奪うだけではなく
窓の外は雲一つない青空が広がっていた。
けれど、一か月前より空が高くなっていて、季節の移ろいを感じる。
もう少し経てば秋口に差し掛かるから、はっきりとそれを感じられるようになるだろう。
──時の流れは、本当にあっという間ね……。
リゼは窓の外に目を向け、小さく息をつく。
家族で過ごすいつもと変わらぬ昼食の時間。
少し前に食事を終えたリゼは、僅かな眠気を感じながら、紅茶のカップを片手にぼんやりと物思いに耽っていた。
「リゼ、どこか具合でも悪いの?」
すると、それを見ていた母シェリーが心配そうに声を掛けてくる。
「え…?」
「だって、眉間に皺を寄せてため息なんてついているんですもの。顔色は……、それほど悪くはないわね……。食欲がない…、わけでもなさそうだけれど……」
母はリゼの顔をじっと見てから、食事の皿に目を移す。
しかし、リゼの皿はすっかり空になっていたので、不思議そうに首を捻っている。
こっそりついたため息だったが、まさか人に見られているとは思わなかった。
リゼは眉間に手を当て、咄嗟に当たり障りのない理由を探した。
「あ…ッ、ち…違うんです。その…、お腹がいっぱいで……」
「お腹が?」
「そう、そうなんです…ッ。今日のパン、いつもより美味しく感じて……。だからちょっと食べ過ぎてしまったんです。心配させてごめんなさい、お母さま」
「まぁ…、そうだったの。言われてみれば、焼き加減がよかった気も……」
リゼの言葉に、母はバスケットに残ったパンを見て頷いている。
本当はいつもと変わらぬ焼き加減だったが、母は疑うことをしない人だ。どうやらそれで納得したようで、母はくすっと笑みを零した。
「ふふっ、いやね私ったら。ロキと喧嘩をしたのかしらとちょっと心配してしまったわ」
「俺たちが、喧嘩ですか?」
だが母の言葉に、それまで黙って話を聞いていたロキが反応する。
不思議そうに見られて、母はハッとした様子で謝罪した。
「あ…、ロキ…、ごめんなさい。別に悪気はないのよ? そんな心配、あなたたちには必要ないものね」
「そうだぞ、シェリー。二人は結婚してまだ一か月だ。喧嘩どころか、毎日どこに行くにも一緒で仲睦まじくしているじゃないか」
「本当ね、あなた。余計な一言だったわ」
父に窘められて母は素直に頷き、肩をすくめてリゼに目を向けた。
その目が『ごめんなさい』と言っているのがわかり、謝罪するようなことではないのにと、リゼは小さく首を横に振った。
──ロキの素性を知った今では、お母さまが彼に気を遣うのはわかるけど……。
義理とはいえ、ロキはリゼの両親の息子として迎えられた。
今はリゼの夫となったが、基本的にこの関係は変わらない。何も知らなかった頃はリゼも気づかずにいたが、彼が王子であることを思えば、やはりそれなりの気遣いが必要なのだろう。
そのとき、ふと視線を感じてリゼはロキに目を向けた。
彼はリゼをじっと見つめながら、紅茶のカップに口を付け、こくっと飲み込む。まっすぐな眼差しにリゼの心臓は密かに跳ね、思わずロキから目を逸らしてしまった。
「では、そろそろ戻ろうか」
やがて皆が食べ終わったのを確かめると、父はそう言って席を立った。
後に続くように皆も席を立ち、リゼもそれにならって立ち上がる。
一緒に部屋に戻るつもりなのだろう。ロキが当然のようにリゼのほうに近づいてきたが、そこへ父が思い出した様子で口を開いた。
「あぁ、そうだロキ、少しいいか?」
「え? ……えぇ、構いませんが。どうかしましたか?」
「今朝方、陛下から王宮への招待状が届いたんだ。だが、今回はこちらが都合のつく日で構わないとおっしゃっていてね。ロキの都合はどうかと思ったんだよ」
どうやら、父とロキは王宮に招待されたみたいだ。
自分たちの結婚する前は月に一度くらいは招待を受けていたが、それは今後も続くのだろう。
「……またか」
「え?」
「いえ、なんでも……。そうですね、俺の都合は…──」
一瞬ロキは眉をひそめて何かをぼそっと呟いた。
しかしそれは誰の耳にも届かず、彼は何事もなかったかのように微笑を浮かべた。
