ソーニャ文庫

歪んだ愛は美しい。

会員限定特典小説

兄のため息

 バレット家の長男であるルークが仕事から帰宅すると、この世の終わりを迎えたような顔で、弟がソファに倒れ込んでいた。
 兄として声をかけるべきだろうかと悩みつつ、ルークはじっと弟の――クリスの姿を眺める。
(十中八九、落ち込んでいる原因はアビーだろうな)
 昔は気弱で泣き虫だった弟だが、年を重ねるにつれて前向きになり、基本的に何かに落ち込むようなことはなくなった。
 だが彼の妻アビゲイルが絡むときは例外なのである。
「アビーと喧嘩でもしたか?」
 あまりの落ち込みようを見かね、ルークはそっと彼に近づく。するとクリスは気配に気づいたのか、彼はそこでようやく顔を上げた。
 思いのほか酷い顔色で、ルークは僅かに戦く。
 結婚当初は誤解と行き違いを繰り返していた二人だが、最近ではこちらが恥ずかしくなるほどの熱愛ぶりだったから、まさかクリスがここまで落ち込むようなことが起きているとは思わなかったのだ。
「……一体、何があったんだ?」
 恐る恐る尋ねたところで、クリスが身体を起こす。
 そのとき彼の腕から、一冊の本が滑り落ちた。
 本はルークの足下に落ち、中のページが見える。それに視線を向けたところで、ルークは動きを止めた。
「……ああ、これは嫌われるな」
「まだ何も言ってないだろう!!」
 思わずこぼれてしまった言葉に、泣きそうな声でクリスは訴える。
(いやでも、これは駄目だろう……)
 しみじみとそう思ってしまったのは、ルークの足下に転がる本に描かれていたのが、口にするのも躊躇われるような激しい性行為に関する挿絵だったからだ。
 先ほどチラリと見えた表紙の文字から察するに、どうやらそれは道具を使った過激な性行為についての指南本らしい。
「まさか、お前にこんな趣味があったとはな」
「誤解だ!!」
 慌てて本を拾い上げ、クリスは再度ルークに訴えた。
 その必死の形相に、ルークはひとまず黙る。そして、クリスが誤解を解こうと語り始めた話はこうだった。
「……この本は、アビーの部屋にあったものなんだ」
 ある晩仕事から帰ると、机に伏したまま眠る彼女の手元にこの本があったのだという。
 本には何枚もしおりが挟まり、読み込んだ後もあった。
 それ故クリスは「まさかアビーはこういう行為がしたいのか!?」と思ってしまったらしい。
 そんなわけがないだろうとルークはすぐに思うが、クリスは思い込みが激しいところがある。その上アビゲイルの望みを何でも叶えてやりたいという気持ちが強すぎて、日頃からあれこれ世話を焼いては「ほどほどにして!」と彼女から苦言を呈されているありさまだった。
 そんな彼が、この本を見て冷静でいられるわけがない。
「アビーは恥ずかしがり屋さんだろう? だから言い出せないのかと思い、この本に書かれた道具を早速買ったんだ」
 そしてそれをベッドに広げ、「さあ、好きなものを選んでくれ!」とアビゲイルに告げた直後、彼女は泣きそうな顔でその場から逃げ出し、書斎にこもってしまったのだという。
 そこでようやくクリスは己の失敗に気づき、居間のソファで凹んでいたわけである。
「昔から思っていたが、お前は本当に馬鹿だな」
「しみじみ言うな」
「とりあえず謝ってこい」
「もちろんそうするつもりだ。だが、アビーが落ち着くまで待とうと思って色々考えているうちに、段々気持ちが落ち込んできて……」
 何もできずに待つだけの時間が、たぶん堪えているのだろう。
 とはいえ、そのきっかけを思うと慰める気持ちが若干失せる。
「まあ、がんばれ」
「なんだそのやる気のない励ましは」
「この状況で、やる気が出るわけがない」
 それに何だかんだ言って、きっとクリスとアビゲイルはすぐ仲直りするのだ。
 だから後はなりゆきに任せようと、ルークはため息をこぼしながら思ったのだった。


