この手にすくえるものだけ
骸骨が己の身体に骨だけの指を這わせてくる。
何千、何百という無数の骸骨が、ひたすら己の身体に手を出してくる。
どうしてお前だけが生きているのか。
どうしてお前だけが幸せになったのか。
洞の目は真っ暗だというのに、彼らは声を出す声帯もないというのに、その恨みの声や視線がずっとまとわりついてくる――。
「セーラ!」
自分を呼ぶアーレストの声に、セーラはハッと目を覚ました。
大きく見開いた目に飛び込んでくるのは、こちらを心配そうに見下ろすアーレストの紫の瞳と、低い天井。
そこでようやく、今、自分がどこにいるのかということに気付いた。
セーラは母国であったセントクルード国を捨て、隣国であるミラデイ共和国に居を構えていた。
それらの手配はすべてアーレストがやってくれた。アーレストは言葉巧みに人心を掌握し、いつのまにか行商人としての地位を確立していた。
そして旅の行商人として町に入り込み、「妻の体調が優れないので、この町で腰を落ち着けたい」と周囲に説明して、家を手に入れて定住することにしたのだ。
そんなにうまくいくものなのかとセーラは不安だったが、もともと、港町ということもあって流れ者が多いことも功を奏したとアーレストは言っていた。セーラには到底真似ができないことだ。
セーラといえば、いつのまにか身体が弱いアーレストの妻という扱いになっていた。
病弱の妻という扱いのおかげか、セーラの生い立ちに起因するもろもろのことは、他者に疑われることはなかった。行商人の妻として身体が弱いというものどうかと思ったが、アーレストはセーラが困らないようにすべてを取りまとめてくれている。
国を出て一年が経ち、ようやく落ち着いた生活を送れるようになった――そんな折、セーラは悪夢を見るようになった。
セントクルード国の人々が自分を恨んで苦しんでいるという夢だ。夢の中で、彼らは死んで骸骨となってなおセーラに恨みを吐き続ける。
「また、同じ夢を見たのか?」
夢の内容は、初めて見たときからアーレストに話している。彼が心配そうに尋ねてくるので、セーラは小さく頷いた。
「何ひとつ、セーラのせいではない」
アーレストはそう言ってくれるが、本当にセーラのせいではないと言い切れるのか。
聖女の祝福が捧げられなかったセントクルード国は、いまや風前の灯火だと言う。
作物の収穫量が減り、災害が起こり、各地で疫病が流行りだしたのだ。
未曾有の事態に、あれほど栄華を誇った国はたった一年で滅亡への道を辿り始めている。
疫病に苦しみ、災害に見舞われ、貧しくなっていく暮らしに、国は何の保障もせず放置していたため――というよりは、国王たちも何が起こっているのか理解できなかったのだろう――民は不満を募らせ、反乱を起こしたと聞く。
国王と五大侯爵家はすべて捕らえられ、死刑となるらしい。
しかし、彼らを死刑にしたところで、国が昔のような豊かで穏やかだった頃に戻ることは決してない。
セントクルード国に苦しむ人が多くいると聞くと、自分には関係のないことだと割り切ろうとしても割り切れず、心が苦しくなって仕方がない。
「セーラ、お前が苦しむことなどないんだ」
アーレストがセーラの黒髪を優しく撫でてくれる。その温かい優しさに涙が出てくる。
「まだ夜明けまでは早い。もう少し眠ろう」
上体を起こしていたアーレストは枕元の灯りを消すと、セーラをその胸に抱き寄せた。怖い夢を見るたびに彼を起こしてしまうことを申し訳ないと感じるが、アーレストは一人で抱え込まれるほうが辛いと、いつも必ずセーラを抱き寄せてくれた。
そうすると、怖い夢は嘘のように霧散していく。
「ありがとう、アーレスト……」
小さくそう囁くと、胸の中でセーラはゆっくりとまた眠りについた。
※ ※ ※
「セントクルードへ一度行ってみるか?」
アーレストがそう言ったのは、大きな取引がまとまってすぐのことだった。
「え」
一度捨てた国へ行くかという問いかけに、セーラはなんと答えていいのかわからず、身体を強張らせた。そして、自分があの国に恐怖心を抱いていることを改めて実感した。
アーレストはそんなセーラの様子を確認しながら、セントクルード国の端にある領地の名産品を仕入れる仕事のついでに立ち寄るだけだと説明する。
