幸せな日常
セレスティーンが竜王の城に住み始めるようになって三年後、彼女は元気な男の子、エーリアルを出産した。
赤子の産声に呼応するかのように、枯れかけていた中庭の大樹は生気を取り戻した。
妊娠期間は人間の子より三ヶ月ほど長かったが、生まれたときの見た目は人間の子どもと変わらない。黒髪は母親譲り、金色の瞳は父親譲り。利発そうな赤子はすくすくと成長し、生後三ヶ月が経とうという頃には赤子の背にぴょこんと黒い羽が生え、生後七ヶ月にはハイハイをしながら羽を羽ばたかせることまでしていた。
いつ飛んでもおかしくないのでは? とセレスティーンがガルシアに尋ねたが、まだ羽は柔らかく赤子の体重を持ち上げることは不可能なのだとか。今は羽を動かす練習をしている時期だと教えられた。
竜族の子どもの成長速度は、あまり人間の子どもと変わらない。だがある程度の年齢に達すると老化だけが急激に緩やかになるらしい。セレスティーンは毎日子育ての記録を取りながら、楽しく日々を過ごしている。
そしてエーリアルが一歳と少しを過ぎた頃。セレスティーンがエーリアルを抱いて、兎のアッシュと仲良く昼寝をしていると、突然エーリアルが竜化した。
丸々とした身体は黒い鱗に覆われている。大きさはアッシュと同じくらいだ。いつかは竜化するだろうと思っていたセレスティーンは、すぐにガルシアを呼んだ。
「ガルシア! 見て、エーリアルが竜になったわ!」
三歳になるまでには竜化するだろうと思っていたガルシアも、予想よりも早く我が子が竜に変化したことに驚きながらも感心する。
「寝ながら竜化をやり遂げるとは、なかなかやりおるな」
「竜の姿もかわいいわ……何色だろうとわくわくしてたけど、やっぱり羽と同じく黒なのね」
「竜の姿の方が身体は頑丈だから、多少目を離しても怪我をすることはないだろう。こちらの姿でいてくれる方が親としては助かる」
「なるほど。飛び始めたらまた対策が必要になるけど、飛べるまでは竜の姿の方が安心なのね」
文化の違い、いや種族の違いにセレスティーンは学ぶことが多い。子育て日記も日々書くことに困らないほど、毎日が新しい発見の連続だ。
成竜姿のエーリアルはきっと凛々しいことだろう。強く逞しく育つに違いない、とセレスティーンは我が子を溺愛しながら子どもの成長を見守ろうと決めている。厳しさは父親であるガルシアに任せて、母親のセレスティーンは優しさを教えるつもりだ。
すっかり兄の顔でエーリアルの面倒をみているアッシュも微笑ましい。昼寝をしているときも、起きているときもほとんど一緒だ。しかも不思議なことに兎は赤子と意思の疎通ができるらしい。意外なところで子育てに協力してくれている。
ガルシアは、アッシュの言葉は理解できても赤子の言葉はわからないようで、時に兎に驚かされているようだ。
「……身体が熱いと言って泣いている、とアッシュが言っている」
「あら、服を着せすぎたかしら。アッシュ、ありがとう」
「きゅい!」
ふふん、任せて! と頼もしい表情を見せる兎に微笑みながら、順調に子育てが進んでいた。
エーリアルが三歳になったある日の昼下がり。城の厨房に入り、わくわくそわそわしている子どもたちに、セレスティーンはよく熟れた真っ赤な林檎を見せた。途端にアッシュの目が潤み、高揚する。つられるようにエーリアルの目も輝きだした。
「今日のおやつはアップルパイを作ります」
「きゅ?」
「アップルパイ?」
セレスティーンが子どもの頃、母親とよく作っていたパイのレシピは記憶に残っている。それを作るのは竜王の城に来てからははじめてのこと。エーリアルが生の林檎や野菜以外のものを食べるのもはじめての経験だ。
竜族の子どもは、赤子の頃は人間と同じく母乳で育つが、成長するにつれて自然の精気を吸収するようになるらしい。うまく吸えないうちは、両親が子どもに精気を分けてやる。ガルシアがエーリアルと頬をくっつけて精気を分けている姿を見るのは実に微笑ましい光景だ。その精気を補う形で、人間の食べ物を与えるようにしている。
「アップルパイってなに? ってアッシュがいってるよ」
「それは出来上がってからのお楽しみ。いい子で待っていられたら、焼きたてを食べさせてあげるわ」
「うん! ぼくも手伝う!」
アッシュを抱き上げて、エーリアルが元気よく返事をした。兎は当初、子どもに抱き上げられるのは嫌がっていたが最近ではすっかり抵抗を諦めたらしく、多少居心地の悪さを感じても黙っている。騒がずに良い子でいたら、よくわからないけどおいしいものが食べられると理解しているのだろう。
「まずは材料をそろえます。二人とも、手伝ってくれる?」
「はい!」
材料の林檎は大きなものを二個使う。セレスティーンの手元には一個のみ。もう一つの林檎と、レモンを食料の貯蔵庫から持ってきてとお願いした。他に必要な材料はセレスティーンがすでに用意してある。
「ありがとう、二人とも。それではまず綺麗に手を洗ってね」
