ソーニャ文庫

歪んだ愛は美しい。

会員限定特典小説

バートの一日

 日が昇り始めたばかりの早朝。
 バートはむくりと起き上がると、すぐにベッドから下りた。そして顔を洗って着替えをし、足早に自室を出る。
 今日は朝から会議があるので、昨夜まとめておいた会議資料を確認しなければならない。会議に出席するのはバートではなくアンブロシウスだが、いつもこうしてバートが資料をまとめているのだ。
 アンブロシウスは一度説明すれば理解してくれるのであまり心配はしていないが、たまに他のことに気を取られてバートの話を聞いていないことがある。だからきちんと文章にしてまとめ、彼が困らないようにするのがバートの仕事だ。
 長い廊下を進み、執務室に入る。当然ながらまだアンブロシウスの姿はなかった。
 そこで小一時間ほど仕事をしてから、執務室を出る。
 今度は、アンブロシウスとリューディア夫婦の部屋へ向かった。
 アンブロシウスは毎朝、リューディアと離れたくなくてずるずると朝食の時間を引き延ばす。それが分かっているので、彼を部屋から引っ張り出すために迎えに行くのだ。
 バートの姿を見たアンブロシウスは、渋々といった様子でリューディアに「いってきます」と言ってキスをする。そんな彼に恥ずかしそうに微笑みながら「いってらっしゃいませ」と送り出すのがリューディアの日課だ。いつになっても初々しい夫婦である。
 アンブロシウスとともに夫婦の部屋を出ると、会議室に着くまでの間に今日の会議で使う資料について説明をする。アンブロシウスは真面目な顔でうんうんと頷きながら聞いていたので今回は問題ないだろうと思いつつ資料を手渡し、会議室へ送り出した。
 その後も執務室に戻って仕事をし、会議が終わって執務室に顔を出したアンブロシウスが騎士団の若手に稽古をつけると言うので、鍛練場へ一緒に向かう。
 稽古が終わると、休憩と称してアンブロシウスはリューディアのもとへ行ってしまった。
 そこでバートは朝食をとっていないことに気づき、何か食べさせてもらおうと厨房に向かう。
 アンブロシウスには「健康管理はしっかりしてくださいね」と口うるさく言っているのに、バート自身は仕事優先でよく食事を忘れる。そんな忙しいバートのために、料理長が軽食を作っておいてくれるのだ。
 厨房へ入ろうとすると、中から出て来た人物とぶつかりそうになり、バートは素早く半身を引いて躱した。
「あ、バート様」
 出て来たのは、リューディアの侍女であるラウラだった。
「ラウラ殿。またお茶をとりに……」
 言いかけて、ここに彼女が来る理由が他にもあることを思い出した。
 厨房では、ラウラの婚約者……ではなく、先日結婚したばかりの夫が働いているのである。
 確か、エサイアスという名の無口な青年だ。
 以前、訊いてもいないのにラウラが嬉々として語り出したのだが、それによると彼女と夫のなれそめはこういうことらしい
「私とエサイアスの出逢いは、もう十年以上前……私とリューディア様の運命の出逢いよりももっと前のことなのです。エサイアスは長年城に勤めていた侍女の息子で、当時は厨房の下働きをしていました。そこで奴隷同然の扱いを受けていた私に、彼がいつも温かくて美味しい料理をこっそり食べさせてくれたのです。無言で差し出される料理が本当に美味しくて……。胃袋をつかまれるとはこういうことだと思いました。その後、私はリューディア様という天使に出逢い、侍女という立派な職に就くことができました。それからもエサイアスは私にこっそりと焼き菓子や珍しい食べ物を分けてくれたりして、次第に深い関係になったのです。けれどある日突然、リューディア様に結婚話が持ち上がりました。その時、私はリューディア様について行くことを決めて彼にそう告げました。そうしたら彼は、『生きているうちにいつか結婚できればいい。何年でも待つ』と言ってくれて、婚約することにしたのです。婚約してからこの国に来て、いろいろありながらも、リューディア様が本当にお幸せそうにしているのが嬉しくて、正直、自分の結婚のことなんて忘れていました。けれど、リューディア様が『ラウラも幸せになって』と私に国に帰ってもいいのだと言ってくださったのです。私はリューディア様のお傍を離れるなんて考えられなくて嫌がりました。するとアンブロシウス様が『婚約者をこの国に呼べばいいんじゃないかな? ラウラがいてくれたほうがリューディアは嬉しいだろう』と素晴らしい提案をしてくださったのです。それでエサイアスがこちらの厨房でお世話になることになりました。アンブロシウス様はリューディア様が選んだ方ですから、それはもう素敵な方だと思っておりましたが、今回の件でますますリューディア様の人を見る目は素晴らしいと思いました」
 ラウラとエサイアスのなれそめを聞いていたはずが、最終的にリューディアがいかに素晴らしいかという内容になっていたが、ラウラが幸せそうなのは伝わったのでバートはただ黙って頷いた。
