二年目
椿は風邪で寝込んでいた。
兄の行雄が外で貰ってきたのを伝染されてしまったらしい。
平生病で寝たきりになることなどほとんどない椿なので、側で侍っている潮は何日も顔を見られぬ女主人を心配して毎日そわそわしていた。
風邪の椿の世話をするのは当然女中で、潮は蚊帳の外だ。一度少し様子を見に行こうとしたら、女中に犬でも追い払うように手であっちへ行けと突っぱねられた。
「そねぇにあんたがオロオロしたところで椿様がようなるわけでもねぇ。大人しゅうしとればええんじゃ」
「わかっとる……」
普段共に働く使用人たちにもその落ち着きのなさを笑われ、「ほんまにあいつは椿様の犬じゃのう」などとも言われた。
椿に命を助けられてから二年が経つ。あのとき十歳だった椿は十二歳になった。
元よりあまり幼さを感じさせない、常に凛とした女主人であったので、彼女がこんな風に病で弱ることもあるのかと、潮は何やら新発見をしたような心地なのである。
畑仕事の後は常に椿の側にいた潮は、主の不在で行き場を失い、午後は綿津見の神社へ行って椿の回復を祈り、方々にある蛇塚も拝んで回った。
後は所在なく離れの縁側でしょんぼりと項垂れているしかない。
椿が寝込んでから三日が経った。少しは元気になっただろうかと想像しながらも、現状がまるでわからず耐えるだけだ。
今日も神社に詣でた後縁側に座っていると、背中で襖がスッと開いた。
「やれやれ。兄様もほんまに厄介なもんばあ持ち込みよって」
懐かしい声にハッと振り向けば、浴衣姿の椿が久しぶりに部屋から出てきたところである。
「椿様!」
「何じゃ、潮。お前、ずっとそうやって部屋の前で座っておったんか」
しっぽを振って足元に転がってくる潮を笑いながら、椿は潮の腰掛けていた縁側に自らも座り込んだ。
「椿様、もう具合はようなったんか」
「ああ。熱は下がった。まだちとふらつくが、もう寝てばあなんはたくさんじゃ。飽いてしもうて、こうして少し出てきた」
たったの三日間なのに、まるで千日も離れていたような心地で、潮は嬉しさに涙ぐむ。
「椿様が起き上がれるようになって嬉しい。俺は心配で心配で」
「ふふ……女中らが言うておった。いつも様子を見に来よるけぇうるそうて敵わんとな」
クスクスと笑う顔が、ずっと寝込んでいたためか前よりも少し細く見える。
潮ははたと縁側に投げ出された椿の脚が、浴衣から随分にょっきりと伸びているのに気がついた。袖から覗く真っ白な腕も、少し長くなったように見える。
「椿様……何や大きゅうなったんじゃねんか」
「ん? わしの背丈がか?」
椿は言われて初めて気づいたように、両腕と両足を前方に真っ直ぐ伸ばしてみる。
「おや、そうかもしれん。節々が痛うてたまらなんだのは風邪のせいじゃと思うとったが、もしかするとこねぇに伸びてしもうた痛みもあったんかのう」
「へぇ……数日間でもわかるほど成長するもんなんじゃなぁ」
潮はひどく感心して目を輝かせている。
「椿様は小さ過ぎてちと心もとないけぇ、早うもっと大きゅうなってくれんか」
「わしが大きゅうなりてぇと思うて伸びたんとちゃうわ。勝手に手足が伸びよったんじゃ」
潮の言い草に笑いながら、椿は少し嬉しそうだ。潮からすれば出会った頃からあまりにも小さくて、けれどその威圧感でそうとは見えなかった椿だが、やはり体も大きく成長してくれた方が不安が少なくなる。
椿はあまりに周りから浮いた存在で敵が多い。屋敷の中では実の兄が常に彼女を付け狙い、屋敷の外では村民たちのほとんどが椿をよく思っていない。このままの小さい体では、ヒョイと小脇に抱えて連れ去られてしまうなどということもあるかもしれないと、潮は常にどこか落ち着かず、それだけに椿から目が離せずにいたものだ。
「わしも十二じゃ。少しずつ大人になっとる。今にお前より大きゅうなってしまうかもしれんぞ」
「俺よりも? そりゃぁでぇれぇ大女じゃ。椿様に俺が守ってもらわにゃならん」
「ふふ。そうじゃ。わしが潮を守っちゃるけぇな。安心せぇ」
軽口を叩きながら微笑む椿に、ふと大人びた色香を感じて潮は内心ドキリとする。
成長したのは手足の長さだけでなく、全身がどことなく丸みを帯び、顔立ちも丸々とした子どものものから大人の女性に変わり始めているようだ。
潮は何か見てはいけないものを見たような気がして、思わず顔を逸らした。
椿は少しずつ大人になってゆく。潮はきっとその間も変わらない、ただの男だ。
この命を救ってくれた少女がいつまでも子どものままではないことを今初めて教えられたように思って、潮は僅かに困惑した。
いつまでもこのままでいたいような、成熟してゆく椿を見守りたいような、複雑な感情の波に、男の心は揺れ動くのだった。