近くの手洗い場で手を洗う息子と、前脚を器用に擦り付けている兎の姿にくすりと笑う。エーリアルはアッシュを抱き上げて、前脚を水で濡らした。すぐに汚れるだろうが、気持ちの問題だと思って静観する。兎を抱き上げた後また手を洗わせなければ。
「パイ生地の材料は小麦粉とバターにお水と塩、パイの中身は林檎、バター、レモン汁、シナモン、塩を使うわ」
林檎が甘いから砂糖を使わないのが、セレスティーンの母親から受け継いだレシピだ。
子どもたちがじっと見つめる中、セレスティーンは手際よくパイ生地を作っていく。
「こうして混ぜ合わせて……」
材料をよく混ぜ合わせ、二つ折りにしてまた伸ばすを繰り返す。久々ながらうまくできた。出来上がった生地はそのままにして、次にパイの中身を作る。
「林檎を切ります」
「きゅう!」
真っ赤な林檎はそのままでも十分おいしく糖度も高い。アッシュがとろんとした目でじっと林檎を見つめている。
熱視線を感じつつもセレスティーンは林檎をいちょう切りにして、レモン汁とバターと一緒に鍋に入れた。塩を適量まぶし、シナモンをたっぷりかける。ここで少しお酒を入れるとまたおいしいのだが、今回はお子様向けになしにした。
「いいにおいだね、アッシュ」
「きゅい~」
ぐつぐつと煮詰めて、水分を飛ばしていく。その匂いに子どもたちがそわそわしだす。
「今度ジャムも作りましょうか。これにレーズンも入れたらおいしいわよ」
「たべたい!」
正直なところがかわいい。目を輝かせてお願いされたら、ジャムも作ってあげたくなる。
中身が出来上がったところで、焼き菓子のクッキーが余っていることを思い出した。
「せっかくだからこれも使いましょうか」
ガラス瓶に入っているクッキーが四枚ほど。それを木の棒で砕く。
「なににつかうの?」
「パイの生地に敷くのよ」
木の棒に粉をまぶし、先ほど作った生地を伸ばしていく。子どもたちはその光景をじっと見つめていた。用意していた皿の上に敷いて、その上に砕いたクッキーも敷き詰めていく。食感が楽しくなるだろう。
「ここで、冷ました林檎を流し入れます。たっぷりね!」
こんもりと山になるまでたっぷりと流し入れる。セレスティーンは林檎の欠片を一つずつ二人にあげた。
「味見する?」
「ありがとう」
「きゅい!」
――本当、素直でかわいいなぁ。
なんて微笑ましいのだろう。パイ一つ作るだけでこんなに喜ばれるなら、これからもっといろいろと料理をしようと思う。セレスティーンが厨房に入ることを竜王の眷属には許可を得ているが、基本は彼女が料理をする必要はない。だが、母親の味というものをエーリアルには伝えていきたいと思った。
山盛りの林檎の上に、もう一枚のパイ生地をかぶせて端を繋ぎ合わせる。エーリアルにフォークを持たせ、パイの端をくっつけさせた。
上手にできた息子に褒め言葉をかける。小型の果物ナイフでパイの頂上に切り目を入れて、オーブンで焼けば完成だ。
子どもたちが出来上がりを今か今かと待っている間に、セレスティーンは手早く後片付けをする。そしてうまくパイが焼けると、ミトンを嵌めてオーブンからパイを取り出した。
「綺麗に焼けたわ」
「すごい~! おいしそう」
「きゅ!」
テーブルに置いたパイを、身を乗り出して見つめる子どもたちに、ガルシアを呼んでくるようお願いする。
「お父様を呼んできてくれる?」
「うん! アッシュ、いこう」
まだ三歳とは思えないほどよくできた息子が、兎を伴って厨房から出て行った。すぐに竜化して、アッシュとともにガルシアを連れて帰って来るだろう。
「さて、紅茶の準備でもしておこうかしら」
ガルシアにアップルパイを食べさせるのははじめてだ。彼は人間の食べ物を必要としていないが、セレスティーンとともに食事をすることを好んでいる。ほぼ毎晩のように身体をつなげて精を分け与えているが、人間の料理の味も好ましいらしい。
ほどなくしてやって来たガルシアの腕にはエーリアルとアッシュが抱かれていた。
「ちょうどお茶が入ったわ。さあ、いただきましょう」
はじめて食べるアップルパイに子どもたちは大喜びではしゃぎ、あまり感情を見せない夫の顔もほころんでいる。
「そなたの故郷の味か」
「ええ、母様とよく作ったの。おいしい?」
「ああ、とてもおいしい」
そう言われたらまた張り切って作らなければ。ぺろりと一切れを食べきってしまったガルシアに、セレスティーンは自分のパイから一口分けた。
「はい、あーん」
「む、……子どもたちが見ているぞ」
そう言いつつも口を開ける夫がかわいらしい。食べる仕草まで優雅で惚れ惚れする。セレスティーンは新しくパイを切り分けてガルシアの皿にのせた。
「あー! お父様だけずるい。お母様、僕も! あーんってやって」
懇願する息子にも同じく食べさせてあげる。隣でガルシアが「今だけだぞ」と呟いていたのがおかしくて、セレスティーンはふふっと小さく笑った。やはり竜は嫉妬深い。
セレスティーンは、こんな何でもない平凡な日常の幸せをしっかりと噛みしめるのだった。