氷の王と魔境の友人
「ルル、おいで」
寝台で寝そべるルーツィエは、釈然としない面持ちで夫を見やった。
ロンデル窓から差しこむ陽射しを浴びた彼は、華麗に黒いマントとコットを着こなし、非の打ち所がない出で立ちだ。対し、ルーツィエは起きがけでまだ寝ぼけまなこな上に、寝癖で髪もぼさぼさだった。
──フランツったら、ひどい……
ルーツィエは、クッションにぼふりと顔をうずめる。
夜眠る前に「朝、あなたが起きる時に一緒に起こしてね」と何度も念を押したにもかかわらず、彼は叶えてくれなかった。そればかりか、いままでどんなに頼んでも一度も起こしてもらえたためしがない。毎回「気持ちよさそうに眠っていたから」と、のらりくらりと笑顔ではぐらかされている。
昨夜、彼に愛されて、行為後そのままふたり裸で寄り添いながら眠り、朝方になれば日が昇らないうちにもう一度抱かれた。それがいつもの日常といえるが、その後、疲れてうたた寝すれば、彼は決まってこうして一糸乱れぬ完璧な装いを披露する。
つまり、ルーツィエは昏睡から目覚めてからというもの、深く眠る彼や起きぬけでぼんやり油断している彼を見たことがないのだ。だらしない醜態を惜しげもなく晒すのはルーツィエだけだった。それが彼女はくやしい。
──なんだかずるいわ。
フランツは世界で一番好きな人なのだ。ルーツィエだって、彼の前では身綺麗でいたいし、完璧でいたいのに。
それに、彼女は過去に見た彼のあどけなく眠る寝顔や、ぼさぼさ頭で無防備にぼうっとしている姿がたまらなく好きだった。あまりのかわいさに、思わず「いいこ」と頭を撫でた時もあるほどだ。
ぶつぶつと呟くルーツィエが、なかなかフランツのもとにいかないものだから、しびれを切らした彼が大股で寄ってきた。そして、軽々抱き上げられる。
とたん毛布が滑り落ちて肌が晒され、ルーツィエは慌てたけれど、彼は至って涼しげだ。ルーツィエの白い肌には、彼が残したしるしがたくさん刻まれているから、なおさら恥ずかしくて居たたまれなかった。
たちまちルーツィエは、りんごのように真っ赤になっていく。
「ルル」
頭上に息が短く吹きかかるのは、彼が小さく笑ったからだ。
「早く起きないともう一度抱くよ。いいの?」
その言葉に、ルーツィエはさらに頬を染めあげる。
すでにフランツに身も心も溺れているいま、それはなんら罰にはならない。ルーツィエは、はしたなくて面と向かっては言えないけれど、彼と親密に過ごす時間が大好きだった。彼とひとつになれば、心も身体も歓喜して、言い尽くせない多幸感に包まれる。
しかし、頷きかけて「だめよ」と首を横に振る。ドーフライン城塞に約半年ぶりに来ている今日は大事な用事があるからだ。惰眠を貪るわけにはいかない。
ルーツィエが身をよじってフランツから離れようとすると、彼の腕がより絡みつき、不思議に思って振り仰ぐ。すると、甘やかな視線と交わった。
「ルル、また胸が大きくなった」
「……本当?」
ルーツィエはすぐさま確認してみたけれど、しかし、小ぶりな胸は以前よりも特段変化は見られない。がっかりするだけだった。
「うそばっかり。『また』だなんて、なにを根拠に言っているの? 全然変わらないわ。小さなままだもの」
「拗ねないで。本当だよ、確かに大きくなっている。僕にはわかるよ」
顔を下ろした彼に薄薔薇色の胸の頂をぺろりと舐められ、ルーツィエは、ぞく、と背を反らせた。彼の綺麗な水色の瞳は「ほらね」とこちらに訴える。
「大きくないわ」
「うん、大きくはないね」
身もふたもない答えに「え?」と眉をひそめれば、ちゅ、と先を吸い上げられる。
「……んっ」
「でもね、この胸が好きなんだ。かわいくてやめられないな」
ぴちゃぴちゃと続けられる唇と赤い舌の愛撫に、官能に震えながらも、ルーツィエは彼の白金の髪をさらりと撫でつける。
「だめよ……わたしたち、出かけるのでしょう?」
「遅れてもかまわない。どうせ一日では辿り着けないところだからね」
「遠いの?」
「宿に泊まるよ。……君が魅力的なのがいけない。僕は、君に溺れているんだ」
