とある騎士の日常
人は順応する生き物だ。特別だと思う時間も次第に日常になり、あたりまえのものとして受け止めるようになる。特別な人物も、そばにいることが当然となり、いつしか己の一部に変わる。
それを平穏と呼ぶのだろう。起伏のなさから退屈と呼ぶ者もいるかもしれないが、失われたときにようやく気づくのだ。平穏がいかに尊いかを、幸せであるかを。それを知るルスランは、平穏を命がけで守ると決めていた。
そう、かつての彼は、未来に平穏があるのだと思っていた。しかし、時を経たいま実感しているわけではない。穏やかなはずの日常をおびやかすものは、大なり小なりひそんでいる。
まず、頻繁に彼の心をざわめかせるのは、ジアの白い鳩たちだ。油断をすれば、やつらはいつのまにか夫婦の寝台にのっている。すやすやと眠るジアの上にびっしり並び、身体をこんもり膨らませ、彼女を冷えないように温めるのだ。
ルスランは、それを見るやいなや追い払っているものの、いたちごっことなっていた。彼らはジアといたがるのだ。そのたまごを温めるようなしぐさは、彼女の保護者のつもりだろうか。
──なんなんだ、まったく。
それが頻繁に行われればうんざりする。
ある日のこと、ルスランはなんとはなしに、六羽の鳩の名前を脳裏に描いた。
──ヨハン、カール、デニス、エッボ、マルク、ロータル。
「……は? すべて男の名前?」
思い至れば、ジアにぴたりとくっつく鳩たちがすべて雄に見えてくる。かといって、彼女に確認すれば、鳩の性別まで気にする嫉妬深い男と思われかねない。ルスランは、自身が度量が狭いと理解しているが、彼女には余裕がある男でいたいのだ。
雄と思えばだめだった。鳩すべてがよこしまな思いを抱いているように見えてくる。
ルスランをいらつかせるのは、集結する鳩ばかりではなかった。犬のヴォルフもだ。雄犬のヴォルフは、頻繁にジアのそばで仰向けになり、急所のおなかを見せている。それは屈服、もしくは甘えたい時の行為だが、ジアがおなかをふかふかと撫でると、やつの股間が反応するのだ。そのたび、ルスランは気を悪くする。
──くそ、あいつ。ぼくには腹を見せないくせに。
しかも、ジアとの間に生まれた子どもも男だけ。彼女は家でただひとりの女性で、皆、取り合ってばかりいる。ジアは幸せそうだが、ルスランは不満だ。
彼はため息混じりに外へ出た。自分でも、気にするところがおかしいことはわかっていた。しかし、憂いは少しも薄まらない。
──次は絶対女児がいい。
畑にたどり着くと、彼はまず腰の剣を引き抜き、素振りをする。村にひそんでいても鍛錬するのは日課になっていた。その上、不得意だった射的がずいぶん上達したと自負している。畑に飛来しようとする鴉を弓で威嚇し、追い払っているからだ。
ルスランが家を建てたのは、村の奥まった土地だった。家の前に畑を作ったのは計算だ。訪ねてくる者をすべて把握し、気に入らぬ者は門前払いするためだ。彼は、生涯ジアを守ると決めていた。
先日、父が王位を継げと訪ねてきたし、父が仕向ける使いは毎日来ると言っていい。あろうことか、村に離宮を建てる計画書を見せられて、すかさずびりびりに引き裂いた。
その日も父の使いを追い返したルスランは、同時に伝書鳩が飛来するさまを見た。
鳩の足の筒から手紙を取り出し、目を走らせると、彼は猛烈に顔をしかめる。書かれていた内容は……
【やあ、ルスラン。私はラインマーだ。三か月ぶりだね、元気にしているかい? 今日は伝えたいことがあってペンをとったんだ。ひと月後、ビッグ・ニュースがある。どんなニュースだと思う? それはひと月後のお楽しみだ。ところで貴公、まさか王子一家がこのままおめおめと農民でいられるなどと思っていないよね? そうか、思っていないようで安心した。かわいいジアちゃんによろしく。貴公がほかの女に目移りしたなら、兎にも角にも私にまず教えてくれよ? 幸い私はまだ独身だ。では、ひと月後に。ヘンゲン伯爵ラインマーより。追伸・ロホスがよろしくと言っているよ。早く会いたいね】
──ふざけるな!
