愛しい花
テオドルを迎えに行ったはずのクリスティナが一人で戻ってきたことに、イシュトヴァーンは首を傾げた。
「どうしたんだい? まだ支度が整わないのかな? どうせこんな時間なら誰も見ていないから、寝巻の上に何か羽織るだけでいいのに」
時刻は零時を回っている。使用人たちも皆、夢の中だ。セープ家の屋敷は、静まり返っていた。
「それが……あの子ったら揺すっても名前を呼んでも一向に起きないの。完全に熟睡してしまったみたい」
困り顔で言う彼女は、申し訳なさそうに眉尻を下げた。
「ごめんなさい、イシュトヴァーン様。せっかく貴方が誘ってくださったのに……」
「はは、テオドルは年齢よりしっかりしているように見えて、まだまだ可愛い子供だな。構わないよ、寝かせておいてあげよう。子供に睡眠は不可欠だからね」
義理の弟になったあの子が、夜中ぐっすり眠れるようになったのは、つい最近のことだ。以前は眠りが浅く、ちょっとした物音でも過敏に反応し起きてしまっていた。それどころか、一人で就寝できるようになったのも、この数か月以内の話だ。
クリスティナとテオドルが継母であるイザベラに虐げられていた年月は七年間。その間に姉弟は少しずつ心を抑圧されていった。結果として、二人が酷く臆病になってしまったことは否めない。
今はイザベラを追い出し、ようやく訪れた平和な日々のおかげで、本来持っている明るさや元気を取り戻しつつある過程なのだ。何の憂いもなく深く眠れるようになったのなら、イシュトヴァーンはテオドルの安眠を邪魔したくはなかった。
「でも……」
「気にしないで、ティナ。もしかしたらこれは、テオドルからの贈り物かもしれない。だって、こうして君と二人きりで夜の逢瀬ができるのだから。ねぇ、懐かしいと思わないかい? 昔もこっそり屋敷を抜け出したことを覚えている? 大人たちに秘密にして、まるで悪いことをしているみたいで、とてもドキドキしたよ」
申し訳なさそうにしているクリスティナの肩を抱き、イシュトヴァーンは彼女の耳元で甘く囁いた。すると真っ赤に頬を染めたクリスティナが、戸惑いに瞳を揺らす。
「そ、そんなふうに言われたら……恥ずかしいわ」
「あの時のティナも可愛かったな……誰にも言えない秘密を共有できたみたいで、背徳感があった」
「イシュトヴァーン様ったら、おかしな言い方をしないでください。た、ただお花を見に行っただけじゃないですか」
照れるクリスティナの様子が愛らしくて、つい含みを持たせた言い方になってしまった。羞恥に潤んだ双眸を瞬く彼女を、今すぐ抱きしめたくて堪らなくなる―――が、イシュトヴァーンはぐっと耐えた。
このままベッドに向かうのも悪くはないが、今夜は夜にだけ咲く花が開花する予定だ。せっかくなら、愛おしい思い出を追体験したかった。
話のきっかけは忘れたけれども、クリスティナが昔見た月光に照らされた幻想的な白い花の話をし、テオドルが興味を持ったのだ。それなら一緒に見ようとイシュトヴァーンが提案すると、義理の弟は大喜びで頷いたのだが、睡魔には勝てなかったらしい。
約束していた時間になっても一向に起きてこず、クリスティナが迎えに行っても夢の中から戻ってこなかったというわけだ。
「僕と二人だけじゃ、不満かい?」
「そんなはず……ありません」
恥じらい震える睫毛が清楚で、イシュトヴァーンは愛する妻のつむじにキスを落とした。
クリスティナと結婚して、約一年。あまりにも幸福で眩暈がする。
普段はイシュトヴァーンの仕事の都合で王都に住んでいるけれど、定期的にセープ家の屋敷へ顔を出すことにしていた。常に父親と弟の心配をしている彼女のためだ。今回もどうにか日程を調整して来てみると、思い出深い花が丁度開花の時を迎えようとしていた。
「楽しみです……」
囁くような声量でクリスティナが呟き、控えめにイシュトヴァーンの袖口を摘まんだ。その言動の全てが胸を締めつけるほど可愛らしい。こんなにも自分の心を掻き乱す存在は、彼女だけ。時折、本物の魔女なのではないかと疑いたくなるほど、クリスティナはイシュトヴァーンを狂わせる。
彼女のためならば何でもする。この手を汚すことも、厭わない。ただ血濡れた己の本性は、隠し通さなければ。クリスティナを怯えさせたいわけではない。
高鳴る鼓動を巧みにごまかし、イシュトヴァーンは人差し指を唇の前で立てた。
「じゃあ、行こう。秘密の逢瀬だ」
