君の笑顔
「ユーディアス様!」
「お待ちになって、ユーディアス様」
建物に入ろうとしていたユーディアスは、自分の名を呼ぶ甲高い声に内心うんざりしながら足を止める。無視してしまいたかったが、他人の目がある以上そういうわけにもいかなかった。
振り返ったユーディアスの目に、足早に近づいてくる華やかなドレスを身に纏った二人の貴族令嬢の姿が映る。
「まさか、ここでユーディアス様と出会えるなんて!」
「この広い王宮でお会いできるなんて、運命を感じますわ!」
その言葉に、ユーディアスの横にいた警備兵が苦笑する。視線で問うと、警備兵は令嬢たちに聞こえないように小声で答えた。
「一時間ほど前からこの付近をウロウロと窺っておりました」
運命もなにも、どうやらユーディアスが通りかかるのを期待して、建物の出入り口付近を見張っていたようだ。少し離れたところで女官が困ったような様子で見守っている。どうやら案内役である女官に無理を言って待ち伏せしていたようだ。
呆れ果てたが、そんな気持ちは微塵も表に出さず、目の前までやってきた令嬢たちの名前と身分を記憶の底から引っ張り出しながら、にこやかに応対する。
「ごきげんよう、ヴェスター伯爵令嬢、スリンガム伯爵令嬢。お二人ともクリスタ殿下のお茶会に出席されたのですか?」
まだ婚約者のいない第二王子に紹介しようと、クリスタ王女が年齢の近い令嬢たちをお茶会に招待したことは、当の王子本人から愚痴とともに聞いていた。
「ええ、そうなんですの」
「殿下と側近の方にお会いできたのは嬉しかったのですが、ユーディアス様のお姿はなかったのでとてもさみしかったですわ」
「私は外せない仕事がありましたので」
それに公になってはいないが、婚約者のいるユーディアスはいまさら結婚相手を探す必要がない。学園時代から付き合いのある第二王子はそのことを分かっているので、ユーディアスをお茶会に無理やりつきあわせることはしなかったのだ。
「ところで、そのお茶会はすでに二時間も前に終わっているようですが……」
ユーディアスはわざとらしく首を傾げる。
「え、そ、それは……」
令嬢たちはバツが悪そうに顔を見合わせた。王族のお茶会に呼ばれたからといって、終わった後に用もないのにうろつくことは不作法とみなされる行為だ。
「お二人とも何かあってはいけませんので、速やかに帰られるのがよろしいかと思います」
微笑みを崩さず、優しい口調で言うと、ユーディアスは所在なく立っている女官に声をかけた。
「そこの君、いますぐお二人を馬車まで案内してあげてくれ。きっと御者も何かあったのではないかと気をもんでいるに違いない」
ホッとしたように女官は頷いた。
「かしこまりました、セルディエ侯爵様。さぁ、お二人とも、参りましょう」
「わ、分かりましたわ……」
さすがにユーディアスの前で我儘は言えなかったようで、しぶしぶと二人は去っていった。ユーディアスはやれやれと思いながら建物に入っていく。
執務室に行くと、先に戻っていた外務大臣ヘルマン・ガーディスが笑いながらユーディアスを迎えた。
「君も色々大変だな、セルディエ補佐官」
「まったく、いい加減にして欲しいものですよ」
ユーディアスは顔を顰める。令嬢たちの媚びるような笑みと声は、彼にとって不快なものでしかなかった。
――シンシアとは大違いだ。彼女は決してあんな笑顔を僕に向けることはない。
「仕方なかろう。彼女たちにとって君は優良な結婚相手だ。身分も地位もあるし、容姿だって整っている。しかも……」
ヘルマンは楽しげに続けた。
「対外的には婚約者がいないことになっているときてはね」
彼が面白がっていることは明らかだった。ユーディアスはじろりと上司を睨んだが、父親である前セルディエ侯爵の片腕だった相手に取り繕っても無駄だった。
「……本当ならとっくに婚約を公表し、今頃は結婚しているはずだったんですが」
不機嫌そのものといった表情でユーディアスは呟く。
婚約者のシンシア・ベルクール伯爵令嬢が社交界デビューをする予定だった王宮舞踏会でユーディアスは婚約を公にし、それからすぐにも結婚するつもりだったのだ。ところが思わぬ横やりが入り、それが叶わなかった。
二年前のことを思い出すたびにふつふつとした怒りが湧いてくる。
腹立たしげに唇を引き結ぶユーディアスを見て、ヘルマンはくすっと笑った。
「普段はどんな手ごわい外交相手でも冷静で柔和な表情を崩さない君が、それほど感情を露わにするのは彼女のことだけだな」
「……そうですね」
ユーディアスの感情を揺さぶるのはシンシアだけだ。彼女のことに関してだけはどうも冷静でいられなくなる。