ルスランは、ぐしゃりと手紙をにぎりつぶすと、「ベモート」と飼っている山羊を呼び、彼に手紙を食べさせた。それからは畑の作業に没頭する。心はささくれ、平穏にはほど遠かった。
雑草を抜いていたルスランは、額に落ちる汗を拭った。
蝶を追いかけるヴォルフが、元気に目前を横切った。その先では、羊と山羊が草をもしゃもしゃ食んでいる。虫がうるさいほどに鳴いていても、あおむしがもぞもぞ動いていても、特段ひるんだりはしなかった。それらは彼の日常だ。
自分でも、畑にいる未来など想像だにしなかった。おそらくは、過去の自分はいまの自分を蔑むだろう。なにせバルヒェット家の嫡男だ。だが彼は、少しも後悔していなかった。
農作物を作るのは、退屈な作業かと思いきや、意外に奥が深かった。野菜の味は手をかけたり、試行錯誤で変わるのだ。なにより、ジアや息子のアルウィンがうれしそうな顔で「おいしい」と言ってくれるから、必要以上に精が出た。
日差しを感じて空を仰げば、雲間から陽が照っていた。とたん、彼の眉がいまいましげにひそめられた。空に舞う黒いごみ──鴉を認めたからだった。
彼は短く息を吐き捨て、しゃがんでいるジアを見た。彼女はアルウィンとともに豆をせっせと植えている。白い髪や肌が光を浴びてかがやくさまは、とても美しくてずっと見ていたいが、ふたりは日差しに弱かった。
「ジア、アルウィン、家に入れ。後の仕上げはぼくがしておく」
そう言って彼がうながすのは、太陽だけが理由ではなかった。もっぱら、大きな鴉にある。
ジアの緑色の瞳がこちらを向くと、ルスランは顔をほころばせた。彼女が微笑んでいるからだ。彼女は、過去の小さなジアのように、表情豊かになっていた。
「じゃあ、料理の下ごしらえをするわ。ルスラン、なにが食べたい?」
「きみの好きなものでいい」
ジアがとなりの息子に視線を移せば、アルウィンは、「ぼく、どんぐりのビスケットが食べたい」と主張した。
「そうね。どんぐりのビスケットと豆のスープ。それから、いのししのお肉を焼くわ」
「いのしし? あったかな」
首をひねるルスランに、ジアはうなずく。
「村のおじいさんたちがくれたの。新鮮なお肉よ」
「いつのまに。畑を通らなければ、誰もきみのもとへは行けないはずだが」
「ルスランが王都からのお使いの人たちの相手をしていた時に来たの。果物もたくさんもらったわ。あらためてお礼をしたいのだけれど……チーズを作って持って行こうかしら? わたしのチーズ、お礼になると思う? おじいさんたち喜んでくれるといいのだけれど」
ルスランは眉をひそめる。それはチーズが不満なわけではなかった。
──ジアを村に? だめだ。ありえない。
このバルツァー国では、白い容姿は至高だ。そのため、村の男たちはジアを見るたび色めき立っている。
ルスランは、若い男を少しもジアには近づけないが、老いぼれたちは枯れているから除外していた。しかし、翁もやはり男なのだろう。鼻の下を伸ばしているさまが想像できた。
──ジアに貢いで取り入ろうとは、じじいどもも油断がならないな。
剣呑に思いをめぐらせる彼に、ジアは「ルスラン?」と首をかしげる。
「礼はぼくがしておくから、きみはなにもしなくていい」
「でも……」と唇をまごつかせるジアに、ルスランは続ける。
「行って。あ、そうだ。肉はぼくが焼くから香辛料をまぶしておいて」
ジアはいっしょうけんめいだが不器用で、肉を焼くのはいつまでたっても上達しない。どんな肉でも真っ黒な消し炭のようにしてしまう。スープなど、料理の味付けも得意ではないため、いつも仕上げは彼がしていた。それをジアは気に病んでいるようだった。
彼の手をわずらわせてしまうと思ったのだろう。ジアがしょんぼりすると、ルスランはすぐに取りなした。
