ソーニャ文庫

歪んだ愛は美しい。

会員限定特典小説

幸せのかたち

 雲のない青い空を目にすると、否応なしに過去に引きずりこまれた。そのつど父の処刑の光景が蘇り、吐き気と頭痛に苦しんだ。
 しかし、いまのジルベールは清々しい気分で空を見上げる。
 窓の向こうの澄み渡る景色に想いを馳せるのは、葡萄畑でのカティアの姿だった。失われたアビトワの名を呼び、妻になりたいと望んでくれたあの日が浮かぶ。
 黒い記憶は、彼女との幸せな記憶で新たに塗り替えられて、いまでは青空が好ましくさえなっていた。
 凄惨な過去の夢はもう見ない。見るのは、彼女と歩む先にある未来だ。
 空を眺めていた彼は書き物机に目を落とし、インク壺にペン先をつけ、裁可を求める書類に名を記入する。すると、書斎の扉が二度叩かれた。
 おそらく執事だろうと思い、彼は顔を上げずに入室を促す。
「入れ」
 しかしながら、相手は指示に従わない。ジルベールは銀色の髪をゆっくりかき上げ、やがて、ふうと息をついた。
「いいから入ってきなさい」
 先ほどとは打って変わって柔らかな語調だった。
 控えめに開けられた扉から、ひょっこり顔を出したのは、小さな男の子。太陽の光を集めたような金色の髪のすきまから、深緑の瞳をのぞかせている。彼はカティアの色を引き継ぎながらも、顔のつくりはジルベールにそっくりだった。
「……おとうさま……」
 ジルベールはほほえみながらペンを置き、椅子から立つと、両手を広げた。
「おいで、アレクセイ」
「はいっ」
 およそ二年前に生まれた彼の息子は、アレクセイと名付けられた。ジルベールはいくつか名を考えていたが、フロル王太子が「私が名付け親になるに決まっているだろう!」としゃしゃり出てきて何度も断ったものの、「きみは廷臣だろう、臣たる者、主に従え」と押し切られた。
 カティアがこの名を気に入っているようなので、ジルベールは渋々折れた。
 とことこと覚束ない足取りでこちらに来たアレクセイは、まだ幼いにもかかわらず、ませた顔をして父を仰いだ。
「きょうは、おとうさまにおねがいがあるのです」
「ん? なんだ」
 屈んだジルベールが息子の脇に手を差し入れて抱き上げれば、アレクセイは唇をきりりと引き結ぶ。いつも『おねがいごと』をするときは、彼はこのような大人びた顔をするのだ。
 アレクセイは、どうやら幼いながらもベルキア侯爵としての自覚があるらしく、時々父に張り合おうとしてくる。
 ──やれやれ、こういう生意気なところはぼくに似ている。そっくりだ。
 小さなおしりを支えながらジルベールは苦笑する。
「おとうさま、一生のおねがいなのです」
 この言葉には、さすがにジルベールも眉をひそめた。
「一生? 男がそのような言葉を軽々しく使うものではない。意味をわかっているのか」
 こくんとうなずく息子を目線の位置まで引き上げて、ラピスラズリ色の瞳で見据える。
「では、私から目をそらさずに言いなさい。まっすぐ見て言えるね?」
 アレクセイはカティアゆずりの澄んだ目をまぶたで隠し、再び開けてから神妙に言った。
「おとうさま、ぼくにおかあさまをください」
「…………なんだと?」
 たちまち雲行きが怪しくなった父の様子を気にせず、アレクセイは舌足らずな言葉で続ける。
「ぼくは、おかあさまが世界で一番だいすきで、あいしています。だから『ぼくのおよめさんになって』とおねがいしたのです。でも、おかあさまは……」
 しゅんと長いまつげを伏せたアレクセイは、口ごもりながらつけ足した。
「『わたしはおとうさまと結婚しているからむりなのよ』って……」
「当然だ」
 ジルベールは鼻先を突き上げた。
「カティアは私の妻だからな。お前の妻にはならない」
 アレクセイもまた、父と同じく鼻をついと持ち上げる。顔が似ているせいか、まるで自分を見ているようだった。
 目を細める仕草ひとつとっても、自信に満ちていてふてぶてしい。
「だからこうして、おとうさまにおねがいにきたのです。ぼくはどうしてもおかあさまがだいすきで……」
「アレクセイ」
 ぴしゃりと息子の言葉を遮ったジルベールは、不敵に口の端をつり上げた。
「本気なのだな」
「はい。おとうさま」
「いい度胸だ。では、その本気を見せてみろ」
 首を傾げるアレクセイの髪を、ジルベールはわしわしとかき混ぜる。
「条件を出してやる。お前が私の身長を超え、私よりも強くなり、その父をも超える実績を上げ、かつ、私よりも年上になれた日がきたら、考えてやってもいい」
 ぱああ、とアレクセイの顔が明るくなる。
「ほんとうですか?」
「ああ、本当だ。ただし、すべてにおいて私に勝つのだぞ。完璧な男になることだ」
「はいっ」
 アレクセイは強くうなずいた。
「ぼくはおとうさまのようにかんぺきな男になります。ぜったいに負けません。がんばります」
「たゆまぬ努力が必要だぞ? 遊びにうつつをぬかしていてはまず無理だ」
「はい。ぼくは、うんとたくさん努力します。そしておかあさまと……」
 その意気だ、とジルベールは息子の耳にささやいた。
「では、お前に強くなるための自室を与えよう。今日からカティアのとなりで眠るのは禁止だ」
「え……?」と目をまるくする息子の頬にくちづける。そしてジルベールはにんまり笑った。
「当然できるだろう?」
「そんな……。ぼく」
「弱気になるな、ベルキア侯爵アレクセイ。私を超える男を目指すお前ならばたやすいはずだ。ひとりで寝られないようでは私に勝つのは一生無理だからな」
「ぼく……ぼくは……ひとりで寝てみせます!」
 彼は、わなわなと震える息子に言い聞かせるように言った。
「大いに励むことだ。立派な男になれ。いいな?」
「はいっ!」
 決意を燃やし、ぎゅうと口を結んでいる息子を見下ろしながらジルベールは思う。
 ──さすがはぼくに似ているだけあって御しやすいな。