手を繋ぎ、足音を忍ばせて階下に向かう。今や立派な大人である自分たちが真夜中出歩いたところで、仮に誰かに見られても叱られることはないけれど、そこは敢えてコソコソと行動した。その方が緊張感が高まって楽しいからだ。
子供の頃の気持ちを鮮明に思い出し、イシュトヴァーンとクリスティナは微笑み合う。本当にあの夜を再現している気分だ。当時は大冒険に等しかった。
年下の幼馴染を深夜外に連れ出すなんて、たとえ屋敷の庭園だとしても大きな背伸びだったのだから。
絡めた指先から、彼女の温もりが伝わってくる。一度は放してしまったこの手を、再び繋ぐことができたのは、奇跡に近い。だからこそ、イシュトヴァーンは二度と見失う気はなかった。
慎重に玄関を解錠し、人がすり抜けられるギリギリに扉を開く。隙間から外に足を踏み出すと濃い闇が全身を包みこんだ。防犯のため最低限の明かりはともされているけれど、それでも暗い。
イシュトヴァーンはクリスティナの半歩先を歩き、彼女の足元を照らした。
「気をつけて」
「ありがとうございます。……ふふ、あの時と全く同じ台詞ですね。イシュトヴァーン様は、昔もそう言って私を気遣ってくださいました。真っ暗なのに、少しも恐れることなく手を引いてくださって、本当に素敵でした……」
「そうだったかな? たぶん、少しでもティナに格好をつけたかったんだよ」
イシュトヴァーンだってまだ子供だったから、漆黒の闇夜はそれなりに怖かった。一人きりなら、屋外に出る勇気はなかったかもしれない。けれどクリスティナが隣にいてくれたから、虚勢を張っていられたのだと思う。みっともないところなど見せたくなかったし、彼女を守っている気分は気持ちがよかった。
子供心に、憎からず想っている少女にいいところを見せたくて仕方なかったのだ。
当時の心境を思い出し、イシュトヴァーンの口元はつい綻んでしまった。
「何を笑っていらっしゃるのですか?」
「……いや、我ながら健気だと思ってね」
「え?」
「何でもない。おいで」
キョトンとして瞬いた彼女の手を引き、目的の花が植わっている場所へ向かう。幸いにも、庭園の片隅に設けられていた花壇には、イザベラの悪意の手は及ばなかったらしい。庭師がきちんと仕事をこなす寡黙な男であったおかげもあり、昔のまま残されていた。
「ああ……懐かしい。見てください、イシュトヴァーン様。花が開いています……!」
「やっぱり、今夜が開花だったね」
たった一夜で萎れてしまう儚い花は、白い花弁を誇らしげに開いていた。甘い芳香が夜に漂う。月と星に照らされて静かに風に吹かれる様は、現実感を希薄にする。二人並んで花を見つめ、握った掌だけが、これが夢ではないことを証明してくれていた。
「綺麗だわ。昔も素晴らしかったけれど、今夜も一際美しい……!」
感極まって声を震わせるクリスティナが、満面の笑みをこちらに向けてきた。この笑顔こそ、イシュトヴァーンにとっては、何物にも代えがたい宝だ。こんな風に彼女が笑ってくれるなら、何でもする。例えば百年に一度しか咲かない花を見つけてきてくれと乞われても、大喜びで探しに行くだろう。
全ては、クリスティナの喜びのために。これまでも、これからも。イシュトヴァーンのあらゆる行動原理の中心に彼女がいた。
「……また来年も、こうして貴方と一緒に花を見たいです」
「勿論。一生共に生きてゆこう」
結婚を誓った時と同じくらい真摯に、互いの眼を見て伝え合った。本心からの願いが受け止められた歓喜が、じわりと胸に沁み込む。むず痒い幸福感で全身が満たされていった。
自分たちを見守っているのは、一夜限りの命を持つ白い花だけ。たどたどしく触れ合わせた唇は、まるで初めてキスをした初々しい恋人たちのようだ。
―――ああそう言えば僕はあの時……本当はティナに口づけしたかったんだ……
ませた子供時代を懐かしみつつ、苦笑してしまう。流石に当時はそこまでの勇気もなければ、誘い方も知らなかった。深夜の逢引きに連れ出すのが精一杯だったなんて、微笑ましい。
クリスティナの柔らかな唇を堪能しながら、イシュトヴァーンは反芻する。
執念深く拗らせた初恋が枯れなくてよかった。手をかけ惜しみなく水と栄養を与えた結果、大輪の花を咲かせてくれたことに感謝の念が湧き上がる。諦めず、なりふり構わず手に入れようと足掻いた甲斐があったというもの。
幼い時分よりだいぶ歪みはしたが、あの頃と変わらない想いが、イシュトヴァーンの真ん中にはある。
愛しい少女はすっかり大人の女性に成長し、今はこの腕の中にいる。これ以上何を望むことがあると言うのか。
「……イシュトヴァーン様……?」
