副官リーズリーのひとりごと
傷の癒えたリーズリー・マルメドウは三ヵ月ぶりに軍の本部に足を踏み入れた。
「ようやく戻って来たか。身体の調子や傷の具合はどうだ?」
上官の執務室に入るやいなや、レヴィアス・リステイン将軍が言った。リーズリーの口元に苦笑いが浮かぶ。
――相変わらずだなぁ……。
リーズリーの上官は案外せっかちなのだ。
「閣下……。一応、形式どおりに退院を報告させてください」
「先に病院から連絡を受けているし、君が退院したのはその姿を見れば明らかだ。他に人がいるわけじゃない。形式など誰も気にしないさ」
「そうですが……」
公爵という高い身分でありながら、レヴィアスが形式にこだわることはほぼない。それどころか「無駄だ」と言い、軍内の無駄な規律の大部分を撤廃させてしまった。
『将軍に情報が伝わるまで、こんなに何人もの人を介する必要がどこにある? 時間と人材の無駄だ。戦場では情報の伝達が少しでも遅れれば全滅することもあり得るだろうに』
『各師団で命令系統が異なるだと? 戦場では混乱を招くだけだ。基本的な命令系統は全軍で統一させて、命令の範囲や裁量は各師団に任せるようにしろ』
もともと軍隊の規律は、出身も身分も異なる兵士たちをまとめ上げるために作られたものだ。無意味に形式化されたものも多いが、取り払ってしまって本当に兵士たちをまとめることができるのだろうか。当時、そういう懸念の声があちこちで聞こえたものだ。
――けれど蓋を開けてみれば、軍の風紀は乱れることなく、仕事の効率も上がったのだから、本当にすごいとしか言いようがない。
そんなレヴィアスが上官であり、自分が彼の副官であることはリーズリーにとって誇りだった。
「傷はほとんど癒えました。剣を持つのも支障はありません」
リーズリーが最初の問いかけに答えると、レヴィアスは鷹揚に頷いた。
「ならばよかった。さっそく業務に戻ってくれ。三ヵ月前の事件の処理もまだ終わっていない。君に頼みたいことが山ほどあるんだ」
「もちろんです、閣下」
三ヵ月のブランクはあるが、入院している間も報告を受けていたので問題なく業務に戻れるだろう。
「それではさっそく……」
「待て」
執務室の片隅に積まれた書類を片付けるために踵を返そうとしたリーズリーを、レヴィアスの声が引き止める。
「リーズリー、言い忘れていた。いつでもいいから、手が空いたら私の屋敷に顔を出してくれ。君の元気な顔を見ればセルレイナも安心する」
何気なさを装って告げられたレヴィアスの言葉に、思わずリーズリーの口元が緩んだ。ついでのように言っているが、きっとこれが一番伝えたかったことなのだろう。
「はい、セルレイナ様にはとてもご心配をおかけしました。必ず退院の報告に伺わせていただきます」
「ああ、頼む」
リーズリーはレヴィアスが珍しく柔らかな笑みを浮かべるのを見て、密かに安堵した。どうやらレヴィアスとセルレイナの仲はうまくいっているようだ。
色々な筋から報告は受けていたので分かっていたが、この目でレヴィアスの様子を確認し、ようやくリーズリーは心から安心することができたのだった。
――よかった。これで戦場での一年間の気苦労が報われるというものだ。
何しろ戦後処理のためにベルマン国に駐留していた一年もの間、レヴィアスはセルレイナのこと、それにローランド・ディンゼルのことについても、遠い地にいて何もできない自分にずっと歯がゆい思いをしていたのだから。
表だってレヴィアスが感情を露わにしたことはなかったが、副官としてずっとそばにいたリーズリーには、彼の抱える焦燥感が痛いほど分かった。
――それが、一年経ってようやく王都に戻れることになり、セルレイナ様とのこじれた関係も、三年前から続いている「機密情報漏えい事件」も何とか片を付けようと意気込んでいた矢先だったものな……。
レヴィアスの元妻であるナディーンが現れたのは。
証拠と引き換えにナディーンの復讐を手伝うという取引に応じたはいいが、彼女がローランド・ディンゼルをじわじわと追いつめている間、ただ待つしかなかったレヴィアスがだんだん苛立ちを募らせていくのが感じられて、リーズリーはハラハラしたものだ。
普段は沈着冷静なレヴィアスの感情を、良きにつけ悪しきにつけ揺さぶることができる唯一の存在がセルレイナだからだ。そのため、いつかレヴィアスの苛立ちが彼にとって最悪の方向に――セルレイナに向かってしまうのではないかと。
結局リーズリーの懸念どおり、レヴィアスはその最悪な方向に行ってしまい、セルレイナにずいぶん辛い思いをさせてしまった。
――閣下がセルレイナ様の涙で我に返ったからよかったものの、本当にあの時期はどうしようかと思ったものだ。
リーズリーはセルレイナに詳しい説明をすることを禁じられ、二人の関係がこじれていくのを指をくわえて見ているしかなかった。
我慢できずに最終的にアデラ王女の力を借りて介入してしまったが、後悔はしていない。あのままだったらセルレイナは訳も分からず翻弄され、しまいには心が壊れていただろう。