「ぼくは肉を焼くのが趣味なんだ。それに、火加減にはこだわりがあるから、誰にも任せたくない。妻のきみにもね。スープもそうだ。きみは特に好みがないようだから、味にうるさいほうが率先してするべきだと思う。違うか?」
何度も目をまたたかせるジアに言葉を重ねる。
「ぼくに気兼ねはいらない。第一、きみは育児が大変だ。エカードはすぐにぐずるし、泣きやませるのはきみしかできない。そればかりか、掃除もしてくれている」
「ルスランもしてくれているわ。忙しいのに……」
「ふたりの家だ、するに決まっている。ジアは洗濯もしてくれる。毎日ぼくやアルウィン、エカードが清潔でいられるのはきみのおかげだ」
洗濯だけはジアの得意分野だ。それには自信があるようで、彼女の鼻先がつんと持ち上がる。
彼女は調子にのるところがあるのだ。その、得意げに胸をはるしぐさは気に入っているところのひとつだ。
「ほら、ジア。行って。日差しが強くなってきた」
こくんとうなずくジアは、「抱っこ」とせがむアルウィンを抱き上げる。同時にその周囲にたむろしていた白い鳩たちが飛び立った。
家に向かうジアの背中を見ながら、ルスランは自嘲する。子が生まれ、父親となり、自分は落ち着くものだと思っていた。が、落ち着くどころか、ジアを誰にも会わせたくないという思いはますます強まった。
それは、ジアが人を怖がらなくなってから膨らむ一方だ。どこかで、人を怖がっていてほしいと願う自分がいる。
以前、ジアが人と触れあえなかった時は、彼女の世界にいるのはルスランだけだった。彼女に求められ続けたあの時間は、心地がよすぎて忘れられない。
──できれば、弱いままがいい。
ルスランは、彼女にこれ以上成長してほしくないのだ。
現に、ジアが外の世界を知る機会を摘み取っている。父の求めに応じて王都に行かないのも、王になる気がないのも、田舎にひそんでいるのも、ジアを変えたくないからだ。地位や名声など、彼女の前には無価値だ。
──ぼくは、狂っているのかもしれないな。
ルスランは、ジアが扉に消えたのを認めて、ふたたび雑草に向き合った。
農作業をひととおり終え、ルスランは家に近づいた。扉を開ければ、鼻腔をくすぐるのは、スープの香りだ。
腰につけた剣を壁に立てかけると、ヴォルフが足にまとわりついてきた。頭を撫でれば、満足そうにつぶらな目が細まった。
「ルスラン、お疲れさま」
ジアは服をくつろげて、下の息子のエカードを抱いていた。穏やかな顔つきの彼女はお乳を飲ませている。ふつうは微笑ましく思うものなのだろうが、ルスランはそうではなかった。なぜなら、エカードの小さな手が、たえずジアのふくらみをふにふに揉んでいるからだ。それがいやらしい手つきに思えてしまうのだ。
ひそかに頬をひくつかせたルスランは、自身の黒髪をかきあげた。
──一刻も早く乳ばなれさせないといけないな。
しかし、彼はまだ赤子だ。あと何か月先かを計算していると、入室した上の息子のアルウィンが、「お母さーん」と、てっ、てっ、てっ、とジアのもとに駆けていった。そのさまに、ルスランは深々とため息をついた。
──なんだあの走り方は。あれではまるで……
脳裏に思い出したくもない少年のなりをした男が浮かびあがり、ルスランは首を振る。
そんなルスランを後目に、ジアはエカードを片手で固定し、「いらっしゃい」とばかりにアルウィンに白い手を差し出した。
母は強くなるというのは本当なのだろう。頼りなかったジアの手は、エカードを危なげなく抱え、アルウィンを受け入れる支度もできている。
「お母さん、大好き」
「お母さんもアルウィンが大好きよ」
アルウィンはご満悦といった表情で、ジアに「好き」とぴとりとくっついた。
「あのね、ぼくもお母さんに甘えたい。ぎゅっと抱っこして? お乳も飲みたい」
──なんだと!?