◇◇◇      ◇◇◇


「クリス、起きて? こんなところで寝ていたら風邪を引いてしまうわ」
 柔らかな声と共に身体を軽く揺さぶられ、クリスははっと目を開ける。
 その様子にびくりと身体を震わせたのは、彼の顔を覗き込んでいたアビゲイルだった。
 ルークからの雑な励ましを受けた後、悶々としながらソファに横になっていたが、いつの間にか眠ってしまっていたらしい。
(そういえば、このところ仕事が忙しくて屋敷にさえ帰れなかったからな……)
 だからこそ、一人で寂しい思いをしているアビゲイルを喜ばせたくて、本に書かれたことを実践しようと思いいたってしまったのである。
「アビー、さっきは――」
「ごめんなさい!」
 謝ろうとしたはずが、逆にアビゲイルが謝罪の言葉を口にする。
「さっきはその、びっくりしてしまって……! でもあの、クリスが好きなら、私がんばるから!」
 謝罪と共に必死な顔でまくし立てられ、クリスはポカンと口を開ける。
「……もしかして、怒ってる?」
 何も言わないクリスに不安を覚えたのか、アビゲイルがおずおずと尋ねる。
 その言葉ではっと我にかえり、彼は慌てて首を横に振った。
「怒るものか! むしろ俺の方こそ、アビーを怒らせ……怖がらせてしまったのかと」
 既に一度、彼はアビゲイルを無理に抱いてしまったことがある。だからこそ、また彼女を泣かせてしまったことを恥じていたのだ。
「怖いというか、あの、驚いてしまったの。なんだかその、恐ろしい形状のものもあったから」
「すまない。アビーの好みが分からなかったから、あの手の道具を手当たり次第に買ってしまって」
「わ、私の好みって……!?」
 目を見開くアビゲイルを見て、やはり自分の勘違いだったのだとクリスは悟る。
「君の机にこれがあったから、勘違いしてしまったんだ」
 言いながら、クリスが本を差し出せば、アビゲイルは真っ赤になった頬を手で押さえる。
「そ、その本どこで……」
「勉強せねばと思い、君が持っていたのと同じものを買ったんだ」
「そ、それは資料用の本なの! だから、過激なことは……あの……えっと、とにかくしたいわけじゃないの!」
 慌てすぎて若干噛みながら、アビゲイルは誤解を解こうと説明を始める。
「私の小説は、あまりそういうシーンがないでしょう。だからエレンが『もうちょっと濃いのも読んでみたい!』って言って、無理やりこれを押しつけてきて……」
 でもあまりに過激すぎて、半分も読めなかったのだとアビゲイルは訴える。
「勘違いしてすまない。俺も少し先走りすぎた」
「気にしないで。クリスが暴走しがちなのを知っていたのに、本について説明しておかなかった私が悪いの」
 それに……と、アビゲイルはすまなさそうな顔でクリスを見つめる。
「私も勘違いしていたの。あなたが、こういうことをしたいのかもって」
「安心しろ、こういう趣味はない」
「本当に?」
「アビゲイルが望むならしても良いが、道具を使わずとも心地よくする自信はある」
 誤解が解けてほっとしたクリスは、そう言ってアビゲイルを抱き寄せ唇を奪う。
「私、こういう普通のキスが良いわ」
「じゃあ、目隠しや手かせはなしだ」
「……ちなみにアレ、どこで買ったの?」
「そういうことが好きな部下がいて、店を教えて貰ったんだ」
 だから使わない道具は部下に全部引き取って貰おうと考えながら、クリスはアビゲイルにそっと微笑む。
「じゃあ仕切り直しだ」
 甘い声で言うと、アビゲイルは羞恥に頬を赤く染めながらも、こくんと頷いた。

【了】

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