ソーニャ文庫

歪んだ愛は美しい。

会員限定特典小説

大人になったら

「大人になったら、リプリー様と結婚したいです」
 そう我が子に言われ、ユスティネは大きな瞳を瞬いた。
 子どもらしい可愛い願い事として受け流すには、王太子という息子の立場が少々厄介だからだ。
 今年十一歳になったばかりの息子――エドワーズは真剣な面持ちで頬を染めていた。
「駄目ですよ、お兄様。お兄様は『乙女』と結ばれることが決まっているんですから」
 舌足らずな物言いでもしっかりとした妹に諭され、兄である息子はただでさえ丸い頬を更に膨らませ、不満を露にした。
「だって『乙女』なんて見つからないじゃないか。僕はリプリー様が好きなのに」
 エドワーズの言うリプリーとは、同盟国から遊学に来ている第二王女のことだ。年は十五歳。息子より四つ年上の、利発で好奇心旺盛な可愛らしい少女だった。
 見事復興を遂げたアルバルトリア国は、周辺諸国から注目されている。滅びゆくしかなかった国が、今や格段に豊かになった理由を探ろうとして、大勢の人々が学ぶためにやって来たり、交流を図ったりしていた。
 リプリーもその内の一人である。
 大人にも子どもにも好かれる彼女は、見事息子の心も掴んだらしい。
 とはいえ、無責任に『頑張りなさい』とも言えず、ユスティネは困惑顔で頬に手を添えた。
 アルバルトリア国の王になるための条件は二つ。
 国王とその伴侶である『乙女』との間に生まれた子であること。
 そして唯一無二である自分自身の『乙女』を見つけ出すことだ。
 このどちらが欠けても、玉座に座ることは認められないのである。もし破れば、神の愛し子である『乙女』の守護を失い、国が傾く。
 これまでは慣例に則っただけの、古臭い言い伝えに過ぎないと考える者もいた。
 しかし脈々と受け継がれてきた逸話は真実であると、前国王―――ユスティネの夫である現国王レオリウスの叔父、グラオザレがはっきりと証明してしまった。
 掛け替えのない『乙女』の愛を得られなければ、この国は崩壊の一途を辿るのだと。
 人々の意識にも、正当な王位継承者に『乙女』の存在は欠かせないと強く刻まれている今、次期国王となる身である息子には心の赴くまま恋愛する自由はない。
 その事実を哀れに思いながらも、ユスティネは愛しい夫にそっくりな我が子を苦笑と共に抱きしめた。
「誰かを好きだと感じられるのは、とても素晴らしいことよ」
 ―――それにきっと、『乙女』に出会えば強烈に惹かれ合わずにはいられないはず。
 自分たちがそうであったように。
 どれだけ気持ちに抗おうとしても、無理だった。
 絶大な引力に引き寄せられるかの如く、心が囚われてゆくのを止められなかった。仮に相手に失望する酷いことをされても―――胸の奥で芽吹いた花は、知らぬうちに咲き誇ってしまう。
 おそらくアルバルトリア国の王と伴侶となる『乙女』とは、そういう関係なのだ。運命と言い換えてもいい。
 支え合い、慈しみ合ってこそ、国の根幹となる。例外はない。
 もしかしたら『乙女』に巡り合った瞬間、エドワーズの抱く淡い恋心など、吹き飛ばされてしまうかもしれない。
 それはあまりにも切なくて可哀想だと思った。
「忘れないで。愛した事実は、消えないから」
 こんなことしか言ってあげられない自分が情けない。本当なら、『大丈夫、願いは叶う』と言えたら良かったのに。
「お母様、心配しなくても平気ですよ。どうせお兄様なんてリプリー様に相手にされていません。四つも年下のお子様に、あの頭がいい姫君が心を寄せるはずはないでしょう。子守り気分で遊んでくれているだけですわ」
 自分こそまだ九歳の子どものくせに、娘は大人びたことを言った。
 妹の言葉にむぅっと機嫌を損ねる兄を見ていると、どちらが年長者か分からなくなる。ユスティネは微笑ましい気持ちになり、つい微笑んだ。
「リプリー様はご年齢のわりにとても賢い方ですからね。確かにあまり子どもっぽい言動をしていては、嫌われてしまうかもしれません」
「え……っ、では母上、どうすればいいですか」
 ユスティネが頷くと、エドワーズは焦った様子で身を乗り出した。
 天気のいい午後。
 王妃の庭で親子三人のお茶会を楽しむのは、多忙な毎日の中で大切な時間だ。
 国母として忙しく立ち働くユスティネにとっては、子どもたちとゆっくり触れ合える貴重なオアシスも同然だった。
「ふふ、まずは勉強をしっかりしなくてはいけませんね。リプリー様は博識でいらっしゃいます。あの若さで他国を巡り見聞を広めようとなさるくらいですもの。とても意識が高い方です。きっとご自分より能力が劣った男性は、お嫌いでしょう」
