ふたりで見る夢
空いっぱいに、重く突き抜けるように鐘が鳴る。それは夕刻を告げる礼拝堂の鐘の音だった。
トリアはまつげを震わせる。薄くまぶたを開ければ、部屋に淡い光が差していた。
いつのまにか、ドレスを着たまま眠っていたらしい。おなかにかかるのは縮絨の分厚い布だった。長椅子で古語の本を読んでいたはずなのに、どうしてだろう、離れた寝台の上にいる。
人はいない。しんと静まり返った空間は、どこかもの悲しく目に映る。
身体を起こせば、シーツに影がのびてゆく。トリアは胸を大きく動かし、ひとつ深呼吸をした。
ここは、バーゼルトの王城だ。フラムとともに到着してから二日が経っていた。
彼と一緒に居られるのはうれしい。けれど、ひとりになると思い出すことがある。そのたび涙が出てきてしまう。
それはトラウドルを発つ時のことだった。騎士や召し使いたちが手厚く見送ってくれたのもあるけれど、父王がいつもの王らしからぬことに、『いつでも帰ってこい』とトリアを抱きしめ、泣いたのだ。それにはフラムも兄のヨシュカもびっくりしていた。
『トリア、手紙を待っている。私がおまえの字を見てやろう。だから毎日書くんだ』
『お父さま……』
出発する時にもこのような状態だったのだ。フラムによる父の説得──つまり、結婚前にふたりで過ごすことを認めてもらうのは非常に困難だった。
フラムがトリアを迎えに来た日、父の前に立った彼がトリアを国に連れて行きたい旨を伝えると、父は即座に突っぱねた。トリアがなにを言っても『おまえはまだここで学ぶべきことがたくさんある』と聞く耳を持たない状態だった。
そんななか、口を挟んだのは兄だった。どう説得したのかはわからないけれど、翌日、父はしぶしぶ認めてくれたのだ。
寝台の上で毛布をにぎったトリアは、きゅっと唇を引き結ぶ。
──わたし、たくさん学んでお父さまの娘としてふさわしい人になるわ。そして、必ず立派な王妃になる。フラムにふさわしい妻になる。
現在、トラウドルから来ているのはトリアだけだった。トリア付きの召し使い、ギーゼラやレーニたちは、支度が整い次第こちらに来ることになっていた。フラムは『彼女たちも一緒がいいんじゃないか?』と言ってくれたが断った。彼女たちが傍にいては甘えてしまうからだ。心細くないといえばうそになるけれど、精一杯がんばると決めていた。
頭をめぐるのは兄の言葉だ。
『おまえ、バーゼルトでしっかりやれよ? あちらはうちとは勝手が違う。なにせ知らないやつだらけだ。そうそう甘えられるわけでもない。前に、おまえは大人とはなにかと聞いていたが、ぼくは我慢強いことだと捉えている。すなわち自制だ』
「自制……」
──わたしは強くなって大人になる。
ひとりうなずいたトリアは、もう一度「うん」と首を振る。
──フラムと一緒に生き急ぐのだもの。
トリアは辺りを見回した。
ここは、かつてフラムが使っていた居室だ。以前の王と王妃の居室は潰したらしく、現在新たなものを建築中だと聞いている。
窓にかかる白い布が揺れている。同時に揺れるのは白い花。昨日フラムが『うちの城の裏庭にもある』と持ってきた。それは、八年前に彼と一緒に摘んだものと同じ野花だった。
フラムの居室は、きらきらしていた当時の彼には似つかわしくなく簡素といえた。天井や柱や窓わくには精緻な文様が施されているものの、無駄な家具はひとつもない。合理的で、殺風景ともいえる部屋。
──フラムはわたしと出会う前、どんな少年だったのかしら?