 職務を終えたジルベールが書斎を出て部屋に向かうと、長椅子に座るカティアは刺繍をしていた。そのとなりに寄り添うアレクセイは、楽しげに本を読んでいる。
 もうしばらくしたら、ブレシェのバルドー伯爵邸からリベラ国に戻らねばならず、そのためジルベールは忙しくしており、この数日間、ふたりと食事すらとれないありさまだった。
「坊っちゃま」
 近くにいた執事のアントンが声をかけてきたが、ジルベールは口もとに人差し指を当てる。
「静かに」
 彼は、もう少しこの光景を眺めていたかった。
 ふたりを見ているだけで、部屋をとりまく空気が暖かく感じられる。それは暖炉や明かりのせいではないと知っていた。
 ジルベールにとって、カティアと自身の子どもは幸せの象徴だった。叶うことなどないと諦めていた未来の夢そのものであり、彼は、こうしてふたりを眺めているのが好きなのだ。
「……ああ、アントン。あれを用意してくれ」
「あれでございますね?」
「そうだ」
 執事とうなずきあった彼は、部屋のなかへ足を踏み出した。
 

 彼が部屋に入ってきたとはじめに気がついたのは、妻のカティアだった。彼女に向けてほほえむと、同じくほほえみが返される。

 十九歳になった彼女は、少女から大人の女性へと変わり、清廉さのなかにも匂い立つような艶を備えるようになっていた。そのため、いまではリベラ国だけではなくブレシェの王宮にも上がれとジュスタン王にせっつかれている状態だ。

