新妻は夫のとっても驚く顔が見たい。
アインスノアール公爵レーニエ・ダルマンが、前皇朝の血を引く美しい妃を迎えて三ヶ月ほど経った。
帝都にある公爵邸で営み始めた新婚生活は、平和で温かい。
人格にやや特徴があるレーニエも、愛しい新妻との家庭作りを素直に楽しんでいる。
妻のアリスティア……アシュリーも、新しい環境に慣れてきたようだ。
基本的には家でのんびりと『女主人としての邸内の仕切り』について学んでいるが……成果はほどほどだ。
だがそれでいい。家庭が平和ならそれに勝るものはない。
――アシュリー、君には締め付けの厳しい暮らしは合わないからね。
そう思いつつレーニエは、アシュリーの方に視線をやった。
締め付けと言えば、胸である。
その夜、寝る支度を終え寝室に入ったレーニエは、寝間着の下で揺れるアシュリーの胸を観察していた。
――ちょっと胸が大きくなったかな? 何故だろう。
アシュリーは鏡の前で髪をくしけずっている。身動きするたびに、豊かな胸が鏡の向こうで揺れた。
――鏡はいいな……角度によっては、たまによく見えないのが最高だ……。
「そういえばアシュリー、今日は食欲がなかったの? 夕食をあまり食べていなかったけど」
「……え? あ、えっと……大丈夫よ、おやつをいただきすぎたの」
美しい髪を丁寧にとかしながら、アシュリーが答える。
――食が細くなったのかな……前よりややふっくらしたように思えるけど……。
「明日の音楽会も欠席するって言ったよね? 体調が悪いのか?」
「そう……でもない……かも……」
妙に歯切れが悪い。
顎に手を当てつつ、鏡に映る胸を見ていると、不意にアシュリーが振り返った。
「あの……レーニエ、あのね、私これから忙しくなるかも」
アシュリーが鏡台の前で髪をとかし終わって、笑顔で振り返る。
「ん? どうして? 何が忙しいの?」
アシュリーの清らかな笑顔に、レーニエは『胸など凝視していませんよ』という笑顔を浮かべた。
「当ててみて」
レーニエは座っていた寝台から立ち上がり、鏡台の前の彼女の側に歩み寄った。
「そうだな……新しい勉強でも始めるのかな?」
「残念、勉強は必要なことだけど違うわ」
「じゃあ大きな絵を描くのか?」
「ううん、大きな絵を描くのは来年以降になるかしら」
全く分からない。腕組みをしたレーニエは、アシュリーに尋ねた。
「なんだろう、他に手がかりをくれる?」
「うーん……大好きな人がまた増えそうな感じなの」
アシュリーは天真爛漫で、実父も、イルダネルも、メリーアンも、アストンも、公爵家の使用人達も、皇帝家の皇子皇女も、皇女時代のお友だちも全員大好きなのだ。
だが心の狭いレーニエは、大好きな人がまた増えると聞いて、心がどす黒くなるのを感じた。
先月観劇に連れて行ったとき、アシュリーが『俳優さんが素敵だったわね』と言ったことを思い出す。
もちろんただの感想だと分かっている。
だが、レーニエは本当に嫉妬深いのだ。『俳優さんが素敵だった』という言葉を咀嚼し胸に納めるのに、三日はかかった。何度発狂しそうになったことか。平和なときだから味わえる嫉妬と分かってはいるが、耐えがたい。
表向きは平然として見せていたが、心の中は嵐のように荒れ狂う冬の海のようだった。
またあんな地獄を味わうのだろうか。
「舞台でも見に行ったの……?」
我ながら血を吐くような声音だと思うが、これ以外の声が出せないのだ。
「いいえ、先月が最後よ」
アシュリーは頬を桃色に染め、とても幸せそうだ。
夫を地獄に突き落とすのが楽しいのだろうか。だとしたら魔性の女だと思う。
「あとの手がかりは……そうね……新しいお部屋を用意してもらうかも」
「誰か、支援したい芸術家でもいるのか?」
それはアシュリー好みの画才を持つ男性芸術家などだろうか。真顔になったレーニエの前で、アシュリーが拗ねたように唇を尖らせた。
「分からない?」
「そうだね……ごめん……分からない……」
掠れた声で答えると、アシュリーが櫛を弄りながら真っ赤な顔で言った。
「言おうかな、どうしようかな、うーん……」
「……言ってくれよ」
地獄の底からの便りのような声が出た。
「えぇ……でもどうしよう……恥ずかしい……」
こんなに恥じらうなんて。もしかして、やはり、新しい男……なのだろうか。
「言ってくれ、アシュリー……頼むから……」
光のない目で懇願すると、アシュリーが耳まで赤くなってキョロキョロし始めた。
「あ、あのね」
そろそろ前置きに耐えられなくなってきた。呼吸も怪しくなり始めたレーニエの耳に、小さなアシュリーの声が届く。
「……あの……私……赤ちゃんが出来たの」
とっさに何を言われたのか分からず、レーニエは左右を見回す。
アストンも侍女たちも公爵家付きの侍医も、そんな話は何も報告してこない。
――子供……?
