ソーニャ文庫

歪んだ愛は美しい。

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夜半(よわ)の祈り

『夜半(よわ)の祈り』

 情事の後、アルテイシアは大抵すぐ眠りについてしまう。
 しかしオリヴァーはちがった。しばらくの間――時には明け方まで新妻の寝顔を見つめて過ごす。
 結婚式から一週間たつが、その時間に飽きることはなかった。
 小作りの顔は、大人になって輪郭がすっきりしたものの、おもざしは幼い頃からあまり変わらない。
 こうしていると昔のことを思い出し、気がつけばひとり笑みを浮かべていることもある。
 初めて会ったのはヴィンタゼル家にやってきたとき。可愛らしい少女だと思ったものの、それだけだった。あのとき、オリヴァーの心は固く閉ざされていた。
(そういう意味で、私にとって君と出会ったといえるのは、あの夜だった――)
 子猫を捜して屋敷から抜け出した、あの夜。
 幾何学的に配された樹木が幾重にも視界を阻む庭は、捜しものには向かなかった。
 独りさまよう暗い暗い夜の迷路から、オリヴァーを救い出してくれたのはアルテイシアだ。
 冷えきっていた自分の手を、てらいなくにぎってきた小さな手の感触は今でも忘れない。心に寄り添う言葉と共に、泣きたくなるほど温かかった。
 彼女にとっては、おそらく何気ない親切だったのだろう。けれどオリヴァーは、それまでずっと親戚たちに虐げられて生きてきた。
 誰かから優しくされることに飢えていた心は、あまりにも簡単に奪われてしまった。
 たぶんあのときから、オリヴァーの世界は彼女を中心に回り始めた。
 見た目だけでなく性格までも愛くるしく、まっすぐで、誰に対しても親切な少女を。
 だが、誰に対しても親切という――まさにその点が厄介だと感じた。彼女の優しさにふれた人間が、自分のように心惹かれることになっては面倒だ。
 そんな考えから、オリヴァーは気がつけばアルテイシアよりも先まわりして、周りの人間を気にかけるようになった。
 彼女が手をさしのべるよりも前に、自分が進み出る。その心がけは二重の意味で成功を収めた。ひとつは、周囲の関心を彼女からあるていど引き離すことができた。さらにアルテイシアからひどく尊敬されるようになった。
 …子供の頃の自分のこざかしさには苦笑しか出てこない。
(アルテイシア。君は私の本性を知らない…)
 他の人間などどうでもいい。大切なのはアルテイシアだけだ。
 彼女だけが生きる理由。会えない間もずっと、毎日毎日くるおしく想い続けていた。
 ひと目姿を見ようと、教会や公園で待ち伏せたこともある。清らかな人柄のまま美しく成長した姿を目の当たりにして、想いはますます募っていった。
 どんな方法を使っても手に入れようと心に決めたのは、ごく自然な流れだ。
 ただひとつの点を除けば、侯爵の称号を持つ自分にとって難しいことではなかった。
 その結果、念願かなってアルテイシアはオリヴァーの妻となった。
 夢にまで見た、幸福な日々。それなのに――今、オリヴァーの心は灼けるような不安に苛まれている。
 彼女が『真実』を知ったらどうなる?
 おぞましい過去の出来事を。そして結婚に際してたったひとつ立ちはだかった問題を、自分がどのようにして片付けたか。
 一連のことを知った彼女から、自分への信頼が失われたらどうする?
 結婚した今、来る日も来る日も、そんな不安に襲われてばかり。
 理由はわかっている。この結婚は正しいものではないと、他でもない自分自身が、もっとも強く感じているからだ。
 本来、自分にその資格はなかった。にもかかわらず、あらゆる不都合に蓋をして、制止する理性に背を向け、悪魔に魂を売った。…その結果が幸福なものになるはずがない。
(だが…こうするより他になかった…。他に道は選べなかった…)
 すべて理解しているからこそ、オリヴァーは不安に耐えるより他にない。
 まやかしの蜜月がいつまでも続くわけがない。この結婚はいつか破綻する。
 そんな予感から必死に目を背ける。
「オリヴァー…?」
 そのとき。
 夫が起きていることに気づいたのか、アルテイシアが半分だけ目を開ける。
「こわい夢を見たの?」
 ひどく眠たそうな問いに、オリヴァーは穏やかに首を振った。
「いいや。幸せな夢を見ているよ。君のおかげで」
「そう…よかった…」
 不明瞭なつぶやきを残し、彼女はほどなくスースーと健やかな寝息をたて始める。
 胸をふさがれるような愛おしさを感じ、オリヴァーは新妻の胡桃色の髪の毛をなで、想いを込めてキスをした。
 わずかな明かりに照らされた、ひどく無防備なアルテイシアの顔を飽きることなく見つめる。
 夫婦の寝室で彼女の寝顔を独り占めしている幸運を噛みしめる。
(君を愛している。君を見ていたい。君を感じたい――それが私のすべてだ)
 そのためなら何でもする。
 オリヴァーはその思いを新たにする。
 誰にも邪魔をさせない。どんな障害も取りのぞいてみせる。あらゆる手段を講じてこの結婚生活を守ろう。自分には彼女以外、失うものなどないのだから。
 今までも、そしてこれからも、オリヴァーが願うことはただひとつ。
 決して変わらず、ひとつだけだ。
(どうか私の隣にいてくれ…)
 神ではなく、彼女に向けて、心を振りしぼるように祈る。
 共に生きたい。愛し合い、夫として横に立ちたい。
 できる限り長く。
 一日でも、一分でも――一秒でも長く。

 どうか。

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