密室デート
「お姉ちゃんたち、デートはどこに行ってるの?」
それはいろんなゴタゴタが一段落して、あとは結婚式を待つばかりとなったある日のことだった。
すぐ下の妹の姫子に期待いっぱいの顔で問われ、詩子は考えた。
デート?
それは、付き合っている男女であれば、当然していてもおかしくないものだ。結婚を控えているふたりなら、なおさら。
ホテルで一緒に休日を過ごしたり、食事に行ってまた戻って来るという密室から密室への移動は果たしてデートと呼べるのだろうか?
そう考えたものの、そんなはずがないと自分で否定する。
言われるまで気付かなかったけれど、気付いてしまうと詩子は落ち着かなくなった。
そうだ、デートしよう――
少し時間に余裕が出てきたこともあって、詩子は決意した。
*
寝坊した!
最後に寝坊したのは、小学校のときだ。
誰にだって寝坊して遅刻する、なんて事態は起こりうることとわかってはいるけれど、よりにもよってどうして今日なんだろう。
子供みたいに緊張して、昨夜なかなか寝付けなかったのが原因だというのはわかっている。
詩子は自分を盛大に罵ったが、怒ってみたところで何も変わらない。
今までで一番早回しで用意をして、家を飛び出した。
こんなことなら、政喜が言ったとおり、彼のホテルに泊まって、朝一緒に出ていれば――
実は、デートの話をしたとき、政喜にはそう誘われていた。
けれど詩子は、完璧なデートをしてみたいと思ってしまったのだ。
お互いの家から出て、待ち合わせをする、という学生のようなデートだ。
政喜とは最初から身体の関係があったために、そんな初々しいことなど何もなかった。なので詩子は今更だが、それをしたくなったのだ。
一緒に夜を過ごせば、同じベッドで寝ることを拒めないだろう。その結果どうなるか、詩子はすでに知っている。
絶対に、予定している時間に起きることなどできなかっただろうし、今のように、元気に走って待ち合わせ場所に向かうことだって難しいはずだ。
絶対――もう待ってる、向こうが遅刻するなんて想像もできない!
詩子は電車の速度すら遅いと感じていた。
待ち合わせた駅に電車が停まるなり、ドア近くに立ったままだった詩子は外に飛び出した。
この日のために買ったスカートが翻るが、気にしていられない。春色のストライプのスカートは、自分には派手すぎるかもと思ったが、妹たちの絶大な後押しに負けて買ったものだ。
絶対似合う、と保証されていたが、確かに、髪も巻いてメイクも時間をかけて仕上げていたら、似合っていただろう。
こんなはずでは、と考えるのも今更だった。
詩子は改札を出て、待ち合わせをしたパン屋の前に走った。
だが、人だかりが自分の前を塞いでいる。
この向こうに行きたいのに、いったい何があって人が立ち止まっているのだろう。駅で待ち合わせをする人が多いとしても、一か所に固まり過ぎている状況に詩子は訝しんだ。
どうにか人の合間を縫って行くと、彼らの視線が一点に向かっていることに気付く。
そしてその理由を知って、詩子も足を止めてしまった。
なんて――かっこいいんだろう。
空色のジャケットが似合う成人男性なんて、きっと彼だけだ。
詩子は周囲の観客と同じように相手に魅入った。
視線を集めながらも平然と立っているのは、他の誰でもない、詩子の待ち合わせ相手である政喜だ。
ラフな格好で! と厳命した詩子に従い、政喜はスーツではなかった。
春らしく、Tシャツの上に空色の軽い素材のジャケットを羽織り、色の濃いジーンズに長い足を包んでいる。足元は紺に赤のラインが入った靴を履いていた。
少し癖のある明るい色の髪は、気取るでもなく自然に整えられていて、左右対称に整った造りの顔は人の目を惹き付ける。
詩子が驚いて足を止め、そんなことを考えたのは一瞬だった。
その一瞬は永遠にも思えたけれど、迷うことなく詩子を見つけた政喜の視線に射貫かれたとたん、時間が止まった気がした。