言葉をつむごうとした唇を食べられる。「だめ」と拒否しながらも、ルーツィエが嬉々として彼を受け入れるのはすぐだった。
舌を絡めてつながれば、自ずと手が合わさり十指が重なる。もう、彼しか見えなかった。
「ルル、愛している」
「わたしも……愛しているわ」
ぴたりと隙間なく寄り添うふたりが、ようやく当初の予定どおりに動きはじめたのは、数時間後、太陽が真上に届いたころだった。ルーツィエは、彼と手をつないで大切な人たちに会いに行く。
父と母とレオの墓は完成し、白亜造りの瀟洒なものになっていた。フランツは何も語らず涼しい顔をしていたけれど、クライネルトの紋章と薔薇で構成された素晴らしい彫刻は、王都より呼び寄せた名工によるものだ。彼が、『我が国の栄えある将軍、クライネルト伯にふさわしいように』と依頼してくれたのだった。
その上フランツはルーツィエの与り知らぬところで、父の名誉回復に尽力してくれた。いま、墓所が色とりどりの花であふれているのは、クライネルトの騎士たちや領民が各々花を手向けてくれるからだった。特に父の右腕グントラムは毎日参っていると聞く。
過去を思い出せば胸が押しつぶされそうになるけれど、咲きほこる花を見るたび落ち着ける。父が愛されているのは自分のことよりも嬉しくて、熱いものがこみあげる。
父に続いて、母とレオに祈りを捧げたルーツィエは、後ろに佇むフランツに、くしゃくしゃと泣き笑いの顔を見せた。
「……あなたのおかげだわ。ありがとう」
ぐす、と鼻をすすりつつ、ルーツィエはごしごしと袖を目に押し当てる。
「いいえ、ありがとうの言葉じゃ足りない。……どう表せばいいの」
「礼はいい。僕が勝手にしたことだ」
ぼたぼたと雫が頬を伝っていく。それを彼女は指で拭う。
「あなたはいつもそう言うのね」
彼は優しい。ルーツィエの負担にならないように、気負わないようにと、いつも言葉を選んでいる。それがルーツィエにはわかる。あの幼いころの、騎士の誓いの日からずっとそうだ。
「しあわせだわ……感謝してもしきれない」
「僕はあるべき姿に整えただけだ」
彼はわずかに首を傾げる。
「ルル、そばに来て。君の涙を拭きたい」
「……泣き虫でごめんなさい。こんなの、だめなのに」
かつて父に、そしてレオにだって、泣くなと言われていたのだ。感情的に泣いていては、常に冷静沈着であるべき騎士はつとまらない。
「ごめんなさい」
「謝ることじゃないし、だめなことでもない。僕は歓迎するよ。ほら」
歩み寄ったルーツィエは、差し出された大きな手に、おずおずと自身の指先をのせた。すると、すかさず握られ、強く引かれて彼の胸に頬が当たる。黒いビロード地には、涙の染みができた。
「聞いて。僕は君のことだけを考えている。もっと君に頼られたい。君を守る甲斐性は持ちあわせていると自負しているけれど、僕は頼りない男かな」
ルーツィエが首を横に振れば、きらきらと涙が飛び散った。身を離した彼は濡れた目に唇を当てて、優しく吸ってくれる。
「ありがとう……フランツ。あなたは頼れる人よ。でもね、わたしはすぐに甘えてしまうから……だめになるから、あまり」
「甘えてほしい。僕は夫だ。妻に甘えてもらえれば、それだけで嬉しく思う」
「……ごめんなさい、ありがとう」
「謝らなくていいし、礼もいいのにね。……そうだ、こうしよう。礼の代わりに僕のたったひとつの願いを叶えるといま誓ってくれないか。君にしかできない」
それは、かつてから彼に聞かされている願いだった。
こくりと頷いたルーツィエは、すうと息を吸いこんだ。
「わたしでよければ……ずっと、あなたのそばにいるわ」
「君がいいんだ。ねえ、誓いのキスをしてくれる?」
ルーツィエは、目と鼻の先にあるすべらかな頬に「ん」と唇を押し当てた。
「だめ、そこじゃない。口にして」
改めて言われるとまごついてしまう。ただでさえ彼はため息が出るほど素敵な人なのに。
意識したならもうだめだ。鼓動はますます早まって、ルーツィエはぎゅうと胸を押さえこむ。