居室には図書室を思わせるほどの大量の本がある。壁一面が本棚だ。少年時代の彼は、知識を得ることをなにより重視していたのだろう。
視線をさまよわせていたトリアは、ふと、ある一点で目を止めた。
傍机の下に、真珠で飾られた淡い桃色の箱がある。男の子の持ち物というよりも女の子の持ち物だ。
なんだろう? と開いてみると、へたな文字が書かれた紙がぎっしりとつまっていた。よくよく見れば、なんとそれは、かつて鳩のビショフがせっせと運んでくれた、トリアがフラムに宛てた手紙の数々だった。
〈フラム、今日はね、パンを五つ食べたの。おなかがはちきれそうだけれど、とってもおいしかったわ。こんどフラムが来たら分けてあげる。でも、パンが五つだったら、フラムがふたつでわたしが三つ。ごめんなさい、わたしのほうがひとつ多いの。だって大好物なのですもの。おこらないでね? はやく大好きなフラムに会えますように。トリアより〉
とんでもなくくだらない内容に、トリアは慌てて箱を閉じた。
──なにを書いているの、わたしったら。こんな手紙書いた覚えがないわ!
トリアもまた、フラムの手紙はすべて大切に持っている。いままで普通に返事を書いていたつもりでいたけれど、その内容の差ときたら。
恥ずかしさのあまり、トリアは寝台の上に転がった。やだ、どうしよう、としばらくもだえた結果、箱の中身は見なかったことにしようと心に決めた。
早鐘を打つ胸が落ち着きを取り戻したころだった。部屋の片隅で、ぱちりと暖炉の炎が爆ぜた。同時に、扉が開く音がした。
「起きたのか?」
突然の彼の声に、肩を跳ね上げたトリアは、寝ぐせがついているにもかかわらず、はじめから寝ていないようなそぶりをみせた。なんだかだめな気がしたからだ。
「わたし……眠っていないわ。あの、本を読んでいたもの」
しわのついたスカートをひそかに整えていると、フラムは鼻先を持ち上げた。
「ばか、おれがうつらうつらしているおまえを寝台に運んだんだ。いまさら取り繕うな」
「え……?」
トリアが縮こまると、彼は肩を震わせた。笑っているのだ。
「古語の本によだれがついていたぞ。おかげでインクがにじんでいた」
かっと血が沸き立った。きっと顔はこの上なく真っ赤になっているだろう。
「どうしよう……。きれいな筆跡だったわ……」
フラムの本はことごとく価値がありそうなものばかり。そわそわしながらうつむくと、大股でこちらに来た彼は、ぎし、と寝台に腰掛けたとたんトリアを抱えて寝転んだ。そして、彼の唇がトリアの口にくっついた。
「ん……」
「トリア」
彼は唇をわずかに離してささやいた。
「だまされやすいな。よだれは嘘だ」
「え?」と、トリアは目をまるくする。
「もう……ばか。どきどきしたじゃない」
ふたたび唇同士が重なり、小さな音を立てながら、何度も熱を交わしあう。トリアは青いマントの下をまさぐり、広い背中に手を回した。そこにこっそり文字を書く。
【ねえフラム】
彼は顔を離して、トリアの瞳をのぞきこむ。その目がすうと細まった。
「文字じゃなくて話せよ。声が聞きたい」
「声に出すのが恥ずかしいから書いたのに」
「なんだそれ」
彼の、白金の髪を耳にかけるしぐさがやけに艶めいていて、トリアの鼓動は速くなる。苦しくなって、息をついた。
「いいから言えって」
──人の気も知らないで。
トリアは「笑わないでね」と口をまごまごさせてから言った。
「あのね、大好きな人に抱きしめてもらえて、大好きな人をこうして抱きしめられるのは、とてもすばらしくて幸せなことだと思ったの。前も思っていたけれど、いまはもっと。しかも当たり前のようにキスができて、見つめ合えるわ。手も繋げる。これって、すごく贅沢ね。神さまにいくら感謝してもしたりないわ。わたし、きっと……ううん。間違いなく世界で一番幸せね」
はにかむトリアは、目を閉じ、彼にちゅ、とくちづける。
