ハンカチの行方
火事からひと月半後、ようやくレコンシオン家の居城の再建が始まった。
外観や間取りは、焼け落ちた城に倣う予定だ。ノエはせっかくならもっと明るく住みやすい城に設計しなおしてもらいたかったのだが、オルディスが渋った。レコンシオン家の人々が代々受け継いできた城を、入り婿である自分の代で変えてしまうわけにはいかない――というのが理由だった。
「不思議ですね。間取りは同じでも、新しくなるというだけでなんとなくわくわくします」
建築現場を遠目に眺めつつ、ノエは日傘を持ち上げてオルディスを見上げる。木漏れ日の中にいた彼は、ノエの視線に気づいて優しく微笑み返した。
「そうですね。伝統ある城が焼け落ちてしまったのは残念ですが、今後、僕たちの代で建てたこの城が受け継がれていくかと思うと、感慨深いですね」
「オルディスさまって、基本的には真面目ですよね」
「そうですか?」
「そうですよ。基本的に、ですけれど」
「念を押しますね」
だって、とノエは胸の中だけで言い返す。オルディスは、普通の感覚では到底受け入れられないようなことを平気でする人だ。下僕宣言とか、人前でキスとか。それを真面目にやっているのだと解釈するのは、あまりよろしくない気がする。
「僕はいつでも真面目ですよ。とくに、あなたに対しては不真面目に振る舞ったことなど、これまで一度としてありません」
「え、ええ……?」
「なんだか歓迎されていないようにお見受けしますが」
不思議そうにしているオルディスの傍らを、現場監督が早足に通り過ぎていく。その人が通り過ぎるのを待って、ノエは「あのですね」と切り出す。
「普通は、真面目に下僕宣言なんてしないと思うんです。今更ですけど」
「真面目に下僕宣言をしてはならないのですか? ならば、どのような手段をもって下僕になればよいとおっしゃるのです」
「……下僕になるという点を覆すおつもりは……?」
ありませんよ、と即答するオルディスは不可解そうだ。ノエこそ何を言っているのかと問いたげに見える。
「下僕として扱っていただくためには、まずは相手にかしずく意思を表明し、どこまでも忠実であろうという決意を態度で示すのが最低限のマナーだと考えたのですが」
「それは……その、確かに、マナーかもしれませんけど」
納得しかけて、ノエは咄嗟にふるふるっとかぶりを振った。いけない。このままでは普通ではない方向に結論を持っていかれてしまう。
「とっ、とにかく、オルディスさまはもう少し、周囲からの視線というか反応というか、そういうものに敏感になるべきだと思うんです」
「なるほど。人目を気にすべしという意味でしたか」
ひとつ頷いたオルディスは、ノエに向かって左手を伸ばす。ノエが握っている傘の柄を前に傾け、そしてその陰に隠れるようにして、ノエの唇をちゅっと奪った。
「こういうことですね」
「な……なっ……」
また人前で口づけられてしまった。すっかり油断していた。以前もこうして隙をついて唇を奪われたことがあったのに、どうして避けられなかったのだろう――。
「正反対の意味で申し上げたのです……!」
ノエは恥ずかしさのあまり真っ赤になって震える。
傘に隠れたからといって、人目を気にしたことにはならない。傘の陰にいても、これだけ接近すれば何をしたかなんて周囲からは一目瞭然だ。加えて背後からは丸見えだし、無防備なことこのうえない。
しかしオルディスの表情は恍惚としていくばかり。
「ああ、怒っていらっしゃいますね」
「怒らずにいられると思いますか!?」
「お怒りの表情も色っぽいですよ、ノエさん。さあ、そのお怒りに任せてぜひ僕の頬を」
「叩きませんっ」
これ以上は付き合っていられない。ノエが馬車へ引き返そうとすると、踵を返した体を一回転させるように振り向かされた。そして、ふたたび唇を柔らかな体温に覆われる。
「ん、っちょっ……言っているそばから……!」
しかも今のキスは傘の陰に隠れてもいない。調子に乗って口づけたのは明らかだ。大工たちから冷やかしの視線が向けられるかと身構えたものの、皆、気まずそうにするばかりで、それがノエにとっては余計に恥ずかしかった。
