ワケあり紳士と帰省中
海に面した牧歌的な田舎町。
十七年も過ごした場所なのに、馬車の中から見知った顔を目にするたびになんだか懐かしく感じてしまう。
シャロンとランスロットは、ファーガス家の屋敷から三時間かけて馬車を走らせ、二か月ぶりにクラレンス家に戻っていた。
「──二人とも、久しぶりだな!」
「スコット兄さん!」
門の前で馬車を停め、シャロンたちが外に出た途端、声をかけてきたのは兄のスコットだった。
昼までに着く予定だと事前に手紙を送っておいたから、わざわざ外に出て待ってくれていたようだ。久しぶりの再会が嬉しくてシャロンが駆け寄ると、スコットも目を細めて頷いていた。
「ドレスなんて着て、一瞬誰かわからなかったぞ」
「……やっぱり、似合わない?」
「いや…、なかなか似合ってる。まるで貴族の令嬢みたいだ」
「本当? よかった…っ!」
スコットに褒められて素直に喜んでいると、小石を踏む音が響く。
振り向くとランスロットが懐かしそうに辺りを見回してから、スコットに向き直った。
「スコットさん、お久しぶりです」
「あぁ…、久しぶり。なんか…、大変だったみたいだな……。シャロンの手紙には、かなり酷い怪我をしたと書かれてあったが大丈夫なのか?」
「えぇ、ご心配をおかけしてすみません」
「ま、まぁ…、とりあえず中に入ってくれ。父さんはもう居間で待ってるんだ」
スコットは包帯をしたままのランスロットの右手を見て一瞬眉をひそめたが、すぐに気を取り直した様子でシャロンたちを家の中へと促した。
──スコット兄さんは、今のランのことをどう思っているのかしら……。
ランスロットが右手に怪我を負ってから、そろそろ一ヶ月半が経つ。
その間、シャロンは家族に近況を知らせるついでにランスロットの怪我のことも手紙に書いていたから、スコットもだいたいの経緯は知っているのだ。
それでも、手紙だけでは伝わらなかった部分もあるだろう。
自分たちが今日クラレンス家に戻ってきたのは、ランスロットが『今後の話』を皆としたいと言い出したのがきっかけだったが、今回の出来事について父や兄に何を聞かれても自分たちはすべてありのままに話すつもりでいた。
「シャロン、行こう」
「ええ、そうね」
ランスロットの言葉に頷き、シャロンは父の待つ居間へ向かうべくスコットのあとに続いた。
ところが、家に入った直後、
「──お帰りなさいませ、スコットさま」
「え?」
突然若い女性が近づいてきて、シャロンは思わず足を止める。
──この人、誰?
その女性はまるで出迎えるようにスコットに話しかけるが、シャロンは彼女が誰なのかがわからない。はじめて見る女性だったのだ。
「あぁニーナ、昨日話したと思うが紹介しておくよ。妹のシャロンだ。それからこっちがラン…──、あ、彼については紹介するまでもないのか」
「はい。……ニーナと申します。どうぞよろしくお願いします」
「あ…、よ、よろしくお願いします……」
「ニーナ、挨拶もそこそこで悪いが、飲み物を四人分用意してくれるか? 皆、居間にいるから」
「畏まりました。では失礼いたします」
スコットの頼みに大人しく頷くと、彼女はシャロンとランスロットに頭を下げてから台所のほうへと姿を消した。
「……?」
勝手知ったる様子にシャロンはきょとんと首を傾げる。
挨拶したはいいが、スコットがちゃんと説明してくれないからよくわからない。
一瞬、スコットの恋人なのではと思ったが、ランスロットを知ったふうなやり取りが頭に引っかかって隣に目を移す。すると、ランスロットはその視線に気づいてくすりと笑い、シャロンに耳打ちをした。
「彼女はファーガス家にいた侍女なんだ」
「えっ?」
「君の父上と兄上はたくさんの顧客を抱え、多忙な日々を送っているだろう? 家事に慣れない身では仕事に支障を来してしまう。そう思って、了承してくれた何人かにここへ移ってもらったんだ」
「そ、そうだったの……?」
「あぁ」
彼は小さく頷き、廊下の向こうに目を移す。
つられて視線を追いかけると、すでに居間の扉の前に立つスコットが、なかなか来ないシャロンたちを不思議そうに見ていた。
シャロンは幼い頃から、この家の家事を一手に引き受けてきた。
だから、家を出たあとは父と兄だけで大丈夫なのかと密かに心配していたのだ。
自分の知らないところで、ランスロットがそんなことをしていたとは思いもしなかった。何度か父とやりとりした手紙には『こっちのことは何も心配しなくていい』という短い返答があるだけで、そういったことは一切書かれてなかったのだ。