「は。……なんだかとても緊張するわ」
「いまさら何を言っているの。僕たちは夫婦だ」
ルーツィエはきょろきょろと誰もいないことを確認し、屈んだままの彼に唇を突き出して、ちゅ、とそこにキスをした。しかし、彼が物足りなさそうにこちらを見るから、その形のいい唇をぺろりと舐めて、また口を重ねる。だがそれは、恋人のものというよりも、まるで主に懐く動物のようだった。
「ルル、君って子は」
フランツの唇が弧を描き、その肩は小刻みに揺れている。笑っているのだ。
「数え切れないほどたくさんキスをしているのに慣れないね」
むっとしたルーツィエは唇を歪ませた。
「なによ、下手だと言いたいのね。これでも練習しているのよ」
「練習? だったらひとりではなく僕と練習するべきだ。それに、下手だなんて言っていない」
後頭部を優しく包まれ、彼が熱く重なった。深くつながるおとなのキスだ。
やがて終わりを迎えれば、熱に浮かされたようにとろけた彼女は切り出した。
「なぜあなたはこんなにうまいの」
「僕だって君としかしたことがないよ。でもそうだね、以前眠る君に毎日キスをしていたから、その時上達したのかもしれない」
昏睡していた二年を思い、ルーツィエの顔が赤く色づく。
「どうしよう、眠っているわたしは……その、ひどい顔をしていたのではないかしら」
「君がひどい顔? ありえない。キスをせずにはいられないほどかわいかったよ。言っておくけれど、一日一度だけなんかじゃない。何度もしたよ。だから君も僕を自由に使えばいいんだ。いつでも歓迎するよ」
ルーツィエは、両親やレオの前でこれ以上キスの話をするのは気恥ずかしくなり、別の話題──気がかりだったことを口にした。
「ねえフランツ。結局オクタヴィアはどうなったの?」
思ってもみない問いだったのだろう。フランツは怪訝に首を傾げる。
「いまあの女の話題? いいけれど、以前説明したとおりだよ。灰になった」
「その灰を見られる?」
「それは無理だ。塵ひとつ残っていないし、あのいまいましいベルクフリートの入り口も閉じた。あの塔は二度と使うことはないよ」
ルーツィエの手を、彼がそっと包みこむ。
「ルル、何か悩みはないだろうか。すべて僕に話してほしい」
「悩み? ないわ。わたし、あなたといられてしあわせだもの」
瞬きをくり返したルーツィエが「怖いくらいにしあわせよ」と付け足せば、彼にぎゅっと抱きしめられた。
「それならいいんだ。……鈴の音はいまだに聞こえる?」
「いいえ、聞こえないわ」
「乳香は?」
「匂わない。以前話した振り香炉のことを言っているのね。どうしていまさらそんなことを聞くの?」
息をついたフランツは、ルーツィエから身を離して肩に手をのせた。真摯な眼差しだ。
「君は前よりも格段にましだけれど、たまにうなされているんだ。僕はね、だったら夢など見ずに僕を感じていればいいと思って君を抱いている。悪夢ではなく、ずっと僕を見ていればいい」
ルーツィエは目をまるくする。以前より、彼は眠るルーツィエを愛撫し、絶頂に導いて、快楽のなか甘く起こすのだ。それがすべて悪夢が原因だったのだとしたら……
「わたし、そんなにもうなされているの?」
「君の夢を共に見られたらいいと思う。この手で守れるからね」
目線を落としたルーツィエは、小さく嘆息した。
「わたしったら、あなたに迷惑をかけてばかりだわ」
「迷惑なものか」
「わたしがうなされているから、あなたはたくさん抱いてくれるのよ。あなたに守られてばかりだもの。わたしこそあなたを守らなければならないのに」
言葉の途中で彼に抱き上げられた。
「ルルはばかだ。その言い方では僕が嫌々君を抱いているみたいじゃないか」
「でも」
「なぜそこで『でも』なんだ。この際だから言っておくけれど、本心ではすべての公務を放棄して、君のそばにいたいと思っている。迷惑どころか、ずっと君に関わっていたいんだ。正直に言うと、君とひとつになったまま一日中過ごしていたいし、君の中が僕で埋めつくされればいいと思っている。いっそ君を支配してしまいたい」
