ソーニャ文庫

歪んだ愛は美しい。

会員限定特典小説

黒くて小さな愛人

(なっ、なんて可愛らしい光景なのかしら……!?)
 ソファに座ったまま眠りこけている夫――デイモンと、その膝の上で丸まっている子猫の姿を見たリリアナは、思わず息を呑んだ。
 皇太后ミラルダに誘われた食事会から帰ってくると、家にいるはずのデイモンが珍しく出迎えに出てこなかった。
 隙あらばリリアナをつけ回し、溺愛してくる夫がいないのは珍しく、少し心配もしていたがどうやら杞憂だったようだ。
「……ああ、帰ったのか」
 リリアナの気配に気づき、デイモンがゆっくりと目を開ける。
 寝起きの微笑みは妙に色っぽくて、リリアナの鼓動が僅かに乱れた。
 もう結婚して半年になるが、この美しい夫にまだ少し慣れない。以前よりは普通に接することが出来るようになったが、不意打ちで甘い表情を向けられるとどうしても戸惑ってしまう。
「おいで」
 そう言って手を差し伸べられ、リリアナはおずおずと彼へと近づく。
「すまない、君の席を取られてしまった」
 そう言って膝に目を向けるデイモンと共に、リリアナは猫を見つめる。
 小さな黒猫は、リリアナが近づいたことで目を覚ました。だが警戒心がないのか逃げるそぶりも見せず、にゃーと泣くばかりだ。
「この子はどうしたんですか?」
「騎士団からの帰り道で拾ったんだ。雨に濡れていたので放っておけなくて」
「捨て子でしょうか」
「そのようだ」
 デイモンは慣れた手つきで子猫を撫でる。すると子猫は心地よさそうに目を細め、ゴロゴロと喉を鳴らした。
「か、可愛い……!」
 子猫の愛らしさにメロメロになっていると、デイモンがリリアナをじっと見つめる。
「撫でてみるといい」
「い、いいのですか?」
「警戒心が薄いようだから、逃げることもないだろう」
 デイモンの言葉に後押しされ、リリアナは猫の背中をそっと撫でる。一瞬びくりとしたようだが、頭や喉をそっと撫でてやれば猫は甘えるようにすり寄ってきた。
 あまりの可愛らしさに頬を緩めながら猫を構っていると、何故だかそこでデイモンがリリアナの頭を撫でてくる。
「そうやって、猫を愛でる君は可愛いな」
「私じゃなくて、猫を撫でてあげてください」
 照れ隠しも込めて、リリアナはデイモンの手を掴むと猫の上にのせる。
 すると猫は、リリアナの時より積極的に甘え出す。構ってくれたのが嬉しかったのか、子猫はときおり軽く噛みついたりもするが、デイモンは慣れた手つきでいなしていた。
「さすがに、猫の扱いがお上手ですね」
「十年近く、ミーちゃんを飼っていたからな」
 子猫を構いながら、デイモンは昔を懐かしむようにふっと笑みを作った。
「私に似てたんですよね?」
「ああ。君の髪色と同じ毛色で、私に良く懐いてくれた」
 それからデイモンは、楽しげな声でミーちゃんのことを語り出す。
「臆病でちょっとドジだった。猫のくせに鈍くさくて、よく木から下りられなくなって私が助けていたんだ」
「でもそこが、デイモン様は可愛かったんですね」
「ああ。それにミーちゃんは優しかった。発作を起こした後は必ず側にいてくれたんだ」
 自己嫌悪とひどい頭痛に苛まれていると、必ず側に来て一緒に寝てくれたのだとデイモンは笑う。
「そういうところも、君に似ているな。いて欲しいときに側にいてくれる」
 そこで再び、デイモンはリリアナの頭を撫でる。
 猫を撫でているときとは少し違う甘い触れ合いに、リリアナはドキリとする。
 最初はミーちゃんに似ているという理由で側に置かれていたけれど、近頃の彼はもうあまり彼女を猫扱いしない。
 それを嬉しく思っていたが、猫扱いをやめた彼の仕草や触れ合いはリリアナには甘すぎて、照れてしまう。
「そのちょっと困った顔もミーちゃんに似ているな」
「ミーちゃんにも、なにか困らせるようなことをしてたんですか?」
「いや、私が困らせるのも、困らせたいと思うのも君だけだ」
 頭を撫でていた手が頬へと移動し、くすぐるように指先が肌を撫でる。
「困らせている自覚はあるんですね」
「すまない。ただ、その顔が好きで堪らないんだ」
 困らせるくせに、そうやって素直に謝ってくるものだからリリアナはやめてとは言えない。それにリリアナ自身も、こうした触れ合いが嫌ではなかった。
