はじめての贈り物
夏の日差しが眩しいある日の午後。
昼食後、城の客間の一室で二時間以上にわたる勉強。
それは、いずれファレル公国を継ぐ者として、忙しく過ごすステラのいつもの一日だった。
「──…であるからして、君主は時に非情にも思える決断を迫られるのです。これは個人的な意見ですが、情勢によっては恐怖政治というのも──。……む、もうこんな時間か。そろそろ終わりにしませんと」
本当はとうに過ぎていた終了時間。
白髪の老爺は、ふと柱時計を目にすると、そこで話を切って申し訳なさそうに眉を下げた。
「いやはや、ステラさまがあんまり熱心に聞いてくださるので、ついつい熱が入ってしまいました」
「構いませんわ。いつもながら、素晴らしい時間でしたもの」
ステラは小さく首を振り、笑みを浮かべる。
目の前の白髪の老爺は高名な法学者だ。知識の幅はとても広く、ステラの尊敬する教師の一人だった。
ただ、途中から違う分野に話が移ることも珍しくなく、今も君主論へと話が脱線していた。なまじ参考になるだけに話を遮ることもできず、いつも大幅に予定の時間を過ぎてしまうのが残念なところだった。
「では、続きはまた来週にしましょう。本日教えた箇所については、次週いくつか質問を用意いたしますので」
「はい。わかりました」
彼はテーブルに置かれた分厚い本を指差し、にっこりと笑う。
期待を込めた眼差しを向けられ、ステラは背筋を伸ばして頷いた。彼は目を細めると身支度を整え、一礼してから客間を出て行った。
──今日学んだところは、ずいぶん範囲が広いわ。しっかり復習しておかなければ……。
パタン…、と静かに扉が閉まり、ステラは小さく息をつく。
話は脱線したものの、彼は教えるべきことを飛ばしていたわけではないのだ。
他にも覚えるべきことは山ほどあったが、この程度で音を上げてなどいられない。父のように立派な君主になるには、いくら努力してもし足りないほどなのだ。
「あ…、ここ、客間だったわ……」
ステラは本を広げようとして、ここが客間だったことを思い出す。
法学の勉強は、いつもこの客間で行われている。先ほどの老爺が、数ある客間の中でここの窓から見える景色が好きだからという、ただそれだけの理由だった。
「……ひとまず自分の部屋に戻らなければね」
本を抱えると、ステラはそのまま客間をあとにした。
部屋に戻る途中、使用人たちがなぜか心配そうに自分を見ていたが、どうしてそんな目を向けられるのかよくわからなかった。
+ + +
「──あら……?」
それから程なくして、ステラは自室のある二階に戻っていた。
しかし、廊下を歩いていると、黒髪の青年が自分の部屋から出てきたのに気づいてぴたりと足を止める。
──ルイだわ。私に何か用かしら?
今日は午後から客間にいると知らなかったのだろうか。
特に何も言わなくとも、いつもステラの動向を把握しているのに珍しい。なんにしても自分に会いに来てくれたのだと思い、ステラは笑みを浮かべた。
「ルイ、どうし…──」
「うわ…っ!?」
だが、声を掛けるや否や、ルイは大きく肩をびくつかせる。
それがステラと気づくと、彼は慌てた様子で後ずさり、扉に背を押しつけた。
「スッ、ステラさま……っ」
「あの…、ごめんなさい。驚かせるつもりはなかったのだけど……」
「……い、いえッ、私こそ大きな声を……っ。ステラさまがおられるのに気づかず申し訳ありません」
「そんなことは別にいいのよ。それより、私に何か用があったの? 部屋から出てきたようだけど」
「えっ!? それはその……。あっ、ステラさまの様子を窺いに……」
「それだけ?」
「は、はい…」
ルイはしどろもどろに答え、心なしか焦っているように見えた。
僅かに目が泳いでいるのも気になったが、それ以上食い下がることはせず、ステラは部屋の扉を開けた。
「ルイ、どうぞ入って」
「……え、ですが」
「今さら何を遠慮しているの? 私に会いに来てくれたのでしょう?」
「しかし密室で二人きりというのは……。私はもう従者ではありませんし……」
「そうね、今のルイは私の婚約者だわ。だけど、二人きりでいても変な目で見る人なんてここにはいないわ。あなたはとても信用されているもの」
「……っ」
ステラの言葉にルイの顔はみるみる赤くなっていく。
『婚約者』という部分に反応したのだろうが、そんな顔をされると自分まで恥ずかしくなってくる。
──お父さまに認められた関係なのだから、もっと堂々としてもいいのに……。
ぎこちない動きで部屋に入るルイを見て、ステラは苦笑を漏らす。
そういえば、彼とは毎日のように顔を合わせているのに二人きりになるのは久しぶりかもしれない。
城を取り戻してから、そろそろ三か月だ。
ファレル公国の人々も城の皆も、今はもうこれまでと変わらぬ日々を送っていた。
変化があったとすれば、今から二週間前、父レオナルドがルイをステラの結婚相手にすると人々に公言したことだ。
当然、反発は覚悟していた。まだ早すぎるという気持ちもあった。
けれど、父が『遅かれ早かれ同じことだ』と話を進めても、否定的な反応はほとんど見られなかった。