「詩子さん!」
その弾けるような笑顔は、詩子の周囲にいた人々をざわつかせた。
待たせた女はいったい誰だ、という視線が一斉に詩子に刺さったが、そんな視線も一掃するほどの威力が、政喜の笑顔にはある。
「――ごめんなさい、遅れてしまって」
「いいんです。待っている間も詩子さんのことだけを考えていられたので、幸せでした」
いったいどんなことを考えていたのか、と訊いて墓穴を掘るほど、詩子ももう馬鹿ではない。
愛想のいい笑顔の下でどんなことを考えているかなど知りたくないと思うほど、詩子は政喜の性格を知り尽くしてしまっている。
「――次は、遅れたりしないから……行きましょう」
「はい、詩子さん」
今日のデートプランを考えたのは詩子だ。
常に詩子を喜ばせようとする政喜を、詩子だって喜ばせたいと思っている。
駅から迷うことなく歩く詩子のすぐ隣を歩く政喜は、にこやかな笑顔を崩すことはない。
いったいどうしてそんなに嬉しそうなのか。
もちろん、喜ばせたい気持ちは満々だが、詩子は今のところマイナスになることしかできていないはずだ。
「――どうして、そんなに笑っているの?」
政喜の答えはいつもぶれない。
「詩子さんがいるからです――それと、次のデートの約束をしてくれたからです」
率直な言葉に、詩子の頬が熱くなる。
常に前向きな政喜らしい発言だが、詩子はまだ羞恥心を捨てていない。
こんなところでそんなことを言わないで、と言いたかったが、嬉しそうな政喜に水を差すこともできず、赤らめた顔を俯かせて歩調を速める。
「……次は、本当に、遅れないから」
詩子が遅れたせいで、政喜は駅で待ちぼうけを食っていた。
そのせいで、周囲から注目を浴びる結果になってしまった。政喜が格好いいのは誰だって見ればわかる。けれど、政喜は詩子のもので、他の誰かの観賞用ではないのだ。
誰かに見せるために、待たせたわけではない。
詩子は次こそ絶対に遅れまいと心に誓った。
相変わらず嬉しそうな政喜は、尻尾があったら勢いよく振りそうな笑顔を見せているが、詩子は眩しすぎてその顔を直視できなかった。
「詩子さん、詩子さん、それで、どこへ行くんですか?」
ピクニックにでも行くのかというような政喜のはしゃぎっぷりに、詩子は逆に冷静になって鞄からはがきを一枚取り出した。
「――この、日本画の展覧会に行こうと思うの。嫌いじゃなければ、いいんだけど……」
それは数名の若い画家たちによる展覧会だった。
詩子がデートの内容を考えた時に、最初に浮かんだのは無難な映画だ。
でも、せっかくふたりでいるのに、黙ったまま画面を見ているだけなのもつまらない。
かといって、ウィンドウショッピングをしながら散策をしたところで、詩子の目にするものを片っ端から買おうとする政喜を止めるのも大変だ。
この歳で、動物園や遊園地も子供っぽいと思われるかもしれない。
常に詩子至上主義のような政喜が、いったい何が好きなのか、改めて考えるとまったく思い浮かばず、詩子は愕然とした。
詩子のことを詩子以上に知っている政喜に比べて、思った以上に政喜のことを知らない詩子は、自分に呆れ、憤りさえ感じる。ない知恵を絞って考えていたときに、妹からこのはがきをもらったのだ。
展覧会なんて、ちょっとおしゃれでいいかもしれない。
そう思ったが、政喜の趣味でなかったら意味のない場所だ。
だから、政喜が「絵は好きですよ」とすぐ答えてくれたことに安堵する。
「――これ、兼続くんの勤める会社が主催する展覧会ですよね」
「知っているの?」
兼続とは、このはがきをくれた妹、姫子の夫の名前だ。詩子の義弟になるが、年齢は向こうのほうが上だった。
S社というそこそこ名の知れた商社で働く義弟は、仕事が出来る優秀な男らしい。
詩子は姫子からそんな話を聞いているけれど、義弟のことを政喜が知っていることに驚いた。
政喜はなんでもないことのように、教えてくれる。