彼にちゅっ、と唇を吸われる。
「王とは思えない思考でしょう。でもね、欲望のまま振る舞えば、君は僕を軽蔑するとわかっている。だから僕は立派に僕を務めあげる。君にふさわしく、誇れる男でありたい」
「フランツ」
「言ったでしょう? 呆れるほどに君に溺れているんだ。僕の中心には君しかいない」
彼は恥ずかしげもなく、ルーツィエの胸を打つ言葉を告げる。
ルーツィエは、彼の首に手を回し、自身の額を彼の額にこつりとつけた。
「わたしもあなたにふさわしく、誇れる人になりたい。あなたに溺れているから」
「ルル」
「ううん、とっくの昔に溺れているの。わたし、あなたに釣り合える自分になれるようにうんと努力するわ。まだまだだってわかっているの。だから、がんばるから見捨てないでね」
そんなルーツィエに、フランツは啄ばむようなキスをくり返す。
「君はいまのままでいいんだ。いつだって僕の誇りだから。見捨てるなどありえない」
「あなたもわたしの誇りよ。わたし、本当にあなたの妻でいいのかしらって思うもの。こんなに素敵な人がわたしの夫だなんて夢みたい。世界で一番贅沢だわ」
「君って人は」
「フランツ、好きよ」
彼は小さくうめいたあとで、ルーツィエの耳元でささやいた。
「僕も君が好きだ。そろそろ出発しよう。このままでは危ない」
「なにが危ないの?」
ルーツィエが彼を見れば、長い金のまつげがゆっくり上がり、情欲を宿した瞳が現れる。
「いまね、休暇のあいだじゅう、君を部屋に閉じこめたくなっているんだ。そろそろ自制が効かなくなる」
このままでは大事な用事は流れてしまう。大変だわ、とばかりに、ルーツィエは厩舎のほうへ慌てて彼の手を引いた。
フランツが駆る馬に乗り、目的の地に辿り着いたのは、あくる日の朝のことだった。宿から二時間ほど山間部に向かい、とたんルーツィエは目にした景色に戦慄を覚えた。眼前に広がるのは、鉱山のほど近くにある樹海──『森の迷宮』だったからだ。
別名『魔境』と呼ばれるそこは、入ったが最後、魔性に魅入られ、二度と戻れないとされている。クライネルトの者にとって、近寄らないのは不文律であり、知らずルーツィエの肌は総毛立つ。
しかも、何を思ったか、フランツは護衛の者に宿で待機を命じたため、いまふたりきりだった。もしも得体の知れないものに襲われたなら、限りなく不利であり、命に関わる問題だ。
背の高い木々が折り重なる樹海を望めば、光を遮断し、朝にもかかわらず夜色だ。そこはまるでぽっかり空いた、奈落の底のようだった。
おまけにぎゃあぎゃあと猛禽がざわめき、怪しげな気配がするような気もする。
もぞもぞと何かがうごめくさまを想像し、ルーツィエは、かたかたと震えた。
──どうしよう。
一応、腰に剣をつけているけれど、ここ半年鍛えているとはいえ武人には程遠い。フランツは愛する夫である前に、命を賭して守るべきこの国の王さまだ。こんな弱い騎士ひとりで一体何ができるだろうか。
ルーツィエは、フランツの黒いマントをぐいと掴んで引っ張った。
「フランツ、ここはだめよ。帰りましょう」
「まだ帰らないよ。大事な用事が済んでいないからね」
彼は、のんきに肉付きの良い馬を木に固定しながら口にする。
「さあ、行こうか」
ルーツィエは目をむいた。手をつないで彼が進もうとするのは、まぎれもなく樹海の中だ。
「だめったらだめ!」
半ば叫んだルーツィエの肩を、穏やかな面差しの彼が抱く。
「そんなに大きな声を出してどうしたの」
「ここはね、絶対に立ち入ってはいけない森なの。クライネルトの者なら誰だって知っているわ。騎士だって入らない。常識だもの。一度入ったら出られなくなるのよ」
「へえ……。でもそれは、おそらく代々伯が結び続けている協定だろうね」
「協定?」
怪訝な顔で窺えば、大丈夫とばかりに背中を撫でられる。
「この先に村があるんだ。僕の友人が住んでいてね、君も会ったことがあるはずだよ」
彼に「白髪の老婆を覚えていない?」と聞かれ、ルーツィエは即座に頷いた。半年前に不思議な老婆と交わした会話を覚えている。あの時、挨拶を交わせずじまいで、気づけば老婆は去っていた。
