辺境生活
最近、レオナルトの様子がおかしい。
ヴィクトーリアは部屋でひとり、鬱々とそんなことを考えていた。
結婚してからというもの、毎夜のごとくヴィクトーリアを抱き潰していたレオナルトが、先月くらいから外泊を重ねるようになったのだ。
仕事だということだから仕方ないだろう。
これまでだって、遠征だとか訓練だとかで、何度か家を空けることはあった。
しかし、最近それが頻繁になっている。
外泊した翌日、帰って来るのは夜遅くで、疲れがひどいのか、動くのも億劫だといった様子で眠ってしまう。疲れているのなら、ヴィクトーリアだって無理をさせたくないし、できるだけ安らかに過ごしてほしいと思う。
でも、レオナルトが?
あの、レオナルトが?
寝ても覚めても明けても暮れてもヴィクトーリアを求めることに対してなんの遠慮もなかったレオナルトが。
不自然な外泊が続けば、ヴィクトーリアだって不安にもなる。
そんなことを考えると、イライラしてくるしむかむかしてくるし気づけば泣きそうにもなって、不貞寝をしてしまう。
自分があまりに不安定で、ヴィクトーリアはレオナルトに何かあったのに気づかなかったのだろうか、と考え始めた。
辺境に暮らし始めて半年。
王都とは違う生活に、まったく戸惑わなかったわけではない。しかし町の人々はレオナルトの妻だとわかるととても優しくしてくれるし、貴族相手でも気安く接してくれる。貴族の社交界のような建前だらけの付き合いがないだけでも、ここはヴィクトーリアにとって過ごしやすい場所だった。
レオナルトの部下たちも、面白く話しやすい。レオナルトを信頼しているという点が同じだからかもしれない。
町にある娼館の娼妓だって、ヴィクトーリアを毛嫌いするどころか、辺境での美容法などを楽しく教えてくれる。独身でなくなったレオナルトを誘うことはないらしい。
でも――
ヴィクトーリアは気づいた。
彼女たちは、とても綺麗だ。貴族らしい美しさではないが、異性を惹きつける妖艶な魅力がある。娼妓でなくたって、町で暮らす人――他国の商人の中にだって、未だにレオナルトを狙う女性は多いのだ。
ヴィクトーリアを怖いくらいに強く想ってくれているレオナルトだが、人間なんだから心変わりすることだってあるだろう。
そこでヴィクトーリアの頭に、ある言葉が浮かんだ。
飽きた。
その一言が、自分にこれほどの衝撃を与えるとは思ってもみなかった。
我慢しようとしていた涙が、目に浮かんで零れ落ちようとしている。
やっぱり、求められるがままに何度も抱かれてきたけれど、あまりに毎日だったから、飽きが早まったのではないだろうか。
そう思うとぽたりと頬に涙が伝う。
思い返せば、ひと月は身体を重ねていない。
あんなに毎日求められていたのに。
苦しいくらいの愛情は、困ったと思うことはあっても辛いと思うことはなかった。毎日抱き合うことだって、あまりの執拗さに恥ずかしくなるだけで、嫌なわけではなかった。
やめてと言うこともあったけれど、それは本音ではなく、レオナルトに望まれていると思うとなんでも受け入れてしまっていた。
今はもう、彼に望まれていない。それがわかると、心の奥に空洞ができたようで、ひどく寒い。実際に手が震えて、ひくっと嗚咽が漏れた。
「う……っ」
砦の町は全体が賑やかで、昼間は家の中にいても町人たちの声が届く。
外は賑やかなのに、ヴィクトーリアのいる部屋はとても静かだ。
それがすべてを表しているように思えて、ヴィクトーリアの目からはらはらと涙が零れた。
引きこもるのは楽だけど、ひとりになりたかったわけではない。ここには家族もおらず、数少ない友達すらいない。
脳裏に浮かぶのは、いつでも頼りにしていた親友だ。
「……ジジ」
ここに、彼女がいればいいのに。
「はーい? なあに?」
まさか返事があるとは予想もしていなかったヴィクトーリアは、泣き顔のまま驚いて顔を上げた。
「トーリア……どうしたの? なんで泣いているの? どこか体調が悪い?」
「……ジ、ジジ?」
「何?」
「ほんもの?」
「偽者の私になんて会ったことあった?」
からかいながらも、楽しそうに笑う親友は、確かに本物のようだった。
とすれば、今ここにいることが不思議でならない。思わず涙も引っ込むほどだ。
「ど、どうしてここに?」
「呼ばれたからだよ」
あっさりと返すジジは、ソファに座ったままのヴィクトーリアの前にしゃがみ、ヴィクトーリアの手を取って脈を測ったり顔や身体に触れたりしている。
「誰に?」
「レオナルト様にだけど?」
「――えっ?」
「君の結婚式の後から、こっちに来ないかって誘われてたんだよ。何度も何度も手紙や人を送られて、好条件過ぎるくらいだったから、親もそれならって了承しちゃって、二か月くらい前かな? 行きますって返事をしたら、恐ろしい早さで辺境行きの準備をされて。騎士って手が早いね」
「――え?」
ジジは一度宙を見上げ、言い直した。
「騎士って仕事が早いね」
「え?」
言い換えたところで、まだヴィクトーリアの理解は追いついていない。
「今のところ大丈夫みたいだけど、ちゃんと寝ているかな? 気持ち悪くない?」
「え……っと、どうして?」
