ましいと、一瞬誰もが期待したはずだが、レベッカという女騎士は決して自分を曲げない女で、サロモンの方があっさりと従順することを決めてしまった。あの落胆は、今でもはっきり覚えている。

 それでもルーカスをオルコネン侯爵家の跡継ぎにすることを認めてくれたのだから、それでよしとするしかないのだろう。

 だが、そのルーカスの子育てをもう少しちゃんとしてくれていたら、ヨハンもこれほどふたりを見て複雑な気持ちにはならなかったはずなのだ。

 用意が調ったのか、ルーカスがアイラを伴って居間に現れた後だった。自分の妻を紹介するなり、ルーカスは警戒を露わにしていた。

「――それで、何をしに来たんだ?」

 その気持ち、よくわかる。

 彼らが自分の息子をどう扱ってきたのかよく知っているから、不信感を露わにするルーカスの気持ちがよくわかった。

「お前が初恋を実らせたというから、可愛い嫁を一目見なければと思って来たんだよ」

 にこやかに答えたのは、サロモンだ。

 年々、アハトに似てくる彼だが、まだ美丈夫という形容詞が似合っていた。

「せっかく王都に居たのなら、我々が航海から帰って来るまで待っていてくれたらよかったのに」

 そう言ったのはレベッカだ。

 こげ茶の髪をひとつにまとめただけの、相変わらず化粧気のない顔の女だが、騎士の隊服がよく似合う男装の麗人と噂されているらしい。

「しばらく航海もないし。時間もあったから久しぶりに辺境に行ってみようか、ということになってね」

「やっぱりここは王都より雪が少なくていいな」

 街道はすでに封鎖され、雪道に慣れた配達人しか行き来できない状態のはずだが、彼らは現実に辺境に着いてしまっている。

 いったいどんな無茶をしたのか。

「――勝手なことを」

 呆れた様子のルーカスの言葉に、ヨハンはやっぱり頷きたくなった。

 しかし、こうして並んでいるのを見ると、親子であることを認めないわけにはいかなかった。

 ルーカスはアハトによく似ている――つまりサロモンに似ている、とは思っていたが、その目はレベッカに似ているというのがわかる。

 サロモンとレベッカは、どちらが美形かと言われれば、サロモンだと誰もが言うだろうが、レベッカは美しくも醜いとも言えない普通の顔立ちであるのに、その目が印象的なのだ。

 意志の強さを感じるルーカスの黒目は、確かに母親であるレベッカから受け継いだのだと改めて感じた。

 だからルーカスは、アハトに似ているようでいて、より硬質な印象を受ける人間離れした美青年になってしまった。

 自分の子供を、「船酔いするなんて信じられない」と言って慣れれば治ると一週間も船で暮らさせたり、「海が嫌いなんておかしい」と泳ぎを覚えさせるために海に放り投げたりするような母親だ。

 自分の息子が理解力に優れ、頭の回転が速いのを知っていたからこそ、できないことが不思議だったのかもしれないが、あの扱いはない。

 ちなみに体質なのか、船酔いは治らなかったし、海に沈んだルーカスは浮いて来なかった。ヨハンがすぐに気付いて助けに行かなければ、そのまま海底に沈んでしまっていただろう。

 つまり絶望的に、ルーカスは海と相性が悪いのだ。

 ルーカスにとっての幸せは辺境で暮らすことにあるのだ。

 そしてルーカスは、唯一の女性を見つけてくれた。

 最初は女の使用人なんて大丈夫だろうか、と雇ったヘンリクに心配したものだが、アイラはすぐに辺境に馴染み、男所帯の屋敷を綺麗にして生活をまともにしてくれた。

 それだけでもいい子だと思っていたのに、なんとルーカスの想い人で彼の妻、女主人にまでなってくれたのだ。

 オルコネン侯爵領の誰もが、アイラに感謝し、喜んでいる。

 アイラがルーカスの嫁になると決まった日、騎士団はもちろん、すべての領民に対して、絶対に逃がすな、と通達がなされた。

 ヨハンも、若い領主夫妻を害するものはすべて排除すると誓っている。

 それが、ルーカスの両親であってもだ。

   *



 雪で封鎖された街道を、馬で来たと言われ、アイラは騎士って本当に人間なんだろうかと不思議に思ってしまった。

 それがルーカスの両親に抱いた最初の感想だった。

 雪で覆われても、辺境と王都の連絡は途絶えないらしい。ソリを使った移動手段を取るらしいと、最近教えてもらったが、そこをふたりだけで、護衛もなく馬で来たなんて、さすがルーカスの両親というべきなのだろうか。

