綺麗の基準
「これ、とっても綺麗」
そう言ってターシャが宮殿の中庭で拾い上げたのは、何の変哲もない小石だった。
丸くてすべすべはしているが、宝石のように輝いているわけではない。だがターシャの瞳はキラキラと輝いており、それを見たバルトが覚えたのが僅かな不安だった。
(……なぜこんなに胸がざわつくのだろう)
石を見つめる眼差しは自分に向けられるものより輝いている気がして、何だか面白くない。この気持ちは、世に言う嫉妬というものだろうかと考えていると、拾い上げた小石を手にターシャがバルトを振り返った。
「この石、部屋に持ち帰ってもよろしいでしょうか?」
「かまわぬが、もっと綺麗で高価な宝石を贈ることもできるぞ」
「私はこれがいいんです。宝石よりずっと綺麗」
「俺よりもか?」
うっかり拗ねた声がこぼれると、ターシャはクスッと笑う。
「最近のバルトは冗談も言えるようになったのですね」
そのまま嬉しそうに頭を撫でられると、冗談ではないと言えなくなるバルトである。
(これはこれで悪くないが、石に負けるのは悔しい……)
どうしたら石に勝てるのだろうかと、皇帝らしからぬ悩みをバルトは抱いたのだった。
◇◇◇ ◇◇◇
悩みを抱え始めて数日後、未だ解決策を見出せずにいたバルトは、最も信頼できる相手に相談を持ちかけることにした。
「なあディン、綺麗の基準とは何だろうか?」
「もしや、あなたも美に目覚めたのですか!?」
「目覚めたのとは少し違う」
食い気味で尋てくるディンに、バルトは首を横に振る。
――ターシャの綺麗の基準を探り、今よりもっと彼女に気に入られたい。そして石に勝ちたい。
そんな気持ちでバルトが相談を持ちかけた相手は、腹違いの兄ディンだ。知識が豊富で常に冷静な彼なら適切な助言をもらえるだろうと思ったのだ。
「美というか、女性が綺麗だと思う基準を知りたいのだ」
「なら私が手取り足取り教えてさしあげましょう」
やる気をみなぎらせたディンに彼の部屋へと連れ込まれたところで、バルトはもしかしたら相談相手を間違えたかもしれないといまさら気づく。
普段は知的で冷静なディンだが、彼には女性の服飾品を集め、こっそり身に纏うという趣味がある。
だからこそ女性の心を理解し、ターシャが『綺麗』と感じる基準も知っているかと思い相談したかったが、何だか雲行きが怪しかった。
「それで、どれを着てみたいんですか?」
「いや、着るとか着ないとかそういう話ではない」
「でも、綺麗の基準を知りたいのでしょう?」
質問の意図をディンはたぶん正しく理解していない。
しかしバルトは、それを察してすばやくこの場を去れるタイプではない。複雑な過去を持つが故に彼も思考が突飛で幼く、常識というものを持っていない男なのである。
そしてそんなバルトを、自分の勢いに乗せるのがディンは非情に上手いのだ。
「綺麗の基準を知りたければ、まずは自分を美しく飾ることが重要です」
「服を着ればわかるのか」
「私は服を着ることで学びました」
ディンの熱い視線に、自分も着てみるべきだろうかとバルトは本気で悩む。
「なら、ターシャが着ているような服を頼む」
「それですと、ルシャの民族衣装ですね。サイズが少し心配ですが、水着なら何とか入りますかね」
「水着というのは、前にターシャが着ていたやつか?」
「ええ」
「アレは、男が着ても良い服か?」
「誰がどんな服を着ようと自由です! 似合っても似合わなくても、人は好きな服を着るべきなのです!」
妙に熱のこもった声にバルトは「なるほど」と頷く。
だとしたら、女性物の水着を纏うのは問題ないだろう。むしろそれでターシャの考えが理解できるなんて素晴らしいことだと思いながら、バルトはさっそく着衣を取り払う。
「ディンさん、キーカから受け取った荷物をお渡ししたいのですが、今お時間よろしいですか?」
そんなとき、控えめなノックと共に響いた声はターシャのものだった。
「ああ、入れ」
「この声、もしやバルトですか?」
水着を探すのに夢中になっているディンに代わって入室を許可すると、ターシャが驚いた顔で部屋に入ってくる。
そして彼女は半裸のバルトを目に留め、顔を真っ赤にして固まった。
彼の裸はもう何度も見ているはずなのに、ターシャはすぐ恥ずかしがる。そこが愛らしいと思いながら、バルトは彼女に近づく。
「あ、あの、服を脱いでいったい何を……」
「着替えようと思っていた」
「ディンさんの部屋で?」
「ああ。彼に服を借りようかと」
バルトが答えるのと、ディンが秘密のクローゼットから水着を手に出てくるのはほぼ同時だった。
