オタンチン・パレオロガス
――私は今、貝である。
大正桜子は、茫洋たる目をして思った。
かの漱石先生の名作のごとく、猫なら良かった。だが貝だ。しかも巻貝ではない。二枚貝だ。
無論、人である桜子が、実際に貝なわけではない。あたかも二枚貝のごとく、ぴったりと口を閉じていたいという、頑なな心理の比喩的表現である。
さて、なぜ明朗快活と周囲から褒められる桜子が、このように意固地な心理状態に陥っているのか。その理由は、目の前で怒りを炸裂させている、イケメン説教マンである。
「この、おたんちんめ! このように繊細な作りをしている絹の製品を、ネットにも入れず他の洗濯物と一緒に洗濯機の中に放り込むやつがあるか!」
まるで映画のスクリーンか雑誌の中から飛び出してきたかのような八頭身の美丈夫が、真っ赤な絹の布を持って、美声で嘆いている。
ひょんなことから知り合いとなり、紆余曲折を経て恋人となった桃山柳吾である。
想いを通い合わせてから、ほぼ柳吾の家に同棲状態の現在、洗濯も一緒にしてしまっている。休日の今日、仲良く一緒に洗濯物を干そうとしていての出来事だった。
「……はぁ、ドウモ、スミマセン」
桜子はやる気なく謝った。柳吾の言っていることは正論である。繊細なシルクのレースの色もの製品を無防備に洗濯機に放り込んで洗ってはいけない。申し訳ない。
――だがしかし!
と、桜子は唇を富士山よろしくへの字に曲げた。
ここで素直に謝れないのには理由があるのだ。
「カタコトで謝るんじゃない!」
イヤイヤながらもした謝罪にまで文句を言われたところで、桜子の忍耐の紐が、ブチィ、と音を立てて切れた。
ギン、と睨み上げれば、それまで青筋を立てていた柳吾の顔が、少々怯む。
「ちょっと待ってください、柳吾さん。いくらこの赤い紐パンツを気に入ってるからって、私のパンツの洗い方まで文句を言うのはどうかと思うんですけども!?」
気に入られているパンツ(自分の)の洗い方が雑だと、恋人に叱られる。
その事実だけ見れば、立派なセクハラではあるまいか。恋人だからいいという問題ではないはずだ。
「なっ……! き、気に入って、など……ッ!?」
桜子の指摘に一気に顔を赤らめて狼狽する柳吾は、あんぽんたんなはずなのに、イケメン故にかわゆく見えるのが今は非常に腹立たしい。そしてわりと問題はそこじゃない。
「お黙りこのあんぽんたん!」
「あっ……」
あまり使わない単語で罵倒すれば、絶句している。知らない単語だったのかもしれない。
そんな間抜け面もかわゆいと思ってしまうのだから、桜子も相当あんぽんたんである。
イヤイヤここでほだされてはいけない。気を取り直して、桜子は主張すべきことを捲し立てる。
「とにかく! 私のパンツの洗い方が雑なのは反省しますが、パンツの洗い方にまで恋人に口出しされたくないんです! デリカシーなさすぎ!」
至極ごもっともな指摘だ。
柳吾もそれに気づいたのか、桜子の突き立てた指に、しゅんと眉を下げてしまった。
「す、すまない……」
そんな尻尾を丸めた犬のような顔をされると、何故かこちらの胸がずきずきとしてしまう。不要な罪悪感に駆られながら、桜子は唇を尖らせる。
「わ、分かってもらえれば……」
それでいい、と続けようとした桜子に、少し寂しそうに目を伏せた柳吾が、そっと赤い絹を指で撫でて言った。
「だが、この下着は君と僕が出会うきっかけになってくれたものだから、僕にとっては特別なものなんだ…」
「そ……」
――そんなかわゆいことを誰が言えと言ったぁあああああ!!
なんなのなんなのこのかわゆい生き物!! と悶絶しそうになって、桜子は慌てて我を取り戻す。
――イヤイヤイヤイヤイヤマテ! 私の理性待って!
かわゆかろうが出会いのきっかけだろうが、彼が掴んで愛しげに撫でているのは、パンツである。
――絵面だけ見たら変態じゃないですか奥さん!