 初対面だが、アイラはそのふたりを見て、確かにルーカスの両親だと納得もした。

 海神騎士だと言う彼らは、騎士の隊服がとてもよく似合っていた。そしてアハトによく似たサロモンと、印象的な目をしたレベッカ。確かにルーカスは彼らの子供だと思った。

 だが、屋敷に居る面々や、ルーカスの態度を見る限り、彼らに対する心証はよくないらしい。

 彼らがルーカスにしてきたことを聞けば、確かに良い親だとは言えない。アイラもルーカスが嫌な気持ちを思い出すのなら、会わなくてもいいかな、とまで思っていたのだ。

 もしやそれを理解したうえで、冬の辺境に来たのだろうか。そうだとすると一筋縄ではいかない親だ。と思ったけれど、ルーカスの親なのだ。普通の親であると思う方が間違いかもしれない。

 そんなことを考えていると、レベッカがじっとアイラを見つめているのに気づいた。彼女は視線が合うとにこりと笑う。

「――ハンナマリによく似ているね」

「――母と、面識が?」

 びっくりしたのはアイラだけではないはずだ。

 しかしレベッカはなんでもないことのように話した。

「ルーカスがお世話になったんだ。挨拶しないわけにはいかないだろう?」

「――なんだと?」

 男装の麗人、というのが相応しいレベッカだが、話す言葉も女性らしさはなかった。その身体つきを見れば、男であるはずはないけれど、どこか人を惹きつける雰囲気を持っていて、そんな話し方も似合っていた。

 そのレベッカの告白に、アイラも驚いたが、すぐに反応したのはルーカスだ。

「ルーカスが消えたときは誘拐かとも思ったし、無事に帰って来たからといって調べないわけにはいかない。そう思って形跡を辿ったら――いやはや、とても呑気なご両親だったね」

「………………」

 サロモンにもにこやかに言われてしまった。

 アイラは、やっぱり自分の両親はおかしかったのだということを改めて実感した。

 幼いルーカスを迎え入れてから、アイラの両親は、ルーカスの親に連絡を入れずに暮らしていたのだ。自分の親ながら、何を考えていたのだろうと不安になる。

「まぁあまり、目立ちたくはなかったようだからね。ルーカスが楽しかったようだし、こちらも問題はなかった」

 そう言われて、アイラの両親は駆け落ちをしていて、母の親――カルヴィネン侯爵から逃げていたのだと思い出す。

 あの家に帰りたくないと思っていたのは、アイラだけではないのだ。

「わざわざ会いに行っていたのか? そんなこと言ってなかったじゃないか」

「親として当然だろう? それに誰がお前に手紙を書くように言ったと思ってる? 大事な息子の結婚相手になるかもしれないんだ。繋がりを切るわけにもいかないだろう」

 ルーカスが非難するように言うが、レベッカの言葉のほうが正論にも思えた。

 そして両親同士は会っていたのか、と知り、アイラはどこかほっとした。けれどルーカスはそんな優しい気持ちにはなれないようだ。

 顔を隠さないようになったルーカスは、不機嫌なのがよくわかる表情で両親を睨み付けている。

「――それだ」

「それ?」

「手紙だ! 送ってくれると言ったのは母さんなのに、サフィに届いてなかったじゃないか!」

「――ああ」

 ルーカスの憤りにアイラは目を瞬かせた。

 手紙?