万が一そうなってしまったら、一番苦しむのはレヴィアス本人だ。だからこそリーズリーはどうしても二人の間に横たわる溝を埋めたかった。
――閣下は致命的に言葉が足りないから。……いや、あそこまで異性に対して不器用だとは思いもしなかったけれど。
リーズリーにとってレヴィアスは上官というだけでなく、ここまで引き立ててもらった恩人でもあった。
田舎の貧乏子爵家の次男として生まれたリーズリーは、十六歳になってすぐに上京して軍に入隊したが、別に取り立てて軍人になりたいわけでも、剣で身を立てたいわけでもなかった。宮廷で文官として働くのに必要なコネがなかったから、軍に入っただけだったのだ。
それがどういう訳か、レヴィアスに副官に抜擢されたことで、リーズリーの運命は大きく変わった。
当時レヴィアスは軍で頭角を現し、異例の速さで出世していた。けれど、大多数の人間は公爵家の跡取りという身分があるからこそ優遇されていると考えていて、リーズリーもその中の一人だった。
けれど、彼の下で働くようになってすぐにその考えを改めた。レヴィアスは兵を使い捨ての単なる駒だと思っている上位の貴族とは明らかに違っていたのだ。その考え方も、本人の在りようも。
確かに高貴な身分だが、レヴィアスという男は根っからの軍人気質だった。相手が貴族出身だろうが平民出身だろうが態度を変えることはなく、才能がある者は身分問わず積極的に取り立てた。
兵士に混じって訓練することも、剣の鍛錬で手を血だらけにすることも厭わなかった。
貴族出身というだけで高い階級にいる指揮官と違い、レヴィアスは戦場に立つのも躊躇しなかった。そして戦地では一人でも多くの兵士を生かすという信念で軍を指揮した。
リーズリーはそんな彼に半ば呆れつつも感心し、いつしかレヴィアスに心酔するようになっていった。
これもレヴィアスの慧眼か、リーズリーにはどうやら副官という役目が性に合っていたらしく、彼の下で働くことが楽しく、やりがいがあった。
一生レヴィアスについていくとリーズリーは決めていた。
……けれど上官として、軍人として完璧なレヴィアスだったが、一つだけリーズリーには気になることがあった。
異性のことや自分の結婚にまるで無関心な所だ。……いや、無関心というか割り切っていると言った方がいいかもしれない。
『結婚? いずれはする必要があるだろうが、特に関心はないな。そのうち陛下が相手を決めるだろう。私はそれを受け入れるだけだ』
レヴィアスはリステイン公爵家を引き継いでいく必要があるとは思っているが、相手は誰でもいいと考えているようだった。
こういう部分だけは妙に高位の貴族らしいと思うが、リーズリーはできればレヴィアス自らが選んだ相手と結婚してくれればと思っていた。
……が、その期待とは裏腹に、レヴィアスはあろうことか、情報漏えいの容疑者であるナディーンと結婚すると言い出したのだ。ナディーンを監視し、情報漏えいのルートを解明するために。そのためだけに。
もちろんリーズリーは反対したが、レヴィアスは聞かなかった。
『情報漏えいを防ぐことが先決だ。大丈夫だ。分かり次第すぐにナディーンとは離婚する。陛下にもすでに許可を得ていて、私が望めばナディーンとの結婚はなかったことにできるそうだ』
そう言われてしまえば単なる部下にすぎないリーズリーにはどうすることもできない。ただ、そんな動機で結婚するのは間違っていると思っていたし、実際、すぐにレヴィアスにはしっぺ返しがきた。
――まさか美人と評判のナディーン嬢にまったく心を揺さぶられることがなかった閣下が、その妹のセルレイナ様に惹かれるとは夢にも思わなかったな……。
セルレイナ・ブロードアはそこそこ美人だが、特に目立つことのない女性だ。ナディーンの妹とは思えないほど大人しくて控えめ――と言えば聞こえがいいが地味な令嬢だった。だから、最初はどうして彼女のような普通の女性にレヴィアスが惹かれるのか分からなかった。
――……でも今なら少し分かる。閣下が惹かれたのはセルレイナ様が普通だったからだ。自分に媚を売ることもなく、ただ好意だけを寄せ、それでいて閣下に何も求めない女性だったからこそ、惹かれたのだろう。
と同時に、レヴィアスがナディーンにまったく心を奪われなかった理由も理解できた。
ナディーンとレヴィアスはまるで鏡を合わせたように似ているのだ。二人ともその気になればいくらでも魅力的に振る舞えるし、人心を掌握する術を知っている。その反面、ごく限られた者にしか心を開かないし、関心もない。それでいて、内に激情を秘めていて、一度執着した相手をとことん求めずにはいられない。
そんな彼らが自分と似た者に惹かれるわけがない。ただ反発し合うだけだ。いわゆる同族嫌悪だ。
それなのに二人は結婚した。互いに思惑を持って。
――思えばそれが閣下の試練の始まりであり、今のこの結果につながる成果でもある。