 ラウラはアンブロシウスにとても感謝していたが、彼はただリューディアが喜ぶことをしただけだろう。リューディアからラウラを引き離したらリューディアが落ち込んでしまうと思い、それならば婚約者を呼び寄せてしまおうと考えただけに過ぎないと思う。
 その真実はバートの胸の中に留めておくことにした。
 以前にも増して幸せそうなラウラと別れ、軽食をとってから再び執務室で仕事をする。
 午後は王子たちが入れ代わり立ち代わりバートに用事を言いつけに来たので、休憩から戻ってきたアンブロシウスに書類整理を任せて、バートは王子たちに押し付けられた仕事に精を出した。
 そして長い一日を終えたバートは、心の癒やしを求めて塔へ足を進めた。
 普段あまり人が出入りすることのない塔は、その中ほどに広くなっているスペースがある。そこから見える景色は、城下でポツポツと灯っている明かりと満天の星がまるで一つの絵画のようで非常に美しい。疲れた時にはそこでしばらくぼうっとすることにしているのだ。
 しかし、バートのお気に入りのその場所には、すでに二つの影があった。
 先に仕事を終えていたアンブロシウスと、彼にもたれかかるようにして夜空を見上げているリューディアだ。
 この場所は、昔、アンブロシウスと一緒に見つけた場所である。その頃、彼は『幸運の王子』でいることに少し疲れているようだった。彼はあの時何を思ったのか……。バートと同じように、彼も疲れると時々ここに来ていたことを知っている。
 けれど今日は疲れているわけではなく、リューディアにこの美しい景色を見せたくて来たのだと、楽しそうな雰囲気から伝わった。
「アンブロシウス様、星がとても綺麗ですね」
 リューディアが空を見上げながら言っているのに、アンブロシウスはリューディアを見つめている。
「うん。すごく綺麗だね」
 きっと「君のほうが綺麗だよ」と思っているに違いない。
 アンブロシウスは幼い頃から愛想が良く、いつもニコニコしていた。けれど、リューディアといる時の笑顔は今までのそれとは少し違う。
 どう説明すればいいのか……、とにかく表情が柔らかいのだ。今まで見たことがないくらいに甘ったるい。
 彼とは長年一緒にいるが、こんな表情もできるのだと最近知った。
 バートは小さく笑うと、二人の邪魔をしないよう、足音を立てずにそっと塔を下りた。
 自室に戻ったバートは、着替えのために服に手をかけてから、テーブルの上にパンとスープが置いてあるのに気がついた。それを見て、そういえば今日は一食しか口にしていなかったことを思い出す。
 パンの脇に、『健康管理はしっかりと』と一言書いてある紙が置いてあった。それは、バートがアンブロシウスによく言っている言葉だ。
 アンブロシウスの良いところの一つを挙げるとしたら、周りに気を配れるということである。
 こういう細かい気遣いが、彼が愛される理由なのだ。
 以前からそういう人物だったが、リューディアと出逢ってからは彼女のことを第一に考えている。それでもさすがと言うか何と言うか、きちんと周りを見ていることも変わっていないようだ。
 結婚しても、アンブロシウスはアンブロシウスのままなのだ。
 バートも周りから結婚を勧められていたが、アンブロシウスが結婚するまでは自分もしないつもりだった。
 それは決して、『主人より先に身を固めることはできない』という忠誠心からではない。アンブロシウスが一人前になるまでは自分が付きっきりで指導すると決めていたため、他に労力を使う余裕がなかったからだ。
 それに正直に言ってしまうと、女性は面倒臭い。
 アンブロシウスを優先することを了承してくれる女性なら結婚しても良いのだが、まだそういう女性とは出逢えていない。
 これまで何度かデートをしたことはある。けれど、仕事が最優先のバートに女性たちは文句を言うばかりで、長く続いたためしがなかった。
 だから、ここ何年かはアプローチをされてもすべて断っているのだ。
 ――でも、アンブロシウス様とリューディア様を見ていたら……少しだけ結婚も良いような気がしてきたな。
 バートは仲良く寄り添う二人の姿を思い出しながら、冷えたスープに口をつけた。そしてパンを手にとってから、紙に書かれた文字をもう一度読み返し、『いや、自分の結婚よりも……』と笑みを浮かべる。
 ――この先もずっと、アンブロシウス様が笑っていられますように。
 バートの願いはいつもそれだけだった。
 どんなに成長しても、バートの中のアンブロシウスは、健気に『幸運の王子』でい続けようとする小さな少年のままなのである。

                                    
   終

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