ソーニャ文庫

歪んだ愛は美しい。

会員限定特典小説

ある秘書の考察

 まともな世界では、秘書は雇い主の私生活に足を突っ込んだり、目くじらを立てたり、ましてやお節介など焼いたりするものではない。
 嫉妬などもってのほか。
 フロックウェルはそう自分に言い聞かせながら、眼鏡の奥の瞳を光らせて、マホガニー材を基調とした落ち着いた雰囲気の書斎で、今日の書類に目を通すアレクサンダー・アヴェンツェフを見つめた。
 アレクサンダーの装いは今までとなにも変わらない。派手ではないが見るからに仕立てのよいフロックコートに、黒のベスト、隙なく皺を伸ばしたシャツに、きっちりと結ばれたクラヴァット。
 これまでなら、その上には新進気鋭の実業家アレクサンダー・アヴェンツェフの冷たい無表情があるはずだった。人見知りをしないフロックウェルでさえ最初は話しかけるのを戸惑った、針のように鋭く、氷のように冷徹な顔つき。
 それが……。
「仕事中に水を差すようで申し訳ないのですが、サーシャ。ひとつ聞いてもいいでしょうか」
 アレクサンダーはそのときはじめて秘書の存在に気がついたように、不意を突かれた様子で顔を上げた。
「なんだ、フロックウェル」
「その書類にはなにか、よほど素晴らしいことでも書いてあるのでしょうか」
 アレクサンダーは聞き返すかわりに眉間に皺を寄せてみせた。
「なぜそんなことを?」
「なぜ? わからないのですか?」
 今度はフロックウェルが聞き返す番だった。
 アレクサンダーはやっと彼独特の冷徹な顔つきに戻ったが、わずかに赤みのさした?は隠しきれていない。
 フロックウェルはもったいぶった咳払いをひとつして、持ってきた手紙の束をアレクサンダーの仕事机のはしに重ねた。
「まず、僕が書斎に入ってきたのに気がつきもしませんでしたね。それから、いつもなら一分とかけない書類をもう五分は眺めています。そして最後に……そんなふうに甘い顔をしたあなたを見たのははじめてです」
 アレクサンダーは、彼としては記録的な長時間読んでいた書類を、机の中央に置いた。とまどいと怒りの交ざったような憮然とした目つきで秘書をねめつける。
「俺は甘い顔などしていないよ」
「じゃあ、なんと呼べばいいんでしょうかね。幸せに溢れたような表情? 早く婚約者の元へ行きたくて仕方がない、盛りのついた青少年?」
「…………」
「よだれが顎まで垂れてますよ」
 フロックウェルが嘘をつくと、アレクサンダーは苛立たしげに立ち上がったが、本当に顎が濡れていないか片手で確認するのを怠らなかった。
 やれやれ。
 これがあのアレクサンダー・アヴェンツェフとは、きっかけさえあれば、ひとは変われるものだ。
 アレクサンダーはなんとか威厳を保てる程度に真面目な顔を作ったが、そこに冷たさはなかった。
 長いあいだ彼を覆っていた氷河は溶けてしまったのだ。
「サーシャ」
 フロックウェルは恋人を諭すような優しい声で言った。「幸せになるのは恥ずべきことではありませんよ。別にいいではありませんか、自分の書斎にいるときくらい、少し惚けた顔をしていても」
「うるさい」
 と、アレクサンダーは邪険に答えた。
 あるいは、結婚式を三日後に控えた幸せいっぱいの男としては、邪険でいるつもりだったのだろう。端正な唇のはしに浮かぶ、わずかな笑みを隠しきれていなかったけれど。
「おっと、怖い怖い。わかりました。ああ、僕も早くだれかいいひとを見つけたいなぁ」
 言い逃げするようにフロックウェルがそのまま書斎を出ようとすると、扉を叩く音が軽やかに響いた。
 コン、コン。
 それは確かに、上品で気品を感じさせる叩き方ではあったが、ただのノックだ。それ以上でもそれ以下でもない。
 しかしアレクサンダーにとっては違った。
 主人の帰還に耳をぴんとそばだたせる忠実な狩猟犬のように、アレクサンダーの背筋がすっと伸びた。
 そして、やはり忠実な狩猟犬のように、瞳に光をたたえ、期待に息を弾ませ、恍惚の表情でじっと扉を見つめる……。
 やれやれ。
 扉はまもなく開いた。
「入ってもいいですか、アレクサンダー? あ、ごめんなさい、仕事中だったんですね」
 フロックウェルに気がついたマリオンは、部屋の入り口で足を止めた。
 マリオン・キャンベル。
 三日後のアヴェンツェフ夫人だ。
 情熱を思わせる赤みがかった金髪と、上品に整った顔つき、水色の大きな瞳は今日も美しかった。レースを贅沢に使った象牙色のデイ・ドレスが、彼女の細身ながらも女らしい体の線を際立たせる。
 フロックウェルはすぐさまイタズラをしてみたくなった。アレクサンダーよりもマリオンの近くにいる地の利を生かし、すかさず彼女の手を取った。
「こんにちは、マリオン。あなたは毎日どんどん魅力的になっていく。どうですか、いま一度、サーシャとの結婚は考え直してみては?」
「フロックウェル!」
 弾丸のような勢いでアレクサンダーの声が飛んでくる。
「もちろん、僕は愛人としてでも満足しますが……」
 笑いを噛み殺しながらそううそぶくフロックウェルの肩を、アレクサンダーの手ががっしりと掴んだ。振り返ると、アレクサンダーは青筋を立てんばかりの怒りの表情で、強引にフロックウェルの手をマリオンの手から離した。
「さっさと出ていけ、フロックウェル。クビにされたくなかったらな」
 なにが起こっているのかわからず、きょとんとしているマリオンの肩をぎゅっと抱くアレクサンダーは、まるで大好きなおもちゃを取られないように必死で守っている少年のようだ。
 やれやれ。
 まったく、ひとは変われるものだ。
 それともこれが本来のアレクサンダーなのだろうか?
「はいはい、わかりました。馬に蹴られて死ぬような惨めな最期は避けたいですからね」
「出 て い け」
 なかば押し出されるようにして、フロックウェルはアレクサンダー・アヴェンツェフの書斎を後にした。
 ああ。
 文字と数字の羅列ばかりだったアヴェンツェフ家の書斎も、これからはもっと華やかで……そして淫らなものに、変わっていくのだろう。
「くそ。本当に、こんなのを毎日見せつけられたらたまらないな。僕も早く誰かを見つけないと、気が狂ってしまいそうだ」
 くしゃくしゃと髪をかき上げながら、フロックウェルはつぶやいた。
 彼の背後で、扉がぴしゃりと閉められる。
 これからこの書斎の中でなにが起こるのかは、神のみぞ知る……だった。そこにはきっと、手紙を読んで書類にサインする以外の行為もふくまれるのだろう。
 たっぷりと。

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