ソーニャ文庫

歪んだ愛は美しい。

会員限定特典小説

女王の恋

 居室でひとりになると、アラナは時々見つめるものがある。それは、カリストが「秘密だよ」と言って渡してくれた小さな紙だ。そこには力強い筆跡でしたためられている。

 アラナ、元気にしているか? 体調を崩していないか? あなたは無口だから心配だ。
 少しでも異変があるのなら、素直に側近のカリストに言うように。
 しかし、夫がある身だということは肝に銘じておいてくれ。
 これから会談に臨む。悪いが、テジェスとの会談は決裂させてもらう。
 あなたなら、理解してくれると信じている。
 戦に勝利した後、あなたに話したいことがある。聞きたいこともある。
 毎日あなたを思っている。早く会いたい。

 鏡台の前に座るアラナは、両手で手紙を包み、まぶたを閉じる。
 ──毎日あなたを思っている。早く会いたい。
 この、最後の文字を目で追うのが好きだった。胸がぽかぽかと熱を持つ。きっとこれは、彼の最初で最後の手紙になるだろう。彼は手紙を書くような人ではないからだ。くしゃくしゃな紙だけれど、アラナの大切な宝物。
 カリストは、この紙がルシアノに見つかれば捨てられると言っていた。だからアラナは見つからないように、鏡の裏のくぼみに隠している。隠密のベニートが、めんどくさがりながらもくぼみを作ってくれたのだ。
 どうして捨てられてしまうのかわからなかったが、カリストは、『さあね。いまさらだと照れているんだろう。彼はひねくれているからね。とにかく捨てられることだけはたしかだ』と言っていた。そのためアラナはルシアノを警戒し、どきどきしながら手紙を見ていた。
 ──わたしも、毎日あなたを思っています。
 あごを上げたアラナは、鏡に映る自分の姿に目をやった。
 白金色の長い髪は、今日もつやつやだ。首を振れば、揺れる髪が光を反射し、きらきら光る。ルシアノが、手ずから整えてくれているのだ。
 アラナは鏡に向けて手をかざす。爪も整っていて、ぴかぴかだ。彼がきれいにしてくれている。この手で、いつか彼の手紙の返事を書けたなら……。それは、いまのアラナの夢だ。
 アラナは、彼に手入れをされた自分を見るたび、せつなくなる。身体の奥が、甘酸っぱさで、きゅうとうずくのだ。きっと、人はこれを幸せと呼ぶのだろう。
 ──ルシアノさま。
 鏡のなかの幼い自分は、孤高の彼とつり合いがとれているとは思えない。最近、それが気になって、鏡を見つめる機会が増えている。
 ──どうすれば、ふさわしくなれるのかしら。せめてもう少し、背が伸びたなら……。
 その時、彼特有の気配を感じて、アラナはあわててくぼみに手紙を押しこんだ。そして、ぱたぱたと急いで長椅子に腰かける。彼が近づくにつれ、胸がはちきれそうなほど高鳴った。深く呼吸をくり返し、息の乱れを整える。
 扉が開き、目を向ければ、ぼやけているけれど背の高い影がある。彼だとわかる。
 彼が大股で歩み寄るたび、銀の髪、すみれ色の瞳、水色の服がはっきり見えるようになる。
「俺がいない間、なにをしていた?」
 絨毯にひざをついたルシアノは、アラナの目線の高さに己の視線を合わせる。最近、気づいたことだった。背の高い彼は、小さなアラナの目に目を合わせてくれている。
 彼の瞳にアラナが映る。アラナはそれが幸せだ。
「手の運動と文字を書く練習をしていました」
「ドレスにインクがついているな。あとで着替えさせてやる」
 髪が乱れていたのか、言葉の途中で彼に髪を撫でられた。
「それから?」
「宰相とカリストと会議を。その後、ベニートに戦況の様子を教えてもらいました」
「なんだと? この格好で三人の男に会ったのか。薄着だ。男に見せる格好ではない」
 アラナが身につけているのは簡素なドレスだ。言うほど薄着でもないと思うが、ルシアノは不快感をあらわにする。
