誘惑は水の中で
新大陸の港に到着し、馬車で三日間走ったところにミハイルの家があった。
それも、ただの家ではない。荘園の貴族館を思わせる壮麗な宮殿のようで、あまりのことにクロエは絶句した。
『ミハイル様、わたしたちが暮らすのは、プルレ市のような都会ですか? それとも、ホーリーランドでお世話になったような村かしら?』
船上で尋ねたとき、ミハイルが目を逸らしながら答えたことを思い出す。
『あー、いや、そのどちらでもないかな。鉱山でひと山当てたとき、荒野を切り拓いて町を作ったんだ。自分の家は湖の近くで、森に近い場所に建てた。だから、くれぐれも驚かないように』
彼のバツの悪そうな態度から、クロエは山小屋のようなものを想像していた。
だが、犯罪者の妻として逃亡生活すら覚悟していたのだ。安住の地があるのなら、どんな場所であってもかまわない。ミハイルと一緒なら、自らの手で畑を耕し、家畜の世話をして生きていこう。
といった決意は見事なくらいに必要なくなった。
宮殿並みの家にはザッと五十人以上の使用人がいて、クロエは王族さながらに傅かれて暮らすことになったのである。
それが、今から約一年半前のこと。
最初の夏を迎える前に、クロエは娘を産んだ。
ミハイルはふたりの最初の子供に“ヴェーラ”と名付けた。彼の祖国、ソーンツァ帝国で“信念”を意味する言葉だった。
ミハイルが開拓した町で暮らし始めて、二度目の夏。
「おいで、ヴェーラ! よし、よし、上手だぞ!」
パシャパシャという水音とともに、裏庭からミハイルの声が聞こえてくる。
声の先には、クロエがこの国に来て初めて目にした大きな円形のプールがあった。水は湖から引き込んでいるが、そのままでは冷たいので少し温めているそうだ。
プールを造った当初の目的は、右膝に負担をかけずに身体を鍛えるため、だったという。
しかし、あまり使われることなく数年が過ぎ……今年、一歳を迎えた娘との水遊びにせっせと使われている。
「よーし、いい子だね、プリンセス。君はなんて優雅に泳ぐんだ。将来は、ママを超えた絶世の美女になるぞ」
ミハイルはプールに浸かり、はしゃぐヴェーラの身体を水の中で支えている。
その姿は、ただただ小さな子供が手足をばたつかせているだけにすぎない。
「パパったら大げさね。でも、ヴェーラは本当にプールが気に入ったみたい。水を怖がらないところは、パパに似たのかしら?」
ミハイルがフリゲート艦の甲板から飛び降りたときのことを思い出しつつ、クロエは彼から娘を受け取った。
「もーっと! もーっと! パーパ、パーパ」
蜂蜜色の髪をしたヴェーラは、もっと遊びたいとばかり、ミハイルに手を伸ばそうとする。
娘に甘いミハイルのことだ。放っておくと、娘の願いを叶えようとするだろう。
「ダーメ。たっぷり遊んだあとは、お昼寝の時間よ。――お願いね」
そう言いながら、クロエは子守女中にヴェーラを預ける。
すると、ミハイルも仕方なさそうに苦笑した。
「ゆっくりお昼寝しておいで、ヴェーラ。また明日遊ぼう」
彼はヴェーラに優しく話しかけたあと、クロエに甘やかな視線を向けた。
「さあ、次は君の番だ。そのガウンを脱いでごらん」
ミハイルは実に嬉しそうな声で言う。
濡れた髪は夏の陽射しを受け、銀色の輝きを放っている。そして彼の瞳には、真昼の庭に似つかわしくない淫らな気配が浮かんでいて……。
彼の視線にクロエは頬を赤く染めた。
「ねえ、ミハイル様? わたしが、泳げるようになる必要はないと思うのですけど。それに、わたしの知っている水着は、もっと肌を隠すデザインだったわ」
かつて目にした水着とは――生地はあまり水を吸わないフランネルだった。袖の長さは手首まであり、スカートは膝丈くらいで、その下に男性のようなズボンを穿く。
だが、ミハイルが用意してくれた水着は全く違った。
半袖のうえ、胸のふくらみやお尻の丸みがはっきりとわかるくらい身体に密着している。それ以上に恥ずかしいのは、膝から下が丸見えになっていることだ。
