マグノリア
城下町は相変わらずの人の多さだ。ナダル王国の都ともなれば、人混みは当然のことである。だから覚悟はしていたが、それでも胆が冷えてしまうのは、自分の先を仔犬のように駆けていく小さな後ろ姿のせいだ。小さな身体でちょこまかと人を縫うように動かれると、この雑踏の中では見失ってしまいかねない。
「シャ……チャールズ! はぐれてしまうから走らないでくれ!」
焦って大声で注意すると、帽子を被った丸い頭がクルリと動いた。生成りのシャツに緑のベスト、茶色のズボン――その後ろ姿だけ見れば、街の少年たちとなんら変わらない。だがその少年が振り返った瞬間、周囲の人々が息を呑んだのが分かった。その少年の顔が、信じられないほどに美しいからだ。
(……だから変装など無駄だと言ったのに……)
どれほど着る物や髪型を変えても、この人の美貌と、身の内側からにじみ出る高貴な雰囲気は隠し切れるものではないのだ。
アルバートは溜めをつきたい気分になりながら、立ち止まった少年の手を取って、しっかりと握り締めた。
少年はそれが不満だったのか、青い瞳を眇めてみせる。
「バートがノロいんだろう。もっと速く歩け」
「……俺がこの人混みの中を走れば、周りが迷惑するんだよ」
アルバートの身長はかなり高い部類である。この大柄な体躯で走れば、人にぶつかることは避けられない。ただ事実を述べたつもりだったのに、少年には違って聞こえたようで、さくらんぼのように赤い唇を尖らせてジロリと睨まれる。
「それは暗にわた……僕をチビだと言っているのか?」
「言いがかりはやめてくれ……」
今度こそ溜め息をつき、アルバートは少年を見下ろした。
「危険だと言っているんだ、チャールズ。馬車もイヤだ、他の者を連れて行くのもイヤだと駄々を捏ねたのはあなただよ。俺の言うことを聞くなら、という約束だったはずだ」
静かに窘めると、少年は面白くなさそうな顔をしたものの、肩を上げて「悪かった」と謝ってきた。
だがすぐに、握ったアルバートの手を引き、先へと足を進め始める。
「でもとにかく、早く行かなくちゃ、バート。モタモタしていたらあいつらにバレてしまう」
手を引かれるままに足を速めながら、アルバートは「あいつら」こと、王宮の近衛騎士たちを頭に思い浮かべ、心の中で「すまん」と謝った。
(……女王に抜け出され、さぞや蒼褪めて慌てふためいているだろう……)
女王陛下を守るために存在する騎士たちが、守るべき女王に出し抜かれ、王城から抜け出されたのだから堪ったものではない。
女王に「息抜きに街へ行きたい」とねだられて、結局言いなりになってしまう自分も悪いのだと分かっている。だがそこは惚れた弱みなので多めに見てほしいところだ。申し訳ない。
つまり目の前でアルバートの手を引く少年は、平民の少年に扮したシャーロット二世――この国の女王陛下なのである。彼女は三十路を超えたれっきとした大人の女性だが、外見は十三、四の少女にしか見えないという人間離れした容貌の持ち主なのだ。
そしてその手を握るアルバートは、平民の扮装をした王配殿下とくるのだから、この国の最高権力者夫妻が揃って、供も連れずにお忍びで城下町を散策しているという非常事態である。
憐れな彼らを早く安心させてやるためにも、この自由奔放な女王陛下の気が済むまでお付き合いするのが得策というやつだろう。
アルバートは腹を決めると、先を行くシャーロットに追いつくように歩みを速めた。
***
シャーロットが向かったのは、城下街の外れにある丘だった。
(――ああ、なるほど……)
ここに来てようやく、シャーロットが何故ワガママを言ったのかが分かったアルバートは、薄く微笑んで目の前の光景に見入った。
大きなマグノリアの木が、白い花々を咲かせ、誇らしげに立っている。
「……今が満開だって、マチルダが言っていたわ。あなたと二人きりで観たかったの」
手を繋いで隣を歩くシャーロットが、少し気恥ずかしそうに呟く。それを聞いて、アルバートは繋いだ手を持ち上げて、彼女の手の甲にキスを落とした。シャーロットが愛しくて堪らなかった。
ここは、ずっと昔にアルバートが連れてきた思い出の場所だった。
(……あの頃は『アン』と呼んでいて、彼女が女王だなんて思いもしなかった)
当時のアルバートは、何も持たないただの若造だった。それでも恋をした女の子に、自分のできることをしてあげたくて、せめて、と美しい光景を見せて回っていたのだ。
(今思えば、滑稽な話だ)
なにしろ、その恋した女の子は、女王陛下だったのだから。普段から美しい物など見慣れていただろうに、それでも彼女は笑ったのだ。
『ありがとう、バート! ここに連れてきてくれて!』
サファイアブルーの瞳をキラキラと輝かせて、シャーロットはそう言って喜んでくれた。
そして晴れて夫婦となった夜に、彼女は言ったのだ。
『美しいもの、楽しいもの、嬉しいもの、そういうものを全て、私はこれからあなたと分け合って生きていきたい』と。
この想い出のマグノリアを愛でるのも、その一環なのだろう。
「ありがとう、シャーロット。とてもきれいだ。あなたと二人でこれを見られることを、幸せに思うよ……」
目と目を合わせてそう言うと、シャーロットがくしゃっと泣き笑いのような表情を浮かべた。
(――ああ、なんて……)
シャーロットのあまりの可憐さに眩暈を覚えながら、アルバートはその白い頬に手を添える。次に何が来るのかを理解している彼女は、頤を反らせてこちらを見てくれた。身を屈めてその顔に己の顔を寄せ、アルバートは最愛の妻にキスをする。
「――毎年、この花を見ましょう。二人きりで」
たっぷりと甘い唇を堪能してからそう告げると、シャーロットはパッと顔を輝かせた。
「本当? 約束よ?」
まるで無邪気な子どものように確認する彼女に、アルバートは目を細めて頷く。
女王のこんな表情を知るのは自分だけだ。
彼女が女王でない『シャーロット』でいることができるのは、自分の前だけなのだと思うと、アルバートの胸が悦びで満たされた。
「ええ、約束です」
これからも、ずっと二人で――。