「優しくしてくれたあのおばあさんね。大事な用事って、おばあさんに会うこと?」
「そうだよ。君を連れて会いに行くと約束していたんだ。すでに向こうには鳩で知らせてある」
「森の迷宮に住んでいるというの……」
恐怖を拭えず、ぶるりと身震いしたルーツィエは、樹海の方へ目を向けた。そして、覚悟を決めたのち、「うん」と首を動かした。
「わかったわ……任せておいて。おばあさんの村に着くまで、あなたのことはしっかり守るわ」
そんな彼女に、フランツは呆れたように髪をざっくりかきあげた。
「ルル、君は僕の騎士の前に王妃だからね。自覚して」
***
老婆ビルギットが住まう地、エルケに到着したフランツは、隣でしょんぼりしているルーツィエを見下ろした。
フランツは、下唇を噛みしめる彼女にため息をつかずにはいられない。
それというのも、エルケまでの道すがら、道なき道を進む途中で、ふたりは狼の群れに出くわした。しかし、剣を構えたフランツの目前で、ルーツィエが真っ先にあらぬほうへ飛び出し、狼を自分のほうに誘い寄せ、戦おうとしたのだ。それにはいかに冷静沈着な彼とはいえ肝を冷やした。
騎士として守ってくれようとしていることは重々わかっていたけれど、いかんせんフランツのほうが腕は確かではるかに強い。しかも狼たちは、ルーツィエを仕留めようと彼女の喉笛めがけて襲い来る。あわや大惨事になる寸前で助けることができたものの、つい無謀な彼女を叱ってしまった。
以来、彼女はしゅんとうなだれたままだった。謝っても「……ちがうの、謝るのはわたし」と言って首を振る。
辛抱強くわけを問えば、ルーツィエは目に涙を溜めて語りだした。その内容は、自分は狼に一太刀も浴びせられなかったのに、守るべき相手であるフランツに助けられたばかりか、狼たちを見事撃退した彼を目の当たりにし、己の力不足を痛感したというものだった。そんな弱い自分がくやしいらしい。おまけに狼と対峙しているさなかに転んでしまい、彼女は泥まみれのありさまで、それも恥ずかしくて会わせる顔がないと言う。
彼は自身の黒いマントをルーツィエに渡して着付けたが、それでも彼女はうつむき加減の顔を上げようとはしなかった。申し訳なさそうに縮こまり、眉根を寄せている。
見かねたフランツがルーツィエを抱え上げ、「僕を守ろうとしてくれてありがとう」と慰めていると、ちょうど人の気配を感じてそちらに目をやった。
「久しいの」
エルケの長、老婆ビルギットが背後に魔女をふたり従え、杖をつきつつこちらに歩み寄ってきた。その肩には、フランツが放った伝書鳩がとまっている。
「黒き王、並びに王妃よ。我は歓迎する。心ゆくまで居るが良い。……おや」
老婆はルーツィエの惨状に気づいたようで、すうと緑色の目を細くした。
「泥まみれじゃ。そのなりでは落ち着くまいて。これ、王妃を案内してやれ」
ますます肩身がせまくなったのだろう、ルーツィエは纏うマントをぎゅうと握りこむ。
「おばあさん、……こんにちは。こんな姿でごめんなさい。でも、わたしはだらしがなくてこうだとしても、フランツは立派な王さまなのです。だから」
老婆はルーツィエのたどたどしい言葉ににんまりと口の端を引き上げた。
「安心せい。我はお前もフランツも軽蔑しておらぬ。お前は人だ。人は失敗を重ねて育つ生き物なのだ。して、狼に立ち向かうのは良きことではない。わかっておろう、お前は伴侶を得たのだ。お前ひとりの身だと思うな。……それはそうとルーツィエ、よく来た」
言葉の途中で老婆はルーツィエの黒い髪を優しく梳いた。が、さりげなく黒髪を三本ほど抜いたのをフランツは見逃さなかった。
彼は容赦なく老婆を睨みつける。
「ビルギット、どうやら私はあなたと話さなければならないようだ」
「お前は相変わらずだの。ああ、ほれお前たち、ぼんやりせずに王妃を案内せんか。すみずみまで綺麗にしてやれ。マントの泥も忘れるな」
