誓いの枷
皮膚を刺す冷気に、吐く息が白い靄となって散っていく。
石畳の敷かれた異国の夜道を、靴音を鳴らして相馬は駆けた。外套の肩に降りかかる雪は、滞在先のホテルに着いた頃には溶けて、透明な水滴になっていた。
「ただいま戻りました」
半月近く連泊している部屋の暖炉では、ぱちぱちと薪が爆ぜていた。
暖かな空気に包まれて、かじかんだ頬や指先にじんわりと血が巡り出す。
「遅かったじゃない」
すでに入浴をすませたらしく、バスローブ姿で長椅子に座る環が、物憂げな視線を寄越した。
手にした本を閉じる邪険な仕種で、彼女が不機嫌だとわかる。
「夕食は先に終えてしまったわ。相馬の分は、今からルームサービスでも取る?」
「いえ、結構です。それよりも、遅くなって申し訳ありません。夕方には帰ると言っておきながら……お一人で退屈でしたでしょう?」
「別に、暇くらい適当に潰せるわ」
口ではそう言うものの、唇の形が拗ねている。
関東大震災の混乱がある程度おさまり、日本を発ってからそろそろ半年。
環にとっては、相馬について様々な国を渡り歩き、食文化も耳に入る言語も、そのたびに変わる生活だ。
女の一人歩きが推奨される土地ばかりでもないため、相馬が仕事で外に出ている間は、必然的にホテルに籠もりがちになってしまう。
「今夜は先に休むわ」
素っ気なく寝室に向かおうとする環を、相馬は「待ってください」と呼び止めた。
「今夜は、これを受け取りに行っていたんです」
外套の懐から取り出したのは、有名な宝飾店の名入れがなされた、天鵞絨(ビロード)張りの小箱だった。
「これは……?」
「開けてみてください」
その場に跪いて捧げ渡した小箱を、環は緊張の面持ちで受け取った。
箱を開けた瞬間、相馬の耳に小さく息を呑む音が聞こえた。
「サイズは伝えたつもりだったのですが、仕上がりが少し大きくて。直してもらっているうちに、こんな時間になってしまって」
「私の――指のサイズなんて、どうして知ってるの?」
「わかりますよ。愛する姫様のことでしたら、なんなりと」
小箱の内側で澄んだ光を弾くのは、大粒の金剛石があしらわれた指輪だった。
「俺と結婚してください」
意を決してひと息に告げると、環の目が丸くなる。
白磁のような頬に赤みが差し、せわしない瞬きを何度も繰り返した。
「どうして今……?」
二人の現在の関係は、実質夫婦のようなものだった。
世間一般の夫婦像とは若干異なるかもしれないが、寝食を共にし、お互いしか目に入らないという意味では、相馬の伴侶は環しかおらず、その逆も然りだ。
「おかげさまで、再開した商売も軌道に乗りつつありますし……姫様さえよければ、社交や商談の場にもお連れしたいと思っています」
「私が毎日、退屈そうにしてるから?」
「それもありますが、単に俺が、姫様と離れている時間が耐え難いという理由のほうが大きいです。誰憚ることなく、俺はあなたのものだと言いたいのです」
「『誰憚ることなく、あなたを俺のものだと言いたい』じゃないのね」
環は呆れたように笑った。
手の甲を上にして、左手をすっと差し出す。さながら、女王が騎士に忠誠の口づけを許すかのように。
「いいわ。――これは相馬が着けて」
「……はい!」
弾かれたように立ち上がった相馬は、環の薬指に恭しく指輪を嵌めた。
顔の前に手をかざした環が、くすぐったそうに微笑む。
「ほんとね。ぴったり」
「安心しました――……」
相馬は胸を押さえ、肺から空気を絞り出すような溜め息をついた。
「姫様に断られたら、どうしようかと。大それた望みを抱くことで、逆にあなたを失うことになってしまったらと」
いまだに相馬は、目の前にいる環の存在を、妄想なのではと疑うことがある。
本当の自分は今も横浜のドヤ街にいて、南京虫の湧く毛布にくるまりながら、現実とはかけ離れた夢を見ているのではないかと。
「あんまりわかってないようだから、言っておくけど」
環は咳払いし、視線を斜め下に泳がせた。
正面から相馬を見ないのは、彼女が照れている証だ。
「私はちゃんと相馬が好きよ。……でなきゃ求婚を受けたりしないわ」
「姫様……――!」
感極まって抱きしめると、「ちょっと、苦しいったら!」と拳で肩を叩かれた。
「申し訳ありません。嬉しすぎて……こんなことが、俺の人生に起きるとは信じられなくて」
「もうわかったから――ところで、相馬の分の指輪はないの?」
「それは婚約指輪ですから。姫様に承諾の返事をいただけたら、改めてお揃いの結婚指輪を買いに行くつもりでした」