これは少し話が長くなるかもしれない。
そう思って、リゼは二人の邪魔をしないようにそっと背を向けた。
「あ…、リゼどこへ……」
ロキはすぐにリゼが近くにいないことに気づいたようだ。
食堂を出るときに声を掛けられたが、父との話を優先すべきだと思い、リゼは『先に戻ってる』と口だけ動かして、そのまま廊下に出た。
「あらリゼ、ロキを待っていなくてよかったの?」
「……あ、お母さま。え、えぇ…、だって部屋に戻るだけですもの」
「言われてみればそうね。あなたたちがいつも一緒にいるものだから、一人でいると不思議に思ってしまって。以前はなんとも思わなかったのだけど」
「いつも一緒……」
「えぇ、リゼとロキは本当に仲が良いってミハエルと毎日話しているのよ。その……、結婚式の数日前、二人でいなくなったときがあったでしょう? 実を言うと、何かあったのかと思って、はじめは少し心配していたの……。でも、仲直りできたようで本当によかったわ」
「……お母さま」
その言葉でリゼは納得した。
だから母は、自分たちが喧嘩をしたのではと心配したのだ。
父も母もあのときのことを無理に聞き出そうとはしなかったが、密かに気に掛けてくれていたのだろう。
柔らかな笑みを向けられて、胸の奥がじんわりと温かくなった。
母とはそこで別れ、リゼはしばし廊下で佇んでいた。
そのまま部屋に戻ろうかとも思ったが、ふと窓の外に目を向け、穏やかな日差しに誘われるように裏庭へ向かった。
+ + +
久しぶりに感じる爽やかな風。
以前は日課のように、この裏庭で一人ぼんやりと過ごしたものだ。
結婚してからは屋敷で過ごすことが多かったから、ほんの数か月前のことなのに、やけに懐かしく感じた。
「もう一か月が経ったのね……」
父の言葉を思い出してリゼはしみじみと呟く。
ロキとの結婚式から一か月。
結婚してはじめの一週間は彼の兄たちが訪問してきたり、お披露目と称して毎日のように夜会が開かれて目まぐるしく過ごしていたから、自分たちが夫婦になった自覚がほとんどなかった。
それが徐々に落ち着いていつもの生活に戻ったとき、両親をはじめとして、周りの者たちが自分たちを夫婦として見ているのがわかり、リゼは急に現実に気づかされた。彼とは姉弟でいる期間が長かったせいか、この関係に慣れるのにはもう少し時間がかかるのかもしれない。
だが、そんなリゼとは対照的に、ロキのほうはなんの戸惑いもないようだ。
夫婦になったのだから傍にいて当然だと言って、最近の彼はリゼと常に行動を共にしようとする。気分転換に書庫へ行ってみたり、談話室で母とたわいない話をしている間もいつも隣にいて、廊下で窓の外をぼんやり眺めているときでさえ一緒だった。
周りには、そんな姿が仲睦まじく見えるのだろう。
だからリゼの両親も、先ほどのようなことを言うのだ。
──確かに、仲良くしているとは思うけど……。
結婚前は言い合うこともあったが、今は喧嘩もしていない。
それどころか、毎晩のように肌を合わせ、日中も常に傍にいるから若さに任せて押し倒されることもある。彼との行為はとても激しいからリゼは声が抑えられず、誰かに聞こえやしないかとハラハラしながら抱かれることもたびたびあった。
「……もっと落ち着いてくれてもいいのに……」
リゼはため息交じりに呟く。
ロキは一度火がつくと、我慢ができない。
彼がそういう人だということは、嫌と言うほど知っていた。
それでも、結婚すれば少しは落ち着くものだと思っていたのだ。
自分のほうが年上なのだから、ある程度は大きな気持ちで受け止めようとは思うのだが、こうも朝から晩まで傍にいるのでは気が休まる時がない。ただ一緒にいるだけならまだしも、ロキは二人きりになるとすぐにリゼの身体に触れたがるから、余計にそう思うのかもしれなかった。
「──リゼ!」
「……っ」
不意に声を掛けられ、リゼは肩をびくつかせた。
振り向くと、屋敷のほうからロキが駆け寄ってくる。
「こんなところにいたのか……」
彼はそう言って、リゼの前で立ち止まった。
よく見れば僅かに息が弾んでいて、心なしか焦りを滲ませた表情だ。
