ふたりで
「え!? お母様、まさかその恰好で行くつもり!?」
出掛けようと支度をととのえ、階下に降りようとしたトリシアに、悲鳴のような声がかかった。
驚いて目を上げた先には、今年六歳になる息子のシリルの姿がある。父親とよく似た造作を驚愕の表情に歪め、こちらを見上げていた。
息子を見る度、トリシアの胸にあたたかいものが込み上げる。お腹を痛めて産んだ我が子だ。無条件にかわいいのもあるが、なにより愛する夫、ユアンとそっくりなその姿に、彼と自分の間に生まれてくれた命であることを実感できるからだ。
髪の色は自分に似て真っ黒になってしまったが、それ以外は全てユアンと同じ。まるで彼のミニチュアのようだと、周囲からも評判だ。
「ええ。そのつもりよ、シリル。……お母様の恰好が、何か変かしら?」
トリシアは自分の姿を見下ろしながら言う。モスリンの藍色のドレスに、小さなレティキュール、人込みの中を歩くので、日傘は邪魔だろうと帽子を被ってみた。それにレースの手袋も。全てこのドレスに合わせて作られた小物だったので、おかしな恰好ということはないはずだ。
首を傾げる母親に、シリルは呆れたように大仰な仕草で肩を上げる。
「お母様、『花祭り』に行くんでしょう? どうして花を飾っていないの?」
「あら……」
指摘され、トリシアはようやく合点がいく。
『花祭り』とはこの城下町で行われるもので、『恋人同士の祭り』として名高い。女性は身体中に花をいっぱい飾り、踊りに誘ってきた男性が意中の人であれば、身に着けている花を一輪相手に手渡すのだ。
確かに、これから『花祭り』に行く予定のトリシアなのに、花を一輪も身に飾っていない。
「本当ね。お母様、お花のこと、すっかり忘れてしまっていたわ」
ダメねぇ、と眉を下げると、シリルが慌てたような表情になった。父親と瓜二つな彼は、トリシアが困った顔をすると、慌ててしまうこところまでそっくりなのだ。
「ダメじゃないよ! お母様は花なんか無くたってきれいだし!」
「……まあ、ありがとう」
論点がズレてしまっているが、慰めようとしてくれていることは分かる。息子がかわいいやらおかしいやらで、クスクスと笑ってしまっていると、シリルが何か思いついたといったように、パッと顔を明るくして駆け出した。
「僕、お庭から花を取ってくる! 待ってて!」
唐突な行動に面食らうトリシアにそう叫ぶと、シリルはあっという間に目の前からいなくなってしまう。こちらの返事を待つこともなく行動に及ぶ気忙しさに、呆気に取られることしかできない。まさに小さな嵐のようだ。
「本当に、言葉より先に行動に出るんだもの……」
トリシアはため息交じりに呟いた。こういう突発的な行動は小さな男の子にはよくあることらしく、もう慣れたものだが、最初は戸惑ったものだ。そういえば、夫のユアンが『俺もそうでした』と苦い笑顔で呟いていた。
「きっとユアン様の血が濃いのね」
やれやれと笑いながら言った独り言に、背後から声がかかってギョッとする。
「トリシア様の血も十分に濃いようにお見受けしますが」
「レノ!」
いつの間に傍に来ていたのか、元従者で、今はこの邸の家令となったレノが立っていた。相変わらず気配というものがない人である。
「大胆で予測不能なところなど、そっくりでいらっしゃる……」
淡々と話しているが、間違いなく万感のこもった発言だ。なにしろ、幼少期より、亡くなった母に代わりトリシアを育て慈しんでくれた、親のような人である。
自分が親になってみて初めてその苦労が分かると言うが、まさにその通りなのだろう。
「トリシア様は、ご自分で思われるよりずっと大胆でいらっしゃるのですよ」
「……あなたには苦労をかけました……」
己の過去を振り返れば、レノには苦労を掛け通しだった。
恥じ入ってしおしおと頭を下げるトリシアに、レノはとんでもございません、と首を振る。
「亡きセーラ様の御遺志を継ぎ、愛娘であられたトリシア様を見守り、その上そのお子様であるシリル坊ちゃまのご成長まで目の当たりにできているのです。これ以上の至福はございません」
レノは元々トリシアの亡き母の従者だったのだ。