「あなたのおかげよ。こんなにも幸せをくれてありがとう。……書きたかったことは全部話したわ」
フラムは「おまえ……」と、深々と息を落とした。
「なにも知らないんだな」
フラムの口が薄く開き、トリアの唇をやさしく食んだ。舌が差しこまれ、ふたりは互いを求めて吸い合った。その間、彼の手はトリアのおなかを撫でていた。
トリアは少し不思議に思う。フラムは近ごろやたらにおなかを見たがるし、触れてくるし、くちづける。ぽっこりしているから、恥ずかしくて引っこめるけれど、力を入れ続けているのにも限度があった。
閉ざしていたまぶたを開ければ、青い瞳とかちあった。この目が好きだ。
「おまえと出会った十歳からだな」
彼は、はちみつ色の髪を愛おしそうにするりと撫でた。そして指に絡める。
「この寝台で眠る時、必ずおまえのことを考えていた。おまえを想像し、キスをして抱いていた。ウーヴェでも同じことをしていた。毎日欠かさず八年だ。長いだろ? それが、いまは想像しなくてもおまえがいる。触れられるし声が聞ける。温かさを感じられる。キスができるしそれ以上も。おれの気持ちがわかるか? 世界で一番幸せなのはおまえじゃない。おれだ」
じわじわと目の奥が熱くなり、涙がこみ上げてきたけれど、必死にまばたきで散らした。けれど、追いつかずにしずくがこぼれる。
「ちがうわ……わたしが世界で一番幸せだもの。フラムこそなにも知らないわ。ずっとあなたに会いたかった。それが、叶ったの。奇跡だわ。あれからずっと、夢みたいに幸せ」
彼が、トリアの目もとをぺろりと舐めた。
「あの日、ここまでになるとは思わなかった。考えが甘すぎたな」
あの日とは出会いの日のことだとすぐにわかった。将来を誓って真名を伝えあった日だ。
「ここまでになるって?」
聞かなくても答えは見当つくけれど、それでも聞いた。
「おまえ、わざとだろ」
「だって聞きたいもの」
「あれはここぞという時に言うものだ。言いすぎると安くなる」
「そうなの? ちっとも安くならないと思うけれど……」
見つめていると、彼は「負けた」と息をつく。そして照れくさそうに言った。
「おまえを愛している」
「わたしも、フラムを愛してるわ」
彼と手を重ね、すべての指が絡むと、唇に彼の熱が押しあたる。
トリアはキスが大好きだ。一生飽きないと言い切れるほどに。だからもっとほしくて口を差し出す。彼は、必ず応えてくれる。
「おまえは本当に恐ろしいちびだ。いつのまにかおれのすべてになりやがった」
「フラムだって恐ろしいちびだわ。いつのまにかわたしのすべてになったのだもの」
彼の視線が熱かった。トリアの視線も熱いはずだ。唇は触れ合うけれど、目と目でも、まるでキスを交わしているかのようだった。
「おれたちは一生恋をするんだ」
「うん」
「しわしわなじじいになっても、ばばあになっても、ぶくぶくに太っても、痩せても、病気で動けなくなっても、目を閉じる最期の瞬間まで」
トリアはこくんとうなずいて、首を傾ける。
「生まれ変わっても恋をするんでしょう?」
「当然だ。だからどちらが先に逝っても別れじゃない」
「うん、別れじゃない」
「長生きしろよ?」
「フラムも長生きしてね」
「当たり前だ。おまえはさみしがり屋だからな」
話しながら、彼はマントのブローチを抜き取った。そして上衣を脱いでゆく。それらは無造作に床に落とされた。
「フラム、ここに来てもよかったの? お仕事は?」
「急いで終わらせてきた」
「剣の稽古は?」
「そんなもの、とっくに終わっている」
トリアはいったん目を閉じて、また開く。
「じゃあ、ずっと一緒にいられるの?」
「ああ、いられる。今日はもう誰の邪魔も入らない」
続きは長めのくちづけの後だった。青い瞳は潤み、情欲を宿している。
「トリア、やさしくするから」
フラムの手がそれぞれトリアの腰に添えられた。
「ん……」
