永遠の愛を告げる庭
穏やかな春の陽気に包まれた宮殿は、時が止まっているのではないかと思われるほど静かだった。
――平和すぎて……つまらぬ。
予定していた午後の謁見を取り止めて、気の向くままに宮殿を歩き回っていたムスタファは、心の中で呟いた。
広大な領土の各地に派遣している統治官たちは優秀で、ここ半年ほど反乱だの陰謀だのといった、血なまぐさい雑事に煩わされずに済んでいる。
喜ぶべきことだ。
しかし、ムスタファが何よりも恐れているのは、「退屈」だった。
見目麗しい女たちとの戯れや、法学者との謎かけのような問答も、彼の関心を長くは引き留めておけない。新たに興味をそそられるものが手近なところで見つからなければ、まだ見ぬ「異国」を手に入れたくなってしまうかもしれない。
砂漠の中にある楽園。険しい山々に囲まれた秘境。荒れ狂う海の果てにある未開の地。どんな場所が最も魅力的か考えながら歩いていると、青いものが視界を過った。
見れば、白い柱が等間隔で影を落とす回廊を青い服を纏った女性が行ったり来たりしている。
その姿には、見覚えがあった。
――あれは……ランドゥーシュの妻か?
どうやら、いつの間にか後宮へ足を踏み入れていたらしい。
ムスタファの父がこの国を治めていた十数年前まで、後宮には数百、時には千近くもの寵姫とその子供たち、宦官や侍女が住んでいたが、いまは一組の夫婦がひっそりと暮らしているだけだ。
「あれに、知らせてやれ」
ムスタファは、肩越しに付き従う護衛の一人に命じた。
彼女の夫は、妻がひとりで出歩いているのを見かけたら、必ず知らせてくれるよう宮殿で働く者たちに頼んでいる。
過保護な夫が迎えに来るまで、目を離さずにいたほうがいいだろう。
少し離れた場所からヴァイゼル語で話しかけた。
「何か探しているのかね?」
パッと振り返った彼女は、瑠璃色の瞳を見開き、後退りした。
そのまま逃げ出すかと思われたが、白い頬をほんのり赤く染め、柔らかそうな唇をきゅっと引き結んで踏み止まった。
「怪しい者ではない。そなたの夫――ラーシュの友人だ」
翡翠の瞳で睨みつけるフィドル弾きの顔が脳裏に浮かんだが、彼女の警戒心を解くには効果があったようだ。愛らしい声でおずおずと問い返してきた。
「……ラーシュの、お友達?」
「ああ、そうだ。いつも素晴らしいフィドルの演奏を聴かせてもらっている」
ムスタファがそう告げるなり、瑠璃色の瞳が喜びに輝き、花が綻ぶような笑みがその顔に浮かんだ。
「あなたもラーシュのフィドルが好きなのね! お名前は?」
なぜか落ち着かない心地になり、ムスタファは咳払いしつつ名乗った。
「……ムスタファだ」
「私はマリシュカ――マリよ。あの……私たち、はじめまして……かしら? あなたの声を知っている気がするのだけれど……どこで会ったのか思い出せなくて……」
マリシュカが様々なことを上手く記憶できないということは、夫のラーシュから聞いていた。不安げに首を傾げる彼女に、ムスタファは微笑んでみせた。
「一度会っているが、とても短い時間だったから覚えていなくて当然だ」
「そう……そうなのね」
「探し物があるなら手伝おう。私はこの宮殿に長く住んでいるから、どこに何があるかよく知っている」
ほっとした様子で頷くマリシュカに助力を申し出ると、彼女は頬を赤らめながら迷子になっていたと打ち明けた。
「あの……ラーシュから綺麗な花が咲いている庭があると聞いて、見に行こうと思ったのだけれど……迷ってしまったの」
「この宮殿には、美しい花が見られる庭がいくつもある。何の花だろう?」
「名前は……憶えていなくて……でも、イフリーティヤの花で、北の国ではとても貴重で、高価な花で……」
しどろもどろに答える彼女の言葉に、ムスタファはすぐに何の花か思い当たった。
「それはきっと、ラーレの花だな」
彼女も、おぼろげな記憶の片隅に手掛かりを見つけたようだ。嬉しそうに笑った。
「そうよ、それだわ! ラーレだわ!」
「いまの季節がちょうど見頃だ。案内しよう」
「ありがとう、ムスタファ」
マリシュカはすっかりムスタファを信用しきって素直に従ったが、その歩みは遅々として進まなかった。
鳥の囀りやそよ風に乗ってどこからか運ばれてくる楽の音など、何かが聞こえるたびに立ち止まり、辺りを見回して耳を澄ますのだ。
答えが見つかると嬉しそうに微笑み、少し先で立ち止まって待つムスタファを見て、慌てて駆け寄る。
歩いては立ち止まり、立ち止まっては歩きを繰り返し、ほどなくして二人は目的の庭に辿り着いた。