「今後、男に会う予定がある時は、前もって俺に言え。必ずだ」
「はい、わかりました。エミリオ、あなたはなにをしていたのですか?」
「剣の稽古をしていた。アルムニアにはなかなか強い騎士がいるな。あなたを守るためなのか、全体的に士気も高い。その後、地下の図書室へ立ち寄ったが、うわさどおり希少な本が数多くあった。できれば持ち出したいが、禁じられているのだろう?」
「はい、すみません。古くからのしきたりです」
「堅苦しい。アルムニアはしきたりが多いな。まあいい、アラナ、キスをくれ」
 彼は形のいい唇をわずかに突き出した。
 アラナは躊躇した。彼にくちづけをせがまれて従うと、必ずと言っていいほどそれだけでは終わらない。服を取られ、長い時間抱かれてしまうのだ。
 彼は、ドレスをいじるアラナを不審に思ったのか、唇が触れそうなほど顔を寄せてきた。
「しないのか?」
「わたしもあなたにしたいのですが、いつものとおり、性交もするのですか?」
「当然だ。アラナ、早くキスをしろ」
 口をまごつかせていると、焦れたのだろう、ルシアノが眉をひそめる。
「いやなのか?」
「いやでは、ないのですが」
「だったらわけを言え。なんでも話すと約束しただろう?」
 アラナの両脇に手を差し入れたルシアノは、軽々抱き上げる。そして椅子に座り、アラナを自身のひざに乗せた。そして、あごをしゃくり、言葉をうながす。
「……先ほど、召し使いたちに夫婦の営みの頻度を聞いたのです」
 彼は「なに?」と猛烈にしかめ面をする。
「まったくあなたは、あきれた。なにをばかげた質問をしているんだ」
「本には記述がないので知りたいと思いました。彼女たちは、性交は一週間に一度か二度行うと……もしくは、月に一度あるかないかだと話していました。けれどわたしたちは毎日、朝と昼と夜にします。夕方にも、する時があります。だからわたしは……」
 アラナがうつむくと、察した彼は片眉を持ち上げた。
「行為が多すぎるとあなたは考えたのだな?」
 うなずけば、ルシアノはため息の後、銀の髪をかき上げた。以前は腰まであった髪は、あごの長さで整えられている。長い髪はすてきだったが、アラナはこの短くなった髪も好きだった。
「どうでもいいが、朝と昼と夜というのは違う。俺の睡眠時間は三時間に満たない。あなたはたっぷりと八時間だ。五時間強の差を、俺がどう過ごしていると思う?」
「どう過ごしているのですか?」
「眠るあなたを抱いている。あとは剣の稽古だ。その後はいつものことだからわかるだろう? 朝になれば、あなたを果てさせ、またあなたを抱く」
 目をまるくしていると、鼻先に指をのせられる。
「知らなかっただろう? 言ってないからな。悪人が行儀よく我慢するはずがない。あなたをはじめて抱いた日から続けている習慣だ。とんでもない男を夫にしたとあきらめろ」
 愉悦の笑みを浮かべる彼に、アラナは言いにくそうに口にする。
「でも、エミリオ。夫婦は行為が多すぎるとよくないそうです」
「なにを根拠に」
「それは……行為が多いと、女性は殿方に飽きられてしまう。夫婦の仲は壊れてしまうのだと聞きました。殿方は狩人だから、毎日豆では飽きてしまう。たまにはお肉を食べたくなるのだと……。ですから、それを防ぐために、女性はたまにこばんだり逃げたりする必要があるそうです。……わたしは、彼女たちの言葉を実践したほうがいいと思いました」
 ルシアノは、不満げに「ふん」と鼻を鳴らした。
「あなたは自分がちんけな豆だと思っているのか?」
「わたしは、あなたに飽きられたくないのです。できればあなたに、わたし以外の女性とは交接してほしくないと思っています。以前、あなたに愛人を認めたにもかかわらず、身勝手な考えだとわかっているのですが……。女性は夫の戯れを認めて当然なのに、この独占したいと思う気持ちを捨てようにも捨てられません。ですから、あなたにキスをしてもいいのかどうか……。飽きられてしまう結果になるのが怖く、ためらっています」
