ある春のひととき
春の暖かな光が地上をあまねく照らし、ほんの少し涼しい風が木々の間を駆け抜ける、気持ちの良い午後のひととき。
寝室のベッドの上でひとり午睡を楽しんでいたレティーシャは、ふっと目を覚ました。
「ん……」
ゆっくりと窓辺に視線を向ければ、風に揺れるレースカーテン越しの空は青く、今がまだ昼日中であることを教えてくれる。
いつかのようにちょっと昼寝をしたつもりが夜になっていた……なんてことにはならなかったようだと、レティーシャはほっと胸を撫で下ろした。
初めて妊娠した時もそうだったのだが、第三子を腹に宿しているレティーシャは、度々抗いがたい眠気に襲われていた。そのため今日も、シーザーと森へ遊びに行くという子ども達を見送ったあと、ひとり床についたのだった。
(子ども達は、まだ森で遊んでいるのかしら……)
春の盛りを迎えた森を楽し気に駆け回る子ども達の姿を思い浮かべながら、レティーシャは再び瞳を閉じる。
(あと、もう少しだけ……)
一度目を覚ましたものの、身体はまだ眠りを欲しているようで、またすぐに瞼が重くなる。
(少しだけ休んだら、起きるから……)
そうして二度目の午睡に入ったレティーシャが次に目を覚ましたのは、夕日が空を茜色に染める時分だった。
(……ああ、やってしまったわ)
結局、今日もまた夕方まで眠ってしまった。
急ぎで片づけなければならない用事があったわけではないのだが、寝過ごしてしまったことになんとなく罪悪感を覚えてしまう。
眠ってばかりいて子ども達にあまりかまってやれないのも、領主としての仕事で忙しいシーザー一人に子ども達の世話を押し付けてしまったことも、申し訳なかった。
せめて今からでも子ども達の様子を見に行こうと、眠りすぎてどことなく重く感じる身体を起こしかけたその時、レティーシャの耳に聞き慣れた男の声が響く。
「おはよう、レティーシャ」
「シーザー……」
片側――窓とは反対側の閉じていた天蓋の帳が開かれ、レティーシャの夫・シーザーが顔を覗かせる。
どうやら彼はベッドの傍に置いた椅子に腰かけ、彼女が目覚めるのを待っていたらしい。その証拠に、椅子の上には彼が待っている間に目を通していたらしい書類の束が置かれている。
「起こしてくれてよかったのに」
「あんまり気持ちよさそうに眠っていたから、忍びなくて」
レティーシャが上半身を起こそうとするのを介助しながら、シーザーはくすりと笑う。
「子ども達は?」
「子ども部屋で、今はエミールに絵本を読んでもらっているよ」
シーザーが言うには、森から帰ったあと、一度子ども達と一緒にレティーシャの様子を見にきたらしい。そして眠っている母の姿を見た子ども達は、彼女を起こさないようそっと寝室を出て、子ども部屋で静かに遊ぶことにしたのだそうだ。
幼いながらに、身重の母を気遣ってくれたのだろう。
「まあ……」
本当に優しい子達だわと、レティーシャの胸が温かいもので満たされる。
そしてふと、何の気なしに横髪を耳にかけようとしたレティーシャは、指先に違和感を覚えた。
(あら……?)
今日は両サイドに一房ずつ髪を垂らし、残りはゆるく三つ編みにして背に流していたのだが、横髪と三つ編みの境目あたりに何かがある。
摘みとってみると、それは紫色の小さな花だった。
(菫……?)