「“四人姉妹の夫の会”で話すので」
「―――――えっ!?」
聞き間違いだろうか、と詩子は訊き返したが、政喜は間違ったことなど何も言っていないというように、にこやかに答えた。
「流星くんと肇くんも一緒です。まぁ主に、SNSでのことですが」
流星と肇も、双子の妹、紫音と梨音の夫で、詩子の義弟だ。
いったいいつの間に、そんなに仲良くなったのだろう、と驚くばかりだが、姉妹を通じて夫たちの仲が良いのはいいことだ。
そう思い、何気なく訊いた。
「ふうん、どんなことを話すの?」
どんな会話をするのだろうという純粋な興味からだった。
「それはもちろん、愛する奥さんのことです!」
「――え?」
「彼らは自分の奥さんのことをとても可愛いと言っていますが――ええもちろん、僕も詩子さんが一番可愛くて素晴らしいと、みんなに伝えていますよ! 素晴らしさでも可愛さでも、詩子さんの上を行く女性などこの世にはいませんからね! 安心してください、ちゃんとどれだけ詩子さんが――」
「あ、もういいです」
訊いた自分がばかだった、と詩子は後悔した。
まだこれからですが、と話し足りなさそうにしている政喜の話を途中でぶった切り、止めていた足を動かし始める。
「詩子さーん、大丈夫です。可愛いところしか話していませんから、まだ」
「まだってなに?!」
恥ずかしくてたまらない。
詩子はとても聞いていられない、と顔を真っ赤にして足を速めることしかできなかった。
義弟はみな優秀で、妹たちをそれぞれ幸せにしてくれるに違いないと信頼していたけれど、この政喜のテンションに付いて行っているのなら、この先見る目を改めてしまうかもしれない。
政喜と一緒にいられることは、嬉しいし幸せだ。けれど、羞恥心に苛まれるのはまったく嬉しくない。
そう思いながらも、この先もずっと同じような気持ちにさせられるのだろう、と詩子は簡単に想像ができて、すぐに追いかけて来る政喜の声を耳にしながら、深くため息を吐いたのだった。
*
普通のデートがしたい、と思っていた詩子だが、展覧会の会場に着いて、すぐに自分のデートプランが失敗だったことを知る。
ビルの一階にあるアトリエで開催されていた展覧会は、大盛況だった。
政喜は詩子より絵画に詳しく、詩子が興味を引きそうな話を優しく教えてくれる。こういう時間を求めていたのだと嬉しくなっていたのだが、詩子が後悔したのは会場に入って三枚目の絵を一緒に見ていた時だ。
「――寺嶋さま!」
政喜と一緒に振り向いた先には、早足で近づいてくる壮年の男性がいた。
「お久しぶりでございます! プレオープンのご連絡はさせていただいていたのですが、一般公開の日にわざわざお越しいただけるとは……」
「――ああ」
どうやら政喜の知り合いらしい。
そっけない返事をした政喜に、展覧会の運営スタッフらしき相手はにこやかに話し続ける。
「今回は、お目が高い寺嶋さまの目にもご満足いただけるものが何点かございます。お気に召したものがありましたら是非、お申し付けください」
「――ああ、うん」
やはり愛想のない返事をする政喜の表情は、先ほどまでとは打って変わって能面のようだった。
政喜の父親と同じくらいの年齢であろう相手は、政喜がそんな顔をしているのにまったく動じずにこやかだ。
「ああ、そうです寺嶋さま。偶然、本日はY画廊のオーナーの山下さまもおられまして、寺嶋さまがいらしていると知ったらあの方も――」
「政喜さん!」
男の声を途中で遮るように、政喜の名を呼んだ女性が詩子がいる反対側から政喜の腕に抱きついてきた。
「これは山下さま、今ちょうど、お話をしていたところで――」
「そうなの? まぁ、嬉しい。私の話をしてくださっていたのね、政喜さん」
しなだれかかるように政喜の腕に縋る山下という女性を見て、詩子は驚きながらも怒りを覚えていることに気づいた。
手を――政喜さんの、手を! 私がずっと、繋ぎたいと思ってたのに!