 心とはままならないものだとアラナは思う。しかし、思うとおりにはならない。それを認めなければならないのに、認められない醜い心の自分がいる。深く沈んでいると、彼の指に、つんと頭を小突かれた。

「あなたは誰よりも聡明だが、いまは愚かだと言わせてもらう。このばか。本当にばかだ。あなたはやはり幼いな。俺が教えることはたくさんありそうだ」
 うつむけていた顔を上げれば、すかさずすみれ色の瞳と目があった。
「つまり、あなたは愚かな召し使いどもの『男を焦らせ』という言葉に従い、素直に実行しようとしているわけだ」
「焦らす? そうではありません」
「よくもまあ、そんなふうに言い切れるものだ。とんだ洗脳だな。いまのあなたに宗教家が近づけば、たちまちアルムニアは宗教国家だ。……まったく。あなたは俺の行動から、飽きられていると思うのか? 思っているのだとしたら、あなたの目はふしあなだ。愚か者の言葉にわざわざ耳をかたむけるな。ばかに教えを乞う者はばかだ。わからないことがあるならば、夫に聞けばいいだろう。俺がなんでも教えてやる。いいか、今日からあなたが教えを乞うのは俺だけだ。よく聞け」
 彼の手がアラナの白金色の髪を撫で、顔にかからないよう耳にかけた。
「だいたい俺たちと召し使いの常識は別物だ。彼女らはアルムニア人だろう? あいにく俺はセルラトの男でね。どうやらセルラトの男とは、性欲が強い生き物らしい。俺は三日三晩あなたを抱ける。しかし、これでも体力のないあなたに配慮している。あなたはアルムニアの女王である前にセルラトの男の妻だ。俺の常識に合わせろ。理解したか? したなら早くキスをくれ。あなたは、じゅうぶん俺を焦らしている」
 アラナは唇を引き結ぶ。すると、その唇を彼の人差し指につつかれる。ルシアノは楽しんでいるようだった。
「なんだか、うまく丸めこまれているような気がします」
「そのとおりだ。俺はあなたのキスがほしい。抱きたい。そのためにはなんでもする。だいたいあなたも悪いんだ。不能の俺を狂わせただろう? あなたには責任を取ってもらうつもりだ。……これを見てみろ」
 彼にドレスをたくし上げられて、アラナの下腹が露出する。あらわになった秘部を、彼は指でなぞった。そこは、彼が手入れを欠かさないため、つねに毛は剃られてつるつるだ。赤い痕も散っている。これは、はじめて彼に抱かれた時から続けられていることだった。
 アラナが隠すべく脚をすり合わせると、彼はこちらをのぞきこむ。
「これを見てどう思う?」
「……あなたに見られるのは恥ずかしいです」
「恥ずかしいなどと。いい加減慣れろ。あなたは俺を独占したいと言ったが、そのようなわずかな独占欲で一丁前に独占欲を語るな。俺の身体にこれと同じことをしてから言え。……言っておくが、他の男にこれを見せてみろ。男を殺す。あなたに触れるのは俺だけだ」
「見せません」
「一生俺だけにしろ。俺にはあなただけなのだから」
 アラナは心のなかで復唱する。
 ──一生俺だけにしろ。俺にはあなただけなのだから。
 とたん、顔も肌もりんごのように真っ赤になった。
「なんだ、赤いな。あなたは俺の予想と違う反応をする」
 アラナは伏せていたまつげを上げて、じっと彼を見つめる。
「エミリオ、一生……わたしだけなのですか?」
「当然だ。なにをいまさら」
 孤高で美しいこの人が、一生アラナだけ。憧れの人なのに。
 ──ルシアノさま。
「……わたしも、一生あなただけです」
 ぷるぷると震える手で銀色の髪に触れると、その手を取られて、指の一本一本に、そして甲にもくちづけが落とされた。上目遣いの、凄絶な色気を放つ彼に圧倒される。