「お前が悪夢など見なくともいいと、自分の目でしっかりと確認すればいい」
何を確認するのか不思議に思ったが、アーレストはそれ以上何も言わず、旅程はいつのまにか決定していた。
アーレストが選んだ行路は一週間ほどの短い船旅だった。
険しい山で隣国と遮られていたセントクルード国だったが、昨年、大きな土砂崩れが起こり山の端が崩れて河川の幅が広がった。そのおかげで今まで通れなかった大きな船も通れるようになったのだ。
「災害なんてろくでもないと思ったけど、今まで交流するのにも一苦労だったセントクルード国とこうして繋がれるようになったのはよかったよねえ」
船の乗組員がのんきにもそんなことを言ったが、セーラは複雑な気持ちだった。
逃げるように後にした母国へ、また訪れるとは思ってもいなかったからだ。
辺境の、あの退廃した様子を思い出し、船の中でも何度か悪夢を見たが、その都度、アーレストが優しくセーラを抱きしめてくれた。
そして、目的地にたどり着いたとき、セーラは目を大きく見張った。
「ここがセントクルード国……?」
船が接岸した町はセーラたちの住む町よりはずっと小さかったが、とてもにぎやかな場所だった。疫病や災害で国が滅びようとしているとは思えない町の賑わいに、セーラは戸惑う。
「ここは辺境の隣の領地だ」
そんなセーラに、アーレストがこの町のことを説明してくれる。
「確かに災害などは増えたが、ここの領主はそれらのことに備えていたから、被害を最小限に抑えることができたらしい。こうして隣国から船が来るようになって、交易で栄えているとも聞く」
「そうですか……」
町の人々は、活気に溢れた表情だ。想像していた凄惨さはまったくない。
あまりの眩しさにふらりと立ちくらみを起こすと、その腰をアーレストが支えてくれた。
「船旅で疲れただろう。先に宿を探そう」
アーレストがセーラを労るようにそう言ったとき、溌剌とした声がすぐ後ろから聞こえてきた。
「宿をお探しですか?」
振り向くと、闊達そうな少女がこちらを見上げている。
「うわあ、お客さんたち、とっても綺麗ですね。美男美女だあ!」
キャッキャとはしゃぐ様子は天真爛漫で、ふっくらとした頬がとても子どもらしい。
少女のその顔に、セーラは見覚えがあった。キュッと思わずアーレストの胸元の服を掴むと、大丈夫だと労るようにアーレストがセーラの肩を撫でる。
「私、あの坂の上の宿屋の娘でナナと言います! よければうちの宿に泊まりませんか?」
セーラたちに声をかけた娘は、聖女としてセーラが大聖堂へ向かう途中の辺境の村で知り合ったナナという娘だった。
ニコッと笑う頬には、昔はなかったそばかすができていた。日焼けした肌も健康的だ。背もずっと伸びて、痩せ細ったガリガリだった頃の面影はまったくない。
「それでは一室、頼もうか」
アーレストがそう言うと、ナナは「やった!」と子どもらしくはしゃぎながら、セーラたちを案内する。あのときから一年以上経ったとはいえ、ナナがセーラたちとまったくの初対面のように接する様子が不思議だった。
「あの……あなたは、この町にずっと住んでいるの……?」
「いいえ。以前は隣の辺境伯領に住んでいたのですが、そのときの領主様の計らいでこちらに移ってきたんだと聞きました」
セーラの問いに、ナナはあっけらかんと答える。
「聞いた……?」
自分のことなのに他人事のような言葉に違和感を覚えると、ナナはすぐに説明してくれる。
「私、昔の記憶がちょっと曖昧で。おばあちゃんも『辛いことは忘れていい』って何度も言ってくるから、忘れちゃったみたいなんですよねぇ」
そんなことがありえるのかと思ったが、あの、生きることにひたすら精一杯だったナナの様子を思い出すと、あんなことを覚えている必要はないのだとセーラも思った。
セーラの祖母もそう思ってナナに言い聞かせたのだろう。
誰かを犠牲にしなければ生きられなかった姿は、もうどこにもない。
一年以上の時をこの町で過ごして、彼女は幸せに暮らしているのだと、その様子だけでわかった。
そのことがセーラの心のわだかまりを少しだけ溶かしてくれる。
「そう……そうなの。災害や疫病が多いと聞くけれど、不安ではない?」