眼前には無垢なクリスティナが佇んでいる。宵闇の中でさえ、発光するように光り輝くイシュトヴァーンの至宝。彼女がいてくれるからこそ、世界は何もかもが美しく意味を持つのかもしれない。もしも喪われでもしたら―――
考えることさえおぞましい妄想に、イシュトヴァーンは緩く頭を振った。『もしも』などと想像することすら忌まわしい。そんな事態に陥れば、きっと自分は正気ではいられない。今だって、危ういものを孕んでいると自覚しているのに。
「ぼんやりなさって、考え事ですか?」
「ティナといる時に君に無関係なことなんて考えたりしないよ」
嘘ではない。心からの真実だ。
何故ならたった今イシュトヴァーンの頭を過ったのは、自分からクリスティナを奪おうと画策していた不届き者に関することだから。
ファルカシュ邸を留守にして、既に一週間。水と食料は地下牢に放り込んでおいたけれど、そろそろ底をついている頃だろう。
きっと『彼ら』はいつイシュトヴァーンが戻るのかと気が気でないに違いない。支配者である自分が帰ればまた苦痛の日々が始まるのだと知っていても、捨て置かれれば待っているのは餓死の恐怖だけだ。どちらに転んでも背筋が凍える毎日だろう。
―――だが、足りない。こんなものでは、ティナたちが味わった七年間の苦しみと、全く釣り合わない……
仄暗い思考は、泥の如く濁っている。だが平静を装ったまま、イシュトヴァーンはクリスティナの髪を撫でた。
「いつだって、君のことで心も頭もいっぱいだよ。他のことに思いを馳せる余裕なんてない」
「は、恥ずかしいです……」
熟れた頬を俯かせる彼女は、花より可憐だ。これからも、絶対に萎れさせたりしない。永遠に美しく咲き誇っていてほしい。
―――害虫は、僕が全部取り除いてあげるから―――
穏やかな、静寂に満ちた夜。
イシュトヴァーンは愛してやまない妻を思いきり抱き寄せた。
「少し身体が冷えているね。屋敷の中に戻ろうか」
「え、あともう少しだけ……」
「駄目だよ。君一人の身体じゃないのだから、無理はさせられない。それにまた来年でも再来年でも、それこそ数十年後でも、花を見る機会は何度でもある」
優しく諭すと、クリスティナは渋々頷いた。
「分かりました……ここにイシュトヴァーン様の赤ちゃんがいるかもしれないのですもの……大事にしないといけませんね」
腹に手を当て背筋を伸ばす彼女は、聖母の如く神々しい。まだ下腹には膨らみもないけれど、二日前クリスティナの食欲がないことを心配し、医師に診察してもらったところ、妊娠の兆候があるとのことだった。
もしも知っていれば、今回セープ家の屋敷に来るのは見送ったと思う。安定期に入るまでは、馬車での移動など以ての外だからだ。
―――だが、こちらに足を運んでいなければ、今夜思い出の花を見ることもなかったのか……そう考えると、どちらが良かったとは言い切れないな。
「落ち着くまでは、絶対安静だ。空気が綺麗なこっちで、ゆっくり休んでくれ」
イシュトヴァーン自身は仕事上こちらに長期間滞在することは難しいので、しばらく離れて暮らすことになる。とても寂しいし、辛い。しかしクリスティナの体調と安全には代えられない。
己の寂寥感を押し殺し、イシュトヴァーンはそのことを妻に告げた。
「え……私を置いて王都に戻られるのですか? そんな……嫌です」
表情を強張らせた彼女は、猛然と頭を左右に振った。クリスティナの潤んだ瞳が、月光の元見惚れるほど美しく煌めく。
「休みの度に会いに来る。僕も辛いよ。本当は一日だって離れたくない。だがまだ見ぬ僕らの天使に会うためだし、何よりも僕はティナの身体が心配なんだ」
「でも……でも嫌です……」
泣き出しそうなクリスティナに胸が疼いた。こんなにも自分が思われている事実に、全身が戦慄きそうになる。しかしどう考えても、無理はさせたくなかった。
「手紙を書くよ。昔のように、文通をしないか? 今度こそ、届かない手紙なんて一通もない。僕の想いを込めた手紙を、ティナに受け取ってほしい。……駄目かな?」
かつて中途半端に途切れてしまった繋がり。それを今、取り戻したい。あの甘酸っぱく、もどかしいやりとりを思い出し、イシュトヴァーンの胸が躍った。
「文通……? また、私に手紙をくださるのですか?」
期待に輝く彼女の双眸が、数度瞬いた。どうやらこの案を気に入ってくれたらしい。
「ああ。何通でも、心を込めて贈る」
「でしたら、待っています……!」
心地よい風が吹く。
白い幻想の花が放つ香りの中、二人はいつまでも抱き合っていた。