「まだ君が小さい頃、デイヴィスがよく君のことを『そつがなさすぎる』と言って心配していたが、今の君を見ていると杞憂だったと言うべきだろうな」
デイヴィスというのは、今は療養地にいるユーディアスの父親である前セルディエ侯爵のことだ。
「外面だけはいい、可愛げのない子どもでしたからね、僕は」
その言葉は父親だけでなく、母親からもよく言われていた。『お前はそつがなすぎる、挫折することも知れ』と。
当時のユーディアスはその言葉の意味がよく分からなかった。けれど、今では両親の懸念も理解できる。
「君は名門侯爵家の跡取りだったし、君自身も優秀で苦労したことがない。かと言って鼻持ちならない性格でもないし、世渡りも上手だ。だからこそ、デイヴィスは心配していたんだ。君が他人の気持ちを理解したり共感しないまま成長していくのではないかとな」
ユーディアスの口元に苦笑いが浮かぶ。
「確かにあのままだったら、そうなっていたかもしれませんね。僕にとって他者は……こう言ってはなんですが、どうでもいい存在でしたから」
何をやらせてもユーディアスは優秀だったし、家庭教師や使用人、同世代の貴族子弟や令嬢からも褒められたことしかなかった。何かに必死になることもなかった。そのせいもあってか、ユーディアスは「いい子」を演じながら、その実、内心では他者を下に見ているところがあったのだ。決して態度には出さなかったが、両親は彼の危うさに気づいていたのだろう。
「僕が多少なりともまともになったのは、シンシアとシャロン様のおかげですよ。特にシャロン様には鼻っぱしらをへし折られましたから」
何かを得るために必死になったことは今も昔のあの時だけだ。けれど、そのおかげでユーディアスは、身分や容姿に関係なく笑顔を向けてくれるシンシアの傍にいる権利を得た。挫折を覚え、誰かを守りたいという感情を得ることができたのだ。
***
ユーディアスがシンシアと出会ったのは、彼が十歳になるほんの少し前のことだ。
両親に連れられて王宮に出向いたおり、国王夫妻に会いに来ていたシャロンとシンシアと顔を合わせたのが始まりだ。
シンシアを見た時に最初に目を引いたのは王族の血を色濃く引いたその容姿だった。光沢のある銅色の髪に、宝石のような大きな緑色の瞳。可愛らしい顔だち。
けれど彼女は国王夫妻に礼儀正しく挨拶をした後、すぐに恥ずかしそうにシャロンのドレスのスカートの後ろに隠れてしまった。その瞳は一度もユーディアスを見ることがなかった。
男性であれ、女性であれ、子どもであれ、ユーディアスの容姿に目を留めない人間は今までいない。それなのに、シンシアはユーディアスに目を向けることなく隠れてしまった。
それは周囲にちやほやされてきたユーディアスにとっては初めての経験で、ある意味とてもびっくりしたものだ。
「ごめんなさいね、ユーディアス様。今、この子、とても人見知りをする時期なの。慣れている相手には笑顔を振りまくのだけれど……」
完全にスカートに顔を隠してしまった少女が、笑顔を振りまくとはとても思えなかった。
それなのに、大人だけで話をする間シンシアの相手をするようにと母親に命じられ、さすがのユーディアスも途方に暮れてしまった。
――困ったな。何を話せばいいんだろう。
思えばユーディアスはそれまで誰かの歓心を買うことに苦慮したことはなかった。黙っていても、セルディエ侯爵家と縁を結びたい相手が話しかけてくるからだ。ユーディアスはその相手に合わせればいいだけだったのだ。
ユーディアスはシンシア、それに護衛の兵を連れて中庭に行った。中庭にしたのは、シンシアは花が好きだとシャロンが言っていたからだ。自由に花を摘んでもいいと許可をもらったので、ユーディアスとしてはそれで時間を潰すつもりだった。
「王妃様の名前が付けられた薔薇だそうだよ。綺麗だよね」
「……」
「こちらは友好国であるラインダースから贈られたプリムローズ。薬草としても使われているらしい」
「……」
シンシアは俯いたまま、手を引くユーディアスをちらりとも見なかった。声をかければ頷くものの、声を出すことはない。
恥ずかしがっているのは分かるが、これでは話をする以前の問題だ。
ユーディアスは完全に途方に暮れた。
けれど、しばらくするとようやくユーディアスに慣れてきたのか、シンシアは顔をあげてちゃんと花を見るようになった。
「……きれい……」
百合の花を見てシンシアが呟く。どうやら彼女は薔薇のように華やかな色合いの花よりも、白い清楚な花が好みのようだった。
「百合ならうちにもたくさんあるよ。今度、僕の家の屋敷に来たら案内するよ」
「お兄ちゃまのおうちにも?」
まだ舌足らずのせいかユーディアスの名前が発音しにくそうだったので、シンシアは彼を「お兄ちゃま」と呼んだ。