最近――特にシリルが生まれてからは少し改善されたものの、それでも鉄面皮と呼ばれるほどに表情の変わらないレノだが、母のことを語る時だけはいつも口元にほんのりと笑みが浮かぶ。
(……きっとお母様とレノとの間には、私も知らない深い絆があったのね……)
レノは母の遺言に従うために生きてきたといっても過言ではない。トリシアの知る限り、彼に恋人がいたことはないし、当然結婚もしていない。ただひたすら、主である母に仕え、その亡き後は主の娘であるトリシアを育て、今はシリルの教育係をも担っている。
レノの献身を思うと、トリシアは申し訳なさと感謝で胸が詰まる。
もうそろそろ自分の幸福を考えてもいいのではないかと、それとなく結婚などを促してみたこともあるのだが、レノに一蹴された。
『私の幸福は、セーラ様と共にあることでした。そのセーラ様亡き後は、トリシア様を、そしてシリル坊ちゃまのご成長を見守らせていただくことが、私の生き甲斐です』
きっぱりと言い切られ、それ以上は何も言えなくなってしまったのだ。
レノが自分達の傍にいることを幸せだと言う以上、否定をするのはおかしいだろうから。
それでも、ユアンに恋をし、伴侶として得た今、レノにもそういう相手がいてくれればと願ってしまう。無論、レノのみならず、大切な友人であるローレンも然り、ではあるが。
「……あなたは、誰かに恋をしないの?」
思わず心の中の声を口にしてしまって、トリシアはハッと口元を押さえた。
恐る恐る視線を向ければ、レノは細い目をこれでもかというほど見開いて、こちらを凝視していた。
要らないことを言ってしまった、と後悔して焦るトリシアに、レノはクッと喉を鳴らして笑い出す。
「……本当に、大胆というか、予測不能と言うか……。だいたい、今そんな話をしていましたか?」
今まさに指摘された通りになって、トリシアは身を縮めた。
「……だ、だって、もし、そんな人がいるのだったら……。私達の面倒を見ていたせいで、その恋を見逃すなんて、してほしくないもの……。レノには、幸せになってもらいたいの」
それは前に結婚を促した際にも言ったことだ。同じことを何度も、と我ながらしつこいとは思いつつも、言わずにはおれず繰り返す。
レノは黙ってそれを聞いていたが、その表情はとても穏やかだった。
「トリシア様のお気持ちは、大変ありがたく思います。ですが、前に申し上げた通り、私の幸福はここにあります」
「……そう……」
同じやりとりに、トリシアが肩を落とした時、レノが小さく吐き出すように笑った。
「ですが……そうですね、恋をしたことは、あります」
「……えっ」
話題を振ったものの、まさか聞けるとは思っていなかった答えに、トリシアは目を輝かせる。親代わりであったレノは、トリシアに自分の色恋沙汰を匂わせることすらしてこなかったので、ひたすら驚きだった。
そんな興味津々なトリシアの様子に苦い笑みを浮かべつつ、レノは言葉を続ける。
「一生に一度の恋です。私はその恋だけでいい」
静かで、揺るぎない告白だった。だがその茶色の瞳の奥には、凝縮した青白い炎が揺らめいて見えた気がする。
あまり感情を出さないレノの、凝った激情を垣間見た気がして、トリシアは知らず息を呑んだ。
(……静かな森のような人だと思っていた。こんなにも熱い情を抱えていたなんて……)
まるで知らない人を見るような気持ちで見つめていると、やがてレノが何かを見つけたのか、その目を細めてクスリと笑う。
「ああ、坊ちゃまが駆けていらっしゃいますよ。きっとトリシア様に似合う花を見つけたんでしょう」
言われてそちらへ目を向ければ、小さな身体を弾ませるように駆けてくるシリルの姿が見えた。
「お母様! すごくいい花を見つけたんだ! 取っていい!?」
キラキラした満面の笑みで問われて、トリシアは微笑みながら答える。
「まあ、どんな花かしら」
愛しい我が子が自分のために見繕ってくれた花ならばなんでもいいと思うものの、庭師に一応訊いてみないと、と心の裡で思っていると、シリルが興奮したように言った。
「すっごく大きいやつ! 中庭にある、まだ咲いてないやつなんだけど! あんなに大きい蕾はそうないよ! アレを頭に差したら、きっと一番目立つよ、お母様!」
その特徴を聞いた途端、隣でにこやかに母子の会話を聞いていたレノが、クワッと目を見開く。