──廊下、ピカピカだわ……。
気を遣わせてしまっていると思っていたが、本当に心配いらなかったのかもしれない。
「シャロン、何してるんだ?」
「あ、ご、ごめんなさい。今行くわ、スコット兄さん」
シャロンは隅々まで丁寧に掃除された廊下を見回しながら、今度こそ父の待つ居間へと向かったのだった──。
+ + +
「お父さん!」
「……、……シャロン?」
居間に入ると父は窓際の椅子に座ってぼんやりと外を眺めていた。
シャロンが声をかけると父はぱっと顔を向けるが、こちらを見た途端目を丸くする。
首を傾げると父は咳払いをして立ち上がり、少し照れくさそうにはにかんだ。
「驚いたな。まるで貴族の令嬢じゃないか」
「ふふっ、お父さんったら、スコット兄さんと同じこと言うのね」
「そうだったか。親子だからな」
「元気そうでよかった」
「あぁ、こっちのことは心配いらないと手紙にも書いたろう? まぁ…、おまえたちがいなくなって、寂しさを感じないわけではないが……」
「お父さん……」
「ラン、君もよく来てくれた。あ…、いや…、ラ、ランスロット…さま……と呼んだほうがいいのか……」
「え、いえッ、ここにいたときのように呼んでください。あなたたちには俺の身分など気にしてほしくないんです。俺にとっては命の恩人でもあるんですから……」
「そ、そう…か……。なら、ラン……でいいのか?」
「はい」
ランスロットが微笑むと父はほっとした顔を浮かべる。
この家で過ごしていた頃の彼は身元不明で記憶もなかったから、特に気を遣って話すことはなかった。
思えば、ランスロットの素性が明らかになった後にまともに顔をつきあわせるのはこれがはじめてかもしれない。
だからどんな応対をすればいいのかと考えてしまったのだろう。
父は、ランスロットの反応がここにいた頃と変わらないことに安心したのか、やけに嬉しそうな顔をしていた。
「まぁ、立っているのもなんだから座りなさい」
父にそう促され、シャロンとランスロットはテーブルを挟んだ向かい側に座った。
「その…、あれだな。人の噂というのは、無責任なものだ」
「……」
「シャロンの手紙でいろいろ知った。君の哀しい過去や、その右手の怪我についてもね……」
「……そう、ですか……」
父の言葉にランスロットは僅かに目を伏せる。
その静かな横顔を切なく感じて、シャロンは自分の胸に手を当てた。
ふと父の隣に目を向けると、スコットが神妙な顔で眉を寄せている。
兄は、ランスロットの素性が明らかになったとき、何かをシャロンに告げようとしていた。今はそれがランスロットを取り巻く不穏な噂を話そうとしていたのだろうと想像できるが、事情を知って誤解だとわかってくれただろうか。
少なくとも、父のほうは今の話しぶりからそれなりの理解を示してくれたように思える。
シャロンが二人の表情を窺っていると父は大きく息をつき、気持ちを切り替えた様子で口を開いた。
「ところで、今日は我々に話したいことがあるようだが」
「はい…」
「しかし、見たところ、まだ包帯が取れていない。怪我を押して会いに来たということは急ぎの用なのか?」
「……急ぎたいと思っています」
「そうか……。なら、話を聞こうか」
まさかいきなり本題に入るとは思わなかった。
シャロンは動揺を顔に浮かべるが、当のランスロットには慌てた様子はない。
まっすぐ父に目を向ける彼を見てシャロンは背筋をぴんと伸ばし、その唇の動きを見つめた。
「今から話すことは、不躾だと承知の上でのお願いです」
「……不躾?」
「はい、とても失礼な話です。ですが、シャロンと結婚するためにどうしても受け入れていただきたいことです」
「それは…、どういった……?」
「……俺は今、あなたに爵位を与えて貰うように国王陛下に働きかけています」
「えっ?」
「勝手なことをしてすみません。けれど、俺の知る貴族たちは権威がすべてと思っている者がほとんどです。彼らは相手を上か下かでしか見ようとしません。何も手を打たずにいれば、いずれシャロンを貶める連中が出てくるでしょう」
「……っ」
「ですから…、陛下の後ろ盾が必要なんです。それさえ得られれば、誰も何も言えない。……話はもうほとんど纏まっています。陛下は、おそらく悪い返事はなさらないでしょう。その暁には、是非とも爵位を受け取っていただきたいのです」
そこまで一気に言うと、ランスロットは唇を引き結ぶ。
ほとんど事後報告といっても過言ではない内容だったが、それでもシャロンの家族の同意は得たかったのだろう。
結婚は何もかも一人で決めていいことではない。