おそらくそれは、港の街の人々が逃亡中の自分たちの様子を積極的に広めてくれたからだろう。それほど、大勢の兵士に囲まれる中でステラを守ろうとするルイの姿に心を打たれる者は多かったのだ。
それなのに、ルイだけがなかなか慣れずにいる。
婚約者と言われてもまだ二週間では実感がないのはわかるが、もう少し積極的になってくれてもいいのにと思ってしまう。逃亡中の『あれこれ』が嘘のように、自分たちはもうずっと手すら繋いでいなかった。
「あの…、ステラさま」
「あ、ちょっと待ってくれる? この本、少し重くて」
「本? あ…、私が持ちます。気が利かずにすみません」
「平気よ、机に置くだけ…、あ……」
「机ですね。承知しました」
ルイはステラが抱えていた本をさっと取り上げる。
そのまま素早い動きで本を机に置くと、彼はどこか満足そうに口元を緩めていた。
──もう従者ではないと、さっき自分で言っていたのに……。
ステラは苦笑し、小さく息をつく。
本当に困った人だ。そんなふうに生き生きした顔を見せられては何も言えなくなってしまう。
「……あら?」
そのとき不意に、ステラは違和感を覚えて机に目を移す。
それは硝子の小瓶だった。
「どうかしましたか?」
「机に、見覚えのないものがあるの」
ステラは机の前に立ち、小瓶を手に取る。
昼前に部屋を出たときはこんなものはなかったはずだ。若干警戒しながら蓋を開けてみると、なんとも爽やかな柑橘系の香りが鼻腔をくすぐった。
「何かしら、いい香り……」
「こ…、この香りは、レモングラスですね。緊張が解れたり、元気になる効果があると聞いたことがあります。疲れたときに匂いを嗅いでみてはいかがでしょう」
「……え?」
「いえ、あの…、紅茶をお淹れしましょうか。よければ、ご用意します」
そう言うと、ルイは返事も待たずに扉のほうに行こうとする。
まるで逃げるような動きに、ステラはすかさず彼の袖をぐっと掴んだ。
「待って、紅茶は今はいらないわ」
「……では甘い菓子でも……」
「お菓子もいらないわ。それよりこの小瓶は、もしかしてルイが置いたの?」
「……ッ」
「そうなのね?」
じっと見つめると、ルイは動揺した様子で目を泳がせる。
なんてわかりやすいのだろう。これでは自分が置いたと言っているようなものだ。
彼がこんなに香りに詳しいなんて知らなかった。
先ほど、部屋から出てきたルイに声を掛けたとき、必要以上に驚いていたのはこの小瓶をこっそり置いたあとだったからなのだろうか。
「ス、ステラさま……、いけません……っ」
ステラは喜びを抑えきれずルイの腕にしがみつく。ルイからのはじめての贈り物だと思うと嬉しくて仕方なかった。
「腕を組んでいるだけよ。抱きついているわけじゃないわ」
「ですが、まだ結婚前です。もしも間違いが起こったら……」
「これだけで間違いが起こってしまうの?」
「……そうです。ステラさまも、私の理性が脆いと知っているはずです……」
「ふふっ」
困っているルイの声に、胸の奥がくすぐられる。
想いが込み上げ、ステラはさらに強く彼の腕にしがみつく。ルイは戸惑いながらも、観念したのかそれ以上は黙って受け入れてくれていた。
「ねぇ、ルイ」
「は、はい」
「私、このところ、気負いすぎていたのかしら」
「……、……はい、少しお疲れのように感じました」
「そうだったのね……」
遠慮がちに言われ、ステラは小さく頷く。
確かにそうだったかもしれない。父はまだまだ大丈夫だとは言うが、今も体調は万全ではない。一日でも早く立派な君主になれるようにと思うあまり、力が入りすぎていたのかもしれなかった。
きっと、そんな気持ちが城の皆にも伝わっていたのだろう。部屋に戻るまでの間、使用人が心配そうに自分を見ていた理由がようやくわかった気がした。
「ルイ…、ありがとう」
「……私は何も……。この程度の気休めしか思い浮かびませんでした」
「そんなことないわ。すごく嬉しい」
「そ…、それならいいのですが……」
ルイが息を詰めたのを感じ、ステラはこっそり彼を見上げた。
僅かに潤んだ瞳。赤くなった頬。
必死で我慢しているのが伝わり、ステラは堪らなくなって彼の腕に頬を寄せる。
ふと、ルイの胸の辺りから柑橘系のいい香りがした。
──あの小瓶と同じ匂い……。
きっと、懐にしまっていたのだろう。彼が机に小瓶を置く姿を想像しただけで頬が緩んでしまう。
「……あっ」
すると、不意に温かな腕でふわりと身体が包み込まれる。
同時に彼の息が首筋にかかって、ステラは思わず声を上げた。
「ステラさま…、そんなにかわいいことをしないでください。我慢出来なくなってしまいます……」
「ルイ……」
目眩がするほど幸福なひととき。
なんて甘い気持ちだろう。もっと甘えたくなってルイの胸に顔を埋めると、僅かに彼の息が乱れた。
けれど、彼はそれ以上何もしない。ただステラを優しく抱き締めるだけだった。
──私も、ルイに何か贈りたい……。
何をあげればルイは喜んでくれるだろう。
すぐには思いつかなかったが、考えるのはとても楽しい。
あれこれ想像しながら、ステラはルイにしがみつく。彼の笑顔を想像しただけで、どうしようもなく幸せだった──。