 まさしくミレイアが言った妖精エートゥだ。なぜ、このような気高い人が自分を求めるのか、アラナはいまだにわからない。きっと、わかる日は一生訪れないだろう。
「あなたがわたしの夫だなんて、夢のようです」
「ふん、夢なものか。人の目を気にするな。人は人、俺たちは俺たちだ。俺は、あなたのキスがほしい。いつでもあなたにキスをされたいと願っている。毎日してくれると約束しただろう? アラナ、早くくれ。もう焦らすな。耐えるのも限界だ」
 ここまで言われてしまえば、アラナはキスをせずにはいられない。アラナだって、いつだって彼にキスをしたいのだ。そして、彼とひとつになって、ぬくもりを感じたい。
「背中の傷はもういいのですか? いつも、それが心配です」
「傷? そんなもの、とっくに治っている。アラナ、頼む、早くしてくれ」
「目を、閉じてください」
「だめだ。あなたを見ていたい。見せてくれ」
「閉じていただけないのなら、できません」
「強情な娘だな」と彼に睨まれたけれど、加減しているとわかる。彼の唇が弧を描いているからだ。
「ふん、俺はあなたに弱い。……閉じた。これでどうだ?」
 さすがに彼に見られながらキスをするのは、恥ずかしくて無理だった。とはいえ、長いまつげを伏せた顔もきれいで躊躇する。けれど、目を見ながらするよりもまだましだ。アラナは唇をすぼめて、彼の唇に、ぷちゅ、と口を押し当てる。
 いつもそれが合図だ。いきなり後頭部に大きな手があてがわれ、口を荒々しくむさぼられる。唇を割られて、舌が絡みあう。息も絶えだえになるその間、彼はアラナを抱き上げ寝台に移動する。そして、またたく間にドレスを剥かれ、くちづけられながら、自身の服を脱ぎ捨てた彼の肌と、ぴたりと隙間なく重なった。
 やさしくない、性急な手つきだけれど、だからこそ強く求められているのだとわかり、アラナは幸せで満たされる。
「……あ。エミリオ……」
 胸をまさぐる彼は、アラナの肌に吸いついて、鮮明な赤い痕を残しながら言う。
「なんだ? 止めようとしても無駄だ」
 まるで、えさを取られまいとしているけもののようだった。彼はこちらを見ずに、胸の先に執着する。爪で抉られ、強く吸われて、背すじをなにかがせり上がる。
「あ。……は。……あなたは、どちらがいいのでしょうか。エミリオと、ルシアノと……。どうお呼びすればいいのかと、いつか、聞きたいと……思っていました」
 ルシアノはアラナの胸に顔をうずめていたが、その尖りから唇を離した。そして、身を乗り出して、アラナの口にくちづける。一度だけではなく、つけて離して、何度もだ。ちゅっ、ちゅっ、と音が立つ。
〈ルシアノと、呼んでくれないか?〉
 それは、彼の故国、セルラトの言葉だった。
〈もう失われた名前だが、父がくれた名前だ。普段はエミリオでいいが、こうしてあなたを抱いている時は、あなたにそう呼ばれたい〉
 アラナの脳裏に、まざまざとセルラトでの出来事がよみがえる。こちらを見向きもしない高貴な横顔。その近寄りがたさに惹きつけられた。妹思いの彼の微笑み。そして、彼の身に降りかかった残酷な仕打ちを。
 同時に頭をよぎるのは、最初で最後の友、ミレイアだ。それから、セルラト王と王妃の姿。彼らが感情を教えてくれた。
 涙はとめどなくやってくる。アラナの顔が崩れると、彼にやさしく抱き上げられた。
〈また泣く〉
〈泣いてしまって……すみません〉
〈まあいい、俺はあなたの泣き顔も気に入っているんだ。好きなだけ泣け〉
〈ルシアノさま……。わたしは……〉
 穏やかな顔をしている彼は、指でそっと、アラナの上唇と下唇をなぞる。
〈完璧な発音だな。あなたの声でセルラトの言葉を聞くとは不思議な気分だが、もっと聞きたくなる。いいものだ。俺の名に、さまはつけなくていいが、いいと言ってもあなたはつけてしまうだろう。俺の妻は、意外に頑固でゆずらない。一生尻に敷かれそうだ〉