老婆は自身の背後に立つ魔女に指示を出し、そしてふたりに連れられるルーツィエを和やかに見送った。ルーツィエは、きょろきょろとこちらを頻繁に見ていたが、やがて粗野に木を重ねたあばら屋に入っていった。
「お前は我がひ孫が絡むとまるで氷だな。害なすと思うたか」
いまだフランツの厳冬じみた視線を浴びながら、老婆はくくくと肩を揺らした。
「そう悪魔じみた顔をせず、早うお前も髪をよこせ」
「なぜです」
「ルーツィエの髪のみでは効き目が薄いからの。ぐずぐずするでない」
ため息をついたフランツが身体を折り曲げ、頭を低く向ければ、老婆はだしぬけにぶちりと白金の髪をむしった。
「……いい度胸ですね」
「ひ孫の夫はすでに我の家族じゃ。その髪をもらって何が悪い」
内心腹が立ったが、改めて人の口から聞く『家族』の言葉は不思議な余韻を持っていた。フランツは、いまでこそ妻を得ているが、決して家族に恵まれていたわけではない。思い出したくもない過去が浮かぶが、それは老婆の怪しげで不敵な笑みでかき消えた。
そう、このふてぶてしい老婆はフランツとルーツィエの唯一と言える家族なのだ。
「あなたという人は……仕方がありませんね。しかし、禿げようものなら許しませんよ」
「ほんの十五本じゃ。禿げるわけがなかろう」
老婆はきびすを返すと、こちらを見ずに言った。
「ついてくるがよい」
案内された先は、以前も訪れたことがある村の最奥部の洞窟だ。老婆は苔むす岩を指差し、「座っておれ」と告げたが、フランツは従わず、立ったままで見守った。
「……まあいい。これより術を始めるからの、邪魔するな」
老婆は池のほとりにある鐘を木の棒で打ち鳴らすと、ゆっくりと目を閉じていく。
ぶつぶつと何かを──おそらく古の言語だろう──を唱えた老婆は、湧き水が流れる小さな池にぱらぱらとフランツとルーツィエの髪を落とした。
「まったく、お前は精力的にあの子を抱きすぎじゃ」
突拍子もない言葉に、フランツは眉をひそめた。
「ビルギット、まさか」
「少し待て」
老婆は小刻みに震えるしわのある手を池にかざした。すると、表面に水泡がぽこぽこと浮かぶ。老婆が己の髪をもちぎって落とすと、池に波紋が現れた。
「……言っておくが、お前たちの行為を覗くなど無粋な真似はしておらぬ。ただ、子を孕んだ魔女の力は驚くほど増すのだ。ちょうどよい時期に訪ねてくれたの。いまこの時、エルケにルーツィエの髪があるからこそできることだ。ほれ、池に沈もうとも髪に力が満ちておるわ。これぞまさしく」
「待ってください。子を孕む?」
フランツが遮ると、老婆は首を傾げてこちらを一瞥した。
「なんじゃ、気づいておらぬのか」
「まさか」
「まさかもなにも、ルーツィエは身ごもっておる。我はこうしてお前の子に祝福を与えているのだ」
聞いた途端に、フランツは自身がわななくのを感じた。
「ルルが……僕の子を」
「本来、魔女は孕みにくくできておる。異物を除く力に長けているからの。子種を注がれようともなかなか届かぬのじゃ。オクタヴィアが色狂いだったのもそれがゆえんだ。術を施すには贄とする自身の子が必要だからの。だから多くの精を求めたのだ」
ぼうぜんとしているフランツは、老婆の話をかろうじて聞き取れているものの、うまく処理できずにいた。ただ、胸が打ち震える。
「我も我の娘ゲルトルーデも孫ディートリンデも子はひとりだ。なかなか授からなかったが、しかしどうだ、ルーツィエは早々に身ごもった。お前、どれだけ抱いておるのだ」
フランツは、ルーツィエのもとへと歩きかけたが、老婆に「待て」と止められた。
「いまあの子に宿るのは男児だ」
「……男?」
「見えたのだ。黒き髪で、お前に似ておる。その氷のような目などうりふたつじゃ」
フランツは鼻にしわを寄せた。
「それ以上の情報は結構。楽しみを奪われたくはないのでね」
「して、我が名付けてやろうか」
「は? いりませんよ」
「アーブラハムなど良き名前だと思わぬか」
フランツは、どこか得意げな老婆をすげなく睨めつける。
「そんな名前、冗談じゃありませんよ。それに夫婦で決めますから。失礼」