彼はひとつになろうとしている。心底うれしいと思った。
けれど、うなずけない。トリアは彼の頬に手をあてて、まごつきながらも口にした。
「ごめんなさい。あのね……さっき、月の障りが」
フラムはいかにもびっくりしたようにまつげを跳ね上げた。
「月の障り?」
「ずっとなかったのだけれど。わたしもフラムとひとつになりたいのにごめんね」
「いや、それはいいんだ。……本当に? 医師を呼ぶか?」
「え? 医師? 呼ばないで。いつものことだもの」
続いてフラムは「痛くないのか?」や「身体はだいじょうぶなのか?」と心配そうに問うてきた。トリアはそのたびにうなずいた。
「血の量は?」
「いつもと同じよ。フラム、どうしたの?」
「いや、いつもと同じならいいんだ。──くそっ、ヨシュカのやつ」
フラムは気むずかしげに下唇を噛んでいたが、すぐに「ぷはっ」と噴き出した。そしてトリアを抱きしめる。
「なんなんだあいつ、早とちりにもほどがある。覚えていろ」
「お兄さまがどうかしたの?」
「おまえが気にすることじゃない」
「へんなフラム」と言いながら、トリアは彼の胸に頬ずりをして、顔をうずめて息を吸う。思いっきりだ。なんの匂いかはうまく例えられないけれど、昔からこの匂いが好きだった。
彼が傍にいると実感できるから。彼とひとつになれば余計に。一緒にいられなかった時間が長いから、毎日ひとつになっていてももの足りないし、もっと彼がほしいと思った。
──早く、月の障りが終わればいいのに。
顔を上げて彼を見つめると、額に唇が下りてきた。
「少しの間、いい夢を見たんだ」
「どんな夢を見たの?」
「さあな」
わざとらしく、「教えてくれないのね」と頬を膨らませると、すかさずつぶされた。
「おれたちの結婚の儀式は一年後だな」
それはトリアの父に決められた。
「そうね。それまでに王妃にふさわしくなれってお父さまが」
「ふさわしくなれ、か。今回でいやというほどわかった。トラウドル王は子離れできていないし、おまえも親離れできていない」
虚を衝かれた顔をしていると、彼に鼻をつままれる。
「おまえが父親を恋しがって泣いていることくらい気づいている」
フラムの前では泣いていない自信があったのに、なぜ気づかれたのだろうか。目を見開くトリアに、彼は言う。
「父親に毎日手紙を書いているのか?」
「書いているわ」
「言っておくが、おまえの一番の家族はおれだぞ?」
それは当然だ。「もちろんよ」と伝えれば、おなかをさすられた。じんわりと温かい。
「月の障りが終わったら、叶えたいことがある」
彼はトリアの口に唇を寄せると、続きをささやく。
「手伝ってくれるか?」
その言葉が大好きだ。一緒にいることが前提なのだから。
トリアは「うん」と言いながら、彼の唇に唇をぴたりとくっつけた。
バーゼルトの夜はトラウドルに比べて闇が濃い。彼らは夜の暗さを楽しみたいらしく、あまり明かりを灯さない。ろうそくの数はトラウドルの約半分ほどだ。暗闇のなかで光が映えるせいなのか、夜の城はやけに幻想的だった。
窓から差しこむのは月明かり。そして、精緻な燭台で揺れる炎。光と影のなかにいる彼は、浮世離れして見えた。まるで神の使いだと思った。
──悪魔の使いともいえるわ。だって……。
これ以上はきっと堕落してしまう。
トリアは、わたしは間違っていたと考えた。
身体は湯気が出そうなほど火照っていた。腰の奥は蕩けきって、どろどろに溶けてしまいそうだった。何度も絶頂に押し上げられて、快感にしびれて壊れるかと思ったほどだ。
醜態はさらしたくないのにどうにもならない。シーツは体液でぐっしょり濡れていて、身体も汗でぬるぬるだ。髪や顔がどうなっていようと、もう、身なりにかまっていられない。まったく力が入らないのだ。よだれも垂れてしまっている気がする。
けれど、トリアを組み敷くフラムは、息を乱しているものの、壮絶な色気を放ち、まだまだ余裕がありそうだ。
