千年先の未来で
「――もはやこの戦に勝ち目はない。フォティアは明日、陥落するだろう」
沈鬱な声が広間に響いた。テラスから差し込む月光が、声もなくうなだれる者たちを冷厳と照らし出している。
ロドリコ大聖堂の広間には、今、死と絶望の臭いが立ちこめていた。
血と泥と錆びた鉄。膿み爛れた傷の放つ臭気。防具も肉体も、無傷な者は誰もおらず、集まった二百を越える騎士たちは、皆満身創痍である。
フォティア――デュオンという若き指導者が作り上げた理想の国。
この小さな独立国家は、デュオンと彼に従う一万の民が、五年に及ぶ艱難辛苦の旅の果てにたどり着いた常夏の地――イネリア半島の南の内陸に築かれた。
奴隷制度も、身分による格差もない平等な国。王が武力でもって国を治めるのではなく、指導者とその同志が、新しき教えをもって治める国。しかし、生まれたばかりのその国に、今、滅亡の危機が迫っていた。
帝王が武力で民を支配するのが当たり前の世界で、フォティアという異端は存在そのものが許されなかった。また、古の神を信奉する僧侶たちも、新しき教えを説くデュオンの存在を許さなかった。
そして、世界中から押し寄せた帝王と僧侶の軍勢が、わずか五十ヘーベルに満たない小さな国を取り囲んだのだ。フォティアを支持する半島の小国は次々と陥落、降伏し、無慈悲な虐殺と略奪が嵐のようにフォティアを信奉する人々の上を吹き荒れた。
フォティアの民はこの戦を『聖戦』と呼び、攻め寄せる連合軍を『異教軍』と呼んだ。そして手に槍を持ち、剣を持って戦った。しかし一年に及ぶ抵抗も虚しく、圧倒的な物量による攻撃の前に、もはや抵抗する術すらなくなりかけている。
「……聞け、デュオン様は、昨夜、異教軍への降伏を決めた」
重々しい口調で、壇上に立つアンセル・ヴァレンは続けた。
かつて、中大陸一の英雄と称されたこの男は、元々は指導者デュオンの生国、ヨラブ国の将軍であった。デュオンとはそのヨラブ国の王子であり、今、フォティアを取り巻く異教軍の中には、当然彼らの父や兄、親戚達も交じっている。
猛禽よりも鋭いアンセルの右目には、血の滲んだ包帯が巻かれ、右腕はだらりと垂れ下がっている。先日の戦で、彼は片目と利き腕の自由を失ったのだ。これまでフォティアを守り続けてきた軍神とも言えるアンセルの負傷は、人々の心に重い衝撃をもたらした。
「――異教軍が我らに突きつけた降伏の期限は明日の日没。その前に、デュオン様は自ら、異教軍の元に投降される。我々は本日この時をもって、フォティアを守る役目を解かれた。フォティアが陥落する前に各々逃げよというのが、デュオン様のご命令だ」
どよめきと怒声、悲痛の声が広間に満ちた。
「馬鹿な! 今さらデュオン様を見捨ててどこに逃げよというのか!」
「俺は最後までデュオン様と戦う。命など、我らはとうに捨てているのだ」
ここに集まっている大半は、アンセル同様、元々ヨラブ国に仕えていた騎士たちである。デュオンによって聖者の称号を与えられた彼らは、団長アンセル・ヴァレンの名をとって『アンセル騎士団』と呼ばれている。
「そういえば、少し前からカダルたちの姿が見えぬ」
ふと、誰か声を上げた。
「俺も不審に思っていた。――まさかカダルは、すでにフォティアを捨ててしまったのか?」
「違う、カダルは、私の用向きで外出しているだけだ」
厳しく遮ったアンセルの耳に、今度は別の声が飛び込んできた。
「もしやこの降伏は、十二使徒【じゅうにしと】が勝手に決めたことではないのか?」
十二使徒――デュオン最初の弟子であり、フォティア十二人の最高幹部のことである。
「そうだ! 奴らが命惜しさに、デュオン様を異教軍に差し出そうとしているのだ!」
たちまち場内を埋め尽くす不満と不信の声に、アンセルは無言で眉を険しくさせた。
実のところ、その真偽はアンセルにも判らない。ここにいる者たちは知るよしもないが、デュオンはもう何カ月も病床に臥せっており、彼の声を聞くことができるのは十二使徒だけなのだ。たとえ降伏の決定がどこでなされたとしても、誰も口を出すことができない仕組みが、すでに出来上がっているのである。