「返事がないからおかしいとは思っていたが、あんたたちを信じて出してた俺が馬鹿だった!」

 アイラはふと、以前ルーカスが「手紙を送った」と言っていたのを思い出した。

 再会した頃は、それどころではなくて聞き流してしまっていたが、突然消えたルーカスは、ちゃんとアイラとの繋がりを忘れず、手紙を出してくれていたのだ。

 心の中が熱くなる。

 両親を睨むルーカスに、愛しさしか感じられなかった。

 睨まれた両親――特にレベッカは、しれっと答えている。

「最初の手紙はちゃんと持って行ったさ。中身を読んで、その場でオスク――アイラの父親が握りつぶして竈にくべていたけど」

「なんだと!?」

「アイラを好きなのはわかるが、まだ幼い娘に対して、その娘を溺愛している父親の前で、『いつ父親を捨てる?』と聞くのはどうかと思ったぞ、私でも」

「…………」

「…………」

「…………ルー?」

 居間の中で、人数分の沈黙が流れた気がした。

「あと、毎日書くものじゃない。あまりに多いから、向こうにも悪いと思ってしばらく溜めておくようになったんだ」

「だから、減らしたじゃないか」

 返事をもらって来なかったくせに、と拗ねるルーカスに、アイラも一緒に呆れてしまったが、せっせと手紙を書いてくれた幼いルーカスを思うと怒ることはできない。

「まぁ次でいいかと、仕事も忙しかったし後に回しているうちに、オスクが亡くなって――ハンナマリが憔悴しきってそれどころではなくなって、こっちの足も遠のいてしまったんだが」

 そうだったのか、とアイラは納得したものの、納得出来ないのはルーカスだ。

「――言い訳はいい。結局、忘れてたってことだろ」

 鋭い台詞に、両親がそろってにこりと笑う。

 あまりにはっきりと返事を回避する行動に、アイラは辺境の人々が彼らを嫌う理由がわかった気がした。

 仕事はできるのだろう。

 きっと海神騎士としてはとても優秀なのだろう。

 しかし、人の親としては、どうか。

 心なしか、冷ややかな視線が彼らに向かっているように思う。

 それを無視する心の強さが、サロモンとレベッカにはあった。笑ったまま、紙の束を差し出してくる。

「――だから今回来たのは、これを届けるためでもあったんだよ」

 サロモンがそれを渡したのは、アイラだった。

「わ……私に、ですか?」

「少々重たいけど、愛息の十五年分の気持ちは、君に向けられたものだからね」

「今更そんなもの読まなくてもいい!」

 ルーカスが奪い取ろうとしたが、サロモンはちゃんとアイラに手渡した。

 アイラの両手にずしりと重みを感じる厚さに、アイラもルーカスに返したくはなかった。

「サフィ! そんなもの――」

「さて、久しぶりに辺境を見回ろうかな」

「いいな。こちらの騎士団とも手合わせしてみたい」

「レベッカに勝てる騎士なんてどこにもいないよ」

「ちょっと待て! 勝手に――」

 サロモンとレベッカは、ルーカスの制止をまったく聞かず、居間から出て行こうとしていた。

 一瞬、迷っていたようだが、両親を止められるのは自分しかいないと判断したのか、ルーカスは追いかけながら振り返り、「後は任せた!」とヘンリクに言いつけながら出て行った。

 残されたアイラは、あっという間に消えた親子にびっくりしたものの、手に残された手紙を見て、困惑したままヘンリクを振り返った。

「――部屋でゆっくりと、読んでみては?」

 優しい老騎士に勧められて、アイラは戸惑いを消してひとり部屋に戻った。





『サフィ、いつこっちに来る?』

『もうそろそろ、俺が恋しくなったんじゃないか?』

『辺境は遠いかもしれないけど、面白いぞ』

『そうだ、オスクとハンナマリも一緒に来てもいいんだぞ』

『ちゃんと騎士になったら、来てくれるか?』

 手紙は、手紙と呼ぶには短すぎる内容だった。

 一番古いものから読むと、最初は本当に子供が書いたとわかるたどたどしい内容で、しかし気持ちはよく伝わってくる。

 素直な気持ちだとわかるからだろうか。

 最初は本当に連日のように出していたようだ。

 しかし次第に日にちが空けられ、最後の数年は一通ずつになっていた。

 手紙を開ける手が、震える。

 何度も瞬きをしないと、手紙の文字が滲んで見えてしまう。

 最後の手紙を読んだときは、とうとうぽたぽたと滴が零れてしまった。

『もうそろそろ、許してくれるかな? オスクはいいって言うかな? 俺は領主になるから、迎えに行っても大丈夫だと思う。辺境は遠いが、いいところだ。いつでも来ていい。きっとサフィなら、気に入ってくれると思う。ここに、サフィがいてくれたら、すごく嬉しい。やっぱり迎えに行ってもいいか?』