ルスランが、かっと目を瞠るさなか、アルウィンがぐいとジアの服をひっぱると、隠れていたもう片方の胸が露出した。
その慣れた手つきは、これがはじめてではないことを物語っている。
「アルウィン! ここへ来い」
低い声で告げれば、アルウィンはぴく、と肩をはねあげたが、ジアが「いってらっしゃい」とうながすと、しぶしぶといったていでこちらにとぼとぼ寄ってきた。
「なあにお父さん……」
ルスランは、彼の金色の瞳を見据えて言った。
「男同士の話をする。ついて来い」
ルスランが大股で部屋を横切れば、アルウィンはけんめいについていこうと、てっ、てっ、てっ、と従った。その走り方を見るやいなや、ルスランは振り返り、アルウィンを抱き上げる。
「おまえはいつからそんなふうに走っている? 以前は違ったはずだ」
「教えてもらったの。こうすれば早く走れるんだよ?」
「はあ? 遅いの間違いだろう。そんなぶざまな走りを教えたのはどこのどいつだ」
アルウィンはもごもごと口を動かし、「ないしょって言われたんだけどな」とつぶやいた。
この息子は、ジアには秘密を一切持たないが、ルスランには秘密にしたがるところがある。口を割れば、叱られると思っているのだろうか。
「アルウィン、おまえは常識や物事の判別を学んでいる過程にある。正しく判断できるようになるまでは逐一ぼくの承認が必要だ。一丁前に父に秘密でいられると思うなよ?」
「あのね……銀色の髪のお兄さんが教えてくれたの。ぼくのお友だち」
「なんだと?」
頭によぎるのはアンブロス国のあいつだ。近頃、鴉を見かけることが多かったため、いやな予感がしていたのだ。
盛大に舌打ちをしたルスランは、そのまま扉を開けて移動する。
「……銀色の髪の男は、いつおまえのもとに来た」
「うんとね、一週間くらいまえだよ。グリシャお兄さんっていうんだ」
息子の口からあらためて聞くあの男の名前は、いやなひびきを伴った。
「ごきぶりのようにおぞましい名前だ」
ルスランは、階段にアルウィンを座らせると、すぐにそのとなりに腰掛ける。
「いいか、あいつはお兄さんじゃない。おまえの祖父よりもじじいだ」
「ええ? ほんとう?」
「で、走り方のほかにはなにを聞いた」
アルウィンは、あごに指を当て、天井を見上げる。
「あのね、からすってとってもおりこうなんだって。こんどさわらせてくれるんだ。グリシャお兄さん、もっとぼくと仲良くなりたいっていってくれたよ? だからうれしいの。こんどね、遊びに来てって。すごくおいしいりんごもあるみたい。お父さん、行ってもいい?」
「いいわけがないだろう。絶対だめだ」
ルスランはグリシャの魂胆を見抜いていた。
──くそ、ジアに近づこうとしているな。まずはアルウィンを落とすつもりか。こざかしい男め。
「どうしてだめなの?」と首をかしげる息子に、ルスランは滔々と言い聞かせる。
「いいか、鴉は見た目からして獰猛だが、実際に獰猛だ。利口? 違う、狡猾だ。そもそもやつらは鳩の天敵だぞ? おまえは大好きな鳩たちを窮地に陥れるのか? それから、アンブロスのりんごがうまいというのはうそだ。ぽすぽすで食べられたものではない。おまえはグリシャを友だと言うが、あいつは邪悪だ。あの男の腹のなかは、鴉のように真っ黒だ。なぜなら──そうだな、おまえの宝物はなんだ?」
口を結んだアルウィンは、ごそごそとポケットを探り、なかから大きなどんぐりと、ぴかぴかに磨かれている石ころを取り出した。
「これ……」
ルスランの唇が思わず弧を描く。形のいい木の実や石を宝物とするあたりは、ジアに似たのだろう。ルスランは、そこに価値を少しも見出せないからだ。
「見事な宝物だ。だが聞け。そのどんぐりも石もグリシャに虎視眈々と狙われている。やつは人の大切なものをふみにじり、奪うのが生きがいだ」
「えー」と、眉根を寄せたアルウィンは、すかさずポケットに宝物をしまった。
「それを守りたければ用心することだ。いいな?」
うなずく姿もジアに似ている。ルスランは、ジアの色を持ち、自分の容姿によく似た息子から、彼女と自分のかけらを見つけるのが好きだった。
「話を本題に戻す」
ルスランは、ポケットを押さえるアルウィンの小さな背中をさすった。