それでも、デュオンが投降するとの決定を聞かされた時、アンセルは激しく反発した。ここにいる誰よりも厳しい言葉で、それを告げに来た十二使徒を非難した。しかし彼には、今、何があっても十二使徒に背くことができない理由がある。
「なんとか言ってください! アンセル団長!」
「そもそも我らは、最初から十二使徒にいいように使われてきた。奴らは高言ばかり吐いて、汚いことは全部我々に押しつけてくる」
「団長もルキア様の件では思うところがあるはずだ。十二使徒は、あれほどフォティアに尽くしたルキア様を、このフォティアから追放したではないか!」
微かに眉を震わせたが、アンセルは沈黙したままでいた。
共に残って戦いたい――その思いはアンセルとて同じである。
ヨラブ国を出て以来、アンセルを始めとする騎士たちは、命がけでデュオンとその民を守り、戦ってきた。片や、ヨラブ国でも聖職者だった十二使徒は、殺戮を犯した騎士団に厳しい罰を求め続けた。戦わなければ生き残れないこの世界で、彼らは決して手を汚すことなく、やむなく汚した者たちを責め続けたのだ。
「――頼む、ここは心を静めて私の命令に従ってくれないか」
膝を床についたアンセルに、皆が驚きの目を向けた。
「もし異教軍が約定を破ってフォティアに攻め込んできたら、その時こそ私は、最後の力を振り絞って戦うつもりだ。――判ってくれ。もはやどうあがいてもフォティア陥落は避けられぬ。だとしたら、少しでも少ない犠牲で済ませたいのだ」
未来のために――未来に希望を繋ぐために。
ここ数日、自分に繰り返し言い聞かせていたことを、アンセルは再度腹の底で呟いた。「私に従う者は後に続け。しかし、守りたい者がいる者はこの場を去れ。これがアンセル騎士団団長としての、私の最後の命令だ!」
「――いいえ、兄上、その命令には従えません」
広間の後方から響く凜とした声に、その場に集う者たちが一斉に顔を上げた。
全員の視線が注がれる後方には、複数の人影が立っている。
「――ルキア」
最初に驚愕の声を上げたのはアンセルだった。
ルキア様だ。ルキア様がフォティアに戻ってこられた――。
そんな声と、歓喜の目に見守られながら、ルキアは、兄アンセルの前に歩み寄った。
彼女の背後には五人の男たちが続いている。カダル、エンパス、ホラン、エンデコ、バティスタ。いずれも、この一年に及ぶ聖戦で数多の功績を挙げた英雄たちだ。
中でも、一際強靱な肉体を持つカダルは、当代一の剣豪と称され、誰もが認めるアンセルの後継者であった。
兄の前に立ったルキアは、被っていた黒のウィンプルを脱ぎ捨てた。
そこに現れた燦然と輝く赤髪に、おおっと歓喜の声があがる。
男のように短く切った髪は、彼女が戦士に戻った証である。ついで彼女が僧衣を脱ぐと、そこには、ほっそりとした身体を覆う鎖帷子が現れた。
ルキア・ヴァレン。アンセルの妹にしてデュオンに唯一許された女聖職者。同時に彼女は、騎士団に名を連ねる騎士でもある。
ヨラブ国の名門貴族に生まれた彼女は、生まれながらにして王子デュオンの婚約者だった。しかし彼女は女として生きることを拒み、王子の婚約者という身分も捨てて、男装の騎士として王家に仕えた。
そんな彼女の運命の変転は、ヨラブ国に起きた内乱よってもたらされる。圧政に苦しむ民や奴隷たちが解放を求めて立ち上がり、ルキアは民を守る側に回って戦ったのだ。
やがて捕らえられ、斬首を待つだけとなった彼女を救ったのが、王位継承権を捨て、指導者として歩み始めたばかりのデュオンだった。
ルキアを救い出したデュオンは、父王から殺されそうになりながらも、一万の民を率いてヨラブ国から脱出した。王の騎士だったアンセルとカダルがその逃亡を助け、その志に賛同した多くの騎士たちが後に続いた。
その後、ルキアは初の女聖職者となったが、半年前にその座を追われ、フォティアから追放された。――彼女は妊娠したのである。
それが疑われる時期にルキアが異教軍に捕らえられていたことから、異教徒に身を汚されたのだろうという噂は瞬く間に広がった。十二使徒はそんなルキアを堕落した聖職者として糾弾したが、騎士団では誰もが彼女に同情的だった。皆、醜聞の中にあってなお誇りを失わぬ彼女に、畏敬の念すら覚えていたのである。