「待て、話は終わっておらぬ」
「私は終わりました」
背中に老婆の視線を感じたが、彼は振り向きもせず立ち去った。
フランツがルーツィエのもとに辿り着いた時には、彼女は着替えを済ませていた。それはエルケの魔女と同じく質素な生成りの装いだ。
湧き水で洗濯をする住人と話す彼女は笑顔を見せていて、すっかり元気を取り戻しているとわかったけれど、彼は内心複雑だった。
村に住まう者を見回せば、当然ながら皆、ルーツィエと同じ緑の瞳をしている。そんな彼女らに違和感なく溶けこむ姿に、ルーツィエがエルケに取られかねないと思うのは仕方がなかった。
──絶対に渡さない。
「ルル、来て」
ルーツィエに向けて両手を広げれば、彼女は腕の中まで駆けてきた。彼は知らずまつげを伏せて、長い息を吐きだした。
「フランツ、見て。この村の住人みたいでしょう?」
彼は、無邪気に亜麻布のスカートを広げる彼女を抱きしめる。
「どうかな、僕には愛しい妻にしか見えないけれど。……ねえルル、君はもう走ってはいけない」
「え?」
不思議そうにこちらを見上げる彼女に、どう伝えていいものかと考える。なにせフランツとてまだ実感がないのだ。
「フランツ?」
「聞いてほしいことがある」
神妙に頷いた彼女に、フランツが言葉を選んでいると、あらぬ方から先を越された。
「ルーツィエ、お前は身ごもっておるのだ」
目をむいたフランツが振り向けば、こつ、こつ、と杖をついた老婆がのっそり近づいた。
「ビルギット……」
「これはデリケートな問題だからの、お前ではなく同性である我が告げるべきじゃ」
フランツはぬけぬけと抜かす老婆にいら立ちを覚えたが、しかし、ルーツィエはこちらを見つめたままだった。怒るに怒れない状況に、フランツはひそかに嘆息する。
「……おばあさんが言ったことは本当なの? わたしのなかに」
「そうだよ」
そっとルーツィエのおなかに手を這わせると、緑色の目はひときわ大きくなった。
「ここに僕たちの子がいる」
「あなたとわたしの子ども……。うそみたい」
「嘘じゃない。本当だ。嬉しい?」
みるみるうちに彼女の顔がほころんで、聞かずとも答えを知った。
「あなたは?」
「もちろん嬉しい。ただ、戸惑いもあるけどね。出産は君に大きな負担がかかるだろうから」
「平気よ、わたしは鍛えているもの。立派な子を産むわ」
ぎゅうと背中に手を回してきた彼女の頭上にキスを落とせば、ルーツィエは小さく「しあわせ」と呟いた。
「男の子かしら、それとも女の子かしら。名前はどうするの?」
フランツは彼女を抱きしめながら、先ほどの老婆の話はしないと決めた。が、しかし。
「先ほどお前の夫がこう言うておった」
フランツが「何のつもりだ」と老婆を鋭く見やれば、意に介さずに言葉は続けられる。
「男なら『アーブラハム』がいいとな」
絶句し、すかさず訂正しようとしたフランツだったが、それよりも少しルーツィエが早かった。
「アーブラハム?」
「良き名であろう。お前の夫は大変素晴らしい」
あぜんとするフランツを尻目に、ルーツィエはつんと得意げに胸を張る。
「そうなのおばあさん、わたしの夫はとても素晴らしいのよ。……ねえフランツ。とうとうわたしたちは親になるのね」
満面の笑みを浮かべる彼女に、フランツはすかさず応えて微笑んだ。
「そうだね。君は母で僕は父だ」
「わたしね、何度も親になる自分を想像していたの。だから少しは予習してあるわ。良い母親になれるように、これからうんと努力する」
宣言する彼女のかわいさに、艶やかな黒髪を撫でつける。
「努力などいらないよ。僕の妻は最高だからね」
ルーツィエは顔を赤らめながら、フランツの頬めがけてキスをした。
「わたしの夫のほうがもっと最高だわ」
右の頬にも、左と同様くちづけられる。
「あなたのすべてが大好きよ」
ふっ、とフランツが短く笑うと、ルーツィエもまた顔をほころばせる。ふたりは見つめ合い、そしてどちらからともなく唇を重ねた。
「ルル、愛している」
「わたしも……」