「そ、そんな……僕、歴史の勉強をもっと頑張ります。剣術だって真剣に打ち込みます」
 素直にやる気を見せた彼は、白銀の前髪から覗く碧い瞳を煌めかせる。
 王家特有の色を持つ息子を、ユスティネは眩しく見つめた。
 この子が次の王位につくことは間違いない。優秀な巫女であるシエラも断言してくれた。
 けれど、未だにエドワーズの『乙女』は見つかっていない。しかしそれは、『どんなに手を尽くして探しても見つけ出せない』という意味ではなかった。
 最初から、積極的に捜索していないせいだ。
 焦らずとも、『時』が満ちれば必ず出会う―――そう言って微笑んだのはレオリウスだった。
 幼いうちに強引に探し出し親元から引き離して、次期王妃教育を施すのは可哀想だ。最終的に抗えない運命だとしても、そこへ至る道のりには選択肢があってほしいと彼は願った。
 叶うなら、自らの意思で息子と共に生きる道を選んでほしいと―――
 その気持ちはユスティネにもよく分かる。
 むしろ、誰よりも理解できたと言っていい。
 同じ『乙女』として今の自分は幸福だからこそ、いつかエドワーズの隣に立つ女性にも、満ち足りた気持ちでいてほしいのだ。
 ―――そうでなければ、意味がないから……
「僕の宝物たち、真剣な様子で話し合っているけれど、どうしたんだい?」
「お父様! 今日のお仕事はもういいのですか?」
 いつもならこの時間、執務室に籠りきりになるレオリウスが突然顔を見せ、子どもたちが大喜びで立ちあがった。
 朝晩の食事は極力家族揃ってとるようにしているが、お茶まではままならない。こうして昼間に全員が顔を合わせられるのは、随分久し振りだった。
「レオリウス様、政務を抜けられて大丈夫ですか?」
「ほんの一時、家族と過ごす時間も作れないようでは、一国の舵取りなどできるわけがない。心配しなくても、今日処理しなければならない案件は片付けてきた。我が国の宰相は、優秀だしね」
 使用人が素早く席をもうけてくれ、レオリウスはそこへ腰かけた。
 兄妹が大はしゃぎで大好きな父に纏わりつく。ユスティネも嬉しくて抱きつきたいくらいだったが、そこはぐっと我慢した。
 これでも結婚して何年も経った夫婦である。しかも子どもたちや使用人たちの目がある。
 国王夫妻という立場を考えても、軽々しい真似は躊躇われた。
「―――おいで、ユスティネ」
 だが敏い夫は妻の気持ちなどお見通しだったらしい。
 こちらが何も言わなくても、そっと手を差し伸べてくれた。
 両脇には子どもらを侍らせているのだから、空いているのはレオリウスの膝の上だけ。流石にそれは……と戸惑っていると、ちゃっかりした娘に取られてしまった。
「あ……っ」
「お父様のお膝の上は、私のもの! ぎゅってしてください!」
 欲望に正直な娘が羨ましい。内心ガッカリ肩を落とすと、レオリウスがユスティネにのみ伝わるよう、唇の形だけで告げてきた。
 ―――『後で、二人きりの時に』
 かぁっと顔に血が上る。一気に熱を孕んだ頬が燃え上がりそうだ。
 恥ずかしくてユスティネが周囲を見回せば、使用人たちはさりげなく視線を逸らし、見て見ぬ振りをしてくれた。
 ―――は、恥ずかしい……っ
 もっとも、彼らにとって国王夫妻が仲睦まじいことはいつものことなので、特に気にもしていない。
 いつまで経っても慣れないユスティネだけが焦ってモジモジしてしまうのだ。
「それで? 何の話をしていたのかな?」
「お父様、お兄様はリプリー様が好きだから、結婚したいんですって!」
「あ、どうして勝手に言うんだよ!」
 兄妹喧嘩に発展しそうな気配を感じ取り、ユスティネは慌ててエドワーズを自分の傍に引き寄せた。
「やめなさい、二人とも」
「だって……!」
「おや、リプリー様はたぶん、国に婚約者がいるんじゃないかな?」
「いいえ、いらっしゃらないそうです。ちゃんと確認してあります」
 まさかそんなことまで聞いているとは驚いたが、息子はかなり本気らしい。年上の少女に恋をして、必死に背伸びしようとしている様が、とても健気だった。
「へぇ、そうなのかい?」
「ええ。だから僕が大人になるまで待っていてくれるそうです!」
 誇らしげに胸を張ったエドワーズは、筆舌に尽くし難いほど愛らしい。とはいえ、こればっかりは……とユスティネが思い悩んでいると、息子は満面の笑みを浮かべた。