「――兄上、デュオン様を失ったフォティアに未来などありません。数多の犠牲を払おうと、私たちは選択しなければならないのです。か弱き者から搾取することで繁栄する世界か、真理に従い、人が人を支配することのない世界か!」
凜として響く珠をころがすような美しい声に、場内は水を打ったように静まりかえる。膝をつくアンセルだけが、呻くように呟いた。――ルキア、何故逃げなかったのだ、と。
「その理想の世界が、デュオン様の命ある間に実現すると思いますか。――いえ、デュオン様自らが、それを遙か未来の後継者に委ねているのです。デュオン様はこう申された。我々は千年先の未来の礎にすぎないのだと!」
ルキアの透き通った肌に朱が差し、緋色の髪が燃え上がるように波打った。
「私には判ります。降伏はデュオン様のご意思ではありません。もしデュオン様が我々の前に立つことが叶うなら、きっとこう仰るでしょう。戦えと、未来のために戦えと!」
「そうだ、我々は今ではなく、未来のために戦うのだ」
カダルがそれに続き、力強く拳を突き上げた。
「未来のために! 命は長らえることに意義があるのではない。いかに輝くかに意義があるのだ!」
「未来のために!」
「千年先の未来のために!」
エンパス、ホラン、エンデコ、バティスタが、カダルを囲むようにして次々と拳を突き上げる。
アンセルが最も信頼を寄せるこの五人の騎士は、いずれもヨラブ国時代から辛苦を共にした仲間であり、妹のルキアとは兄妹同然に育ってきた。彼らの絆は、家族よりも濃く、深い。
冷静沈着で、槍を取れば向かうところ敵なしのエンパス。老獪な知略に長けたホラン。潔癖で正義感の強い美貌の騎士エンデコ。常に盛り上げ役を買って出る陽気なバティスタ。
性格も気性もバラバラで、時に激しい衝突を繰り返すこの四人をまとめているのが、禁欲的で生真面目なカダルである。
「アンセル団長、ルキアが戻ってきた今、憂いは全てなくなったはず。どうぞお心のままにご命じください。最後の一人になっても異教軍と戦えと」
そのカダルの声に、アンセルは隻眼にこわいものを光らせて立ち上がった。彼はカダルの腕を素早く引くと、周囲に聞こえないように耳元で囁いた。
「――馬鹿め。何故、ルキアを連れて逃げなかった。なんのために俺が、墓場まで持って行こうと決めた秘事をお前に打ち明けたと思う」
「アンセル様、ルキアがそれに同意するとでもお思いか」
「それでもだ! もはや望みは、あの方の命を後世に繋ぐことだけだというのが判らないのか。我らが戦おうと戦うまいとフォティアは落ちる。一方で、今俺が十二使徒の決定に背けば、奴らはルキアとその子に死の罪を与えるつもりなのだ。――言っただろう? 奴らは追放してもなお、ルキアを監視し続けていると」
「それでも、ルキアは無事にフォティアに戻ってきた。子は安全な場所に預けてある」
アンセルはカダルの衿を掴むと、壁に押しつけた。
「馬鹿め! 一時、奴らの目をくらませても同じことだ。あの子が生きている限り、必ず誰かが見つけ出して殺そうとする。カダル、俺はお前に、二人を連れて逃げよと命じたのだ。――判らないのか、俺はお前にルキアを……」
それ以上言葉の出てこないアンセルを静かに見つめると、カダルは身を翻した。そして、再び拳を突き上げる。
「千年先の未来のために!」
鬨の声と歓声が沸き起こった。拳を突き上げてそれを鼓舞するカダルの瞳に、紅蓮の炎が揺れている。
闇色にうねる黒髪。日焼けした頬を割く刀傷。それは六年前、デュオンをヨラブ国から脱出させる際に負った傷である。思えばその時から、この太陽神のような若者の運命は狂ってしまったのだ。――
――誰に何を言われようと、俺は、お前とルキアだけは死なせたくなかったのだ……。
やがて諦めの苦笑を滲ませたアンセルは、傍らの従者に酒を持ってくるように命じた。
「……酒、でございますか」
「皆で別れの杯を交わすのだ。アンセル騎士団は、明日、全軍を率いて異教軍の砦を攻め落とす。――もったいぶらずに酒蔵のものを全て持ってこい」
「――もし行きたいのなら、俺があそこまで連れて行ってやるぞ」