将軍としてレヴィアスは間違った判断を下した。セルレイナを巻きこむことを躊躇している間にナディーンには逃げられ、ローランド・ディンゼルを反逆罪で捕まえる機会を逸した。
だがリーズリーはそのことでレヴィアスを責めようとは思わなかった。彼がセルレイナのことで苦悩していることを知っていたからだ。
ナディーンと彼女の持つ証拠、それに証言がなければローランド・ディンゼルを捕まえることは難しい。ただの一介の書記官だったなら可能だったが、ローランドの背後にはジルファン侯爵家がいて、証拠もなしに逮捕することはできなかったからだ。
だからこそ一年待った。証拠をすべて消したと油断しているローランドを今度こそ捕まえるために時間をかけてじわじわと狭まる包囲網を作った。ローランドが手足のように使っていたならず者たちを少しずつ別の罪で逮捕して、彼が自分で動かざるを得ないように仕向けて、ボロを出すのを待った。
思いもかけずナディーンからの協力を得て、ブロードア伯爵家を囮にしたことで、思った以上の成果が上がったが、リーズリーとしてはやや不本意な終わり方だった。これだけはいただけない。
――油断してローランド・ディンゼルに刺されるとは、一生の不覚だ。奴がブロードア伯爵邸の跡地に足を運んでいることは監視している兵から報告を受けていたのに、この体たらく。まったくもって情けない。
背後から襲われてとっさに身体をずらしたことで致命傷には至らなかったが、この大事な時期に三ヵ月も戦線離脱しなければならなくなった。
――閣下は叱責するどころかこんな自分を労わってくださったけれど、あれは僕の油断が招いたことだ。二度とないようにしなければ。
レヴィアスの影響か、自分にやたらと厳しいリーズリーは、ボードダール軍内で上官同様に尊敬されていることに気づいていなかった。
***
「マルメドウ中尉! よかった。傷が癒えたのですね!」
レヴィアスと一緒にリステイン公爵邸に向かったリーズリーは、セルレイナから熱烈な歓迎を受けた。彼女は自分のせいでリーズリーが刺されたと思い、とても責任を感じていたのだ。
「はい、すっかり元気になりました。セルレイナ様もお元気そうで何よりです」
にこやかに応えると、セルレイナは嬉しそうに頷いた。
――本当に元気そうだ。よかった。
セルレイナは別荘にいた頃より明るくなり、何よりレヴィアスの愛情をたっぷり受けているためか、とても綺麗になっていた。外見だけではなく内側から光り輝いているようだ。
今のセルレイナを見て地味だと言う者はいないだろう。
さりげなくレヴィアスが彼女の隣に寄り添い、肩を抱いた。まるで自分のものだと主張するかのように。
自分に対する軽い牽制だということを即座に悟ったリーズリーは内心でため息をついた。
――いえ、閣下。誰もセルレイナ様をあなたから取ろうだなんて考えていませんからね?
レヴィアスはセルレイナのそばに男性が近づくのを嫌がるのだ。たとえそれが信頼できる部下や執事であっても。
一ヵ月前から、セルレイナはアデラ王女の家庭教師を再開させていたが、住み込みではなくレヴィアスの屋敷から王宮に通っている。もちろん、それはレヴィアスの采配によるものだ。
――きっと閣下は男たちを……その中でも特にケイン補佐官をセルレイナ様に近づけたくないんだろうなぁ……。
セルレイナは気づいていないだろうが、警護のためと称し、付き人までつけて、徹底的に彼女に近づこうとする男性を牽制しているらしい。
――きっとセルレイナ様はレヴィアス様の執着がどれほど激しいものか知らないに違いない。自分が妊娠していることも、そのうちアデラ殿下の家庭教師も辞する必要が出てくることも。
迷いも何もかも振り切ったレヴィアスは、恐ろしいほど用意周到にセルレイナを囲い込もうとしている。入院中に同僚から報告を受けた時にはリーズリーも思わず顔を引きつらせてしまったほどだ。
――でも、まぁ、セルレイナ様は幸せそうだし、きっと囲い込まれて否応なく閣下と結婚しなくてはならなくなったとしても、それを受け入れてしまうのだろうな。
何も求めなかったセルレイナだからこそ、レヴィアスのその激しい執着ごと彼を受け止めることができるのだ。
「玄関ホールで立ち話もなんだろう。ゼイン、応接室にお茶を持ってきてくれ」
「かしこまりました」
玄関ホールの片隅にひっそりと控えていたゼインが頭を下げる。
寄り添いながら歩き始めるレヴィアスとセルレイナの後に続きながら、リーズリーは口元をほころばせる。
――お二人を見ていると、どこか歪なのに、こういう関係もいいなと思えてくるから不思議だ。
レヴィアスが結婚して落ち着いたら、リーズリーも人生の伴侶を探すことを考えてもいいかもしれない。
「……こんな僕でもいいと言ってくれる相手がいれば、ですがね」
つい独りごつと、小さな声だったにもかかわらず耳ざとく聞きつけたレヴィアスが足を止めて振り返った。
「リーズリー、何か言ったか?」
リーズリーは微笑みながら答えるのだった。
「いえ、ただのひとりごとですよ」