ぼくの完璧な世界
ファルツ公国の葡萄酒は幻の銘酒といわれている。芳醇で濃厚な味わいは他国の追随をゆるさない。
しかし、ベーレンブルク伯爵は給仕にその杯を渡されそうになったところ、すぐに手で押し止めた。
「ぼくは結構だ。酒は嗜まないのでね。代わりにレモン水を用意してくれないか」
その行為は遠巻きにいた貴族たちをがっかりさせた。彼らは酒を理由に伯爵に近づこうとしていたからである。
ベーレンブルク伯爵は、ファルツ公国では異例なことに、他国から迎えられた人だった。突如現れたこの人物は、先の大戦で不落といわれた砦をいともたやすく壊滅させ、その功績が認められて、血が途絶えて空席だったベーレンブルクにおさまった。
だが、ベーレンブルクは名門であったため、他国の者に与えるのはどうかと反発も多かった。そのため、さまざまな悪意ある憶測も飛び交っていた。
そんななか、今宵はじめて公の場に姿を見せるというベーレンブルク伯爵は、当初、軍功をあげただけあり、武骨で野蛮な大男だと思われていた。が、大広間に現れた途端、皆の視線を一気にさらった。悪しざまに言っていた者の目も例外なくだ。
夜更けの空色に似た漆黒の髪、そして、どのような宝石もかなわないであろう銀色の瞳。とんでもなくうるわしい青年だ。その美貌は舞踏会の会場全体をどよめかせるほどだった。
目の覚めるような青色の衣装も相まって、彼はまばゆいほどに際立っていた。
給仕からレモン水を受け取ったベーレンブルク伯爵は、まわりの目や思惑に気づきながらも、そしらぬふりして杯を優雅に傾ける。
大公の名のもとで開かれる催しは貴族にとって重要なものだが、彼にはどうでもいいものだった。
──くだらない。
来たばかりであるにもかかわらず、彼が帰城しようと決めたときだった。遠くのほうからひそひそと話す声を拾った。
「なあ、アルド王国の王女がかどわかされたといううわさがあっただろう?」
「そんな話もあったな」
「うわさは本当らしい。アルドの使者が遠くの我が国にまではるばる来たそうだ。次は隣のフェーゲに行くらしいが、どうやら世界中の国に使者を出しているようだ」
ベーレンブルク伯爵の唇の端が、綺麗に持ち上がる。
「王は代替わりしたばかりだろう? 気の毒に。王女をさらうなど、大それたことをする者もいるもんだ」
「さらったのは一介の貴族らしいが、びっくりするくらいの懸賞金が提示されていると聞いた。なんとしても見つけたいのだろう」
唇に浮かんだ笑みを消し、伯爵はレモン水を喉にやる。いまだに彼の目も耳も話に興じる貴族のほうへ向いていた。
だが、楽師たちの奏でる音が切り替わり、次第に貴族は衣ずれの音を立てながら大広間の中央に移動した。音に合わせ、彼らが回れば婦人のスカートが花開く。それとともにうわさ話はやんでいた。
伯爵が黒い髪を耳にかけると、背後から声をかけられた。
「ベーレンブルク伯爵、踊らないのかい?」
伯爵は伏せていたまつげをわずかに上げて男を見た。こちらに近づくのは、でっぷりと肥えた貴族だ。豪華な赤い衣装がはちきれそうになっている。
「周りを見てみるといい。貴公に誘われたがっている令嬢がわんさかいる。まったく、美男を目にすると、しとやかな婦人もたちまちよだれを垂らした狩人になるらしい」
「ぼくは踊れないのですよ。──失礼、あなたの名前を存じません」
「私はバーケ男爵だ。我々の領地はグラウン川を挟んで接しているからね。近所のよしみだ。この先、よろしく頼むよ」
伯爵は差し出された手におもむろに手を重ねた。その目は冷淡だったが、相手は少しも気づいていない。
「バーケ男爵、こちらこそよろしくお願いします。ぼくはファルツ公国の言葉を覚えて間もないので、あなたの耳に障らなければいいのですが」
「ちゃんと話せているとも。我が国の言語はむずかしいと言われているのに大したものだ。貴公はどこの国から来たんだ?」