「もっと困らせても良いか?」
「い、今は駄目です……。猫ちゃんもいるでしょう」
 慌てるリリアナを援護するように、子猫がニャーと泣くなりデイモンの肩に飛び乗る。
 危なっかしい足取りに少しハラハラしたが、落ちそうになる身体をデイモンがさりげなく支えた。
「ずいぶん懐かれてますが、その子を飼うのですか?」
「私は器用な男ではないし、さすがに二匹も相手をするのは無理だ」
「二匹?」
「もう既に、私だけの可愛い猫がいるだろう?」
 向けられた微笑みで、リリアナは彼の言わんとすることを察し、頬を真っ赤に染める。
「それに私が拾ったとき、ファルゼンが物欲しそうに見ていたからな。最低限の躾をしたら、彼に譲ろうと思う」
「それは良い考えですね」
 ファルゼンは兄であるデイモンのことが大好きだから、彼から猫を貰ったら大喜びするに違いない。
 ファルゼンの性格上、素直に喜びを表現しないだろうが、こっそり猫を溺愛する姿はありありと想像できる。
「今、ファルゼンのことを考えているのか?」
 そのとき、不意にデイモンがリリアナの腰を抱き寄せた。
 はっとして顔を上げると、そこにあったのは拗ねたような顔だ。
「私と二人きりのときは、私のことだけ考えていて欲しい」
「猫ちゃんもいますけど」
「猫は許すが、ファルゼンは駄目だ」
 大人げない物言いに苦笑しつつ、リリアナはわかりましたと頷いた。
「心が狭くてすまない」
「いえ、嫉妬してくださるのは嬉しいです」
「そういえば最近、君の方はあまり嫉妬してくれないな」
「だってデイモン様は私を溺愛してくださるので、嫉妬する理由もなくて」
「では、この子に浮気でもしようか」
 そう言って、デイモンは肩の上の猫を抱き上げる。
 浮気というにはあまりに微笑ましすぎる光景に、リリアナは小さく噴き出した。
「今日はこの子と寝る」
「それは確かに、ちょっと寂しいですね」
 そう言いつつも、子猫と眠るデイモンの姿を見てみたいという思いも少しある。
 猫とデイモンの組み合わせはあまりに可愛くて、嫉妬するどころかずっと見ていたくなりそうだ。
「今日からしばらく、お前は私の愛人だ」
 真面目な顔で猫に語りかけるデイモンがおかしくて、リリアナは笑いを堪えきれなくなる。
「私は本気だぞ」
『にゃー』
 タイミング良く鳴いた子猫の声が更におかしくて、リリアナは笑いを堪えるのをやめた。
「デイモン様は相変わらずですね」
 リリアナの気を引こうとする時のデイモンは相変わらずやることがおかしい。でもそこも、リリアナは愛おしいと感じるのだ。
「でもほどほどにしてくださらないと、私も拗ねてしまいますよ?」
 軽い冗談のつもりだったが、デイモンは血相を変える。
「やはり愛人はやめよう。たとえふりでも、やはり私は妻を不快にはできない」
 すまないと猫に謝るその姿に「さっきのは冗談ですよ」と苦笑したが、デイモンは猫をソファに下ろし、代わりにリリアナの身体をぎゅっと抱き寄せる。
「やはり、私には君が一番だ」
「それは知っていますが、愛人さんはあなたに夢中ですよ?」
 そこで再び、子猫がデイモンの肩に飛び乗る。その様子に笑いながら、リリアナは子猫の身体を優しく撫でた。
 すると子猫は器用に身体を伸ばし、リリアナの頬に顔をすり寄せてきた。どうやらこの小さな愛人は、誰にでも良い顔をするタイプらしい。
「逆に君をとられそうで怖い」
「そういえばこの子、雄っぽくないですか?」
「……このままだと、私の方が嫉妬する羽目になりそうだな」
 耳元でこぼれたため息に苦笑を重ねながら、リリアナはデイモンの唇にそっと口づける。
「安心してください。私も、あなた一筋です」
 微笑めば、今度はデイモンの方から唇を寄せてくる。
 だがそれを阻むように、子猫がデイモンの口元に前足を繰り出した。
 ぺしっと頬を叩かれる様子に噴き出すと、デイモンが眉をひそめる。
「これは、一刻も早くファルゼンのもとに送り出さなければ」
 大真面目な一言にリリアナは笑い、猫は暢気ににゃーと鳴いた。
                                 【了】

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