モフモフ悪魔は嫉妬する
「もと居た場所に戻してきなさい」
ヴァールハイトが腕を組んでしかめ面をすると、オリアは瞳を潤ませつつこちらを見上げてきた。彼女の長い睫毛が滑らかな頬に影を落とす。
「これから雨が降るのよ? そんなことしたら、死んでしまうかもしれないじゃない!」
噛みつく勢いで言い返してくるオリアは、腕に抱いた茶色の子犬を大切そうに抱え直した。ヴァールハイトに秘密で家の中へ入れようとしたらしいが、そんなことはお見通しだ。そもそも、気がつかないわけがない。
「野良犬など、いちいち保護していてはキリがありません。その子犬の命運が尽きていなければ、逞しく生き抜きますよ。だから戻してきなさい」
「まだ生まれて間もない子が、親からはぐれて生きられるわけがないでしょう。ヴァールハイトのケチ。冷血漢。とにかく今夜は絶対に外に出したりしないから!」
オリアは、もうこれ以上言うことはないとばかりにそっぽを向いた。こういう時の彼女は、とてつもなく強情なのである。無理に言うことを聞かせようとしても、反発するだけだろう。下手に子犬を追い出せば、自分も外で過ごすと言いかねない。
うんざりと天を仰いだヴァールハイトは、渋々了承するしかなかった。
「……一晩だけですよ」
「……! ありがとう、やっぱりヴァールハイトは優しい。大好き!」
散々悪態を吐いた後にこれである。変わり身の早さに呆れつつ、ヴァールハイトは妻の嬉しそうな笑顔に頬が緩みそうになった。
「毛布とミルクを用意しましょう」
オリアの腕の中で、小さな子犬はピスピスと鼻を蠢かしている。大きな焦げ茶の目が無垢な光を湛えていた。野生と言っても、まだ子供。人間に対する警戒心は薄いらしい。
「うふふ、可愛い……」
「……ところで、どこで拾ってきたのですか」
正直、ヴァールハイトは非常に面白くない。安心しきった様子でオリアに身を預けている子犬を、つい苦々しく見下ろした。
もともと別の種族である自分たちが恋に落ちたのだから、彼女の関心を引く存在は『人間の男』以外でも警戒すべき対象だ。蕩けそうな笑顔を毛玉めいた生き物に向けるオリアを横目で見つつ、ヴァールハイトは平静を装って皿にミルクを注いでやった。
「リタと別れた後、この子が森の中で震えていたのを見つけたの」
オリアは今日、友人の家に遊びに行っていた。その帰りに弱った子犬を偶然発見したのだと言う。親からはぐれたのか、それとも見捨てられたのか―――分からないけれど、放っておかれればそのまま森に棲む他の動物の餌食になっていただろう。
「目に入っちゃったら、見て見ぬ振りはできないでしょう……?」
ヴァールハイトがオリアと夫婦になって約一年。
彼女が生き物を保護してくるのは、これが初めてではなかった。昔は狼(ノワール)の気配が漂うこの辺りをうろつく獣は少なかったけれど、最近では小動物が沢山棲みついているからだ。むしろ大型の肉食獣が出ない安全な場所と見なされているらしい。
悪魔ではなくなったヴァールハイトだが、知識や経験まで失ったわけではない。
千年間で得たものは膨大な情報量になっている。つまり、危険な生き物を避ける方法も熟知していた。
―――私の大事なオリアを危険に晒すわけにはいきませんからね……
爪や牙、何より魔力のなくなった今、頼りになるのは主に知恵だ。家の周囲には万全の罠を張り、安全策を施してある。抜かりはない。そしてそれらは、悪しき存在にも適用されていた。
これから先、他の悪魔がオリアを狙わない保証はない。美しい魂をもつ彼女は、絶好の獲物として魅力的な対象だろう。
今まではヴァールハイトを恐れ手出ししてこなかった者たちが、守護がなくなったと思い活気づく可能性があった。
―――もっとも、そんなものは最初に潰しましたけど。
人間になったヴァールハイトがまず手掛けたのは、かつての同族を徹底的に遠ざけることだった。彼らが何を嫌がるのか、自分も悪魔だったからこそよく分かる。聖職者ですら把握していない効果的な方法だって知っていた。
これでも一応元天使でもあるのだから、その辺りのことはお手の物だ。自分がかつて人間ではなかったことにこれほど感謝する日が来るとは夢にも思わなかった。何が役に立つのか分からないものだ、運命とは皮肉である。
昔は己の存在ごと消し去りたいと願うほど、全てを恨み呪っていたのに。
何はともあれ、ヴァールハイトがこれまで身につけた知識と経験を総動員して守る、愛しい妻との生活は順風満帆なのだが―――