たとえ強引に話を進めることができたとしても、疑問が残るようなやり方をすべきではない。
これは、孤独に生きてきたランスロットがようやく気づけたことでもあった。
「……爵…位……」
突然の話に、父は呆然と天井を仰ぐ。
すぐに呑み込める話ではないことは、シャロンも理解している。
周りを黙らせるために身分差を埋めようなんて、普通は考えつきもしないだろう。しかし、ランスロットにはそれができるほどの権力がある。シャロンは貴族社会のことがまだよくわからず、これが最善なのかもわからないが、自分のためにしてくれていることを否定したくはなかった。
「そうすれば…、シャロンは肩身の狭い想いをせずに済むのか……?」
「はい」
「……そうか」
父は小さく頷き、また黙り込む。
息を詰めてその顔を見つめていると、父はふとシャロンに目を移す。
程なくしてすべてを呑み込むように大きく息を吸い込み、父はランスロットに視線を戻した。
「わかった。それが、シャロンに必要だというなら俺は構わない」
「……ッ!?」
その言葉に、皆が驚いたのは言うまでもない。
兄も目を丸くして、話をしたランスロットまで目を見開いている。
シャロンもまた呆気に取られていたが、皆の様子を見て父は背もたれに身を預けてくしゃっと笑う。
強面だが、父は笑うと目が無くなってとても優しい顔になる。それはシャロンの大好きな表情だった。
「お父さん、本当にいいの?」
「まぁ、なんとかなるだろう。国王陛下などと言われても、あまりに遠い存在でピンとこないが……。なんにしても、父さんはおまえがランとずっと一緒にいたいと言ったときからすべてを受け止めると決めていたんだ。これくらい大したことないさ」
「……お父さん」
シャロンの目に涙が滲む。
父は優しい眼差しで頷くと、そのままランスロットに目を向けた。
「ラン」
「は、はい…」
「君の右手は、元のように戻らないかもしれないと聞いたが」
「……は…い」
「……痛かったろう? ……ありがとう……、娘を守ってくれて……」
「…ッ、は、…はい……」
ランスロットは息を震わせ、か細く頷く。
必死で涙を堪えているのがわかるようだった。
見れば、スコットも息を震わせている。その目からはボタボタと大粒の涙がこぼれ落ちていた。
こんなの我慢できるわけがない。
堪えきれずにシャロンの目からも涙が零れる。
それから程なくして、先ほどの侍女が紅茶を持ってきたが、異様な雰囲気にかなり驚かせてしまったようだ。
スコットが取り繕うように紅茶のカップを並べていたけれど、その目が真っ赤なのは隠しようがない。
次第におかしくなってシャロンが笑うと父も笑い、それが皆に移っていく。
それは誰にとっても幸せなひとときで、その後は笑い声の絶えない時間を皆で過ごした。
+ + +
「──あ、もう日が暮れかけてるわ」
それから皆とどれだけ長い時間、話をしていたのか。
シャロンとランスロットは夕食ができるまで庭を散歩してくると言って外に出てきたが、空はすっかり朱に染まっていた。
「ね、ラン。物置小屋に行ってみる? 灯りがないから暗いだろうけど」
「あぁ、行ってみたい」
ランスロットは頷き、左手でシャロンの手を取る。
当たり前のように繋がれた手が温かくて、心の奥までじんわりとする。
慣れ親しんだはずの裏庭までの景色も久しぶりだと思うと、とても新鮮だった。
そのとき、
──ガサ…ッ。
「……ッ」
不意に、背後で何かが動く音がしてシャロンは肩をびくつかせる。
反射的にぱっと振り向くが、音が聞こえた辺りは暗くてよく見えない。
数秒ほど目を凝らしていたが特に何かが動く様子はなく、風で木が揺れただけだと思い直して、また歩きだそうとした。
──ガサ、ガサガサ……ッ。
「……ッ!?」
だが、今度はさらに大きな音が聞こえて、シャロンは大きくびくつく。
繋いだ手に力が入り、彼の身体にぴったりとくっつきながらもう一度振り向くと、そこには思わぬ人物が立っていた。
「……よ、よう…、久しぶりだな、シャロン」
「え…、ルーク……ッ!?」
「なんだよ、そんなに驚かなくたっていいだろ。なんとなく話しかけづらかったから、こうやって音を立てただけだよ」
あまりに驚いた顔をしていたのだろう。
彼──ルークはばつの悪そうな顔で腕を伸ばし、木の枝を軽く揺さぶった。
いくら話しかけづらかったからといって、そんな子供じみたやり方はないだろう。
シャロンは相変わらずな幼なじみにため息をついた。
「こんな時間にわざわざどうしたの?」