「お揃いの」と言いながら、浮かれた気持ちになるのが止められない。
次に日本に戻ったら、いの一番に籍を入れよう。結婚式はどうしよう。相馬自身は派手なことは好まないが、環が望むならどんな形の式でも実現させるつもりがある。
まばゆいばかりの白無垢も、西洋式のウエディングドレスも、環はどちらも似合うだろう。人を呼んでの挙式はしないにしても、花嫁姿だけはぜひ見たい。写真を撮って残しておきたい。その写真を朝な夕なと眺め倒したい――と、にやけそうになる口元を手で覆う。
「でも、女性だけが婚約指輪をつけるっていうのも、なんだか不公平な感じね。高価な贈り物といえばそうだけど、束縛のしるしみたいにも思えるし……」
小首を傾げていた環が、「そうだわ」と呟いた。
「あるじゃない。相馬の分で、指輪の代わりになるもの」
「え?」
虚をつかれる相馬に、環はにんまりと微笑んだ。
「この先も私のものでいたいなら――ねぇ、着けてくれるわね?」
浴室で湯を浴びたのち、腰にタオルを巻いただけの姿で寝室に向かう。
広い寝台でうつ伏せになった環は、両脚をぱたぱたと揺らしながら、悪戯っぽい上目遣いで相馬を見つめた。
「どう? ちゃんと着けられた?」
「はい……姫様のご命令ですから」
「鍵は?」
「これです」
ごく小さな鍵を差し出すと、環はそれを枕の下にしまってしまう。
「さ、見せて」
「……笑わないでくださいよ」
いつにない羞恥心を覚えながら、相馬は腰のタオルを解いて床に落とした。
「思ったより物々しいのね」
環がまじまじと見入っているのは、下半身に装着された男性用の貞操具――コックケージと呼ばれる、金属製の性具だった。
湾曲した檻のような部分に平常時の男根を収め、錠をかけて固定してしまえば、鍵がないと決して取り外せない。
環が外してくれない限り、相馬は誰とも性交できないばかりか、自慰をすることすら叶わない。
何故こんなものがあったのかと言えば、例によって、秘密の商談に使う見本品として保管されていたからだ。サイズも幾種類か揃えていたが、最も大きいものを選んでも、規格外の男性器には窮屈すぎる。
「これで、相馬のそこは私だけのものね」
環はくつくつと喉を鳴らした。
冗談にしても趣味が悪いが、彼女の言うことに相馬が逆らえるわけはない。
「着け心地はどう?」
「ひんやりして冷たいです……――それに、あの」
全裸で突っ立ちながら、奇妙な器具で局部を拘束されている。
そんな恥ずかしい恰好で、環の好奇の視線を浴びていると思うと、腰の奥からどうしようもなくむずむずした熱がこみ上げて。
「……っ……!」
前屈みになって相馬は呻いた。
意思とは無関係に膨張したものが、金属の筒に阻まれて、ぎゅうぎゅうときつく締めつけられる。
「あら、大きくしてしまったの?」
環は美しい眉をそびやかした。
「そんなふうになったら、痛いでしょう。元の形に戻しなさいよ」
「無理です、そんな……」
「じゃあ、今夜は何もかもおあずけね。キスしてあげようかと思ってたけど、そんなことをしたら、余計に刺激されちゃうでしょう?」
「い……いえ、大丈夫です! 姫様から口づけていただけるなんて、光栄の極みです」
頭の内側で、かちりと被虐のスイッチが入るのがわかった。
今日の環は久しぶりに、相馬を虐げたい気分になっているらしい。だとすれば、応じる用意はいつでもできている。
「お願いします。お慈悲をください、どうか……」
「じゃあ、舌を出して」
言われるままに相馬はそうした。
寝台の上で膝立ちになった環が、相馬の首に腕をかけて伸びあがる。
「……ん――……」
同じように伸ばされた舌が、空中で相馬のそれに絡んだ。
輪郭を辿り、表と裏を交互にくすぐり、時間をかけてねっとりとねぶり尽くしたのち、細い唾液の糸を引いて離れる。
その間、相馬はずっと下半身の苦痛に耐えていた。
硬い金属に阻まれ、物理的に勃起を禁じられることが、こんなにもつらいことだとは思わなかった。
「痛そうね」
紫色に腫れた欲望の塊に、環が目をやった。
「はい……ですが、我慢します……できますから……姫様、もっと……」
「もっと?」
「もっと――いじめてください……っ」
「いじめるなんて人聞きの悪い。お前にとって、これはご褒美でしょう?」
「ぁああっ……!」
貞操具ごと局部を握られ、すりすりと撫で回された。
金属の隙間から擦れる掌の感触に、肉棒はますます昂って熱を持つ。痛くて気持ちよくてもどかしくて、頭がどうにかなりそうだ。
「本当につらかったら言いなさいよ?」
さすがに心配になったのか、耳のそばで小さく囁かれる。