〈敷きません〉
〈アラナ、もう一度名を呼んでくれないか〉
〈ルシアノさま……〉
 言われるがまま彼の名前をつぶやくと、〈永久の誓いだ〉とささやかれ、唇を熱く塞がれた。

 彼の背中に手をまわすと、その肌はしっとり濡れていた。アラナの肌も濡れている。快感に、くっ、と指に力がこもると、汗ですべってずるりと落ちた。けれどまた、アラナは必死に彼の背中に手をつける。
 ひとたび交接がはじまれば、一度達しただけでは終わらない。彼が離れようとしないのだ。ふたりの下腹はぬるぬるで、動きに合わせて淫らな音を立てている。
 彼の顔を見ていたいけれど、刺激が強くて目を開けていられない。勝手にあごが上を向くから、ろくに瞳を見られない。アラナの好きな色は彼の色。銀色と、すみれ色だ。
「あ…………。あっ」
 わがままをやめたのだから、満たされているいまの思いを告げようと思った。けれど、どう言い表していいのかわからない。昨夜、ありのまま『気持ちがいいです』と伝えた時には、気を失いそうになるまで行為が続いたから、その言葉は正解ではないのだろう。
 考えあぐねていると、彼の腰の動きがぴたりと止まり、アラナはまつげを持ち上げる。すると、彼の瞳が間近にあった。
 やはり、きれいなすみれ色。胸が必要以上にうずくのは、焼かれてしまうと錯覚するほどじりじりと、熱のこもった瞳で見つめられているからだ。
 彼の髪から滴る汗が、アラナの頬にぽたりと落ちた。
〈あなたの声が聞きたい〉
〈ルシアノさま…………きれいです〉
〈は。ばか、男がきれいだと言われて喜ぶものか。あなたもミレイアと同じことを言う〉
 彼に頬を包まれて、熱い息が吹きかかる。彼は、自身の口をアラナの唇に重ねた。
〈何度……永久の誓いをしただろう。はじめは数えていたが、やめた。数など数えなくても、いつでもできる。……俺には、あなたのほうが…………は。……出そうだ〉
 眉をひそめ、なまめかしく小さくうめいた彼は、アラナのなかに吐精する。どくどくとした脈を感じて、アラナは胸を高鳴らせた。精を注ぐ時の彼は、いつも幸せそうなのだ。だから、アラナも幸せだ。もっとこうしていたいと思う。
 ぎゅっと彼の腕に力がこめられて、強く抱きしめられていた。アラナもせいいっぱいの力をこめて抱き返す。
 肩で息をして、ぐったりしている彼は、とぎれとぎれに続きを言った。
〈アラナ…………あなたは、きれいだ。俺の妻は、どこもかしこもきれいだな〉
〈……それは、ちがうと思います〉
 アルムニアの城内にはアラナよりも美しい人はたくさんいる。アラナに仕える召し使いたちも美しい。幼いアラナは十人並みなのだ。彼とつり合いたいと願っていたから、いやというほど自分を知っている。それに、セルラトは美しい女性ばかりの国だった。実際、本にも美女が多い国と記されていたほどだ。彼の母親は鳥肌が立つほどの美貌を誇っていたし、彼の婚約者のフラビアも、とても美しい人だった。そんな人たちを見慣れている彼が、アラナをきれいだと感じるはずはないのだ。
〈わたしは、きれいではありません〉
〈なにを勝手に否定している。きれいの基準は個人の主観だ〉
 彼はアラナに言い聞かせたいのか、アラナの鼻の先を指で押す。
〈いいか、あなた以外の女はごみだ。俺には、醜いぶたにしか見えない。きれいなのはあなただけだ。身も心も、俺をこうも狂わせる。自慢の妻だ。……俺は、どうだ?〉
〈あなたは、自慢の夫です〉
 彼は満足そうに、アラナの口にふるいつく。くちゅ、くちゅ、と音が立つ。
 舌を絡ませ、長く続けられるくちづけに、アラナが身じろぎすると、おなかのなかの彼が外れそうになり、彼の手に離れないよう腰を押さえつけられる。目があったとたん、すみれ色の瞳は細まった。
