ソーニャ文庫

歪んだ愛は美しい。

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新王の贖い

 誰かに呼ばれたような気がして、シャルルはふと手を止めた。
 だがすぐにそんなはずがないと苦笑して首を振る。ここは王の寝所だ。王たる自分以外に誰も存在しえない
「いい加減、寝た方が良さそうだな」
 空耳が聞こえるなど、少々疲れが出ているのかもしれない。振り返ってみればここ数か月、一日の睡眠時間は多くて四時間程度だった。
「王とはこんなにも多忙な職業だったのか」
 生まれた時より次代の王となるべく教育されてきた自分であっても、実際に王座に就いてみて、これほど忙しいとは、と驚いたほどだ。
(まあ、一国を治める長なのだから、激務なのは当然か……)
 諦めに似た感慨を抱きながら、書類から手を離し、ぐっと伸びをする。
 父王が急逝し、慌ただしく跡を継いでから、飛ぶようにして二か月が経過した。
 賢王と称されながらも、父はこれといって偉業を成した王ではなかった。これまでこの国が行ってきたことを、慣例に則って滞りなく進めていっただけだった。むしろそれこそが至難の業なのかもしれないとも思う。時間が流れ続ける以上、物事は常に変化していく。人も物も価値感も。その中で変わらぬものを貫くというのは、そうそうできることではない。
 泰然自若と言えば聞こえはいいが、岩のように微動だにしない思考は、政治家としては頑迷であるとシャルルは思う。
 時代に柔軟に対応しなければ、良い施政者とは言えないだろう。
 思えば、父は施政者としてのみならず、一個の人間としても頑迷だった。
 絆されず、歩み寄らない。己の意志を曲げることは決してなかった。
(そうやって己を貫き通した結果、誰も幸せにはできなかった)
 愚かだ。父にとって、大切だったのは双子の片割れだけだったのだ。いや、双子の片割れを愛す自分、だろうか。妄執とも言えるその愛情は、結局片割れを孤独の内に死なせ、妻となった王妃を不満と不幸の中に落とした。
 そして嫉妬に狂った王妃は、その怒りの矛先を罪のない子どもへと向けた。
 ――ミルドレッド。
 全ての不幸を、罪を背負わされた、いけにえの黒い羊。
(可愛い、可哀想な、僕の妹)
 ある日唐突に現れた、父の子という赤子だった。
 父の腕に抱かれたその小さな存在を一目見た時から、自分は彼女を愛していたのだと思う。
 ふくふくとした頬、小さな鼻、まるい瞳、赤くうるんだ唇――なんて可愛いのだろうと、歓喜にも似た気持ちが胸に沸き起こった。
 興奮に顔を赤くする自分を見て、父が目を細めたのを覚えている。
『この子が欲しいか、シャルル』
 何故そんな質問をしたのか。今となってはもう訊ねようもないが、確かに父はそう訊いてきた。幼い自分はその不可思議さに気づくことなく、素直に頷いたものだ。はい、父上、と答える彼に、父はふっと微笑んだ。
『ならば、この子を愛してやりなさい。他の何がどうなってもよい。お前の周囲のあらゆるものが失われたとしても、この子だけを愛し切れたなら、この子はきっとお前のものになるだろう』
 正気の沙汰とは思えない。
 実の息子に、実の娘をあてがおうとしているような発言だ。
 父は狂っていた、と思ってみたところで、自嘲が込み上げる。
(自分だって、十分に狂っている)
 実の妹に恋をし続けてきたのだから。
 だが、結局のところ、自分は己の身が可愛かった。
 不当な不遇に身を置くミルドレッドを憐れに思いながら、彼女を救い出そうとはしなかった。
(父と同じだ)
 ミルドレッドを愛しいと思う自分に満足してしまっていた。愛しい、大切だと言いながら、結局片割れを辺境に追いやった父のように。
『愛す』という言葉の、なんと傲慢なことか。愛すだけで、救いはしない。それどころか、不憫な彼女に優しくすることで、彼女の目が自分に向くのを喜んですらいたのだから。
 愛しているというならば、ミルドレッドの幸福を願うべきだ。願うだけではなく、幸福にしてやるべきだ。
 それをやってのけたのが、あの金の目をした狂犬だ。
 ミルドレッドの傍に侍る犬の皮を被った狼。
 あの男は、己の全てを懸けてミルドレッドを救い出した。無論、その結果彼女があの男の手の中に堕ちることまで計算づくで。まるでミルドレッドの幸せが、自分ありきとでもいわんばかりの所業だ。それが事実であるが故に、腹立ちは倍増する。
 だが、それを非難する権利など端から自分は持たない。自分は何もしなかったのだから。
 だからせめて、彼女のためにできることを、と、あの男の言うがままにエヴラール辺境伯の制度を改め、彼女とあの男が結婚できるようにした。
 そして王妃――今や前王妃となった母を、修道院へ幽閉した。
 母とて、利己的な父の犠牲者と言えるだろう。傲岸な人間ではあるが、母は母なりに父を愛していたようだったから。
 だが、だからと言って子どもであるミルドレッドを虐待していいはずがない。
 目の前で幼いミルドレッドが暖炉の中に叩き込まれたあの時のことを思い起こせば、未だに目の前が怒りで真っ赤に染まる。ミルドレッドと同じように、暖炉にくべてやりたいと何度考えたことか。
 あれ以来、母とは一線を引いた。これ以上ミルドレッドに被害が出ないよう、表面上は母に従順なふりを装ってきたが、自分が王となった今、何にも遠慮など必要ない。
 母を放り込んだ修道院は戒律の厳しいことで有名な所で、戒律を破れば鞭打ちをされるし、その苛烈さから死者も出るともっぱらの噂だ。
 そして修道院には、母を王妃とは伝えていない。自分を王妃と思い込んでいる少々頭のおかしい女、と伝えてある。つまり母は今、他の修道女達同様、厳しい戒律のもと、清貧な生活を強いられているというわけである。あの傲岸な母のことだ。恐らく背中とは言わず全身に、醜い鞭の痕がたくさんできているだろう。ミルドレッドが負った火傷の痕の代わりと思えば少しは溜飲が下がる。
 逆らえば容赦なく鞭が振るわれるその環境は、ミルドレッドが幼い頃置かれた環境に似ていると言えなくもないだろう。
 その中で、己のしたことを思い知って死んでいけばいいのだ。
 それが母の贖いだ。
「……いずれ僕も、罪を贖わなくてはならないのだろうな」
 愛するミルドレッドを幸せにしようとしなかった罪。
 きっとそう遠くない日に、愛していない女性を娶り、子をなさなければならない。だが父の二の舞にならぬよう、その女性を愛する努力をするつもりだ。
 恋焦がれ続けた、ミルドレッドの幸せを祈りながら。

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