「ここが、ラーレの庭だ」
「…………」
ムスタファが回廊に囲まれた小さな空間を指し示すと、マリシュカは目を見開き、声もなく立ち尽くした。
庭の中央にある小さな噴水を取り囲むようにして、色とりどりのラーレの花が何重もの円を描き、咲き乱れていた。
自由に歩き回ってかまわないのだと教えてやれば、マリシュカは花壇のそばにしゃがみこんで一つ一つの花をじっくりと眺め、そっと触れ、匂いを嗅いだ。
観察した後は、各品種の名や特徴、育てかたなど、ムスタファを質問攻めにした。
愛らしい小鳥の囀りは、ずっと聞いていたくなるほど心地よい。ムスタファが一つ一つの質問に丁寧に答えてやっていると、ふいにマリシュカが口を噤んだ。
「分かり難かったかね?」
マリシュカは、瑠璃色の瞳でじっとムスタファを見つめ、首を横に振ってにっこり笑う。
「ムスタファは何でも知っているのね! ラーシュみたいだわ」
純粋な尊敬の眼差しと共に言われれば、悪い気はしない。つい、口元が緩む。
「そうか。しかし、私は神ではないから、わからないこともたくさんある」
「わからないことって、何かしら?」
首を傾げるマリシュカに、ムスタファは彼らがこの宮殿にやって来た時から気になっていたことを尋ねたい誘惑にかられた。
「そうだな……たとえば……夫婦のことだな」
「夫婦のこと?」
「ああ。私は結婚したことがないので、よくわからないのだ。マリとラーシュがとても仲の良い夫婦だということは知っているが、ずっと一緒にいると、互いに飽きて退屈したり、嫌になったりはしないのかね?」
ムスタファの問いに、マリシュカは即答した。
「そんなふうに思ったことなどないわ。たとえ毎日同じ曲を聴いたとしても、昨日とまったく同じには聴こえないのと一緒よ。どんな演奏も、その時一度きりのものだもの。だから、いつだって私は新しいラーシュの演奏を聴けるの」
何やら難しいことを言い出したマリシュカに、ムスタファは驚き、おおいに好奇心を刺激された。
「なるほど。では……もしも、一緒にいられなくなったら?」
「……一緒に、いられなくなる?」
マリシュカが顔を青ざめさせる様子に少々罪悪感を覚えながらも、ムスタファは己の好奇心を抑えられなかった。
「そうだ。人間はいつかこの世を離れて冥府へ行くが、その時はひとりで旅立たなくてはいけない。ラーシュとは一緒にいられなくなってしまうだろう。そうなったらどうするんだね?」
瑠璃色の瞳に一瞬不安げな光が浮かび、すぐに消えた。
マリシュカは、きっぱりとムスタファの言葉を否定した。
「ラーシュは私を置いて行ったりしないわ。どこへ行くにも必ず一緒に連れて行ってくれるって約束したもの。冥府にだって、連れて行ってくれるはずよ。だって、そうしなければ、私がラーシュのフィドルを聴けなくなってしまうもの」
あまりにも自信たっぷりに言うので、もしかして冥府とは何かを理解していないのではとムスタファが思いかけた時、彼女の表情が一変した。
瑠璃色の瞳が輝き、青ざめていた顔が生気を取り戻す。白い頬が薔薇色に染まり、瑞々しい唇が美しい弧を描く。大きく息を吸いこんだ胸が微かに膨らんだ。
マリシュカの全身から溢れ出る喜びに圧倒され、ムスタファは眩暈を覚えた。
「ラーシュっ!」
揺れる視界に青いヴェールがふわりと舞い、駆けて行く彼女を追って視線を巡らせれば、夫の胸へ飛び込む姿が見えた。
「マリ。ひとりで出歩くのは、部屋の近くだけにするようにと言っただろう?」
しっかりと彼女を抱きしめた夫は、優しく妻をたしなめた。
「ごめんなさい……私……ラーシュが教えてくれたラーレの花を見たくて……。遠くへ行くつもりなどなかったわ。でも、気がついたら知らない場所にいたの。そうしたら、ムスタファが私を見つけて、ラーレの花が咲いているこの庭まで連れて来てくれたのよ。ムスタファはラーシュみたいに、何でも知っているの! 彼と話すのはとっても楽しいわ」
マリシュカはしゅんとして素直に謝ったが、すぐに興奮気味にムスタファとの出会いを話して聞かせた。
「……楽しかったのなら、よかった」
応じる夫の声には、「よくない」と言いたげな感情が滲んでいる。
「ラーシュ……私が言いつけを守らなかったから、怒っているの?」
ラーシュは、不安げに尋ねるマリシュカに、この宮殿ではおそらく妻以外誰も見たことがないと思われる甘く優しい笑みを向けた。
「怒ってなどいないよ、マリ。ムスタファは、マリに親切にしてくれたんだね?」