「オリア、貴女がお人好しなのは重々承知していますが、ものには限度があります。生き物を連れ帰るのは、今月だけでも三度目ですよ? 幸い全て引き取り手が見つかったからいいようなものの……それに私、動物はあまり好きではありません」
「ええ? 自分が狼だったくせに?」
「正確に言えば、狼ではなく悪魔ですが。しかも過去の話です」
子犬や子猫、小鳥に子兎を引き取ってくれる知り合いを探すのもそろそろ限界だろう。オリアがあわよくば今回の子犬をこの家で自分が育てたいと考えているのを見越し、ヴァールハイトは釘を刺した。
「うちでは飼えませんよ。引っ越しの予定もあるのに」
町から離れ、森の中に住まねばならない理由もなくなった今、二人の間には住み替えの話が持ち上がっていた。もっと便利で人の多い町の中に新しい家を構えるつもりなのだ。そうすれば買い物が楽になるし、何より互いの仕事にとっても都合がいい。
いずれ子供も欲しいし―――と二人で話し合って決めたのだ。
「そうだけど……し、新居でも飼えなくはないと思うの。私、ちゃんとこの子のお世話をするわ」
「甘いですね、オリア。自分のことすらままならない貴女に、子犬の面倒が見られると思いますか?」
「し、失礼ね。馬鹿にしないで。ノワールのお世話だってきちんとしていたじゃない」
「馬鹿ですか? 私は何でも自分でしてきましたよ? 貴女がしていたのは精々毛繕い程度でしょう。散歩も必要なかった私と、これからまだ手のかかる子犬を比較するなど、愚かすぎて言葉もありません」
充分言っているし、と言いたげに唇を噛むオリアを見ていると、ヴァールハイトは胸の高鳴りを覚えた。悔しそうに歪んだ彼女の顔は可愛らしい。どう反論してやろうかと、必死に考えを巡らせているのだろう。
そんな姿を目にすると興奮して、もっと虐めてやりたくなってしまうのは、ご愛敬である。
未だ抜けきらない悪癖は表面に出さず、ヴァールハイトは子犬を抱き上げようとした。が、生意気にもスルリと躱される。
「私ももう子供じゃないから、この子の面倒くらいちゃんと見られるよ」
「駄目です。交渉の余地はありません」
「育てたら、番犬になるかもしれないじゃない。ノワールの代わりに!」
「なりませんよ。ご覧なさい、この精悍さの欠片もない顔つきを」
獰猛とは言い難い犬の顔を指し示し、ヴァールハイトは殊更大仰な溜め息を吐いた。実際、子犬は自分について何を言われているのかまるで理解しておらず、緩み切った顔をしている。
もっとミルクをくれと催促し、空になった皿に頭を突っ込んで舐め回していた。将来的に、頼りになる番犬になるとは到底思えない。これを昔の自分の代わりと言われては、一層面白くなかった。
そもそも、色々あって本当にようやく、穏やかな二人きりの生活を手に入れたのだ。ヴァールハイトとしては、何ものにも邪魔されたくはない。それがたとえ、毛玉の如き動物であったとしても、だ。
「捨てるのが嫌なら、引き取り先を探すしかありませんね」
「……ヴァールハイトの悪魔……っ」
「それは過去のことです。オリアはどうにも語彙が乏しいですね……教育を誤ったかもしれません」
口ではヴァールハイトに勝てないと思ったのか、彼女はむくれたまま子犬を撫でている。以前は自分にだけ与えられていたその感触を思い出し、ヴァールハイトの胸が騒めいた。
―――不愉快だ。
子犬が気持ちよさそうに腹を見せているのも苛々する。オリアの優しく柔らかな手は、自分だけのものなのに―――
「……意地悪なヴァールハイトは嫌い」
「何ですって?」
ごく小さなオリアの呟きを耳が拾い、ヴァールハイトは声を尖らせた。冗談でも聞きたくない。万が一本心ならば、何としても取り消しさせなければ。
「よく聞こえませんでした。もう一度言ってご覧なさい、オリア」
「だ、だって、ヴァールハイトが酷いこと言うんだもの……この子、放っておいたら確実に死んじゃうのに……!」
こちらの怒りを感じ取ったのか、彼女は慌てて場を取り繕おうとした。だが適当な言い訳が見つからなかったのか、もごもごと文句を言ってから項垂れた。
「……ごめんなさい。私が言いすぎたわ……」
本当に根が素直な娘だ。ヴァールハイトは思わず吹き出しそうになったが、悄然と肩を落とすオリアからは見えない角度で、綻びかけた口元を引き締めた。
「分かればよろしい」
「あの、でも、この子犬のことは話が別だから!」
前言撤回。頑固な娘だ。
ヴァールハイトは半ば呆れつつ、緩く嘆息した。