もしかすると自分を捜していたのかもしれないと思い、リゼは小さく謝った。
「ごめんなさい。日差しが気持ちよさそうだったから、つい……」
「日差し……?」
「あの…、お父さまとのお話は終わったの?」
「あぁ…、終わった」
「そ…そうなの。……あっ」
むすっとした顔で頷き、彼はリゼの手首を掴む。
そのまま有無を言わさず強引に引き寄せられ、リゼはその反動でロキの胸に飛び込んでしまった。
だが、ここは室内ではない。
誰に見られてもおかしくない場所なのだ。
「ロ、ロキ…」
「リゼ、こっち」
それなのに、ロキはいつもと同じ調子でリゼの肩を抱き寄せてくる。
そのうえ、すぐ近くにある樫の木に向かおうとしているのに気づき、リゼは掴まれていないほうの手で慌てて彼の胸を押し返した。
「……なに?」
ロキは足を止め、途端に不機嫌そうな表情に変わった。
怒らせてしまっただろうか……。
だとしても、こんなところで変な雰囲気になるのだけは、なんとしてでも避けたい。
樫の木まで連れて行かれた先で彼は何をするつもりだろう。これまでのロキの行動から大人しくしているとは到底思えず、リゼは躊躇いがちに反抗した。
「だ…だって、ここは外なのよ? どこで誰に見られているかわからないのに、そんなことできないわ……っ」
「……は?」
「す、少しは我慢してって言ってるの……っ。ロキは気にならなくても私には無理よ…ッ。昼間にするのだって、本当は気が気でないのに……。もう小さな子ではないのだから、時と場合を考えなければいけないことくらいはわかるでしょう……? せめて外にいるときくらいはじっとしていて……っ」
「なんだよそれ……、俺が子供だって言いたいのか?」
「あ…、そういうつもりじゃ……」
だが、言い方が悪かったのだろう。
ロキは子供扱いされたと思ったようで、むっとした顔をしていた。
確かに今のはそう思われても仕方ない諭し方だったかもしれない。
「やっぱり、年下は嫌なのかよ? 俺じゃ満足できないのか?」
「そ…、そんなこと言ってないわ…っ」
「いつもサカってて悪かったな! 朝から晩までリゼとやりたくて何が悪いんだよ!? これでも何年も我慢してきたんだ。この俺が、ずっと我慢してきたんだ。少しくらい大目に見てくれてもいいだろ!?」
「だっ、だからって外でなんてできないわ……ッ!」
「は? 外!?」
「そ…そう……」
「……ってなんだよ。さっきから何言ってんだ」
「……え?」
感情的なやり取りから一転、ロキは眉をひそめて低く呟く。
話が理解できないとでも言いたげな顔だ。
それを見て何か話が食い違っているように思え、リゼも眉根を寄せる。
すると、彼は樫の木に目を移し、考え込むように何度か瞬きをしてからリゼに視線を戻した。
「リゼ、おまえ……、まさかこんなところで俺に抱かれるとでも?」
「え…、……違う……の?」
「……ッ、……おまえ俺をなんだと思って……」
ロキは眉をひくつかせ、呆れた様子で大きく息をついている。
まさにそう思っていたのだが、この反応は違うということだろうか。結婚してからは、二人きりになるとすぐに淫らな行為に押し切られてしまうので、てっきり今もその気なのだと思っていた。
「リゼ、こっちに来て」
「え…」
「いいから」
「あっ」
その直後、ロキはリゼの手を掴んで歩き出す。
傍の樫の木に連れて行こうとしていると気づき、リゼは瞬時に顔を強ばらせるが、それに構うことなく強く引っ張られた。
「ロ…、ロキ……ッ」
「……」
「ねぇ待って。本当に私、こんなところじゃ……っ」
「だからどうしてここでやる前提なんだよ……」
「だって…っ、あ…ッ!?」
戸惑いを顔に浮かべていると、彼はリゼの手を自身に引き寄せた。
そのまま横抱きにされて、間近で視線がぶつかる。
アメジストのような彼の瞳に吸い込まれそうになって一瞬時を忘れかけたが、ロキは特に変なことはしようとせず、リゼを横抱きにした状態で地面に座って樫の木にもたれた。
「……こうしようと思ったんだ」
「え?」
「日差しが気持ちいいって言ってたから……」
ロキは不本意そうに答える。
──膝にのせて日向ぼっこ……?