「アルウィン、ジアに抱っこをせがむのは褒められた行動ではないが、おまえはまだ子どもだ、特別にゆるしてやる。だが、乳だけはだめだ」
アルウィンは、不満そうに唇を尖らせる。
「どうしてだめなの? エカードは吸ってる。ぼくだけだめなんてずるい。大好きなのに」
「大好きでもだ。あれは歯が生えそろっていない赤子のみがやむなくゆるされる。歯がなければ食事ができないからな。その点、おまえは歯があるだろう? それとも、すべてを引っこ抜くか? まぬけな歯抜けになりたければ口を開けろ」
よほどその言葉に恐怖を感じたのだろう。アルウィンは両手で口を隠した。
「ぼくばっかりずるい。……お父さんだって、お母さんのお乳を毎日吸ってるのに」
これには、さすがのルスランも身体をこわばらせてしまう。毎回ジアを抱く際には、子どもの目に触れないよう、細心の注意を払っているのに、この息子は見ているというのか。
「おまえ……」
「ぼく、知ってるよ? お乳だけじゃないんだ。お父さんとお母さんは裸でぴったりくっついて、寝台で動いてる。いろいろしてる。あれ、なにしてるの?」
アルウィンの澄んだ瞳を見ていると、その理由に思い至った。
──くそ、金の目のせいか。
ルスランは、気配を消すことに長けている。そして人より夜目がきく。それらは金の目のせいらしい。同じ目を持つアルウィンも、当然同じことができるのだ。
──だとしても、ガキが知っていいことじゃない。
父親らしい言葉を言いたいが、どう伝えていいのかわからない。下手にごまかすのは悪手だろう。声を詰まらせたルスランは、ひとつ、咳払いをする。
「聞け。ぼくとお母さん……ジアは夫婦だ。それはわかるな?」
「わかる」
「夫婦とは、おまえが見たようなことをするのが日課だ。あれをしなければ、ぼくたちは生きられない」
「えっ。死んじゃうの?」
「ああ死ぬ。それほど重要な意味を持つということだ。端的にいえば、ジアはぼくのものだし、ぼくはジアのものだ。つまり、ジアの乳はぼくのものなんだ」
「あれ、お父さんのなの?」
「ああ。だが、それを子のおまえたちにいっときだけ貸している。温情だ」
アルウィンは「貸してる……」とつぶやいた。
「本来、男とは己の伴侶の乳しか吸わないものなんだ。伴侶とは妻のことだ。おまえも大きくなれば妻を迎える。その女の乳はおまえのものだ。つまり、未来の妻を見つけるまでは、乳を吸うのはあきらめろ」
「お母さんのはだめ? 大好きだし……ぼく、まだ子どもだよ?」
「子どもでも赤子じゃないだろう。おまえはもう四歳だ。その歳で母親の乳が大好きなどと知れてみろ、村じゅうの──いや、国じゅうの笑い者だ」
「そんな……」と、アルウィンはぐすぐすと涙ぐむ。
「おい、アルウィン。男とは?」
「泣かない。しっかりする」
「その意気だ。言っておくが、乳目当てに女を探すようなことはするなよ? それは下衆の所業だ。おまえの祖父はとんだ女ったらしだから、おまえもその血を引く以上、注意しなければならない。女の身体を見たり触れたりすることは、責任が伴う。そのつもりで相手を選べ。決してこの国の悪習に染まるなよ? いいな?」
唇をへの字に曲げるアルウィンは、納得できていないようだった。
「アルウィン、おまえはビスケットが食べられるし、スープも飲める。肉もかじれる。よく考えろ。どこに乳を飲む必要がある? いらないだろう」
「それは……そうだけれど」
「おまえは乳くさい男はとっくに卒業している。男とは、いつまでも母親に甘えるわけにはいかない。強くなるために己の足で立つ必要があるんだ。日々鍛錬し、よく学び、働き、そうして一人前になる。このぼくの息子でありながら怠惰になるな。それとも、軟弱者のままでいるつもりか?」
アルウィンはぶんぶんと首を横に振る。
「ぼくはお父さんみたいに強くなる」
「だったら、金輪際母親の乳をほしがるな。乳くさい男は?」
「卒業する。そのかわり……剣を、教えてね?」
ルスランは、息子のうるんだ目を拭い、白い髪をゆっくり撫でた。
「いいだろう。だが、条件がある」
こちらを見上げるアルウィンに、ルスランは声を落として言った。
「今日からは夜更かしせずに早く寝ろ。おまえは夜にはしゃぎすぎる。体力がなければ強くならない。睡眠は食事と同様重要だ。早く寝ること。できるか?」