カダルの声に、ぼんやりと塔の灯りを見つめていたルキアは、我に返って振り返った。
「いいえ。カダル、ただ明るいものを見ていたかっただけよ」
青白い月光が、テラスに佇む二人を照らし出している。
真下の広間からは、別れの宴の騒ぎがいまなお賑やかに聞こえてくる。その方に目をやったルキアは、微笑んだ目を幼馴染みの男に向けた。
「ありがとう。――そしてごめんなさい。あなたを、兄の命令に背かせてしまって」
「構わない。それに、アンセル様に背くのは、これが初めてではない」
「そうね。……あなたには、ヨラブにいた頃から迷惑の掛け通しだったわね」
もし男に生まれていたら、私はこの人のようになりたかった。そう思いながら、ルキアははるか昔――もう前世に思えるほど遠い昔、幼かった二人が戯れに剣を交わらせた時のことを思い出していた。
その頃から、この人は強かった。私ほどの苦労も努力もしていないのに、その恵まれた体格と力だけで、私を簡単にねじ伏せた。私は彼を憎んだけれど、彼は私を憎まなかった。他の男たちのように、剣を持つ私を馬鹿にしたり、支配しようともしなかった。
自分の本心は決して明かさないくせに、人の気持ちを読むのが上手い男。今も、黙って夜空を見ているこの人が、何を考えているのか判らない。
「……兄は、あなたを死なせたくなかったのよ」
そのカダルがこちらを見たので、視線を下げて、ルキアは続けた。
「ヨラブを脱出する時も、兄はあなただけはヨラブに残そうとしたわ。――兄はあなたを、本当の弟のように愛していたから」
「親のない俺を、アンセル様が育て、騎士にしてくれた。俺もこの恩は生涯忘れない」
なのに今日、この人はその兄の命令に背いたのだ。デュオン様の元に戻って戦いたい。そう言った私の望みを叶えるために。
「兄から、真実を聞いたのでしょう?」
「ああ、聞いた」
振り絞るような思いで口にした言葉に、カダルはあっさりと頷いた。ルキアは無意識に胸を押さえた。何故かその刹那、胸のどこかが疼くように痛んだ気がした。
「……驚いたでしょうし、軽蔑もしたでしょうね。私はずっと皆を欺いていたわ。明日、私の命は尽きるけれど、死んでもなお、――この世界が続く限り、私は人々を欺き続けなければならないのよ」
「誰もが全てをさらけだして生きているわけではない。――デュオン様でさえも」
夜を見つめたまま、カダルは静かに口を開いた。彼の横顔は優しく、吹く風は緩やかだった。
「俺にはむしろ、それが救いのように思えるよ。お前もデュオン様も、ひどく遠い人のようで、俺には昔のままの幼馴染みだ。そうなったところで、何一つ変わらない」
ふっと肩から力が抜けたようになって、ルキアは微かに双眸を潤ませた。
「……ありがとう、カダル。あなたを欺かずに済んだことが、唯一の救いよ」
ルキアはその瞳を、松明に照らされた塔に向けた。あと数時間で夜が明ける。ひとつだけ明るく輝く塔の中では、現世では決して結ばれない人が眠っている。その人が迷える民の指導者になると決めた時、二人は互いに抱いていた仄かな思いを、永久に忘れると決めたのだ。その人は現世における人ではなくなり、ルキアはその僕になった。そして少女時代の淡い思い出は、もはや思い返すこともない過去となったのだ――
けれど、今から約一年前、異教軍に捕らわれたルキアを単身救いに来たのはその人だった。
あの夜、追い詰められた二人の前には死しかなかった。今でもその時の決断が誤っていたとは思わない。これまで、救済のために全てを犠牲にしてきた人が、初めてその仮面を取り払ったのだ。その想いに応えないという選択肢など、果たしてあの時の私にあっただろうか。たとえそれが、愛という欲望ではなく純粋な憐憫からきたものであったとしても。――
後悔などしていない。それでもこの最後の刹那、この世に残されたわずかな残り時間の中で、こう問いたい衝動が、ルキアの全身をもの狂おしく駆け抜けた。
カダル、あなたはどうしてヨラブを捨てたの? 約束された未来も美しい婚約者も、何もかもを捨てて、政治にも宗教にも興味のなかったあなたが、どうして私たちと運命を共にしたの? ――どうしていつも、……一番苦しい時に、いつも傍にいてくれるの?