〈まだ動くな。……あなたの望みはなんだ? 言ってみろ。叶えてやる〉
 唇を引き結んだアラナは、このところ抱えている野望を口にする。
〈あなたの美しい髪を、くしで梳いてみたいです。あなたがわたしの髪を梳いてくださるように、わたしも、あなたの髪を〉
〈ずいぶんくだらない望みだな。断らずとも、好きなだけ梳けばいい。俺が持つものはすべてあなたのものだ。これからは好きにしろ〉
 アラナが、たどたどしく彼の髪に触れると、顔をずらした彼はアラナの手のひらを、赤い舌でべろりと舐めた。そして、小さな親指を舐めしゃぶる。アラナは居たたまれなくなった。こちらを見つめる彼の瞳に焦がされてしまいそうだった。
〈いつか、あなたから求められてみたい。意味がわかるか?〉
 首を横に振れば、彼の唇の端が持ち上がる。
〈あなたの心は、まだ俺に追いついていない。発達の途中だ。少しずつでいい、俺の側で成長しろ。俺は、この先のあなたを楽しみにしている〉
 アラナがまたたくと、彼は言葉を重ねた。
〈あなたは、連続してボタンをふたつ止められるようになった。日々の訓練の賜物だ。俺は、あなたが誇らしい。努力を怠らず、けなげな、いい妻を得た〉
 誇らしい──。そう言いたいのはアラナのほうだ。アラナはいつだって彼が誇らしい。きびしく見えたとしても、誰よりもやさしいことを知っている。
〈ルシアノさま、あなたの望みはなんですか? わたしも、あなたの望みを叶えたいです〉
 アラナは、彼に幸せになってほしいのだ。命をかけてでも、幸せにしたい人。
〈望みなど、以前のとおりだ。毎日、俺にキスをしてくれ〉
〈永久の誓いですか?〉
〈そうだ、永久の誓いだ。俺が死ぬまで毎日くちづけろ〉
 アラナが、形のいい唇に口をのせれば、彼の手が、濡れたアラナの髪をかき分け、顔をすべてあらわにさせる。彼は、せつなげな目をして言った。
〈アラナ、俺の名を呼べ〉
〈ルシアノさま〉
 彼は、〈いいものだな〉と浸るようにまぶたを閉じた。

       *  *  *

 青い空は消え、夜の帳が下りていた。
 汗の引かない身体は火照って熱く、毛布を被っていられない。裸で横たわるアラナの肌は、ろうそくの明かりでぬらぬらと光を帯びていた。
 疲れていたけれど、心も身体も充足感に満ちていた。アラナはぼんやりと天井を見ながら、今日は新月なのだと考えた。
 ひたりとおなかに大きな手がのせられた。その拍子に、秘部からとろりとあふれるものがある。行為はいまのいままで続けられていて、アラナは彼の手の上に、自身の手を重ねて言った。
「今日は新月ですね」
「そうだ。星を見るか?」
 アラナと同じく一糸まとわぬ彼は、だらりと寝そべっていたけれど、身を乗り出してささやいた。
「あなたと見たい」
 アラナの目は、もう、星を捉えることができない。けれど、うなずいた。
「わたしも、あなたと星を見たいです」
 唇に、彼の口がつけられた。毛布を身体に巻きつけられて、暑いけれど我慢した。
 寝台を下りたルシアノは、下衣を穿きながら言った。
「あなたは少し肉がついたな。健康的になりつつある」
「はい。宰相とカリストにも、顔色がいいと褒められました」
「食事の量も増えたからな。だが、まだ足りない。食が細い部類だ。長く生きるには体力は不可欠。筋肉もつけさせる。明日からは、運動を取り入れるから覚悟しろ」
「運動は、いま、したのではないのですか?」
「まさか」と破顔した後、彼は声を出して笑った。
「あなたは交接を運動だと捉えているのか?」
「息が切れますし、たくさん汗もかきます。身体も熱くなります。平常の時とはずいぶん違う状態なので、運動だと思っていました」
「運動なものか。交接が運動ならば、世には鍛え上げられた猛者があふれている。だいたいあなたはろくに動いていないだろう? 寝ながらあえいでいるだけだ。違うか?」