「早く寝ると強くなる?」
「ああ。強靭な身体は睡眠時に作られる。起きていてはちびのままだ。ちびでいたくないだろう?」
アルウィンは口をすぼめて、うん、とうなずいた。
「ぼく、もう寝る」
アルウィンが口にしたのは、食事を終えてしばらくしてからだった。彼は普段、うだうだと夜更かししているため意外に思ったのだろう、ジアが目をまるくする。
ルスランがしたり顔でいると、アルウィンが、こくんと首を動かした。金の瞳は決意を秘めているのか、ひときわたくましくなっていた。
「筋肉を作るんだ」
ジアとルスランにそれぞれ抱きつき、「おやすみなさい」と頬にくちづけると、アルウィンは、てっ、てっ、てっ、と部屋を出て行った。そのあとをすかさずヴォルフが追いかける。
「……筋肉? いきなりどうしたのかしら。こんなに早く眠るなんて」
不思議そうにつぶやくジアに、ルスランは鼻を鳴らした。
「早くはない。本来なら子どもはいまの時間に眠るものだ。ジアも子どものころはもう寝ていただろう?」
そうね、と彼女は、緑色の瞳を細める。
「『早く寝んか。子どもは寝る時間じゃ。めっ!』って、おじいちゃんによく叱られたわ」
「いかにも叱られていそうだ。きみはこしゃくな子どもだったから」
「そんなふうに思っていたの?」
わざとらしく唇を尖らせる彼女を抱き寄せ、その口に口を重ねれば、ジアの手が首に回った。
「ただの子どもだったなら娶っていない。褒めている」
「褒められている気がしないわ」
「叱られなくて寂しい?」
それは表情から悟ったことだった。彼女は祖父の死に目に会えなかったため、いまだ心の整理がついていないのだ。
ジアは白いまつげを伏せて首を振る。
「さみしくない。おじいちゃんは、きっとわたしにめそめそしてほしいなんて思わない。心配をかけてしまうわ。それに、ルスランがいて、アルウィンもエカードもいる。鳩たちもヴォルフも」
言い切ってから、ジアの唇がふに、と口にくっついた。離れかけた唇を、今度はルスランが追いかける。ひとしきり互いの口を吸いあって、ほどなくわずかな隙間ができたときに、ルスランは言った。
「アルウィンがおとなしく眠らないのはきみの影響だな。ぼくは父の言いつけで早寝が基本だった。真面目で堅物だったんだ。きみと出会うまではね」
「影響を否定はできないわ。だってわたし、毎晩宝物を眺めていたから。おじいちゃんに『まだ起きているのか』って怒られてばかりだった」
──宝物か。取りに行かせないと。
ルスランが、父の部下に手紙を書こうと思いをめぐらせていると、ジアの手がルスランの髪に触れ、顔にかかった黒髪をどける。このしぐさは、過去の自分をどれほど救ってきただろう。
緑の瞳に、金色の右目がのぞきこまれた。
「きれい。アルウィンは右の瞳を、エカードは左の瞳をもらったのね。不思議だわ。わたしのおなかから出てきたのに、ふたりともルスランの色をしている。それがうれしい」
「当然だろ? ジアとぼくの子だ」
「いまだに信じられないの。ずっとルスランといっしょにいられるって。しあわせなのが夢みたい。でも、アルウィンとエカードを見ていると実感できる。ルスランがいる」
「ともにいるに決まっている。離れるわけがない」
彼はジアの小さな手を取り、甲にくちづける。ジアは微笑みながら言った。
「いつもわたしにしあわせをくれてありがとう」
「それはぼくの台詞だ。……ジア、エカードを見て」
ジアは身体を離すと、大きなかごのほうに歩いていった。なかではエカードが眠っているのだ。
「どう?」
「ルスランによく似て、とってもかわいいわ」
「そうじゃない。眠ってる?」
ルスランは、ジアが「ぐっすり」とうなずくと、彼女に近づき、華奢な身体を抱き上げた。
夫婦の寝台では、ふたりはなにもまとわない。それは、かつてアンブロスの王城で眠っていた時から続いている。ジアの体調が悪い時以外は交接し、そのままつながりあって眠るのだ。
「体調は?」
「いいわ。少し、太ったけれど。見て? このおなか」
「もっと太ればいい。ヴォルフのようになっては困るが。……そろそろあいつを痩せさせないといけないな」
「かわいいのに」