「やれやれ、美しすぎる妻を持つと苦労する」

 どうやらお世辞だと思ったのだろう。カティアはくすくすと弾けるように笑った。

「ジルベールさま、ご冗談がすぎます」

「ぼくが冗談を言わないことはきみも知っているだろう? きみが美しいせいでぼくの気が休まらない」

 カティアは美しく成長した。恐れていたことだが、絶世の美女になってしまった。これは決して身内の欲目ではない。

「イリヤなどひどいものだ。あの薔薇……」

 ジルベールはカティアから視線を外し、花瓶に生けられた大量の赤い薔薇を睨んだ。

「いまいましい。なんのつもりであれをよこしたんだ」

 その言葉には、カティアではなく本を置いたアレクセイが答えた。

「うつくしいあなたにこそふさわしいと言っていました。でも、ぼくはおかあさまを守ってみせました」

 アレクセイはとなりに座るカティアの手をぎゅっと掴み、唇を尖らせる。

「だって、おかあさまの手にキスをしようとしていたから……とめたのです」

「よくやった」

 長椅子に近づいたジルベールは、息子の金色の髪をさわさわと撫でた。

 くすぐったそうにしながら、アレクセイは父を見上げる。

「かんぺきな男になれますか?」

「ああ、お前なら必ずなれるだろう。それはそうとアレクセイ、そろそろ眠る時間だ」

 カティアが「そうですね。行きましょう?」とアレクセイを抱き上げようとすると、ジルベールがやさしく手で遮った。

「今日からアレクセイはひとりで寝るんだ」

 目をまるくするカティアの傍で、唇を結んだアレクセイがうなずいた。しかし心なしか目は潤んでいる。

「はい、ぼくはひとりで寝てみせます!」

「よし、その意気だ。乳母のオリガのもとへ行きなさい。彼女が部屋を支度してくれた」

「はい……」

「アレクセイ」

 ふ、と顔をほころばせたジルベールは、励ますように言った。

「さみしくて仕方がなくなったら呼び鈴を鳴らせばいい。すぐに行く」

「鳴らしません! おとうさま、おかあさま、おやすみなさいっ」

 ジルベールに似て意地っ張りな息子は、ぷいと顔を背けて駆けて行った。





 息子の突然の成長ぶりに衝撃を受けたのだろう、カティアはしょんぼりしていた。

 無理もない、アレクセイが生まれてからというもの、カティアはことさら彼をかわいがり、ふたりはいつでも側にいた。

 しかしながら、彼女はそれがジルベールの悩みの種だったなど知る由もない。ジルベールがそのそぶりさえ見せなかったのだからなおさらだ。

 ジルベールは、カティアに関わることについては自分でも異常だと思うくらいに独占欲が強いのだ。

 ジルベールが何食わぬ顔でカティアが座る長椅子に腰かければ、彼女がこちらに目を向けた。出会った頃から変わることのない無垢な瞳だ。彼はこの瞳が濁らぬよう生涯守ると誓いを立てている。

「どうした、落ちこんでいるのか」

 問えば、カティアはふさりとまつげを伏せた。

「ひとりで眠るだなんて心配で。あの子は子守唄がないとなかなか寝られないのです」

「子守唄? 必要ない。子どもは日々成長するものだ。わかるだろう?」

「でも、アレクセイはまだ二歳です」

「ぼくが二歳の頃はすでにひとりで寝ていた。いいや、生まれてからずっとひとりだ。何が言いたいのかわかるかな」

 カティアの肩を抱き寄せれば、彼女の頭が彼の肩に寄り添った。その金の長い髪を梳いていく。

「甘やかすのは簡単だ。親の側にいれば何も問題は起こらない。しかし、それでは少しも成長しない。離れてみるからこそわかることがあるんだ。アレクセイは幼いながらもベルキア侯爵だからね。きみも宮廷がどのようなところか知っているはずだ。だからこそ強い男にならなければならない。きみも小さな彼の努力を応援してほしい」