「……別に今すぐ捨てろとは言っていませんよ。これまで通り、新しく飼ってくれそうな家は一緒に探します」
「ありがとう……でも、あの……やっぱりうちで飼っちゃ駄目かな……?」
「急にどうしました? 今まではそこまで意固地ではありませんでしたよね?」
引き取り手が見つかれば、絶対に飼いたいなどと主張することはなかった。それなのに今回に限り、新たな飼い主を探そうともせず自分が飼いたいと言うオリアに、ヴァールハイトは首を傾げた。
それほど、この小さな生き物に執着しているのだろうか。
心の深い部分で、黒い感情が蠢くのを感じる。
天使であった頃には感じなかったもの。悪魔に堕ちてからは知らなかった思い。嫉妬と呼ばれる感情をヴァールハイトに刻み付けたのは、オリアだ。彼女を責め立てたくなるのをどうにか抑え込み、ヴァールハイトは無理やり口角を引き上げた。
「オリア、町の中に引っ越せば、番犬も必要ありませんよね?」
「……そのいかにも作り物の笑顔、怖いよヴァールハイト……怒っているの?」
「怒っていません。苛ついているだけです」
「それを世間一般では怒っているって言うんだよ……!」
わざと笑みを深めてやれば、彼女は背筋を震わせて慄いた。
「別にこの子犬を特別扱いする必要はないでしょう。もと居た場所に置いてくることがそれほど嫌なら、きちんと引き取り先を見つけて差し上げます。それでいいですね? さ、この話はおしまいです」
「い、嫌っ! だ、だって、なんだかこの子犬が私みたいだと思ったんだもの……!」
「え?」
予想外のことを言われ、立ちあがりかけていたヴァールハイトは固まった。
子犬がオリア自身とは、いったいどういうことだ。
「ねぇ、見て。ヴァールハイト。この毛並みの色、私の髪に似ていると思わない? 瞳の色だって、私と同じだよ?」
言われてみれば、人を疑うことを知らない純真そのものな眼差しもそっくりだった。
満腹になったらしい子犬は、コテンと首を傾げて床で伸びている。……締まりがない。
「確かに、無防備で警戒心がないところはそっくりですね」
「そうじゃなくて! 独りぼっちになっちゃったところも含め……放っておけないと感じたの。私にはヴァールハイトがいてくれたけど、この子には誰もいないんだと思ったら……私……」
上手く言葉にできないのか、オリアはもどかしげに拳を握り締めていた。だが、言いたいことは充分ヴァールハイトに伝わってくる。
彼女は子犬に自分を重ねて、同情を募らせたのだろう。優しい娘だから。
「貴方がずっと傍にいてくれたように、私も誰かの支えになりたいと思ったの……この子、心細くて不安で仕方なかった昔の私みたいだったし……ヴァールハイトが私にくれた大切で素晴らしい時間を、分けてあげられたらいいなって……そうしないと何故か私自身が捨てられた気分になっちゃう……」
そこまで言われては、頭ごなしに『駄目だ』と繰り返すのは躊躇われた。
オリアの気持ちも、分からなくはなかったからだ。
この子犬が迷子かそうでないかは不明だが、オリアは『見捨てられる』ことに敏感だ。かつて自分の父親にされたことが、心の傷になっているのだろう。記憶を取り戻したことによる弊害の一つは、間違いなくこれだった。
忘れていた頃にはまるで気に留めていなかったけれど、彼女は『見捨てられる』のを殊の外恐れる。目の前の子犬を見て、余計にその気持ちを強めたのかもしれない。
「ヴァールハイト……今回だけ。お願い、飼ってもいいでしょう?」
「……仕方ありませんね」
ついに折れたヴァールハイトは髪を掻き上げ、自分も子犬を撫でてやった。もう強く反対する気にはなれない。それに―――
「……この子犬は雌のようですね」
「あ、うん。女の子だよ。だから余計に自分と重ねちゃったのかな」
抜かりなく、子犬の性別は確認した。
「きちんと世話をすることと、これ以上増やさないことを約束なさい」
「勿論、約束する! 本当に飼っていいの……?」
「ええ。私にもこの間の抜けた犬の顔がオリアに見え、可愛く思えてきました」
「何それ、失礼。謝って。でもありがとう、ヴァールハイト……!」
感極まったオリアに抱きつかれ、ヴァールハイトは彼女を強く抱き返した。愛しい妻を腕の中に閉じこめ、無垢な瞳を瞬く子犬を見下ろす。
―――百万歩譲って、雌なら許してあげましょう。でもオリアは私のものです。
ただの子犬にも渡さない。一片たりとも奪われてなるものかと、元悪魔は掛け替えのない存在に濃厚なキスをした。