「帰宅するまで接近禁止です!」
「待て、ですね。かしこまりました。あなたにならば、精神的に虐げられるのも大変快感です……」
「もうっ、それ以上人前で喋らないでください!」
どうしたらこの妙な言動を改めさせられるのだろう。オルディスは罰もご褒美と受け取るから、本当に困ってしまう。
なおもオルディスが何かを言おうとしたから、ノエは涙目でじっと睨んだ。余計な言葉を発したら帰宅後も接近禁止です、とでも言わんばかりに。
すると彼はふいに黙り、形のいい唇の前に人差し指を寄せた。
「承知しました。あなたの望みとあらば、黙りましょう」
ペリドットの瞳がかすかに愉快そうに細められると、ノエの心臓は密かに跳ねるのだった。
街中にあるヴゼットクルエル家のタウンハウスに戻ると、ノエの父リーヴィエが居間で本を読んでいた。書庫に置かれていた、埃っぽくて分厚い歴史の本だ。
「おお、オルディスくん、ノエ、おかえり。どうだ、城の様子は」
「今のところ、順調そうですよ」
答えたのはオルディスだ。
「と言っても、すぐに夏がやってきますから。夏といえば夏季長期休業、その間作業は滞るでしょうが」
「まあ、そればっかりは仕方あるまい。休むなとは言えんからな」
短く息を吐いて、リーヴィエは本をパタンと閉じる。その背中は、少しばかり萎んで見える。火事のあと、調査報告書の控えを運び出している間はまだ元気もあったのだが、ここ二週間ほどは、こうして日がな退屈そうに本をめくっているのをノエは知っている。家督はオルディスに譲ってしまったし、手持ち無沙汰なのは否めない。だが、こうして萎んでしまった一番の理由は、城の中にあったノエの母の遺品がすべて焼失してしまったからに違いなかった。
「……どうにかして、お父さまを元気づけられたらよいのですけれど」
夕食を終え、オルディスとふたりで二階の部屋に上がると、ノエはため息混じりにこぼす。
「お母さまの遺品、ひとつでもわたしが肌身離さず持ち歩いているべきでした。そうしたら、こんなとき、お父さまに差し上げられたのに」
火事だと気づいたとき、咄嗟にひとつでもこの手に?んでおけば。父にそう勧めていたら。実際その余裕はなかったのだが、そんなふうに考えずにはいられない。
ノエがしゅんとしてベッドの隅に腰掛けると、オルディスは「旅行にでも誘いましょうか」と言って左隣に腰を下ろした。
「お義父さんとお義母さんがふたりで出向いた場所などはありませんか? たとえば新婚旅行先とか。そこを、三人で訪ねるのです」
「素敵ですね。でも、ふたりで旅行なんて一度もしていないと思います。父は母と結婚したとき、すでに粛清屋の役割を継いでいましたし、王宮から二日と離れられませんでしたから」
「ならば、お義母さんが結婚前に訪れた場所へ出向くのはいかがでしょう。ノエさん、お義母さんが旅行をなさった話を聞いた覚えはありませんか?」
「それならあります!」
いいアイデアだとノエは表情をぱっと明るくしたものの、次の瞬間、現実を思い出して俯いてしまう。
「でも、オルディスさまこそ王宮を離れるわけにはいきませんよね。今はオルディスさまが粛清屋なのですから」
婿の立場で家督を継いで頑張っているオルディスを置いて、妻である自分が旅行などできないとノエは思う。行ってくるようにと彼が背中を押してくれたとしても、父とふたりで母の面影探しの旅なんて、今以上にしんみりとしてしまいそうで腰が引ける。
「何かほかの方法を考えます……」
肩を落とすノエに「大丈夫ですよ」とオルディスは言う。
「旅行の間、粛清屋の役割はヨハン兄さんに頼みます。腕も立ちますし、モントヴェルト王にも文句は言わせません。ヨハン兄さんも毎日王宮で身分の高い女性たちに声をかけ放題となれば断りはしないはずです。なにしろ、先日お見合いに失敗したばかりですからね」
女性目当てでは粛清屋の役割などこなせないのでは、とノエは思ったが、素直に頷いた。最善の策をオルディスが考えてくれたことが嬉しかった。