一旦目を伏せ、ゆっくりとまばたきしてから伯爵は言った。
「カニサレスですよ」
男爵はうんうんと二度頷く。
「南国のカニサレスか。エメラルド色のすばらしい海があるそうだな。ぜひ見てみたいものだ。この北方のファルツの海は深いせいかどす黒い。それはそうと、この地は貴公には寒いだろう?」
「そうでもないですよ。いまのところ過ごしやすいです」
「そろそろ雪に閉ざされる季節が来る。心することだ。ところで私の娘は十五になるのだが、貴公、妻は──」
「いますよ」
男爵の言葉を遮り、伯爵が即答すれば、男爵どころか近くの貴族も意表を突かれて目をぱちくりさせた。彼らは自分の娘や妹の夫にベーレンブルク伯爵はうってつけだと考えていたからだ。現金なもので、たとえ得体が知れない者でも、その美貌で皆、存在をすんなり受け入れていた。
「しかし……では、今日はなぜ妻を連れていないのだ?」
戸惑いまじりの声だった。意に介さず、伯爵は杯をこつりと机に置いた。
「妻は身体が丈夫ではありませんから。それに、来月ぼくは父になります。いまは安静にしていないと」
「なんと」
目をまるくしている男爵に、伯爵は小さく言った。
「それだけではなく、ぼくは妻をどなたにもお見せしたくないのです。妻がぼく以外の男性を見ただけで嫉妬で胸が張り裂けそうになりますから。……ええ、ぼくは自分でも病的だと思うほどに妻を愛していますし、ひとり占めしていたいのです。ですからこの先、公の場に妻を連れてくることはありません。ぼく以外の誰かが妻に触れようものなら即座に決闘を申しこみかねませんからね」
男爵は冗談だと思ったようで、ゆさゆさとお腹を揺すりながら笑った。
「これはこれは。英雄どのは妻に首ったけというわけだ。だがな、愛が持つのは三年が限度だ。私も妻を愛していたが、いまは互いに愛人がいる。愛とは移ろいやすいものだよ」
男爵のふくふくとした手が伯爵の肩にのる。
「きみもいずれわかるだろうが、まあ、せいぜい愛を楽しむといい」
「では、お言葉に甘えて愛を存分に楽しむことにします」
「愛人がほしいときが来たら言いたまえ。世話するよ。木曜の会に招待しよう」
伯爵はそれには答えず、懐中時計を取り出した。
「時間が来ました。失礼します」
にべもない言葉に男爵は顔を引きつらせたが、伯爵はかまうことなく優美なしぐさで帽子を頭にのせ、きびすを返した。
陽が傾きはじめて、影が徐々に長くなる。青い空は次第に色が浅くなる。
辺りに蹄鉄の音がこだました。ベーレンブルク伯爵──もといジャン・ルカは、領地を目指してひたすら馬を走らせていた。
ルカは現在、公の場で『ルシアーノ』と名乗っている。かつてファルツ公国にて爵位を賜った際、新たな身の上を用意していた。そして、妻の名前は『フローリカ』。アレシアの専属医師になる前に決めていた彼女の名前だ。この国ではめずらしくない名前だが、語感の響きが気に入った。
城までの道のりは、通常ならば一日以上かかるが、ルカは三時間程度で駆け抜ける。なぜなら彼は、誰もが震え上がり、近づこうとしない『冥府の森』を迂回せずに突っ切るからだ。
その地は古来より毒を持つ植物が生い茂り、獰猛な野生動物が徘徊するため、死者が続出する危険極まりない森だった。しかし、ルカは毒を熟知しているし、くまや狼といった猛獣と出くわそうとも、事前に気配を察知し、襲ってくれば眉ひとつ動かすことなく始末した。
森を抜ければ、りんご並木が見えてくる。間の道をひたすら走ればやがて湖にたどり着く。湖畔には色とりどりの花が咲き、大木が空を隠すように枝葉を広げる。その先、こぢんまりとしているけれど、四つの塔を備えた水色の城が顔を出す。湖面から立ちのぼる霧と相まって、淡い色のベーレンブルク城は幻想的だ。