「……い、いや……、シャロンが戻ってるって聞いたから……」
「それで挨拶に?」
「そ、そうだよ。おまえの家、使用人とかいて入りづらいし……。スコット兄さんも若い侍女が気になるみたいで、前みたいに構ってくれなくなったし……」
「えっ、そうなの!?」
「まぁ…、それは別にいいけど……。それで、外にいたらシャロンが出てきたから」
「そう…だったの……」
なのに、いざとなると話しかけづらくて木の枝で音を鳴らしてみたというわけか。
なんとなく状況は理解したが、それよりもスコットが若い侍女を気にしている話のほうに興味が湧いてしまう。
──スコット兄さんったらいつの間に……。
その侍女とは、もしや先ほどの侍女のことだろうか。
思い返せば、今まで自分でティーカップをテーブルに並べるなんてしたことがなかったのに、自ら進んで並べていた。
あれは涙を誤魔化そうとしていたかためと思っていたが、本当は侍女に恥ずかしい姿を見られたくなかったからだったのだろうか。
そんなことを想像しているうちに、自然とシャロンの顔は笑ってしまっていた。
「シャロン、聞いてるか?」
「あ、ごめんなさい。聞いてるわ、どうしたの?」
「……ん、まぁいいや。顔も見たことだし、もう帰る」
「え、もう?」
「じゃあな」
「え、えぇ……」
ルークは片手を上げ、あっさりとした様子で背を向ける。
密かにまたランスロットに絡むつもりなのではと警戒していたのに、本当に挨拶だけをしに来たらしい。
徐々に遠くなる背中を見送りながら、なんとなく隣を見ると、ランスロットは眉を寄せてルークを見ていた。散々ルークには嫌味を言われていたから、あまりいい想い出がないのだろう。
「おいっ、おまえ…ッ!」
「……っ」
と、そのとき、唐突にルークが声を上げた。
見れば、一旦は背を向けたのに、いつの間にかこちらを見ていた。
「……俺に言っているのか?」
「そうだ、おまえだ! 貴族だからって偉そうにするなよ! 俺、おまえのこと、やっぱり気にいらねぇ! 人の女を横取りしやがって!」
「だ、誰が人の女よ……っ」
「その予定だったんだよ! シャロンのばか!」
「なっ!」
「でも、シャロンを助けて怪我…、したんだろ? ……だ、だからそれについては礼を言っておく。一応、大事な幼なじみだ……」
「あ、あぁ……」
「じゃあな! もうほんとに帰る!」
「そ、そうか」
「あぁ、帰るよ! 横からかっ攫ったんだから、きっちり責任取れよな! ばーか!」
「……ッ」
ルークは罵声を上げながら、再び背を向け猛然と走りだす。
遠ざかる背中は、夕焼けに染まってすぐに見えなくなった。
やがて足音も聞こえなくなり、シャロンたちはしばし呆然とその場に立ち尽くしていた。
「……えっと……。ごめんなさい。相変わらず、ルークの口が悪くて……」
「どうして君が謝るんだ? 彼のことはもう怖くないのか?」
「え…、それは……。ランがいるから平気だと思って……」
「あぁ…」
小さく答えると、ランスロットは僅かに表情を緩める。
ここを出る前のルークは本当に酷かったが、先ほどの彼はあのときほど嫌な感じはなかった。
挨拶に来たというのは建前で、本当はランスロットに礼をしに来たからだとわかったからだろうか。
だからといって、すべてを水に流せるわけではないけれど、酷い別れ方をしたままでいるよりはましに思えた。
「……今のは、一応認めてもらったことになるんだろうか?」
「そう…ね。私、ルークと恋人になったことなんて一度もないけど」
「その予定だったようだな」
「勝手に予定を立てられても困るわ。私は、はじめからランと結婚する運命だったの。他の誰かなんて考えられないわ!」
「……そ、そう……か……」
「そうよ」
繋いだ手に少しだけ力を込めると、同じだけの強さで握り返される。
夕焼けで染まった顔で、彼の顔が真っ赤に染まっていた。
けれど、その照れた表情で赤いのは夕焼けのせいだけではないとわかる。
「もう戻ろうか。そろそろ夕食の時間だ」
「物置小屋は?」
「明日でいい。どのみち、ここで何日か過ごすんだ。時間はある」
「ん…、それも…そうね。楽しみをとっておくのも悪くないものね」
「……あぁ、そうだな」
笑みを浮かべて頷き、ランスロットは物置小屋に背を向けて歩き出す。
シャロンは隣を歩きながら彼の肩に頬を寄せる。
「……あ」
すると、不意に顔が近づき、ふわりと唇が重ねられた。
高鳴る鼓動。甘い感触。
そのまま数秒ほど見つめ合い、また歩き出す。
心なしか軽やかな足音。
まるで、二人ではじめの一歩を踏み出したような気持ちだった──。