「……はい。わたしがさみしがってはいけませんね」

「そうだ。彼の成長を見守りつつ、ぼくたちも少しずつ成長しよう。ぼくもターシャも親としては新米だからね。学ぶべきことは多い」

 カティアがうなずくと、同時に扉が叩かれて、ジルベールは「入れ」と声を出す。ほどなくして、執事が銀のトレイに酒瓶と杯をのせて入室した。

「旦那さま、お持ちいたしました」

 立ち上がったジルベールが「ぼくがやろう」と告げると、執事はトレイを彼に差し出して、一礼のあと退室していった。

 ジルベールは杯と瓶を机に置きながら、そわそわしているカティアを見つめる。

「あの、ジルベールさま。それは」

「葡萄酒だ。今日アビトワから届いたばかりでね。現地で飲むのが一番いいと思ったが、村長が気をきかせて送ってくれたんだ」

 カティアはうれしそうに顔をほころばせた。

「本当ですか。あのお酒がとうとう」

「ああ。……いけないな、手が震えそうだ」

 実際、手は震えていた。情けないことに視界までにじみそうになり、ぐっと目を閉じてやりすごす。さまざまな過去の思いがあとからあとから溢れてくるからだ。

「……ターシャ」

「はい」

 まぶたを開ければ、こちらを見ていた彼女と目があった。

「きみがアビトワの葡萄畑に尽くしてくれたおかげで、ぼくたちは出会えた。きみには感謝してもしきれない。そのやさしさに、存在すべてに」

「ジルベールさま……」

「さっそく飲もうか」

 ジルベールは瓶のコルクを取り、そのまま鼻に近づけた。新酒であるため熟成されておらず、香りに葡萄特有の甘みが含まれる。注げば綺麗な赤色だ。

 この先、年を追うごとにこの葡萄酒が深みを増して成長していくと思うと感慨深い。ジルベールは、自分も清らかな彼女にふさわしいように成長していきたいと思った。

 ふたつの杯をそれぞれ赤色で満たした彼は、カティアにひとつを手渡した。

「きみとこれを飲む日を夢見ていた。毎年、味の変化を楽しもう」

「味が変化するのですか?」

「熟成が進むからね」

 杯を掲げあったふたりは、そのまま杯にくちづけた。

 口いっぱいに酸味のある果実感と、軽やかな芳香が広がる。けれど、カティアにはまだ酒は早いらしく、想像どおりに苦い顔をしている。

 カティアははじめてのお酒はアビトワの葡萄酒がいいと、今日まで酒を控えていたのだ。

「どう? 葡萄酒の味は。苦い?」

 カティアは申し訳なさそうにうつむいた。

「すみません、わたし。こんなはずでは……」

「そうだと思った。ぼくも最初に飲んだときは苦いと思ったんだ。葡萄酒は飲み慣れないとだめだからね、明日から少しずつ訓練しようか」

「はい。早く飲み慣れたいです。……でも、今日、あなたとこのお酒を飲めて幸せです」

「ぼくも幸せだ。ターシャ」 

 視線を交わしていると、やがてどちらからともなく唇があわさった。しばらく重ねて、互いの熱を分けあう。

 それは舌を絡めた濃厚なくちづけだ。唇を離すと、カティアの甘い吐息が吹きかかった。

「今日も変わらず、あなたを愛しています」

 カティアはいつでもジルベールが欲しい言葉を伝えてくれる。そのたび、彼の心は打ち震える。

 彼女は彼のすべてだ。

「ぼくもだ。今日も変わらずきみを愛している」

 彼はカティアの杯と自身の杯を机に置くと、彼女を長椅子に組み敷いた。

「ターシャ、この気持ちは永遠に変わらない」

「わたしも……永遠に。ジルベールさま」

 長い夜のはじまりに、彼は、再び彼女の唇に唇をのせた。

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