「ん~、そうみたいですけど、領主様が色々してくださっているのでそれほど不安ではないですよ。まあ、昔から住んでいる人に言わせると、川が氾濫しやすくなったとか、風が強くて困るとか言ってますけど、私はいいこともあると思ってます」
「いいこと?」
「お客さんたちみたいに隣の国から来られる方も増えて、交易が盛んになりました。それに、夏場はとても暑かったみたいなんですが、風が強いおかげで去年の夏はとっても過ごしやすかったんですよ!」
もともと利発な子だとは思っていたが、この町に来てずいぶん色んなことを学んでいるらしい。話し方もぐんと大人びていた。
「苦労することもあるけれど、それ以上に新しい工夫で暮らしが楽になっていくので、毎日が楽しいです!」
ナナが満面の笑みを浮かべてそう言ったので、思わず泣いてしまいそうになって、セーラは足を止めて俯いた。
ナナが幸せに暮らしていることがとても嬉しい。
ずっと、気がかりだったのだ。国中が災害に見舞われていると聞いていたので、ナナは生きているのだろうか、また苦労しているのだろうかと、何かの折に思い出しては胸を痛めていた。そのことを、アーレストは気付いていたのかもしれない。
だから、わざとこの町を選んでセントクルード国へ戻ってきたのだろう。
「お客さん……?」
立ち止まって俯いてしまったセーラを、ナナが訝しげに呼びかけた。
セーラは俯いたまま、答える。
「ご、ごめんなさい……ただ、国が荒れて皆不幸になってしまったのかと思っていたから……」
「あー……不幸になった人もいたかもしれませんが、私は幸せになったほうなので、よくわかりません!」
俯いているセーラに向かって、あっけらかんとしたナナの言葉が降りかかってきて、セーラは胸を鷲掴まれたような衝撃を受けた。
不幸になった人がいるかもしれないが、自分は幸せだからわからない――そんな自分勝手な言い分が、思いのほか、セーラの心に深く突き刺さる。
「くっ……」
今まで黙っていたアーレストが突如、堪えきれずに笑い声を立てた。
「ハハハ。なるほど、君は幸せだから他人の不幸が目に入らないということだな?」
アーレストの意地悪な物言いに、彼を咎めようと顔を上げたが、紫色の瞳が上機嫌にナナを見つめていたので、セーラは口をつぐんだ。
ナナは少しだけムッとした顔になったが、すぐにアーレストに言い返す。
「そんなことないですよ! 誰かが困っていたら助けはします。けれど、私は自分の手で抱えられる分だけしか見られませんから。私は、私の抱えられるだけの分を幸せに出来るよう頑張っているのだから、それでいいと思っています!」
ナナの見える範囲はとても小さく、狭いはずだ。
しかし、その範囲だけでも幸せになるよう、自分は頑張っている――そう、胸を張って言う少女の、なんと眩しいことか。
「自分の手で抱えられるだけの幸せ……」
セーラは両手を広げて見つめた。
セーラの手もまた、とても小さい。
聖女でも何でもなくなった彼女は、アーレストに頼ってばかりの状態だ。ともすれば、ナナよりももっと小さく狭い範囲しか幸せにできないかもしれない。
ナナは最後に、アーレストさえも一瞬、息を止めるようなことを言う。
「聖女でもないんですから、自分の手に掴めるだけの幸せがあれば、それでいいんですよ」
ドキリとした。
一瞬、自分たちのことを思い出したのかとナナの顔を見たが、セーラたちへ語りかけるようなものではなく、ただ自然とそう思っているのだとその表情でわかる。
「そうね……幸せは手の中に掴める分だけで……いいわ……」
セーラは噛みしめるようにそう言う。後ろからアーレストがセーラを覆うように抱きしめる。そして、セーラの手に己の手を重ねながらが囁いた。
「俺もそう思う」
しっとりとした低い囁きは優しい音色だった。
彼もまた、己の復讐も何もかも捨て、自分の手にすくえるだけの幸せを選んだ男だったことを、いまさらながらセーラは思い出す。
セーラの手は小さい。何もない女の作れる幸せなど、少しでしかないのだ。
「さあさ、お客さんたち、あそこがこの村一番の宿ですよ! 私のお母さんが作った料理は村の皆も褒めてくれるほど美味しいので、たくさん食べてくださいね!」
ナナのにぎやかな声に、ゆっくりとセーラは微笑んだ。その表情に悲しみや恐れなどはいっさいない。ごくごく普通の――旅の女の笑顔だった。