「だめだ。まったく番犬にならない。あいつは不審者に吠えるよりも野菜を食べることに夢中になっている。それに、アルウィンが真似をして大食漢になっては困る」
服を脱がしあいながら寝台に倒れこむ。隙間なくくっついて、ぴちゃぴちゃと水音が立つほど舌を絡め、少し顔を離して見つめる。また、唇を重ねてくり返す。その合間にジアはうかされたように言う。
「ルスラン……大好き。愛してる」
ただでさえ下腹に熱は集中しているのに、どく、と身体じゅうの血がたぎる。息も熱く、荒くなる。
何度もくちづけられて、下を目指すジアを、「今日はいい」と遮った。彼女は猛った性器を毎日、口で静めてくれるのだ。
「ジア、なにもしないで」
「どうして? わたしもしたいわ」
「明日にして」
ルスランは、ずっと彼女を抱きたくてしかたがなかった。見かけるたびに押し倒しそうな自分を抑えていた。可能ならば一日じゅうひとつになっていたいのだ。
ここのところ、アルウィンの夜更かしで焦らされていたし、ぐずるエカードにもふたりの時間を減らされた。足りなくて限界だった上、男に囲まれている彼女に我慢ができなくなっていた。
母を追放し、独身になった父もジアを気に入っているし、ラインマーもロホスもグリシャも、鳩たちもヴォルフも村の男も、隙あらばジアのもとにやってくる。狙っているとしか思えなかった。幼い息子たちも、「お母さんと結婚する」と言い出しかねない予感がする。羊や山羊がジアに懐いているのも気にくわない。
狂っているとわかっている。しかし、ジアに誰のものかをわからせたいし、彼女が自分のものだと実感したい。このままいれば、すべての男を敵にしかねないと思った。
ルスランは、ジアの白い脚を大きく開き、彼女の秘部にむしゃぶりついた。
──ジア、好きだ。愛している。
覚えているのは、その強い気持ちだけだった。
猛烈な快感が腰の奥から頭の先まで貫いた。
ルスランが意識を取り戻したのは、けもののようなうめきとともに、激しく吐精したときだ。
ろうそくは三本のうち二本はすでに消えていた。ひとつのみのか細い光のなかで、ジアは小刻みに震えていた。
白い肌は所有の痕で埋めつくされて、身体はぬらぬらと照っている。汗だくだ。見下ろすルスランからも、しずくがぽとりと彼女に落ちた。
ジアのすすり泣くような喘ぎが聞こえる。
「……ジア」
はじめて交接した日以来、記憶は飛んだことがなかった。よほど狂っていたのか、自制は一切できなかった。否、自制という言葉自体がどこかへきれいに消えていた。狂気をむき出しにして、彼女を犯したのだ。
──そんな……なによりも大切なのに。
ルスランは、ジアの腰から手を離し、彼女をかき抱いた。
「すまない、ジア。ぼくは……乱暴にきみを扱った」
ジアは弱々しくまつげを上げる。
「…………ルスラン」
「身体は? 平気?」
彼女はぎこちなくうなずいた。
「痛いところは?」
「……ないわ」
「正直に言ってくれ。ジア、……ぼくは」
「ルスランは、『男はいちいち心の内を明かさない。態度で示す』って言ったわ。……覚えてる?」
それはおよそ十年前の、クレーベ村での会話だ。
「当然覚えている」
彼にとって快楽とは、想いを伝える手段だ。今夜、彼女に時間をかけて告げようとしていた。
苦しげに顔をゆがめているルスランだったが、次のジアの言葉で瞠目する。
「すごかった」
「──は?」
ジアの手が、ぴとりとルスランの頬につく。
「すごく……溶けそうだった」
「どういうことだ?」
「びっくりするくらい、気持ちよかったの。すてきだった。……これは、ルスランの心? すごくてしびれそうだった」
ルスランは、ジアに抱きつかれながらこわばった。少しも覚えていないのだ。
とにかく、ジアは狂った末の自分をかなり気に入っているらしい。「大好き」とささやかれた。
──うそだろう?
彼は、自身の黒髪をぐしゃりとつかむ。感じるのはいままで以上の、身を焦がすような嫉妬だ。
汗が必要以上に噴き出した。最も警戒するべきなのは、自分の内なる“悪魔”なのだと悟ったからだ。
渡すものかと思ったものの、たちまち途方にくれるはめになる。
──は? どうやって勝つんだ?
己までもがライバルとは、前途多難だ。