気持ちが悪いかと言われれば、今はそうでもない。イライラしたりムカムカすることは、最近朝ひとりでいるときにはよくあることだからだ。その不調を知っている様子のジジに驚いた。
「だって君、妊娠しているんでしょ? 大事な時期なんだから、安静にしてないと。それもあって、私こんなに早くこっちに来させられ――来たんだからね」
「……えぇ?」
ジジは、いったい何を言っているのか。
どれから理解すればいいのか、戸惑うばかりのヴィクトーリアに、ジジはにこりと笑った。
「レオナルト様はさ、私をこっちに呼ぶ理由について、信頼できる薬剤師が欲しいとか、騎士団のために研究をしてほしい、とか言ってたんだけど、本当は君が寂しくないように、だと思うんだ」
愛されてるねぇ、と笑うジジに、ヴィクトーリアは顔が熱くなった。
ついさっきまで、気持ちが離れてしまったのかもと、ひとりで落ち込んでいたというのに。
ジジの説明を聞けば、ここのところ彼が不在だった理由も、疲れ切っていた理由もわかってしまった。
彼は、王都と辺境を往復していたのだ。
しかも、馬車で片道二日はかかる距離をだ。それを一泊しかせず、短時間で往復していたようだ。いくら強靭なレオナルトでも、疲れ切って当たり前だ。
「ちなみに私の新しい店は、この家の裏通りの角にできるよ。前より近いね」
「ジジ……」
そう言って手を取られても、喜べばいいのか驚けばいいのか。困惑していることだけは確かでうまく言葉が出ない。
「ヴィクトーリア、帰った……どうした?」
帰って来たレオナルトが、ヴィクトーリアの部屋にやって来た。すぐに、ヴィクトーリアの顔に涙の跡があるのに気づいたようで、急ぎ足で駆け寄る。
ソファに座るヴィクトーリアを抱き上げ、自分が座った膝の上に降ろした。
近い、と言っても、これが定位置と言ってレオナルトは譲らない。騎士の膝の上は婚約者のものではなかったのかと言えば、妻はもっと深いところに座ってもらうものだと言い出したので、追及したくなくなった。
「どうした、ヴィクトーリア」
レオナルトが心配そうに涙の跡を指で拭う。
視線の端に、声を殺して笑いながら、出ていくジジが見えた。
いつもの彼女のようでありながら、どこか違っているようにも感じて、このまま別れてもいいものか迷う。そんなヴィクトーリアに、小さな声で「また来るから」と言ってくれたから、少し安堵して、夫に意識を集中させる。
この、もやもやする気持ちをどう言えばいいのかわからず、眉を下げながら呟いた。
「……私、妊娠しているの?」
「そうだ。妊娠初期はあまり手荒に扱うなと、母上に言われていたからな。体調は大丈夫か?」
「……貴方、知っていたの?」
いつから、と聞かなくてもわかる。
レオナルトが抱かなくなったのは、ひと月ほど前のことだ。
「当然だろう? 気づいてなかったのか?」
驚いた様子のレオナルトに、ヴィクトーリアの方がびっくりだ。
いったいどうして、妊娠した妻よりも妊娠していない夫のほうが早く気づくのか。
「つわりの症状は人それぞれと聞く。しかし早いうちから信用のある薬剤師に側にいてもらったほうがいいだろう? 王都に戻って産む、という選択肢もあるが、それはもっと安定期に入ってから考えることらしい」
「…………」
ヴィクトーリアには何も言えなかった。
いったいどうして、ヴィクトーリアよりも先に考えているのだろう。正直、これまでの人生であまり結婚というものを深く考えて来なかったヴィクトーリアは、当然子供を産むことについても知識は乏しい。妊娠は大変だろうな、と思っていたくらいで、そんな妻より詳しそうな夫は何者なのか。
問い詰めたいことばかりだったけれど、ヴィクトーリアはひとまずレオナルトの背中に腕を回した。
「ヴィクトーリア?」
「……子供、嬉しい?」
こんなに早く授かるなんて思っていなくて、ヴィクトーリアはまだ心が落ち着いていなかった。
嬉しくないわけがないが、いろいろと大変なことが起こるのは明らかで、それをレオナルトがどう思うのかが知りたい。
しかしレオナルトはあっさりと、そして声だけでも嬉しいとわかる一言を言った。
「もちろんだ。俺は君と愛し合うときは一度だって、避妊をしたことはないからな」
それはそれでどうかと思うけれど。
ヴィクトーリアは、さっきまで寂しくて辛くて泣いていたことなど遠い昔のように思えた。
それくらい、この腕の中は心地よい。今やヴィクトーリアにとって、一番安心できる場所になっていた。
「賑やかになるわね」
「いいことだ」
そして、ふたりの間に子供ができたことを、レオナルトが喜んでくれているのが、さらにヴィクトーリアの気持ちを浮上させる。
全然気づかない、だめな母親でごめんね。
ヴィクトーリアはまだ小さな、姿も見えない子供に謝りながら、抱きしめる腕に力を入れた。
「――ねぇ、どうして妊娠に気づいたの?」
「騎士だからな」
「――――」
予想はしていた。でもその答えは、絶対に間違っていると思う。
結婚しても、やっぱりおかしいとしか思えない。
いつか絶対、「騎士だから」を封じてみせる。
ヴィクトーリアは心地よい腕の中で決意しながら、楽しい未来を思い描いて、笑った。