百合の誓い
「クラウス、ヨーゼフへの手紙だ」
オストフェン王国の王の執務室。
執務室の机の向こうから放り投げられた封筒が床に落ちる。クラウスは恭しく拾い上げた。
「兄上、ありがとうございます」
本来ならば目の前にいる王太子・ヨーゼフに宛てられた手紙だ。
しかし、クラウスが何食わぬ顔をして拾ったのには、理由があった。
「それにしても、毎月どころか下手をしたら毎週か……よく飽きないな、あの姫は」
ヨーゼフが鼻で嗤う。
クラウスは緩みそうになる頬を意識して引きしめ、表情を殺して微笑んだ。
「アリーセ様は文通が趣味ですから」
「皇女だというのに、趣味が文通か」
ヨーゼフが机の上の書類をもったいぶって取り上げた。
「一度、返事を書かれてみてはいかがですか? 兄上のご婚約者なのですから」
クラウスは手紙を額の上に掲げて透かして見た。中には数枚の便箋が入っているようだ。
「くだらん。皇女のために手を動かすくらいなら、イリスの尻を揉んだほうがましだ」
ヨーゼフは、由緒正しきローザリア帝国の皇女より身分の低い愛人のほうがマシだとうそぶく。
ヨーゼフのそばに立つ側近が声を出して笑った。同意の意を込めた嘲笑に、ヨーゼフもつられて歯を見せて笑う。
「返事はいつものようにおまえにまかせたぞ、クラウス。適当に機嫌を取っておけ」
「かしこまりました」
クラウスは深く頭を下げると、出口へと足を向ける。
ヨーゼフがクラウスに当てつけるように側近と話をはじめた。
「労務管理をさらに厳しくすれば、あの鉱山の産出をまだ増やすことができるというのだな」
「そうです。現状の人員配置は多すぎるかと思います。最低限の人数で最大の仕事をさせる。それこそ、生産性向上の鍵です」
したり顔で説明する側近の声を聞きながら、クラウスはほくそ笑んだ。部屋を出る前にそっと振り返ると、側近がクラウスに向けて目礼する姿が見えた。
城の庭園は、季節毎に楽しめるよう多種多様の花が植えられている。
クラウスが腰を落ち着けた岩のそばには、百合が咲いていた。群生する百合の芳香は甘く、くらくらするほど濃厚だ。
封筒を開いて便箋を取り出すと、見慣れた文字が並ぶ。
「ヨーゼフ様、お元気ですかとは……アリーセ様、あなたが手紙をくれたのは、半月前ですよ」
クラウスは思わず笑った。アリーセの手紙は、大国と呼ばれるローザリア帝国の皇女が書いたとは思えぬほど素朴なものだ。
「また教会で炊き出しを手伝われたのか……」
アリーセの日常には、華やかな場面がほとんどない。彼女が好むのは、教会で貧しき者たちに奉仕することであり、花の世話をすることであり、厨房で料理人と語らうことだ。
帝国皇女らしからぬ娘であることは、まちがいない。古い歴史を誇るローザリア帝国は、皇族も貴族も宝石と絹で身を飾り、美食に舌つづみを打つのが趣味だというから。
(あなたは違うのだな……)
手紙の中のアリーセは誠実で慎ましく、彼女の手紙を読むと、清らかな水で喉を潤したような心地になる。
(初めて会ったときと、お姿は変わっただろうか)
幼い彼女の漆黒の瞳は星を宿した夜空のようにほのかな輝きを宿し、泣きぼくろは花のかんばせに儚さを添えていた。アリーセは穢れを知らぬ純潔の聖女のごとく美しかった。
(……ヨーゼフにくれてやるものか)
クラウスは手紙を持つ手に力を入れる。
彼女はオストフェンの王の王妃になる娘。床に臥せった父王が死ねば、ヨーゼフが彼女を娶ることになる。
(あの無能にアリーセはもったいない。彼女は俺の妻になるべきだ)
クラウスならば、アリーセを幸せにできる。彼女を第一に考え、骨の髄まで愛してやれる。
(何度、あなたを夢の中で抱いただろうか。新雪のような肌にむしゃぶりついて、官能の極致を教え込んでやりたい)
クラウスは手紙を読み続ける。彼女は宮殿に仔猫を連れた野良猫が住みついた話を綴っている。
『餌をやってはいけないと注意されるのですが、どうしてもあげたくなってしまうのです。母猫は仔猫に乳を与えていて、一番栄養が必要なときでしょうから』
アリーセのやさしさは陽だまりのぬくもりに似て、遠いところにいるクラウスの胸をあたためる。
「殿下」
声をかけられて、クラウスは手紙から顔を上げた。そこにいたのは、ヨーゼフのそばにいた側近だった。
「鉱山の生産性向上の布告を出すことになりました」
「兄上は自ら評判を貶めてくださる」
「いいえ、殿下が裏で糸を操っておられます」
済まし顔の側近に、クラウスが唇の端を持ち上げた。
「糸を見抜けぬ兄上が悪いのだ」
「次は貧民街の取り壊しでよろしいですね。理由は、栄光あるオストフェンの王都にふさわしくない」
「それで進めてくれ」
クラウスがうなずくと、側近は一礼して去って行く。
手紙に視線を戻すと、彼女の字を指でなぞった。
「アリーセ、あと少し待っていてください。必ずあなたを妻にします」
ヨーゼフを破滅させ、己が王になる。そして、アリーセの頭上に王冠だけでなく永遠の愛を捧げるのだ。
百合の芳香に溶け込んだクラウスの誓いを一陣の風が空に舞い上げた。
(了)