「いけません! それはあなたのおばあ様が大切にしていらした月下美人です!」
その叫び声に、トリシアもまたその存在を思い出して蒼褪める。
亡くなった母が愛し、実家からわざわざ持ってきたという月下美人だ。以前は父の住む実家の庭に植えられていたが、トリシアが結婚してからはこちらの庭に植え替えたのだ。
トリシアはこの月下美人を母のよすがとしてとても大切にしていたが、レノにとっても同じくらい大切なものらしい。
「ダメよ! シリル! あのお花は絶対に取っちゃダメ! おばあ様の形見だし、一年に一度しか、しかも夜にしか咲かないお花なの!」
血相を変える大人二人に、シリルは「えー」と不満そうな声をあげて唇を尖らせる。
「ケチー」
「ケチではありません! まったく坊ちゃまときたら、ダメだと言われることをしたがる天才でいらっしゃる! さあ、月下美人でなくとも、庭にはたくさん花が咲いています! レノと一緒に探しにまいりましょう!」
油断も隙もないシリルに毟られては大変と、レノは小さい手を取り庭へと引きずって行く。その後ろ姿を見送りながら、トリシアはまるで本当の孫と祖父のようだと目を細めた。
結婚をせず、傍に身寄りのいないレノだが、確かにここにはレノの幸せがあるのかもしれないと思いながら。
* * *
結局シリルがレノと一緒に選んでくれたのは、白い薔薇の花だった。
『ぜったい大きい方がカッコイイのに!』
とシリルは不満タラタラだったが、トリシアとレノは胸を撫でおろした。
その薔薇の棘を丁寧に取り除き、結った髪に差し込む。
支度を終えたいい頃合いに、トリシアの部屋がノックされた。
現れたのは、夫であるユアンだった。
共に孤児院の訪問をした後、騎士団に用事があると一度外出していたのだが、今帰ってきたのだろう。
ユアンはトリシアの姿を見るなり、美しい顔を甘く綻ばせて言った。
「ああ、トリシア。美しいよ。花の女神みたいだ」
褒められて、トリシアははにかむ。それはこちらの台詞だと言いたい。
トリシアの夫は相変わらずの美貌だ。太陽の光のような金の髪、女神のように秀麗な容貌、けれどその肉体は、軍神もかくやという逞しさだ。
「あなたの方こそ、とても素敵よ」
トリシアの言葉に微笑みを返して、ユアンは大股で近づいてくると、トリシアの手をそっと取っておもむろに跪く。鮮やかな翡翠色の瞳が、トリシアの顔を覗き込んで甘やかに煌めいた。
「今宵の花祭り、どうか俺と一緒に行ってはくれませんか、トリシア」
トリシアは微笑んだ。
まるであの時頭の中で描いた夢そのものだ。
『血塗れ姫』としての自分から逃れることしか考えていなかったあの頃。ただのトリシアになって、町娘のように優しい恋をしてみたいと願った。
(でも、実際には私は、私にしかなれなかった)
トリシアは、トリシアだ。ただのトリシアも、そうでないトリシアも存在しない。自分の過去を背負って、その責任を取るために毎日を生きるしかない。
それは父が言った通りだ。父は正しい。だが、あくまで一面では、ということでしかない。
責任を取るために生きるというが、その責任を背負った上で、今をどう生きるかの選択をしなくてはならない。過去を嘆いて逃げてばかりいても、未来は変わらない。
自分のしたことの責任の取り方は、他人に決められる必要はない。
自分の中で決めればいいのだと気づいたのは、ユアンのおかげだ。誰に何を言われようと、自分が信じていることを貫くその精神力。逆に賞賛を浴びるべきことですら、その必要はないのだと切り捨ててしまうほどの強さを目の当たりにして、彼のようになりたいと思った。
そしてユアンが見せてくれたもののおかげで、自分がいかに狭い視野でものを見ていたのかを知った。嘆くだけだった自分を恥じた。
自分にできる何かを模索し、動いてきた結果、今こうして手に入らないと諦めていたあの夢に、こうして触れられている。
それを不思議だと思う反面、これもまた責任を取った結果なのかもしれないと思う。
父の言っていた『責任を取る』ということも、捉え方次第でたくさんの形が存在するのだろう。
「トリシア?」
感慨に耽っていたトリシアは、ユアンの不思議そうな声で我に返った。