城の跳ね橋前に到着すると、橋は軋みをあげつつ降ろされる。ルカが外出している際は、跳ね橋は上げられており、誰にも出入りをゆるさない。また、どこか女性的で優雅な姿の城だが、昨今取り払われつつある殺人孔など敵を葬る仕掛けは、物騒にもまだ現役だった。ベーレンブルク伯爵の城は、とにかく人を寄せつけない城なのだ。
城に常駐する召し使いは十名だ。皆、主が通れば恭しくこうべを垂れるが、ルカはいつのときでも彼らを見ようとしなかった。人にはみじんも興味がない。
彼は前を見据えたままで言う。
「湯の支度を」
「はい、ルシアーノさま」
「出来次第、部屋へ。その後は下がっていい。皆にも伝えるように」
部屋とは、アレシアがいる居室の控えの間を指している。ルカは、滅多に彼らと妻を会わせない。
居室の扉はルカが鍵を開けないかぎり、かたく閉ざされたままだった。
扉を開ければ、柑橘系の匂いが鼻腔をくすぐった。
冷淡な面ざしは、氷が溶けるように暖かな色を持つ。
ここは、彼とアレシアだけの世界だ。
部屋には一切黒はない。
空を映しとり、赤をふくんだレースの布がゆれている。
ふわり、ふわりと窓辺のそれがたゆたう隙間に彼女が見えた。レモン色のドレスを纏うアレシアは、椅子でまどろんでいるようだった。
手もとにあるのはルカが買った恋物語だ。彼はそっと近づき、本を取り上げた。
「アレシア、また窓を開けていたのですね」
「ん……ルカ?」
寝ぼけまなこの彼女は、手の甲でゆるゆると目をこする。
「おかえりなさい」
「だめですよ、そろそろ冬がはじまりますから、風に当たっては身体が冷えます。冷やしてはいけないと何度も言ったはずですが」
話しながら、ルカはアレシアのまるいおなかを撫でさする。臨月になろうとしているため、小さな身体はおなかを支えるのが大変そうだ。
「ほら、子も寒いと言っています」
「子じゃないわ。『ヴァルディ』よ。ルカがつけてくれたのに。それに暖炉だってあるわ」
「屁理屈は聞きません」
アレシアを抱え上げたルカは、彼女の口もとに唇を寄せていく。すると、アレシアは口を突き出し、そこにちゅっ、とくちづけた。ルカはそのまま彼女の唇を割り、自身をそっとしのばせる。しばらくふたりで舌を絡ませ、互いを味わった。
終わりを迎えたのは、アレシアがそっとルカの胸を押したからだった。
「ごめんなさい。でも、ルカが寒い思いをしていると思うと、居ても立っても居られなくなったの。わたしばかり暖かいところにいるなんて、そんなのいやだから」
「それはばかげていますよ。あなたが寒い思いをしても、ぼくは嬉しくありません」
ルカはアレシアを抱いたまま寝台まで歩み、座ると、彼女を膝の上にまたがらせた。見つめ合い、再びどちらからともなく唇同士がくっついた。
ファルツ公国に来たのはおよそ二か月前だった。この城に来てからというもの、アレシアはさらにルカに依存するようになっていた。
無理もない、彼女はファルツの言語を知らず、誰とも言葉が通じない。話し相手はルカだけだ。
もっとも、それはルカの理想の形だ。
「ねえアレシア、ぼくはあなたが安全だと思うからこそ出かけられるのです。ですからぼくの言いつけを守り、健康でいてください。風邪を引いては大変です。いいですね?」
こくんと頷いたあと、アレシアは心細げに緑の瞳をこちらに向けた。
「ルカ、わたし、この国の言葉を覚えたいわ。召し使いとも話が通じないのだもの」
「出産後に教えます。いまはぼくのことと、無事に産むことだけを考えてくださいね」
「無事に……そうね、そうするわ。ねえ、産むときはやっぱり痛いのかしら?」
おなかを撫でるアレシアの手に、彼は手を重ねる。
「そうですね、出産は痛みが伴います。小さな孔から出すのですから。ですが、あなたと同じくヴァルディも痛いのですよ。もちろんぼくも痛みを軽減するように努めます。アレシア、ぼくの子のためにがんばってくださいね」