 思わずアラナの頬に朱が走る。たしかにアラナは動いていない。いつも、ルシアノにされるがままになっている。
 戸惑いながらうつむくと、毛布ごと抱え上げられた。
「後であなたが動いてみるか?」
「動くとは……」
「あなたが俺の上にのり、腰を振る。運動だ。教えてやるからやってみろ」
 ルシアノは、音を立ててアラナの頬にくちづける。強い視線を感じて彼をうかがえば、情欲を孕んだ瞳に鼓動が跳ねた。
「あれも、してくれるか?」
 それは、言うまでもなく彼の性器に触れることだ。アラナはこくんとうなずいた。
 とたんアラナの唇が彼の口に塞がれる。角度を変えて、唇を割られ、なかをむさぼりつくされた。
 ルシアノが唇を放したのは、アラナの息が荒くなってからだった。
「食事をして、湯浴みをする。その後だ。いいか?」
「はい」
 彼はアラナに目配せをして、テラスに向けて歩き出す。硝子に映った彼は、下衣はつけているものの、上半身は裸のままだ。
 彼が戸を開けば、風がさあと吹きこんだ。アラナの長い髪が舞う。
 アラナは、夜空を仰いだ彼の横顔に、空の様子を悟った。
 星屑が彩っているのだろう。アラナも空を見上げたが、やはり、黒が広がるだけだった。けれど、満足だ。まるで少年のように目をきらめかせている彼を見つめられるから。そこに、無数の星を感じられるのだ。
 ──きれいだわ。とても……きれい。
 ルシアノは、星からアラナに視線を落として微笑んだ。
「アルムニアの星も悪くないな。側にあなたがいるからだろう。星が見えるか?」
「見えません。でも、いいのです。あなたと空を見上げられるだけで、じゅうぶんです。それに、わたしは」
 アラナは目を閉じる。まなうらに、セルラトの見事な夜空がよみがえるのはすぐだった。
「こうしてまぶたを閉じれば、星が見えます。ミレイアがくれた夜空が目に焼きついているのです。たくさんの星のまたたきが……それは、深く、広く、美しく、言葉では言い表すことができないほどのすばらしい空です」
 目を開けたアラナは彼を見た。彼も、アラナを見ていた。
「誰かが誰かの死を願うごとに、星はひとつずつ姿を消してゆく。知っていますか?」
「セルラトに伝わる寓話だな。ミレイアに聞いたのか?」
「はい。いま、空にはどれほどの星がかがやいているのでしょうか。わたしには見えません。教えてくださいますか?」
 アラナを抱え直した彼は、ふたたび空を仰いだ。
「どれほどとは、むずかしいな。おびただしい数で、数える気は失せるほどだ。あなたが数えてほしいと言うならば、無理にでも数えるが」
「いいえ」と首を横に振れば、額に彼の唇がつけられた。
「星は、いやというほどたくさんある」
「たくさんあるのですね。ミレイアは言いました。このたくさんの星々は、誰かが誰かの生を願っている証なのだと。誰かが誰かの死を願うよりも、生を願うほうが数が多いから、星は消えたりしない。延々と増えてゆく。……あなたは、どう思いますか?」
 彼は空に目を向けて、口の端を引き上げた。
「あの子が言いそうなことだ。俺は、ミレイアの言葉を否定はしない。肯定もしないが」
 ルシアノは、テラスにある椅子にアラナを抱えたままで腰掛ける。
「寒くないか?」
「寒くありません。あなたは?」
「暑いくらいだ。あなたも暑いか?」
 うなずくと、彼はアラナの肩から毛布を外して、腰の位置までくつろげた。そして、露出したアラナの胸と自身の硬い胸をくっつける。距離が近く、唇同士も触れそうだった。
 彼の視線をあびながら、その吐息が吹きかかる。
「俺が見えるか?」
「はい」
「ぼやけず、はっきりと見えるか?」
 暗がりのなか、問いかけてくる彼がやけになまめかしくて、心臓が、とく、とく、と速さを増していた。