彼は妖艶に白金の髪をかき上げると、「そろそろ動いていいか?」と言った。
「待って……まだ……。壊れちゃう」
「壊れないし壊さない」
ふたりの下腹は深々と繋がったままでいた。フラムが出ようとしないのだ。腰をわずかに引いた彼に奥の奥をつんとつつかれ、トリアは、いや、いや、と首を振る。
「だめ。気持ちよすぎて苦しい。もっと休みたい」
「おまえが言ったんだろう? 『激しくして』って」
「言ったけれど、……こんなに激しいと思わなかったもの」
唇を尖らせれば、すぐに彼の口が下りてきて、むさぼられる。
「ん……っ」
「おまえは見立てが甘すぎる」
彼はトリアの顔にかかる髪を横に流すと、からかいまじりににんまり笑う。
「嫌がるおまえはかわいいな。もっと嫌がらせていいか?」
「いじわるだわ」
これまでトリアは、自分はとてもはしたないのだと思っていた。フラムに『ひとつになりたい』とせがむのは、毎回トリアのほうだった。そんなトリアにフラムは応えて、つねに気づかい、いたわるように抱いてくれた。彼には言えなかったけれど、あまりにやさしいものだから、もの足りないと思ったこともしばしばだ。
月の障りが終わりを迎えて、トリアはいつものようにフラムに『ひとつになりたい』と気持ちを伝えた。その上、彼とくちづけを交わした時に、つい、『激しくしてね』と言ってしまった。
そこからは、例えるならば激流、そして嵐だ。
彼は、獣のように激しくなった。
「おれはちびのころからおまえで自慰していたんだぞ。八年も。いままでは手加減していただけだ」
唇をぱくぱくさせると、髪をくしゃりと撫でられる。
「もう、休憩はいいよな? じゅうぶんだろ?」
大きな手が肌を這い、熟れた胸や秘部に触れられて、たまらずトリアは身体をくねらせる。
「ん……やっぱり、やさしいほうがいい」
「……努力はする」
フラムが律動をはじめる。同時に寝台が軋みだす。くちゅ、くちゅ、という淫らな音とトリアの喘ぎ声。そして、彼の熱い息が広がった。
彼はトリアのなかを知りつくしているようで、すぐさまトリアを狂わせる。
腰を揺らしたまま、胸の先をちゅうと吸われて、甘噛みもされ、勝手に身体が仰け反った。
「ああ……!」
──全然、努力してない……。
奥歯をぐっとかみしめ、襲い来る官能にわなないていると、彼がふと動きを止めた。
「月の障りが終わったら、叶えたいことがあると言ったよな」
「ん……言ったわ」
彼は、ぐったりしているトリアの汗ばむ背中に手を差し入れて、トリアごとゆっくりと身を起こす。楔を解くことはなく、トリアが上に座る形だ。
ぐり、と奥がえぐれて思わず声をあげてしまったけれど、フラムは目を閉じ、眉をひそめただけだった。まつげを上げて、愉悦まじりにこちらを見るからわざとだと思った。
──もう。
彼の肩にぺたりと額をつければ、後頭部に手が置かれた。
「おまえが月の障りだった間、おれはほとんど居室にいなかっただろ? けっこう働いた」
トリアはうなずいた。彼はトリアが起きている間、ずっと不在にしていた。けれど、寝てはいたのだろう。朝、目覚めれば、隣に彼の形跡を見つけた。毎夜、起きて彼を待とうとがんばったけれど、睡魔に勝てず、とうとう会えずじまいだった。
トリアは彼を仰いだ。
「大変だった?」
「そうだな。だから一週間、休みを取ったんだ。王としては、前代未聞な行動だとわかっているが、抑える気はない。宰相も説得した」
そうまでして彼が叶えようとしていることはなんだろうか。トリアは首をかしげる。
「やっと叶う」
いかにもうれしそうにトリアに頬を寄せたフラムは、すりすりと頬ずりをする。大きな猫のようでかわいくて、思わずぎゅっと抱きしめた。彼の身体もトリアと同じで、汗でぬるぬるしている。
「明日からおまえを連れて旅に出る。ふたり旅だ」
トリアはぽかんと口を開けた。