「やっぱり痛いのね……。でも、大丈夫。がんばるわ」
唇を引き結んだアレシアは頷いたのち、慌てたように付け足した。
「決して産むのがいやだとか、怖いとかじゃないの。心の準備をしておきたくて聞いたのよ?」
「わかっていますよ。あなたのことは」
ルカはアレシアの銀色の髪をすくい取り、毛束にそっとキスをする。
「ぼくがいない間、なにをしていたのですか?」
「恋物語を読んでいたわ」
「くれぐれもその男に恋をしないでくださいね」
「するわけがないじゃない」
アレシアはいかにもおかしそうに肩を震わせる。
「ルカったらばかね。わたしが恋しているのはルカだけよ」
「知っていますよ」
「それからね、手紙を書いたの」
「手紙?」
アレシアの視線を追えば、傍机にたどり着く。そこには便箋が置いてある。
「ジルへの手紙ですか?」
「そう……いいえ、ちがうわ。アイアスに書いたの。ピエルのことをお願いしたいから。ここには連れてこられないのでしょう?」
「ええ。いまごろアルドでは血眼になってぼくたちを探していますからね。場所を知らせるわけにはいきません」
心なしか、しょんぼりするアレシアの額に、ルカは唇を優しくつけた。
「我慢せずに泣いてください。悲しい時、さみしい時、すべてぼくが受け止めます」
瞳をうるませたアレシアは、ルカの胸に顔をうずめた。
「ずっといっしょにいたから。いま、ルカといっしょにいられて幸せだけれど、でも、時々こうして泣いてしまうと思うわ。ゆるしてね」
「もちろんです。手紙が届くように手を尽くしてみますが、アイアスさまに届かない場合もあると考えていてください。なにしろ、ファルツとアルドは遠いですから」
「ありがとう、ルカ」
ルカはアレシアの身体を寝台に横たえさせて、彼女をふかふかな毛布で包んだ。
「礼などいいのですよ。代わりにぼくをもっと愛してください」
「もう、すでに限りなくルカを愛しているのに?」
唇を尖らせた彼女の口を食んで言う。
「ぼくは欲張りです。知りませんでした?」
「ルカは謙虚よ。いつだって……」
「この程度の愛では足りません。ですから、早くぼくの気持ちに追いついてください」
「わたしの気持ちの方が大きいわ」
「そうでしょうか。アレシア、ぼくはあなたをなによりも愛しています」
首にアレシアの腕が巻きついた。
「わたしも、ルカをなによりも愛しているわ」
何度も唇を合わせて、ついばむようにくちづける。するとそれは次第に深まり、どろどろに溶け合うようなものに変わった。
口を離せば、きらきら光る名残の糸でつながる。
「いま、湯の支度をしています。身体を温めるハーブを調合しますから、少し待っていてください」
身を起こしたルカは、アレシアの頬と額にそれぞれキスを残すと、傍机に手を伸ばす。指に触れたのは彼女の手紙だ。
「早速届くように手配します」
ぱあっと笑顔を浮かべたアレシアに、ルカはとろけるような笑みを返した。
居室を出たルカは浮かべた熱をかき消した。彼女が傍にいなければ、彼は情を示さない。冬を思わせるほど冷ややかだ。
ルカは控えの間のマントルピースに背を預けると、アレシアの手紙の封をとき、文面に目を走らせる。そこにはアイアスとピエルを想う言葉があふれていて、ルカの知らない彼女の過去を匂わせた。さらに、兄と決別させたというのに、彼女はロベルトのことまで書いていた。
それだけではなかった。ルカはこのときはじめて、アレシアの文通相手の『ジル』の正体を理解した。
「まったく、いけませんね」
──ぼくのものだというのに。
ルカは表情なく手紙を折りたたむと、燃えさかる暖炉を眺める。彼の銀の瞳はたぎる炎を映しとっていた。
もとより手紙を出す気はなかった。
形のいい手からこぼれ落ちた手紙は、すぐさま火を纏って灰と化す。
ルカは唇の端を持ち上げた。
ふたりの世界は、ふたりだけ。