「はっきりと見えます」
「俺は、あなたの目が捉えられる位置から離れようとは思わない。あなたから見える位置にいる。だから、あなたは俺を見ろ。つねにその目で俺を探せ。俺を呼べ」
「……わたしは、あなたの手をわずらわせてしまいます。迷惑をかけてしまいます」
 背中に彼の手が這った。さすってくれている。心地のいい力加減だ。
「わずらわしいなどとは思わない。迷惑なものか。俺はあなたの夫だ。気兼ねはするな」
 どうしてこんなにやさしくしてくれるのだろう。きゅっと胸が苦しくなった。じわじわと目の奥に痛みを覚えて、次第に視界がにじみだす。
 気づいた彼は、アラナのまつげにくちづける。あふれる涙を吸ってくれたのだ。
「アラナ、行きたい所はあるか? 外の世界に興味があると以前言っていただろう? 言ってみろ。いつか、必ず連れて行く」
 頬にしずくが伝っていった。彼の唇は間に合わず、後から後から落ちてゆく。
 かつて、国のために命をかけた騎士たちがいた。散りゆく命をたくさん見た。アラナ自身、目的のため、多くの命を使用した。それでも救いたい命は救えなかった。力のなさを痛感した。
 アルムニアには、古くから伝わる鎮魂の祈りがある。それをしたいと思った。
 罪を一生この身に背負い、命をかけて、愛する人を幸せにする。ともに生きてゆく。それは、同時に自分をも幸せにしてしまうことだけれど、ゆるしてほしいと思った。
 王に、王妃に、ミレイアに、ひざまずき、この先の未来のゆるしを乞いたいと思った。
「なぜ泣く? 泣き虫だな」
「ゆるされるのならばわたしは、ナバ・セルラトへ……行ってみたいと思っています」
 アラナの涙を指で散らしながら、ルシアノは、ふ、と息をもらした。
「あなたは変わらずセルラトをナバ・セルラトと呼ぶ。俺ですら言わない呼び方だ。敬意を持ってくれているのか。あなたから見れば、ただのかつての属国。取るに足らない小国だというのに」
 彼の頬がアラナの頬にすり寄せられた。けもののような頬ずりだ。
「ああ。いいだろう、ともに行こう。俺には秘密の場所がある。フリアンやレアンドロも知らない場所だ。聖域と呼ばれた王族だけの禁足地。王子だったころ、行き詰まった時にはそこでしばらく過ごした。そこに、大きな木がある。ただの大木ではないぞ? あなたは見たとたん驚くかもしれないな。そこから降る木洩れ日は、この世のものではないほど神々しい。春には、小さな白い花が咲く。あなたのような可憐な花だ。派手な色の鳥がたまにいた。いずれも名前は知らないが、それを見せてやりたい」
「見せてくださるのですか? わたしに」
「ああ、あなたを連れて行く。両親と妹に、あなたが俺の妻だと伝える。おそらくは、俺の様子に驚くだろう。永久の誓いをするなど、むかしの俺ではありえないことだ。──いや、やはりと思うかもしれないな。いずれにせよ、こんな華奢な身体では俺の相手は大変だ。俺が支えるから強くなれ。ともに努力しろ。いいな?」
 言葉を返したいけれど、言葉にならない。もごもごと唇を動かすアラナは、うっ、うっ、としゃくりをあげた。
「まだ泣くか。じきに俺たちにも子ができる。俺の前ではいいが、子の前ではあまり泣くなよ? 子が俺に似れば、ばかにされかねない。俺の性格を知っているだろう?」
 長いまつげを伏せた彼の顔が寄せられる。くちづけがくるのだとわかったが、アラナはその前に、自ら口を彼の唇にくっつけた。
「ナバ・セルラトに行きたいです。早く、あなたの子を産みたい。そう願っています」
 一瞬目を大きく開けた彼は、すぐに閉じ、ふたたびアラナにキスをする。
 また、目を開けて、アラナの頬に頬を擦りつけ、「抱いてもいいか?」とささやいた。

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