「……カダル……、あなたは死なないで」
唇が微かに震え、言葉は風に乗って流れた。
「どうか、私とあの人の子を守って……、あなたは……あなただけは死なないで……」
月光が滲んで、揺れた。夜を見つめる二人の距離は、最初からわずかも変わらないのに、どうしてだかその刹那、大きくて温かい手に頬を包まれたような気がした。
「誓うよ、ルキア」
風が、幻聴のような言葉を運んでくる。
「忘れるな。俺の魂は死んでもなお、お前のものだ」
「――アディス?」
深い水底から急速に引き上げられるような感覚の中、アディスは瞬きをして目を開いた。
その刹那、すうっと一筋の涙が頬を伝い、その頬に添えられた指を濡らした。
「どうした」
見下ろしているラウルが、驚いたように目を見張る。
「何があった。身体のどこかが痛むのか」
「い、いいえ」
天蓋の覆いに囲まれた寝台の中には、蝋燭の淡い灯りが揺れている。ラウルを見上げたアディスは小さく息をのんだ。夢で見た残像が、束の間、目の前に人に重なって見えたからだ。
黒い髪、鋭いけれど優しい双眸、頬に刻まれた刀傷。――けれど今、目の前で見下ろしている人の顔に、傷痕はない。
「……夢を、……見ていたようです」
「夢?」
頷いたアディスは、夫の滑らかな胸に手を滑らせた。肌の温かみと規則的に響く鼓動。不意に胸がいっぱいになり、みるみる目の奥が熱くなる。
「夢とはなんだ? 泣くほどに恐ろしい夢か?」
「いいえ。……よく判りませんけど、とても懐かしくて、……」
そして悲しい夢だった。あれはいつの時代の物語だろう。幼い頃に父に聞かされたアンセル騎士団の物語だったのだろうか。陽光で解ける雪のように消えていく夢は、止めることも元に戻すことも叶わず、もう断片的にしか思い出せない。
「あなたが、いました」
「……俺?」
「あなただけではなく、……お父様やセロやエスミ、ジェラルドも……それから、ナギもいたような気がするんです」
まるで別世界の出来事を、様々な視点から見ているような不思議な夢だった。その夢の中にいたナギは、その顔もいでたちもナギとは全く違ったけれど、アディスには確かにナギに見えた。セロやエスミやジェラルドも。
「――その夢が、あなたをこんなにも悲しませているのか?」
「いいえ。私が悲しいのではないのです。……ただ」
ただ、誰かの悲しみと切なさが、胸を締め付けて離れない。でもそれは、ただ悲しいだけではなくて――
ラウルが、アディスの額に温かな唇を当てた。
「眠れないなら、共に起きていよう。夜は長い。何か札遊びでもしてみるか」
「まぁ、あなたは、明日早くに用事があると言っておられたではないですか」
思わず微笑んだアディスは、ラウルの温かな胸に頬を寄せた。
――愛おしい。こんなにも愛おしい温もりと幸福を、どうして私は、一時とはいえ手放そうとしていたのだろうか。
「大丈夫。……もう眠れます。それに、ただ悲しいだけの夢ではなかったのです」
悲しいのではない。何を見たのかはもう思い出せなくても、それが、胸が苦しくなるほど幸福な記憶だというのは判る。私ではない誰かの夢――もう、この世にはいない誰かの記憶……。
「ラウル、私……ゴラドに戻ってきてよかった」
絶望と悲嘆の日々。それでも生きることを諦めなくてよかった。あなたに会えてよかった。あなたを好きになってよかった。
夢で見た光景の最後の断片が、まるで雪の結晶のように煌めいて消えていく。
あれは千年前の誰かの記憶の欠片だったのだろうか。それが風にたゆたうようにして地上に残り、今、昇華していったのだろうか。
この愛おしい時間もまた、やがては一抹の夢となる。
二人はそっと唇を合わせ、現世の幸福を分かち合うように抱き締め合った。