リーヴィエも、きっとこの話を聞けば少しは気持ちが明るくなるはずだ。そう考えて、ふいに、ノエは思い至る。
「……そういえば、オルディスさまの婿入り道具もすべて燃えてしまったのですよね、あの火事で」
「そうですが、どうしたのですか、唐突に」
「いえ、大切なものもあったでしょうに、わたしったら今まで気が回らなくて」
「以前も申し上げましたが、僕はあまり物に執着しないのです。燃えて困るものなんてありませんでしたよ。ラックも自力で逃げ出して無事でしたし、まず、一番大切なあなたが助かったのですから、ほかに大切なものなど――」
言いかけて、オルディスは気づいたように顎に触れる。
「いえ。大切なものは、いつも胸に忍ばせていたので無事だったのです」
「胸に、ですか?」
「ええ」
オルディスはシャツの内側に右手を入れると、前身頃の内側を探る。そして、なにやら白っぽい布の包みを取り出した。
「これが、今の僕の大切なものです」
はらりと布が開かれると、そこに包まれていたのはハンカチだった。いつか、オルディスがカミーユに頬を叩かれて出血したとき、ノエが差し出したものだ。
「こ、これ、ですか……?」
「ええ。僕にとっては家宝に匹敵する尊いものです」
「ただのハンカチですよ? それも、余り布でわたしが暇つぶしに縫っただけのもので、高価でもなんでもありません」
「何をおっしゃいます。これはあなたが僕に初めてくださったもの。そのうえ手縫いとなれば、この世にふたつとない貴重品です」
ハンカチが大切そうに退かされると、包みの中には木の葉や磁器のかけらが入っていた。
「この葉は、あなたが王宮の庭園で植え込みの隅に座り込んでいらした際、お尻の下に敷いていらしたものです。そしてこの磁器のかけらはいつかあなたが割ってしまわれた茶器の一部で、侍女が片付けをするまえにひとつ頂戴しておきました」
「い、いつの間に」
どのタイミングでこれらを拾ったのだろう。そして、いつから胸もとに忍ばせていたのだろう。想像すると、ノエの背すじはぞくぞくと粟立つ。
「オルディスさま、その細やかさをほかのことで有効活用しようというお考えはないのですか……!?」
「あなたに対する情熱を、よそに振り分けることが可能だとお思いですか」
真面目な顔で言われて、ぐっと返答に詰まった。オルディスの瞳には、いっぺんの曇りもない。おかしな主張をしていてもノエに対する誠実さだけは少しも失っていない。
そうだ。オルディスのこの妙な理屈が厄介な理由は、ノエを想えばこそ、という点なのだった。それなのに。
(変よね、こんなところも魅力的に見えるなんて……)
妙な人に恋をしたものだと、ノエも自覚している。だが、常軌を逸するほど深く想われていると思うと、じわじわと胸が熱くなる。この人でなければだめだと思う。とっくに手遅れなのだ。
「……嘘です」
ノエは左手で、隣に座るオルディスの右の袖口をちょんと引く。
「オルディスさまの情熱、よそに振り分けたりなんてしないでください。ぜんぶ、わたしにください……」
小声で言うと、オルディスは袖口を?むノエの手を取り、口もとへ運んだ。甲にそっと口づけながら、好ましそうに微笑む。
「それは、命令ですか?」
生温かい息に左手の甲をくすぐられて、ノエはぴくっと肩を揺らした。くすぐったさの向こうに、甘く香り立つような愉悦の気配を感じる。意識をすべて、そちらに吸い寄せられそうになる。
「……そうよ」
告げるなり、思い通りとばかりにくすっと笑われた。
その色っぽい響きに、ノエはぼんやりと思う。
忠実なのは、ノエのほうではないか。命じてほしいと乞われて断れないノエのほうこそ、オルディスの意のままに躾けられているのではないか、と。
けれど、それでいい。ノエは今、このうえなく幸せだ。
彼が何を考えていたとしたって、その愛情に嘘はないと言い切れる。つまるところ、オルディスもノエも、愛にこそ忠実に違いないのだから。
そう思い至って口角を上げると、微笑んだ形の唇が柔らかく落ちてきた。
【了】