自覚
「ただいま」
「……お帰りなさい」
一週間ぶりの我が家だが、出迎えてくれたリーシュカは壁の方を向いたままだ。
――長い間留守番させたから拗ねたかな……。
だが仕方ない。身ごもったばかりのリーシュカを、取引には連れて行けなかったのだ。
短期間だからとマルヒナとロードンにこの家を任せて、カイルと二人でさっさと取引を終えて戻ってきたところだ。
――拗ねてるのか。お前、怒ると背中向けて振り向いてくれないところ、五歳のときと変わらないな……。
膝に乗ったまま頑なに振り向かず『かえるのいやですから!』と叫んでいた可愛い姿を思い出し、ルドヴィークは口元をほころばせた。
「こっち向けって」
だがリーシュカはこちらを向かない。
――駄目だ、やっぱり可愛い。
抑えても浮かんでしまう笑みを堪えながら、ルドヴィークはこちらに背中を向けたままのリーシュカに声を掛けた。
「何で怒るんだよ……仕事だろ、船の出航が遅れただけだって。どうした」
「昼には帰るって言ったのに、夜まで戻らないからよ。危ないところに武器を届けに行った貴方をずっと心配してたのに……」
「危ないところじゃないって説明しただろ……? それに船は時間通りに動かせないことも多いし、一日くらい帰宅がずれたって、お前はゆったり待って……」
「大したことだよ!」
大きな声で反論され、ルドヴィークは目を丸くした。振り向いたリーシュカが泣いていたからだ。
「どうした、お前」
「ひ、一人で、ううん、二人で永遠にルディを待ってるのかも……って思ったら、すごく怖かった! 武器を買うお客さんが危なくないって言われたって、ぜ、全然、納得できないし……怖かったんだから……っ!」
震え声で言ったリーシュカは、小さな手で、まだ膨らみのないお腹をさすっている。
その手が震えているのを見て、不意に胸が痛んだ。
「いや、平気だって。今回の取引先は本当に敵でもなんでもなくて、減価償却を終えた武器の入れ替えを頼んできた馴染みの客で……」
「平気かどうかなんて分からないわ!」
そう言ってリーシュカが、大きな目からぼろぼろと涙をこぼす。
すぐ側に立っていたマルヒナが「身ごもられたばかりで気が立っておいでなのですよ」と助言をくれたが、こんなにも泣かれてしまうと胸が痛い。
確かに、出掛けた先で殺される可能性は皆無ではない。完全にないとは言い切れない。
かつてルドヴィークはリーシュカに『お前のためなら手足をもがれるまで戦うつもりだ。俺が死んだら後を追ってこい』と言った。その約束は変わらないと思っていたけれど……
「ごめん……」
ルドヴィークは震えるリーシュカの手に、己の手を重ねた。
――そっか。どんなに安心だって言ったって……十割じゃないもんな。俺はこの子のためにも、今までの百倍慎重に行動しないと駄目なんだ……絶対に、死ねないから……。
お腹の子はまだ豆粒くらいの大きさだが、ちゃんと人間だ。きっと今だって、理解できなくても父母の話は聞いている。母を泣かせてオロオロしている父の姿だって、感じ取っているに違いない。
この子に、父の名前しか知らない人生など味わわせてはならない。
こんな簡単なことに、どうして今まで思い至らなかったのだろう。
父親の自覚が全く足りていなかったと思いながら、ルドヴィークは明るい声で言った。
「俺は危なくなったら、納品なんて放りだしてさっさと逃げてくるぞ」
ルドヴィークの言葉に、泣いていたリーシュカが驚いたように顔を上げた。信頼と度胸が何より重要な、武器商の言葉とは思えなかったからだろう。
「え……?」
「子供は、客や金より大事だ。……大人になるまで、俺たち二人で守って躾けて、可愛がらないとな」
リーシュカの身体を抱き寄せて、ルドヴィークは言った。
「ルディ……」
「今後は、もうちょっと上手く立ち回る」
これまでは武器商として、自分が先陣を切ることしか考えていなかった。
だが、武器運送専門の会社を作ってもいいし、金はかかるが代理人を立ててもいい。姿を見せない死の商人として、上手いこと立場を築くことができれば、それはそれで名前が売れそうだ。
仕事など、頭を使えばいくらでもやりようはある。
――リーシュカと子供には、悲しい思いはさせられない。
十二歳で両親を失ったときの気持ちは、未だにはっきりとルドヴィークの心に残っている。
腹の子に同じ思いをさせるつもりはない。あんな思いだけはさせてはいけないのだ。
ルドヴィークは両親を愛していた。老いていく両親を見たかった。妻や子の姿を、愛する両親に見せたかった。
もしルドヴィークが死んだら、この子だって同じように思うはずだ。どうしていないの、会いたいよと……。
「うん」
リーシュカが涙を拭って頷き、ようやく笑う。
腹に小さな赤ん坊を抱え、体調も安定しない中、夫が約束の時間に帰らないなんて相当不安だったに違いない。
簡単な仕事だからと深く考えずに出掛けてしまった。マルヒナもいるし、ロードンも置いていったから、大丈夫だと。
――俺が馬鹿だった。
「二人で死ぬんじゃなく、三人で生きよう。俺は手足をもがれるまで戦う羽目になる前に、まずは戦場からを避ける術を身につける。だからお前は絶対に無事にこの子を産んでくれ」
「……うん、悪阻が軽くなったら、歩いたり、運動したりして、絶対に無事に産む。産婆さんのところにもちゃんとまめに行って診てもらうから」
リーシュカの美しい顔に柔らかさが戻る。ルドヴィークは身を屈めて、尊い妻の唇に、己の唇をそっと押し付けた。