再びくちづけて、その唇が離れてから、真っ赤になった彼女は慌てた。
「どうしよう、おばあさんの前で」
その言葉に、老婆が肩をすくめて「接吻ぐらいで我は動じぬ。仲良きことはよいことじゃ」と告げると、フランツもまた同意した。
「僕たちは夫婦だからね」
もじもじと恥ずかしがりつつ、ルーツィエは頷いた。
「ねえ、フランツ。ベアタさんに伝えてきてもいい?」
ベアタとは、以前ドーフライン城塞に滞在していた時にいた、四人のエルケの魔女のひとりだ。直接ルーツィエと関わりないはずの名前に、彼は眉をひそめる。
「なぜ?」
「親切にしてくれて……着替えを手伝ってくれたのだけれど、じつはね、その時に言われたの。妊娠していないかって。してないって答えてしまったから訂正したいの」
身体を離したルーツィエは、返事を待つことなく「待っていてね」と小走りで駆けていく。長い黒髪が揺れるさまを見送り、その後フランツはぎろりと老婆を射すくめる。
「ビルギット、何のつもりです。アーブラハムなどと勝手なことを。そんな名前にはしませんよ」
しかしながら、老婆の態度は飄々としたものだった。
「良き名だと思うがの。群衆の長たるにふさわしい名前じゃ。それにな」
老婆は上を仰ぎ、原生林からのぞく小さな空を眺めた。それはやけに青かった。
「何を隠そう、我の初恋の男の名じゃ」
「……ならばなおさら避けたいですね」
「我が娘ゲルトルーデはエルケ以外の者に嫁いだ。当時は皆反対したものだが、我が許したのは、他ならぬ我がかつて外の男と恋をしたからじゃ」
フランツは聞く気はさらさらなかったが、老婆の話は続けられる。
「驚くなよ? 相手はルーツィエの曽祖父の二番目にあたる弟だ。黒髪の精悍な男でな、クライネルトの騎士だった。それが何の因果か時代を辿り、我がひ孫がクライネルト伯の血を引くとは、異な事だとは思わんか」
「失礼、この話は長いですか」
老婆は一瞬目をまるくしてから笑った。
「これは無愛想な。面白みのない男だの」
「あなたのかつての相手がどんな男でも、アーブラハムだけはなしです」
やれやれと肩をすくめた老婆は、まだしつこく「いい名前だがの」と名残惜しそうに言った。
「息子を大事に育ててやれ。良き人生をつつがなく歩ませろ」
「言われるまでもありません。まあ、一刻も早く母親離れさせますが」
老婆はひひひと肩を揺らした。
「お前、大人げないな。まだ生まれもせぬ子に対して……母を奪うとは酷だ」
「我が城には優秀な乳母が数え切れないほどいますから何も問題ありません。それに、妻は私の相手で手一杯です」
「なんと、我がひ孫は大変な男に捕まってしまったの」
「私は独占欲が強い。こと、妻に関しては、二度と離す気はありません」
ため息をついた老婆は呆れ顔を見せた。
「ついでに教えてやろう。ルーツィエはこの先四人の男児と二人の女児を産む。これはな、魔女としては前代未聞だ。……よいかフランツ、かつてないほど栄えよ。立派な王となれ。お前ならできる」
フランツは穏やかにまつげを伏せた。
「不思議ですね。まさか自分がこれほどまでに未来を想像するようになるとは思いませんでした。かつての私は生を諦めていましたから。彼女に会うまでは死んでいたも同然だった」
「ルーツィエとて同じじゃ。お前が生きたからこそあの子は救われた。あの子を救えるのははじめからお前しかいなかった」
フランツが、静かに老婆を流し見れば、深い緑の視線とかち合った。
「お前たちは苦難の中で生きてきた。失った者のぶんまで幸せにならねばなるまい」
「なりますよ。私が彼女を幸せにします」
その時、遠くでルーツィエがフランツの名を呼んだ。どうやらエルケの魔女が食事の支度をしたらしい。
老婆は鼻先を突き上げた。
「何をしておる、早う行ってやれ。行かねばしびれを切らしたあの子が走り寄ってくる。転べば大事じゃ」
「僕の妻は、困ったことに少々お転婆ですからね。──あ。ルル、走っちゃだめだ。そこにいて」
打って変わって笑みをたたえたフランツは、ルーツィエのもとに足を踏み出した。