こんな姿で人前に出るなど、たとえクルティザンヌであってもエフォール王国ではあり得ないことだった。
そのため、クロエはナイトガウンを羽織ってきている。
「私だってこの国に来るまで泳げなかったさ。まあ、ソーンツァには泳げる海がないから、仕方なかったんだが。でも、この国では女性も堂々と海水浴ができるし、腕や脚を出しているからといって、娼婦呼ばわりはされない」
「……でも」
「よし! じゃあ、私のほうも、もっと脱ぐとしようか」
言うなり、彼は男性用の水着をさっさと脱ぎ捨てた。
「ミ、ミハイル様!?」
「ほら、君も早くおいで」
一糸纏わぬ姿になり、プールの中から彼は手招きする。
そこまでされたら、いつまでもガウンの襟を握りしめてはいられない。
華奢な肩からガウンがスルリと滑り落ちたあと、白い水着に包まれた身体のラインが露になった。
クロエはプールの縁に腰を下ろし、爪先からゆっくりと水に浸していく。
そのとき、ふいに伸びてきた腕が、彼女の身体を搦め取った。
「きゃっ!」
プールの中に引っ張り込まれ、あっという間にミハイルに抱きしめられていた。
「ああ、やはり、君の美しさに勝るものはないな。最新の水着も霞んでしまう。天使のように愛らしいヴェーラも、まだしばらくはママに勝てそうもない」
気づいたときには、クロエは水の中だった。
最初はおっかなびっくりだったが、プールの中は思ったよりも温かく心地よい。それに、ミハイルの腕に抱かれているだけで、クロエの胸に安堵感が広がった。
「どうした、クロエ?」
「ごめんなさい。本当は、水着が恥ずかしいというより、水が怖かったの。でも、ミハイル様と一緒なら平気みたい」
クロエは彼の首に手を回し、ギュッと抱きつく。
すると、少し困ったようなミハイルの声が聞こえてきた。
「あんまり可愛いことを言わないでくれ。これでも、必死に我慢してるんだぞ」
言うなり、彼は熱く昂った下半身をクロエの太ももに押し当てたのだ。
「ミハイル様ったら、こんなところで……」
クロエが戸惑いの声を上げると、彼は露になっている首筋に吸いついた。
「あっ……ん」
二ヵ所、三ヵ所と、彼は立て続けに音を立てて吸ってくる。
ヒリヒリした感触の数だけ、クロエの白い肌に赤い刻印が増えていった。
直後、クロエの身体を支えてくれていた片方の手が、腰からお尻に回され……水中でゆっくりと撫で回し始める。
「ちょっと、ちょっと待って、ミハイル様! まだ、日も高くて……それに、庭とはいえ外なのに」
「プルレ市の屋敷でも、庭で楽しんだじゃないか」
「あ、あれは、夜だったし……使用人の数も、全然違うし……それに、今日はアイヴァン殿が来られるって」
アイヴァンはこの国に留まり、ミハイルの秘書として働いている。
彼のソーンツァ帝国での身分はどうなったのか、気になって何度か尋ねたが、アイヴァンだけでなくミハイルも教えてくれない。
最近ではもう、彼らに関する細かいことは気にしないようにしている。
人生に驚きは付きものだ。もし、ミハイルに秘密があるとしたら、それはきっとクロエやヴェーラを守るために違いないのだから、と。
「アイヴァンになら、見せつけてやればいい」
「もう、ミハイル様っ!」
クロエが口を尖らせると、さすがにやり過ぎたと思ったらしい。
ほんの少し視線を彷徨わせたあと、フッと微笑み……クロエの唇に素早く口づけた。
「怒ったら可愛い顔が台無しだ。じゃあ、水に浸かる練習をしようか」
「本当に、練習だけよ」
「わかってるさ。この先は今夜……ヴェーラを寝かしつけてから、人払いをしたうえで、庭で楽しもう」
ミハイルはどうしてもこの庭で楽しみたいらしい。
クロエは『エフォールの花』と呼ばれていたころの笑みを浮かべ、彼の耳元に唇を寄せた。
「じゃあ今夜、たっぷり楽しませてね」
その言葉に、おとなしく夜を待てるミハイルではなく……数分後、ふたりの姿はプールから消えていたのであった。