「そうよ。ここまで案内してくれて、ラーレの花のことを色々と教えてくれたの」
「ラーレの花のこと以外にも、何か話をした?」
ラーシュはマリシュカの乱れた髪を整えてやりながら、ムスタファをちらりと一瞥した。
ムスタファは、まずいことになったと思ったが、マリシュカのお喋りを止める手立てはなかった。
「夫婦のことについてわからないことがあるというから、教えてあげたの。私は、ラーシュと一緒にいて退屈したことも嫌になったこともないし、ラーシュは私を置いていなくなったりしないって。ラーシュは、どこかにひとりで行ったりしないわよね? どこへでも、私を連れて行ってくれる。そうでしょう?」
「…………」
ぎらつく翡翠の瞳に宿った洒落にならない殺気に、回廊の柱の陰に控えていた護衛たちが反応しかける。
ムスタファは、慌てて彼らに何もするなと手を振り、殺気立つラーシュに言い訳した。
「好奇心にかられて踏み込んだ質問をしたのは認めるが、他意はないぞ」
ラーシュは、おまえの言葉など信じられないと言わんばかりの眼差しを向けたものの、マリシュカがお気に入りの花を見せたいと言うと、険しい表情を瞬時に和らげた。
「あら……でも、どこで見たのだったかしら……」
マリシュカは、あちらの花壇、こちらの花壇と蝶が花を渡り歩くように花たちを覗き込む。
無邪気なその様子は実に微笑ましい。
思わず頬が緩んでしまったムスタファを見咎めるように、ラーシュが冷ややかな声で抗議した。
「一体、マリに何を訊いたんです? いまの彼女が知らないことを訊けば、自分が覚えていないことを不安に感じてしまう。彼女を動揺させるような真似はしないでいただきたいのですが」
重臣の誰かがこの場にいたならば、ラーシュを宮殿から放り出したかもしれない。が、ムスタファは、雇われはしても隷属はしない、相手が皇帝だろうと誰だろうと媚び諂わないラーシュを気に入っていた。
「私が訊きたかったことは、おまえが訊きたかったことだと思うが?」
「何を……」
反論しかけたラーシュを目で制し、ムスタファは問いかけた。
「人は次から次へと新たな望みや欲を抱く。ランドゥーシュ、いまのおまえの望みは何だ?」
閉ざされた後宮の中、二人は互いがいるだけで満たされているのだろうが、それが永遠に続くはずもない。
「いまの望みは……」
降り注ぐ日差しの下で、色鮮やかなラーレの花に囲まれているマリシュカを見つめながら、ラーシュは呟いた。
「マリより、ほんの少しだけ長く生きることです。そうすれば……」
――奪わずに済む。
ムスタファは、迷うことなどなさそうな男にもまだ揺らぐ心があるのだと知り、興味をそそられた。
マリシュカの言葉を聞いたらどんな反応をするのか、確かめてみたくなった。
「おまえの妻は、おまえが冥府にも連れて行ってくれると信じているようだ。そうしてくれなければ、おまえのフィドルを聴けなくなってしまうと言っていた」
驚いたようにムスタファを振り返り、見開かれた翡翠の瞳に様々な感情が過った。
それらがひとつのものを形作る前に、マリシュカの声がして、むき出しになっていたものは覆い隠され、見えなくなった。
「ラーシュ! 見つけたわ!」
象牙色の花びらに緑の線が入るラーレの前でマリシュカが手招きしている。
「この花が一番好きなの。ラーシュと同じ色よ」
何のためらいもなく素直な気持ちを口にするマリシュカに、歩み寄ったラーシュが微笑みながら口づけた。
愛おしくて、しかたがないと言うように――。
そこに、欠けているものは一つもなかった。
ムスタファは、すっかり退屈も忘れ、ラーレの庭を後にした。
マリシュカを見ていると、大切なことさえ忘れなければ、それで十分なのだと思えた。
思い出は、時に人を縛り付け、身動きできなくさせる。
マリシュカが言ったように、昨日と同じ日はない。繰り返しているように見えても、まったく違う一日を生きているのだ。
「つまり、退屈な日などないということだな。……なかなか、興味深い」
ムスタファは、マリシュカが迷わずラーレの庭まで辿り着けるよう、石床にラーレの花を目印として彫らせようと思い付いた。
彼女の夫はいい顔をしないだろうが、妻が喜べば折れるに違いない。
籠の鳥であっても、安全な場所で自由を満喫し、ちょっとした友人を作ってもいいはずだ。
――当分の間、退屈することはなさそうだ。
美しい花の咲く庭で、美しい鳥たちを眺め、その囀りを聴くささやかな楽しみを思い、ムスタファは微笑んだ。