心の奥さんにビシャーン! と語り掛けていると、柳吾がふっとその涼しげな目元に甘い艶を乗せた眼差しを向けてきた。イケメンゆえに非常に様になる。腹が立つことこの上ない。
「それに、この洋紅色は、本当に君の肌の色に良く映えるんだ……」
カァアアアアアアと顔に血が昇ったのは、羞恥からなのか怒りからなのかは、桜子自身にももう分からない。
「シャラップ変態!」
「なっ……!? 変態ではない!」
「変態ですよ! 赤い紐パンツが好きとか撫でるとか変態変態変態!」
「連呼するのはやめなさい、このおたんちん!」
もはや子どもの喧嘩である。えてして痴話喧嘩というものはそういうものである。
「その、『おたんちん』だって!」
ビシィ! と指をさして桜子は声を張った。
「人を指さしてはいけないとあれほど……」
「お黙り説教マン!」
言われると思った通りのことを言われたので、すかさず遮っておく。
「これまで指摘せずにおこうと思い胸に留めてきましたが、もうこの際だから言ってやります! 柳吾さん、『おたんちん』の意味わかってて使ってます!?」
すると柳吾は怪訝な顔をした。
「意味とは……ばか、とか、まぬけ、とかいう意味だろう? 僕の母がよく使っていた言葉だったし、夏目漱石先生の作品にも出てきていた」
その返しに、桜子は「え、お母さんが……?」と思ってしまった。柳吾の母は日本人だから、この言葉を知っていてもおかしくはない。
「夏目漱石……?」
あまりにも有名な文豪名に、桜子は思わず鸚鵡返しをした。
柳吾はコクリと頷いて、「吾輩は猫である、だ」と答えた。
「確か、口喧嘩をするシーンで、『オタンチン・パレオロガス』とかいう言い回しだった。子ども心に語感が面白かったので覚えている」
「――ああ、なんか、あったかも。そんな場面……」
同作中のキャラクター苦沙弥先生の台詞で、『オタンチン』と、東ローマ帝国最後の皇帝『コンスタンチン・パレオロガス』をかけたダジャレだと注釈に書いてあった気がする。
学生時代のうろ覚えの記憶を引っ張り出しながら、桜子は呟いた。
そう言えばこの人の日本語は、アメリカに移住して長い母からと、日本の文豪たちの作品から習得したものだった、と桜子は改めて目の前の恋人を眺める。姿かたちはまことに現代風なイケメンであるというのに、使う日本語が妙に古臭いのは、そのせいなのだ。
彼が『おたんちん』という罵倒語をよく使うのも、きっと語感が面白いという単純な理由なのかもしれない。
そうなると、この間桜子が調べたこの言葉の由来を教えてしまっていいものか悩んでしまう。
あまりに『おたんちん』と言われるものだから、なんとなく調べてみたら、えらいこっちゃだったのである。
「それで? おたんちんが、どういう意味なんだい?」
「へ?」
まさに言うか言わざるか思案していた件に言及され、桜子は狼狽えた。
「君が言ったんだろう? 意味を分かっていて使っているのかと。ただばかとかまぬけと言う意味なら、そんなことをわざわざ聞いたりしないだろう?」
「あー……うーん、と」
歯切れ悪く考えながらも、ここで言わないのもおかしな話だ。ちゃんと指摘しておいた方が、柳吾のためにもなるだろう、と桜子は溜息を吐く。
「あの、『おたんちん』というのは、たしかに意味はばかとかまぬけとかであってるんだけど、もともと江戸の遊廓街の遊女達が使っていた言葉で、嫌な客のことを指すんです」
「遊女……」
遊女、という言葉になにかを連想したのだろう。柳吾は顔を強張らせて呟いた。
「遊女が……客の男を、罵る……おたん、ちん……」
桜子は神妙な顔で頷いた。彼の想像は恐らく正しい。
ふう、と桜子はもう一度溜息を吐いた。これは、彼のための溜息だった。気の毒に。
「そうです。柳吾さん。短いに、丁寧語の『お』を付けて、『お短』。後ろは……」
「みなまで言うな……ッ! 言ってくれるなッ、桜子……」
「柳吾さん……」
桜子は同情し、そっと彼の震える肩に手を置いた。
柳吾は両手に顔を埋めて震えている。耳まで真っ赤なので、色白な彼はきっと全身赤いのだろう。
おたんちん。漢字で書けば、『御短珍』。
なんのことはない、短小野郎、というわけである。
男の柳吾がそれをことあるごとに、女の桜子に投げつけていたのだから、まったくもって笑い話である。これが逆の立場なら、大惨事であったが。
しかし柳吾は、言語は異にするとはいえ、文章を生業とする人だ。お気に入りの言葉の微妙な由来を知らなかった自分を、通常以上に恥じているのも頷ける話である。
だがあまりにも長い間両手に顔を埋めたままでいるものだから、桜子は心配になってしまう。
「……ま、まぁ、柳吾さん。慰めにもならないかもしれませんが、柳吾さんは、『おたんちん』では決してないですから……」
言いながら自分でもよくわからない慰めだと、自分で自分を蹴り飛ばしたくなっていると、柳吾がゆらりと顔を上げた。
「……母は、これを、父に向かって……」
茫洋とした目で呟かれた言葉は、最後まで放たれることはなかった。
「……Oh……」
桜子に、それ以上の言葉を紡げるスキルはなかったのだった。