「秘密の痣に誓いました! リプリー様の左手首には、花の形をした綺麗な痣があるのです。いつもは服や手袋に隠され絶対に見えませんけど、僕は特別だからと教えてくれました。赤い花びらみたいでとても美しかったです」
 それを聞いた瞬間の、静まり返りようはなかった。
 ユスティネは勿論、レオリウスも凍りついている。驚愕のあまり何も声が出ず、黙り込むことしかできなかった。
 エドワーズの『乙女』探しは自然の流れに任せる―――そう決めたので、息子自身にも痣の存在や意味について教えてはいない。
 だから身体のどこかに浮かぶ赤い花の形をした痣の重要性も、息子は知らない。
 そのはずだ。けれども。
「お兄様、秘密なら話してはいけないのでは?」
 この場で一人だけ落ち着き払った妹が、まっとうな意見を述べた。
「リプリー様は隠していらっしゃるのでしょう? でしたら、いくらお父様とお母様にでも、勝手に話してはいけないと思います。口が軽い男性は嫌われますよ」
「あ……」
 浮かれてとんでもないことを暴露してしまった兄は、妹の指摘に顔を青褪めさせた。オロオロとして、ユスティネに縋る眼差しを向けてくる。
 しかし残念ながら、ユスティネはそれどころではなかった。
「……エド。詳しく教えてくれるかい? リプリー様の左手首にどんな痣があるって?」
「えっと……その……内緒なんです。これ以上はいくら父上にも言えません。でもとっても鮮やかな花の形で、僕はうっとりと見惚れてしまいました……生まれた時からあると彼女は教えてくれて……あれ以来、余計にリプリー様のことが気になって仕方ありません……」
「お兄様、結局全部話していらっしゃいます」
 冷静な妹の追い込みに、エドワーズの顔色は真っ白になった。
「どうしましょう、母上!」
「えっ、そ、そうね。ひとまずここだけの話にしましょう。ね? レオリウス様!」
 ユスティネが狼狽して夫に助けを求めると、彼は嫣然と微笑んだ。
「そうだね。焦らなくても、必ず最良の機会はやってくる。だがその瞬間になって後悔しないように、エドは充分な準備をしておかなければいけないよ。たとえば他国の姫君を妻に迎えるとしたら、互いの国にとって利益がなくてはならないからね。反対する者も出てくるだろう。その時敵対勢力を押さえ込めるように、自身の力をつける努力を惜しんではならない」
「……! 分かりました、父上。僕これから何倍も頑張ります。リプリー様を誰にも文句を言わせず迎えられるくらい……!」
 蒼白だった頬を紅潮させ、エドワーズは大きく頷いた。
 どうやら父親であるレオリウスが認めてくれたと解釈したらしい。興奮した様子で、父そっくりの双眸を輝かせた。
「お兄様ったら、本当に単純なんだから……」
「煩いな。僕はやると決めたら必ず成し遂げるよ。リプリー様が得られるなら、どんな苦難も喜んで立ち向かう」
 どうやらユスティネの息子は、とっくに唯一無二の相手を見つけていたらしい。これでは、恋心が吹き飛ばされるはずはない。
 むしろこれから先、どんどん恋の焔は大きく激しく燃え盛ってゆくことだろう。
 ―――それにしてもエドったら……『乙女』の痣を知らず、目にしたことがなくても、ちゃんと自力で伴侶を見つけたのね……
 これを運命と呼ばず何と言うのか。
「ユスティネ、僕が言った通りだろう? 心配しなくても、この子たちは必ず出会って惹かれ合わずにはいられないんだよ。でもアルバルトリア国以外の民に『乙女』の印が現れたのは、初めてかもしれないな……王太子より年上というのも、聞いたことがない」
「そうですよね……少しだけ、不安です」
 年齢も身分も問われない『乙女』だが、それはアルバルトリア国内だけのこと。他国には通用しない常識だ。
 ひょっとしたらリプリーの祖国は、娘が他国の宗教的象徴になることをよく思わないとも考えられた。異国の姫ということで、国内で反対される可能性もある。
「ユスティネの気持ちは分かる。けれど―――エド、お前はリプリー様が本当に好きかい?」
「はい! 彼女以外考えられません。リプリー様のことを想うと、ここが甘く疼くのです」
 自分の胸を押さえて元気よく答えたエドワーズの姿に、ユスティネとレオリウスは視線を交わした。
 宝物の我が子が心の底から望むなら―――そして彼女が応えてくれるつもりがあるのなら―――迷う理由は一つもなかった。
「そうか、分かった。では僕もできる限りのことをしよう。エドはリプリー様を大切に想う気持ちを、絶対に忘れてはいけないよ」
「勿論です、父上」
 エドワーズの隣で年上の聡明な王太子妃が微笑むのは、そう遠くない未来かもしれない。

一覧へ戻る