こくこくと頷きながらも、胸元に伸ばされた環の手を振り払うことなく、相馬は快感に息を荒らげた。
「はっ――ぁあ、姫様……っ」
白魚のような指が肌をさまよい、期待に尖る乳首をさする。かりっ、と爪先でひっかかれて女のような悲鳴が洩れる。
「ひぁ……! いいっ、ぁ、――あ……」
「……ずるいんだから」
乳暈の中心をちゅうっと吸い上げ、いじけるように環は言った。
「私が何をしても、相馬は悦ぶのよね。こっちが羨ましくなるくらい、いつも気持ちよさそうで」
「でしたら、俺がご奉仕します」
相馬は急いで申し出た。
「させてください。俺は姫様の犬ですから。姫様のお好きなところを、舌だけで――」
「それもいいけど」
環は肩をすくめ、バスローブの腰紐を解いた。はらりと前がはだけ、椀を伏せたような形のよい乳房が露になる。
「いらっしゃい」
寝台の上に腰を落とした環が、枕の下からさっきの鍵を取り出した。
「外してあげるわ。ほら、おいで」
もっと焦らされるものだと覚悟していた相馬は、戸惑いながら寝台に上がった。
鍵を開けられると、特殊な性具はごとりと落ちて、解放された剛直がたちまち臍の位置まで反り返った。
「ふふ……べとべと」
先走りに濡れた亀頭をつつき、環は問うた。
「私が欲しくて、我慢できなかった?」
「はい」
「私もよ。痛いのに感じて、泣きそうな相馬の顔を見たら、ぞくぞくしちゃった……もう準備なんていらないくらい」
恥じらう眼差しとは裏腹に、大胆に開かれる両脚。
その奥で淫靡に濡れ光る、赤々とした雌の秘花。
引き綱から放たれた犬のように、相馬は環に飛びかかった。
「――姫様っ……!」
「ぁああんっ……!」
細い腰を抱えて一気に入り込んだ場所は、熟れた柿を潰したようにぐちゅぐちゅだった。少し往復しただけで、たちまち射精感が湧き上がってくる。
愛撫らしい愛撫も受けていないのに、相馬に貫かれることを待ち詫びて、こんなにも蜜路を濡らしていたのかと思うと、環が愛おしくてたまらなかった。
「んんっ、あ、あああっ、やぁっ……」
「姫様……姫様、可愛い……好きです……」
腰を振りたくりながら、甘い嬌声に重ねて相馬は言った。
「俺も……俺のこれも、永遠に姫様だけのものですから……使うときも使わないときも、姫様が決めてくださって構いませんから」
「……いい子ね」
胸を弾ませながら、環はふっと真顔になった。
「どこにも行っては駄目……私より先に死んでも駄目よ? 約束しなきゃ、相馬のお嫁さんにはなってあげないんだから……」
瞳の奥でほのめく不安に、相馬は胸をつかれた。
彼女には、小早川家を追い出されてからの出来事をすべて話したわけではない。
無気力の闇に呑まれ、危うい生き方をしていた頃の自分を環は知らない。だが、柳原を始末したときの様子からして、何かしら察するところはあるのだろう。
――たとえば、相馬が人を殺めたのは、あのときが初めてではないことだとか。
「……どこにも行きませんし、死にません」
己にも言い聞かせるように、相馬は告げた。
生みの母に疎まれ、ヤクザにまでなり下がった自分は、なんの価値もない人間だと当時は思っていた。
今でも本音ではそう思う。自分を犠牲にすることで環が助かるような場面があれば、迷いなく死んでいける。
だが、この命ごと環に捧げると決めたからには、手前勝手に投げ出すことも、粗末に扱うことも許されない。
生き汚いと自嘲しようが、法をいくつも犯していようが、環が望んでくれる限り、自分はこの世にしがみつかねば。
「……約束よ」
ようやく安堵したのか、環が表情を緩ませる。
相馬はその左手を取って、指輪の光る薬指の先に、誓いの証のように口づけた。
いきり立った雄杭でぶちゅぶちゅと掻き回せば、熱い肉洞がうねる。新鮮な精を絞り取らんとばかりに、亀頭をぎゅうぎゅうと揉み絞ってくる。
「ぁあ、いいっ……気持ちいいの……やあぁあっ……」
「んっ……姫様……そんなに食い締められたら、すぐに出てしまいます……」
「出して……相馬の、奥に、全部っ……ああっ、んぅ、ああ、ふぁあ……!」
夢中で抽挿を繰り返す中、転がったコックケージが視界に入り、相馬は唇を歪めて笑った。
貞操具でも首輪でも手錠でも、環が着けろと言うなら喜んで着けるけれど。
(――あなたの存在自体が、何よりの枷です)
血の一滴から髪の毛の一本に至るまで、この身は環のためにある。
被支配の幸福。
隷属の充足。
指先まで震えるような甘美さに打たれて、共に恍惚の果てに飛ぶべく、相馬はいっそう激しく腰を穿った。