「これなら、バルトの胸筋でもバッチリ着られますよ!」
高らかな宣言と共に突き出された水着に、なぜだかターシャが「きゃあ」と悲鳴を上げてそれを奪う。
「ま、まさかまた、私にこれを着せようと……?」
「いや、俺が着ようと思っていた」
「なぜ!?」
目を剥くターシャに、バルトは首をかしげる。
そこまで驚くことだろうかと彼は思ったが、ターシャはディンにも目を向ける。
「バルトは、女心を理解したい年頃なんです」
「水着で理解できるとは思えないのですが!?」
ターシャの主張に、今度はバルトが困惑する。
「待て、水着を着ても理解できないのか?」
「できます!」
「できません!」
二人の声が重なりさらに混乱したが、こういうときはターシャを信じようと決めているバルトである。
「とりあえず、水着を着るのは保留にする。それによくよく考えれば、ターシャに直接聞けばいいことだった」
今なら冗談だと流されることもない気がするし、綺麗の基準を聞くなら本人に尋ねるのが一番いいに決まっている。
「とりあえず、石に勝てる方法を教えてほしい」
「すみません、私も今大変混乱しているので、最初から説明をお願いします」
促されるまま、結局バルトは洗いざらいを打ち明けることになった。
「……綺麗の基準、ですか」
一通りの話を聞いた後、ターシャはそう言って考え込む。
「ターシャの基準に沿った男になりたいので、ぜひ教えてほしい」
「でも私も、自分の基準が明確ではないんです。とても感覚的なもので、見た瞬間に綺麗だと感じたものは、何でも触りたくなるというか……」
「ターシャ自身もわからないのか」
「ただ、普通の感覚と少し違う気がします。バルトの顔のように誰が見ても美しいものを綺麗だと思うときもありますし、逆に宝石などキラキラしすぎたものはあまり……」
「俺の顔も、さほど綺麗ではないと思うが」
「綺麗ですよ。この世の中で、一番綺麗だと私は思っています」
ターシャの言葉に、バルトの胸に言葉にできないほど幸せな気持ちが溢れる。
「俺が一番か?」
「はい。一番綺麗で素敵ですよ」
バルトが喜ぶのを見て、ターシャは優しく言葉を重ねてくれる。
「それが聞けて安心した。あと俺も、ターシャに同じことを思っている」
そう宣言して唇を奪えば、そこでわざとらしい咳払いが聞こえてくる。
「いちゃいちゃするなら、お部屋でしてほしいのですが」
途端にターシャが真っ赤になり、ごめんなさいと謝った。バルトとしてはもう少しキスをしたかったが、ディンが怒っているなら離れるほかない。
「疑問は解決した。すまないディン、やはり水着は必要なかったようだ」
「まあ、面白半分で提案したところもあるのでかまいませんよ。あなたが女装癖に目覚めれば、趣味への投資額を増やせるかもしれないという打算もありましたし」
「お前は日頃から身を粉にして働いているのだ、もっと給金をもらえばよい」
「そんなことを言うと、本気で賃上げ要求しますよ。欲しい服もまだまだありますし」
ディンが笑うと、そこでターシャがあっと声を上げた。
「そうだ、キーカから荷物を預かってきたんです。ディンさんの趣味に関するものだから、中は絶対に開けるなと言われたんですけど……」
「まさか、ついにあの服が……!!」
ターシャが渡した包みを、ディンは恍惚とした顔で抱き締めた。
「ディン、キーカにいったいどんな服を頼んだのだ」
「申し訳ありませんが、それはお答えできません。キーカにも、誰にも言わない代わりに横流ししてやると言われたものなので」
「そんなに危険な服なのか?」
「そうですね、大半の人はこの服を着た私を見たら顔を覆いたくなるでしょう」
でもディンは、そんな服が好きらしい。
「ディンも、綺麗の基準が変わっているんだなきっと」
ポツリとこぼしたバルトに、隣にいたターシャが苦笑した。
それを眺めながら、バルトは自分にとっての綺麗の基準は何だろうかと考える。
宝石も、女性物の服も、中庭の石も、バルトの心を震わせることはない。
(唯一、俺が綺麗だと思うのはターシャだけだから、俺の基準は彼女になるのか)
そんなことを考えながらターシャを見ると、視線に気づいた彼女が小さく首をかしげながらバルトを見つめる。
「なにか、顔についてます?」
「いや、綺麗だなと思って見ていた」
途端に真っ赤になる顔も、綺麗で可愛い。そんなことを思いながら、バルトはターシャをそっと抱き寄せる。
「綺麗なものを愛でるのは、幸せで楽しいな」
そう言って微笑むと、照れながらもターシャは同意してくれた。
【END】