「そうだよ。たくさんあるから、遊びにおいて」
「うん」
恥ずかしそうに頷くシンシアはとても可愛らしかった。
ユーディアスはどんどん打ち解けてくるシンシアに、妙な達成感を覚え始めていた。
シンシアがジャスミンの花を見ている間に庭師に言って、百合の花を摘んでもらう。
「シンシア。はい、これ。今日の記念に君にあげる」
一輪だけ切った百合をシンシアに手渡す。最初はきょとんとしていたシンシアだったが、小さな手の中に握り締めた花を見つめて、パァッと笑った。
「あ、ありがとう、お兄ちゃま、うれしい!」
その笑顔は花が綻ぶようで、本当に嬉しそうだった。ユーディアスは自分に向けられたその無垢な笑顔に胸をつかれた。
今まで彼にこんなふうに心からの笑みを向けた者はいなかった。ユーディアスに向けられるのはいつも媚びたような、こちらの機嫌を窺うような、作られた笑顔ばかりだったからだ。
どくんと、心臓が跳ねる。
――この笑顔が欲しい。
高鳴る胸の鼓動を聞きながら、不意にユーディアスは今まで思ったことのない感情を覚えた。
作られた表情ではなく、嬉しい気持ちをそのまま表したようなこの笑顔がいつも傍にあれば……。
自分の中に存在する欲を自覚したユーディアスの行動は早かった。母親たちのところに戻ると、国王の前でシンシアの両手をぎゅっと握り締めて告げる。
「シンシア、僕と結婚してこの先もずっと一緒にいて欲しい」
仰天する両親やシンシアの母親を尻目に、求婚されたことをまったく理解していないだろう彼女から言質を取る。
「うん? よくわからないけど、お兄ちゃま大好き。撫でていい子いい子してくれるのも好き。ずっと一緒にいたい」
その後、面白がった国王によって婚約が結ばれた。国王にしてみれば扱いの難しい出自を持っているシンシアの伴侶として、ユーディアスは申し分のない相手だったし、両親にしてみてもフォーセルナム侯爵家と縁続きになれるのは悪くないことだった。
ただ一人、シャロンを除いては。
シャロンは国王夫妻の手前、婚約を許したものの、決してユーディアスを認めたわけではなかった。
「この子は色々なものを背負って生まれてきた子なの。この子を守れる相手でなければ認めるわけにはいかないわ」
ユーディアスはシャロンに認めてもらうために、必死に努力しなければならなくなった。シャロンはとても手ごわい相手で、今までのような身分や容姿といった小手先の手段がまったく通じなかったのだ。だから、ユーディアスは必死になるしかなかった。
その時の経験がのちに外交において活かされることになるのだから、めぐりあわせというのは不思議なものだと、ユーディアスはいつも思う。
結局シャロンに認めてもらうのに二年かかった。そしてシャロンの口からシンシアの出自のことを聞かされ、ようやく彼はなぜ両親や国王がこの婚約を許可したのか理解した。
「あの子を守れる力をつけてね、ユーディアス様。きっとあの子にはその力が必要だから。……お願いね、ユーディアス様。あの子を何者からも守ってちょうだい。どんな手を使っても」
シャロンの言葉はそのままユーディアスの誓いとなった。
***
「あれから二年か」
ヘルマンの言葉にユーディアスは我に返った。
「……ええ、二年です」
ベルクール伯爵夫妻に騙されたシンシアが保養地に追放されて、二年。ユーディアスがシンシアと会えなくなって、それだけの日数が流れた。
「シンシア嬢の周辺はまだ騒がしくなっていないのだろう? まぁ、それもあとわずかのことだろうがね」
ユーディアスが仕掛けようとしていることを全て把握しているヘルマンが書類を手に意味ありげに尋ねる。
「はい。舞台は整いつつあります。ラインダースの反国王派もオルカーニ伯爵も追いつめられている。彼らはシンシアを目当てにベルクール伯爵家に手を伸ばしつつある。……それが、こちらが仕組んだものとも知らずに」
酷薄な笑みがユーディアスの口元に浮かぶ。
彼はラインダースの反国王派とオルカーニ伯爵を利用してベルクール伯爵を排除するつもりだった。今度こそ完全にあの笑顔を手に入れるために。
シンシアがベルクール伯爵を父親として心に留めている限り、完全にユーディアスのものにはならない。それを分かっていながら、彼女をユーディアスに依存させるためにベルクール伯爵とその家族を今まで利用してきたが、もう必要なかった。
本当の父親がシンシアの目の前に現れることになるのだから。
――シンシア。もうすぐ完全に君を手に入れる。
その笑顔も、綺麗なまっすぐの心ごとユーディアスのものになる。
「楽しみですね、その時が」
うっとりとユーディアスは笑った。
それはユーディアスとシンシアが王都で再会するほんの数か月前のことだった。