 最後の手紙でも、子供の言付けのような内容だ。

 仮にも侯爵となったのなら、手紙の形式というものを知らないはずがないのに。

 国王相手に、慇懃無礼ではあるが、一応畏まった物言いができるのだから、言葉を知らないはずもない。

 大人の書く手紙ではないと思ったが、それが逆にルーカスのまっすぐな気持ちを伝えてきて、アイラの心を締め付けた。

 想われていた。

 改めて、アイラはルーカスの気持ちを知ったのだ。

「――サフィ! どうした!?」

 ルーカスの声がした。

 ここはルーカスの部屋でもあるから当然だが、ノックくらいしてほしい。

 心の準備がまだ整っていないのだ。

 ルーカスは泣いていたアイラを見て驚いて、慌てて駆け寄ってきた。

「気分が悪い? あ、胸糞悪い親に会ったからな。やっぱり嫌だったんだろう?」

 心配そうに言うが、その両親はどうしたのだろう。

 アイラの心を読んだのか、ルーカスは窓の外を指さして言った。

「あの親たちは放置してきた。雪が多いからそれほど勝手なこともできないだろうし、ヨハンを付けてある――それより、本当に、どうした?」

「…………ルー」

 しゃくりあげてしまいそうで、なかなか声が出せなかった。

「サフィ?」

 座っているアイラを覗き込んで来るルーカスに、縋るように手を伸ばした。

 そして小さく首を横に振る。

「……ちがう、の」

「違う? 何がだ?」

「――ごめんな、さい、ルー、私、あなたのこと、ずっと忘れてたのに……っ」

 再会するまで、思い出すこともなかった。

 なのにルーカスは、ずっとアイラを想ってくれていたのだ。

 こんなに嬉しくて、しかし心苦しいことはない。

「でも、思いだしてくれただろう? 俺を忘れてなかっただろう?」

「でも……っ」

 ルーカスはその大きな胸に、アイラを抱き止めてくれた。

「サフィはちゃんと来てくれたじゃないか。俺のところに来て、今一緒に居る。それが何より大事なことだろ」

「ルー……っ」

 アイラのすべてを受け止めてくれる、ルーカスが愛しい。

 腕の中に包まれても、この想いをどうしたらいいのかわからず、しがみ付いて泣いた。

「サフィが来てくれなかったら、俺はちゃんと迎えに行ったぞ」

「……っん、うん、あ、あり、がと……っ」

「しかし、こんなにサフィを泣かせるとは……やっぱりあの親は余計なことしかしないな。すぐに追い出すか」

 アイラの背中を宥めるように撫でてくれるルーカスだが、何故か不穏な声で呟いている。

 それがあまりにルーカスらしくて、アイラは思わず笑ってしまった。

 涙はまだ止まっていないけれど、顔がほころんでしまう。

「もう……ルーのご両親なんだよ。ご両親がいるから、ルーがいるんだもの。大事にしないと」

「そうか? 即放り出したっていいんだぞ」

「遅くなっても、わざわざ手紙を届けてくれたご両親なのよ。すごく……私はすごく、嬉しかったから」

 そんなふうに言わないで。

 アイラの願いは、聞き届けられるとわかっていた。

 ルーカスは誰よりもアイラに優しいからだ。

「これは、嬉し泣きなの……」

 そう言うと、ルーカスは身体を離してアイラの泣き顔を覗き込み、その濡れた頬を舐めた。

「ルー!」

「……サフィを泣かせるのは、俺の仕事なのに」

 その「泣く」が、どういう状況でのことなのかすぐにわかってしまったアイラは、思わず涙も止めて顔が熱くなった。

「ルー!」

 拗ねた様子の夫に、檻に囲まれたままのベッドに連れて行かれても、アイラは抵抗などできなかった。

 一応の抗議の声は上げたけれど、聞き入れられることはないし、自分も本心から抵抗するつもりはなかった。

 アイラは、十五年分の夫の想いに答えるべく、この先もずっと付き合うつもりだった。




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