リゼは目を丸くして、彼の顔を見つめた。
「俺…、そんなに見境ないか……?」
「あ…、あの…」
「いくらなんでもこんなところでやるわけないだろ……。常識を考えろよ」
「……っ!」
まさかロキに常識を説かれるとは思わなかった。
──散々常識外れのことをしてきたくせに……。
むっとするリゼだったが、別に喧嘩をしたいわけではない。
疑うにしても、確かにちょっと酷かったかもしれない。
過剰すぎる反応だったと密かに反省していると、ロキは苦笑を浮かべた。
「でも…、結婚してから触れる機会が多かったし、そう思われたとしても無理もないか……」
「そ…そうよ。いつも一緒だって、お父さまとお母さまに言われるほどだもの」
「仕方ないだろ。リゼが視界にいないと落ち着かないんだ」
「え……」
「近くにいれば、触れて確かめずにはいられない。おまえがどう思っていようと、俺はおまえが好きなんだ」
そう言って、ロキはリゼの背に回した手に力を込めた。
触れそうなほど顔が近づき、こつんとおでこがぶつかる。
しかし、彼はリゼをじっと見つめるだけでそれ以上は何もせず、静かに瞳を揺らしていた。
いつも自信満々なのに、やけに不安げな眼差しだった。
──もしかして…、私がいなくなるのではと心配だったとか……?
それに気づいた瞬間、リゼは彼の気持ちがようやくわかった気がした。
ロキは、いつリゼに逃げられやしないかと不安だったのだ。
だから傍に置いて離さず、いつも触れようとした。
そうしなければ、手に入れた実感が湧かなかったのだろう。
それだけの大きな出来事が自分たちにはあった。
「ロキ…」
リゼは彼の頬に触れ、そっと名を呼ぶ。
ロキはぴくんと瞼を震わせ、また手に力を込めたが、何もすることなくリゼを見つめていた。
ほしがるばかりではいけないと、彼も本当はわかっているのだ。
「……そんな心配しなくても、どこへも行かないわ」
間近で見つめ合い、リゼは囁く。
背中に触れる手はとても熱い。
それなのに、我慢しているのがわかって思わず笑みがこぼれた。
「私はあなたの良いところも悪いところも全部知ってる。たくさん傷つけられたこともあったわ…。だけど、すべてを呑み込んでロキと結婚したの。別に言いなりになったのではないわ。自分で決めたのよ」
「リゼ……」
「だから、ずっと『ここ』にいるつもりよ……」
「……っ」
背中に回された手にはさらに力が込められ、一層熱くなったのを感じた。
ロキは食い入るようにリゼを見つめ、息を震わせている。
潤んだ眼差しがやけに胸に刺さって切ない。宥めるように滑らかな頬をやんわりと撫でていると、彼は掠れた声で囁いた。
「……、……だけ」
「え…?」
「……キス…だけ……したい……」
「……ッ」
「リゼ……」
逃げないとわかって気が緩んだのだろうか。
懇願するように見つめられ、思わず心臓が跳ねる。
本当に仕方のない人……。
偉そうにしたり、甘えてみたり、どこまで人を惑わせるのだろう。
そう思うのに、彼の心の弱い部分に触れると、どうしようもなくなる。
リゼは周りを見て、人目がないことを確認してから躊躇いがちに頷いた。
「……ん」
一瞬のうちに重なる唇。
けれど、奪うような激しい口づけではない。
小鳥が啄むようなキスを繰り返すだけだった。
リゼは胸を撫で下ろして目を閉じる。
ロキの首に腕を回すと、また彼の手が熱くなったが、やはりそれ以上は我慢しているようだ。
自分の言ったことを必死で守る彼はとてもかわいい。
それは、彼を愛しいと思える瞬間だった──。