どうして菫の花が私の髪に? と疑問符を浮かべるレティーシャに、シーザーが「これを見て」と手鏡を差し出してくる。
鏡に映ったレティーシャの淡い金色の髪には、一つや二つではなく、あちこちにたくさんの菫の花が飾られていた。
「ええっ……」
「子ども達からのお土産、だよ」
まるで悪戯が成功した子どもみたいな顔で、シーザーが言う。
なんでも、シーザーと子ども達は森の中で菫の花の群生地を見つけたらしい。そこで彼らは、レティーシャへのお土産にと菫の花をたくさん摘んで帰ってきた。
そして娘のヘレンが眠っている母の姿を見て、この花をただ渡すのではなく、レティーシャの髪に飾ってあげたいと言い出したのだという。
「『おかあさまをおひめさまにするの』と言って、とてもはりきっていた」
ヘレンのお気に入りの絵本の中に、髪にいくつもの花を飾った美しい眠り姫のお話がある。きっとそこから思いついたのだろう。
そんなわけで、エミール、アレックスも手伝い、子ども達の手で菫の花をレティーシャの髪に飾ったらしい。
「そうだったの……」
子ども達の可愛らしいお土産とヘレンの少女らしい発想に、心が和む。
それに、彼らが自分を起こさないよう声を潜めながら花を飾っている姿を想像しただけで、笑みがこぼれた。
「嬉しいわ。でも、私がお姫様というのはちょっと気恥ずかしいわね……」
そう言って頬を染めたレティーシャに、シーザーは笑みを深めて囁く。
「そんなことはない。あなたはいつだって、俺のお姫様だ」
「シーザー……。ふふっ。私は、あなたの聖女様じゃなかったの?」
彼がいつも自分を『俺の聖女様』と呼ぶことを引き合いに出してからかえば、シーザーは「聖女様でもあり、お姫様でもある」と言って、菫の花に彩られたレティーシャの編み髪を手に取り、そこに口づけを落とした。
「美しい俺のお姫様。あなたの下僕からの贈り物も、受け取ってくださいますか?」
芝居がかった口調と仕草で、シーザーが懐からあるものを取り出す。
「まあ……」
それは、紫色の宝石で菫を模した美しい髪飾りだった。
「森で見つけた、一番綺麗で特別な菫の花です」
「これを、森で?」
「ええ。魔法がかかっていて、一生枯れることなく、あなたの髪を彩り続けるのです」
シーザーは宝石でできた髪飾りを『森で摘んだ魔法の花』と称し、レティーシャに捧げる。
それが彼なりの冗談だと理解しているレティーシャは、くすくすと笑いながら「ありがとう」と、枯れない花を受け取った。
「とても綺麗……。それに、菫は一番好きな花なの。本当に嬉しいわ」
子ども達からのお土産も、シーザーからの贈り物も、どちらもレティーシャにとってはこの上ないプレゼントだ。
幸せそうな微笑みを浮かべて菫の髪飾りを見つめるレティーシャの傍らに寄り添うように腰かけ、シーザーが言う。
「俺も菫の花が一番好きだ。菫はレティーシャの瞳と同じ色だし、可憐で……それでいて凛と咲く姿もあなたによく似ている」
「シーザー……」
「あなたは俺の最愛の花だ、レティーシャ」
そう囁いて、シーザーは彼女の唇に口づけた。
「俺の隣で、ずっと、永遠に、咲き続けてほしい」
宝石で作られた枯れない花には、きっと彼のそんな願いが込められているのだろう。
その気持ちが、レティーシャには少しばかり照れ臭く、けれどそれ以上に嬉しかった。
「……ええ」
私はこれからも、あなたの隣で咲き続ける花になる。
この先も、彼にとっての最愛の花であり続けたい。
誓いと願いを胸に頷いたレティーシャの髪に、シーザーは手ずから、菫の髪飾りを飾ってくれた。
「綺麗だ、レティーシャ」
彼女の淡い金色の髪には、艶やかな紫色の花がよく似合う。
この花はこれからも、シーザーの愛の証として、レティーシャを彩り続けるだろう。
「ありがとう、シーザー」
見つめ合った二人は、どちらからともなくキスをする。
絵本の中の、お姫様と王子様のように。
そうしてレティーシャとシーザーは、絵本に飽きた子ども達がこっそりと様子を見に来るまで、密やかで甘い二人だけのひとときを過ごしたのだった。