花祭りに行こうと、愛しい人に誘われたのだ。無論、答えは是である。
「ええ、もちろんです」
トリシアの答えに、ユアンは満足そうに破顔する。その愛しい顔を眺め、トリシアは自分の髪に挿した薔薇を抜き取り、彼の胸ポケットに差し込んだ。
「白い薔薇だね」
ユアンが大きな手で薔薇の存在を確かめるように胸ポケットを押さえて言う。大事そうなその仕草に、胸があたたかくなった。
「シリルが選んでくれました」
そう説明すると、ユアンは金の眉を大きく上げる。
「シリルが?」
「そう。最初、私の母の形見の月下美人を毟ろうとしていて、レノが血相を変えて止めていたわ。レノに見張られながら摘んできたのが、この白い薔薇だったの」
思い出すと笑い出してしまう。案の定ユアンは苦笑いだ。
「それは……レノは怒っていただろう」
「ええ、それはもう! 普段の丁寧な物腰も吹き飛んで、孫を叱りつけるおじいちゃんそのものでした」
クスクスと笑いながら言えば、そんなトリシアの身体を腕の中に抱き寄せて、ユアンが呟く。
「孫とおじいちゃんか……。確かに、あの子にとって祖父と呼べる存在は、レノしかいないからな……」
その台詞に、トリシアは黙ってそっと目を伏せた。
ユアンの両親とトリシアの母は既に鬼籍に入っているし、唯一存命であるトリシアの父は奇人として名高い『冷徹公』だ。国の英雄ではあるものの、いろいろと問題の多い父の傍に子どもを置くなど、とんでもない。
一風変わった価値観を持って生きている父は、周囲の人間を巻き込んで振り回す災害のような人なのだ。
一瞬落ちた沈黙で、互いに誰のことを考えていたか予想がつく。
ユアンは気を取り直すようにトリシアの髪に口づけした。
「さあ、せっかくレノおじいちゃんがシリルを見ていてくれるんだ。今夜は二人きりで花祭りを楽しもう」
甘く囁かれ、トリシアの頬が淡く染まる。ユアンはその桃色になった頬を指の背で撫でながら、白い額にも口づけを落とす。
「……ああ、本当にあなたはいつまで経っても初々しいな」
「……もう、ユアンったら。母親になって六年も経つのですよ。恥ずかしいから、からかわないでください……」
もう初々しいなどと言われる年ではない、と憤慨してみせたが、ユアンはまったく意に介した様子はない。するりと手を取られ、その手の甲にも唇を寄せられながら、甘い眼差しを向けられた。
「からかってなどいない。あなたが母親になろうと、俺にとってはずっと愛しい妻だ。『お母様』としてのあなたはシリルに譲るが、『妻』としてのあなたは誰にも譲るつもりはない」
じっと見つめられ、トリシアはユアンの眼差しに息を呑む。
その鮮やかな翠色の瞳の中に、熱い情欲が揺れているのに気づいたからだ。
「シリルが小さい内は『お母様』でいる時間が長いのも仕方ないと我慢していたが、そろそろ俺の『妻』を返してもらいたい」
耳元で低く囁かれ、ぞくりと背筋に慄きが走った。
まるで肉食獣に狙いを定められた獲物になった気分だ。
「が、我慢って……」
ユアンが我慢していたなんて思いもしなかった。
確かにシリルが生まれてからは、トリシアの体力のなさや育児の大変さから夫婦の営みの回数は減った。だが無くなったわけではないし、新婚ではないのだからこんなものなのだろうと認識していたのだ。
トリシアの言わんとするところを正確に把握したらしいユアンが、にっこりと笑顔で首を傾げた。
「あんなもので、俺が満足するとでも? 本当は毎日だって……昼夜を問わずあなたを貪っていたいくらいなのに」
思わず「ヒッ」と掠れた悲鳴が零れた。
騎士であるユアンとトリシアの対格差はゆうに倍はある。体力もまた同じである。
昼夜問わず毎日など、死んでしまうに違いない。
蒼褪めてプルプルと震えるトリシアに、ユアンは麗しい笑顔で言った。
「『花祭り』は恋人同士のための祭りだ。シリルの母親から俺の恋人に戻る、うってつけの日だとは思わないか?」
思わない、と声を大にして言いたかった。
だがライオンに睨まれたウサギに、そんなことが言えるはずもない。
プルプルと涙目になって震えるトリシアに、ユアンは極上の笑みを浮かべて宣告したのだった。
「久しぶりの二人きりだ。今夜は覚悟しておいて」