もしかしてアシュリーの勘違いかと思い、レーニエは冷静に問いただす。
「どうしてそう思うの、君は」
淡々とした反応に、アシュリーが覿面に拗ねた顔になった。
「どうしてそんなにお勉強の時間みたいな口を利くの?」
「いいから答えて。おかしいよね? 僕は月のものが止まったなんて報告は君から受けていない」
「え……だって……言わなかったの……」
「何故……そんな大事なことを言わないんだ……?」
衝撃に震えながらレーニエは問う。実際に来たかまでは、この目で確認していなかった。まだ本物の変質者ではないからだ。
「そんなことくらい自分で管理できるもの。恥ずかしいのよ……! だからレーニエに『今月そろそろ来るよ』と教えてもらっても、うんうんって誤魔化してしまったの」
――……僕としたことが……油断した……。
レーニエは拳を固めて、アシュリーに出来るだけ優しく言った。
「少しでも変わったことがあったら、全部僕に話すように言ったよね? ニキビが出来そうとかその程度でもいいから言ってくれって。何があっても、僕に言ってくれると思っていたよ」
「嫌! 私は公爵妃になったのよ。自立した貴婦人なんだから。少なくとも、これからはそうなるつもりなんだから……!」
――下着の寸法も生理日も把握するなと怒るし、急激に成長したな……。僕が昔のように、思考判断への干渉をしなくなったせいだろうけど。
アシュリーの成長をほろ苦く受け止めつつ、レーニエは脂汗を拭った。
「それで……? そんな理由で僕に黙っていたの?」
「だって、恥ずかしいし……様子を見ようと思って……」
アシュリーが林檎のように赤い顔になる。
――君は、意外なところで照れ屋だね……。
「でも、今朝あたりから本当に身体がつらくなってきて、食事もあまり摂れないし……。間違いなさそうだからちゃんと診てもらおうと思ったのよ」
アシュリーは照れ隠しのように顔を背け、床を見つめた。
「あ……あのね、アシュリー……あの……その判断は間違っている。わかるよね? 数日前もその前も、何度も君と床を共にしてしまったし……赤ちゃんに……危険があったら……」
以前、本で調べた限りでは超初期は通常はあまり影響がないとあったが、アシュリーを危険に晒したと思うだけで目眩がする。
「ごめんなさい」
「なぜ、辛いのに平気なふりなんてするんだ」
「日に日にじわじわと辛くなっていくから、気のせいなのか、違うのか、自分でもよく分からなくて。でも今朝は耐えがたいほど気分が悪かったから確信したの。ああ、これもお姉様達も苦しんだという『悪阻』なのねって」
アシュリーは気まずそうに斜め下を見つめたままだ。
床ではなく、目の前で蒼白になり震えている夫を見て、己の所業を反省してほしい。
「それで今日のお昼に、侍医の先生にご相談したらすぐに診てくださったわ」
気を失いそうになりながらレーニエは無言で頷き、続きを促す。
「先生は、赤ちゃんが居て心臓も動いている、って言ってくれたの……! 本当にいるんだって実感したら、嬉しくて……」
レーニエは衝撃の告白にぼんやりと頷いた。
「それでね、先生には、レーニエがとっても驚く顔を見たいから絶対に内緒にして、ってお願いしたの。そうしたら『無理をしない、すぐにレーニエ様に報告する』って約束で、口外しないと言ってくれたのよ」
貧血を起こした自覚と共に、レーニエは尋ねた。
「僕の……とっても驚く顔……は、見られたかい?」
「ええ」
アシュリーが満足そうに微笑んで、ぎゅっと抱きついてくる。
レーニエは、甘えるアシュリーを震えて力の入らない腕で抱きしめ返した。
「ねえレーニエ、恥ずかしいから、明日皆に一緒に報告してくれる?」
「当たり前だろう! するとも! 真っ先にするよ……!」
驚きすぎて『公爵らしい顔』を作ることすら忘れ、レーニエは言った。
初めて結ばれた朝、目を開けたら三階の窓の外にアシュリーがいたときと、同じくらい驚かされた。
ようやく我に返ったレーニエの胸に、不思議な白い光のようなものが満ちてくる。
自分は喜んでいるのだ、と、レーニエはようやく自覚した。
「私、赤ちゃんを無事に産むまでは木登りしないし、馬車にも乗らない。屋根裏から屋根に上って、絵を天日干しするのも止めるから」
「最後のは初耳だ……ああ……アシュリー……生まれてからも木には登らないでくれ、何度言わせるの?」
レーニエの目から涙がにじんだ。
吹っ飛ばされたような衝撃から覚め、ようやく事実を咀嚼できた気がする。
「……そうか、そうなんだ……嬉しいな」
「私、絶対に無理しないわ。だからレーニエも、私と赤ちゃんを色々と助けてね」
涙が音もなく滴り、アシュリーのさらさらの髪に吸い込まれる。
「……ああ、もちろん。こんなに僕を驚かせるのは、君だけだよ」
レーニエは絞り出すように、やっと、それだけを答えた。