「旅? ふたりで? 護衛の騎士はいないの?」
「そんなものはいないしいらない。邪魔なだけだ。数年以内に実行しようと思っていたが、おまえは身ごもっていないからいま行ける」
「それって……」
かつてフラムは言っていた。『神隠しを解決し、女も自由に外を歩ける国になったら、おまえを遠乗りや旅行に連れて行きたい。見せたい景色がたくさんあるんだ』と。
感極まって、トリアの腕に力がこもる。
「わたしに、景色を見せてくれるの?」
「ああ。危険はないとは言いきれないが、おれはこの手でおまえを守る自信がある。行くだろう?」
「行くわ!」
うれしくなってはしゃいでいると、彼の唇が、ふに、とトリアの口にのせられる。
「おまえに地平線から昇る朝日を見せたい。闇は必ず明けると確信できる。おまえをのせて馬を駆り、その太陽を追いかけてみたい。一日はどれほど伸びるんだろうな。海は──そうだな、驚くぞ? おまえが見ていた図鑑よりも断然広い。それが太陽に照らされると、どんな宝石よりも輝くんだ。夜が来れば、おまえ、星を見て腰を抜かすかもしれないな。トラウドルの塔から見上げた空とはわけが違う。そんな旅を一週間だ。ふたりで行こう」
彼の語る言葉を聞いていると、こみあげてくるものがある。こらえられず、トリアは顔を歪めて震えた。なんて素敵なのだろう。こんなにも幸せでいいのだろうか。
うっ、うっ、と涙をこぼしていると、フラムの舌がしずくをすくう。彼はくすりと笑った。
「しょっぱいな。おまえは昔から泣き虫だ」
「だって、うれしい……。フラム」
「少しずつでいいから泣き虫は卒業しろよ? おれたちはもうすぐ親になるんだ」
またたけば、目もとに彼の唇が押しあてられる。
「おまえ、言ったよな。おれの子がほしいって」
「言ったわ。フラムの子がほしいもの」
「賭けをしようか」
「どんな賭け?」
フラムはトリアのおなかをくるりと撫でる。
「おれは……そうだな。息子も娘もほしいが、まずはおまえによく似た娘がほしい。ばかみたいに正直で、よく笑う、陽だまりのような娘だ。だから生まれるのは娘に賭ける。おまえは?」
「じゃあわたしは、まずはフラムによく似た男の子がほしいわ。勇気があって、やさしくて、まっすぐで、偉そうで、ちょっぴり生意気な男の子。なにかとフラムに張り合うの」
彼は鼻にしわを寄せた。
「なんだそれ、いやなくそガキだな」
「そうかしら? とってもかわいいわ。だから生まれるのは男の子に賭ける。……でも、賭けってなにを賭けあうの?」
「さあな」
「なによそれ。ぜんぜん賭けにならないわ」
じゃれ合いながら、ふたりでふに、と唇をつけあった。未来に思いを馳せて、屈託なく笑う彼は幼く見えた。出会った日の彼みたいだ。
──フラム……。
脳裏をよぎるのは、出会いから別れるまでの彼の姿だ。そして、ウーヴェで再会してからの、覚悟を秘めていた彼の姿。いつだって彼は死の淵に立っていたのに、トリアに苦しみや悲しみを見せたことはなかった。
けれど、先日トラウドルからバーゼルトに向かう道中で、夜、彼はひどくうなされていた。そして、トリアを強く抱きしめ、顔を埋めてふたたび眠る。トリアは眠ったふりをしていたけれど、苦しむ彼を見ていた。
トリアといるときは堂々としていても、彼が心に負う傷は深いのだ。
──わたし、たくさんフラムを幸せにしたいわ。つらい記憶がなくなるくらいに。思い出すひまもないくらいに、幸せで埋めつくしたい。
トリアは白金の髪を指で梳く。
「ねえフラム。男の子でも女の子でもどちらでもいいから、早く、会いたいわ」
「すぐに会える」
フラムの手にささえられ、ゆっくりと倒される。背中がシーツに沈んだ。
「動くぞ?」
「うん」
彼はやさしい。口は悪くても昔から。いつもトリアを宝物のように扱ってくれる。
トリアは一瞬迷ったけれど、やっぱり自分の気持ちに従おうと、彼に言った。
「フラム、激しくしてね」