いつも手を繋ぐのは政喜からだ。
だから今回のデートでは、自分から手を繋ぐのだと決意していた。
けれど結局、いつもと同じように、詩子の羞恥心を煽ってくる政喜のせいで、まだ実行できない。
それなのに、さも当然のように腕を組み、なおかつ、媚びるような視線を政喜に向ける女性に、詩子の視線はきつくなっていた。
「政喜さん、お気に召した絵はありまして? 私、今回は何点か買い取ろうと思っていますの。うちの画廊に飾るものですが、政喜さんにも見ていただきたいわ。もちろん、政喜さんがご所望なら、お譲りいたします」
詩子はその言葉に、自分が間違っていたことを知った。
こうした展覧会の絵は、見るものだと思っていた。
けれどそれは庶民である自分の考えであって、政喜はどうやら――買う側の人間だったのだ。
それなら、目の前の男性や画廊のオーナーだという彼女の態度もわかる。
考えて悩んで、せっかく一緒に楽しもうと思っていたデートだったけれど、それが失敗だったと気付いて詩子は心が沈んだ。
もっと、リサーチしておくべきだった……
詩子は、無遠慮に政喜に触れる女性を見ているのも嫌で、下を向いてしまったが、ふと背中に暖かなものを感じて、顔を上げる。
見上げた先には、見慣れた笑顔があった。
政喜の、詩子しか見ていないという、真っ直ぐな視線だ。
その笑顔に、詩子は下を向いた自分が情けなくなった。
政喜さんは、こんなにもわかりやすいのに――
彼の想いがどこを向いているのかなど、詩子には今更なことだった。
政喜がどんな立場であるかなど、改めて知るところでもない。
女性にモテることも、新しい事実でもなんでもない。
それを知ってなお、詩子は政喜と一緒にいたいと思ったのだ。
詩子は反対側の彼女と同じように、背中に回された政喜の腕を取り、指を絡めてぎゅうっと握りしめた。
その詩子の行動に、政喜は蕩けそうな笑みを見せる。そしてその笑みのまま、反対側の彼女の手を振り払って押しのけた。
あからさまな拒絶に驚いたのは、画廊のオーナーの山下という女性だ。
「ま、政喜さん……?」
「悪いけど、今日はプライベートで来ているんだ。ただ絵を見に来ただけだから、放っておいてくれるかな。ああ、でも僕の妻を紹介しておくよ。これからイベントに呼ばれたときは、一緒に参加することになるだろうからね」
「――えっ」
「て、寺嶋さま、ご結婚を?」
綺麗にカールされたまつげで縁取られた目を丸くする山下と、慌てた様子の男性に政喜は少し冷ややかな笑みを向けていた。
「まだ公にはしていないけれど、僕の妻の詩子さんだよ。まぁ正式な紹介はまた今度にしよう。今はふたりの時間を大切にしたいから」
はっきりと、邪魔をするな、という意志を見せる政喜に、ふたりは何も言えないままだった。
政喜はそれ以上会話する必要はないとばかりに、詩子を腕にくっつけたまま順路に戻る。
「――詩子さん、ごめんね」
「……ううん、いいの」
政喜が謝ったのは、詩子をいない者として扱った彼らの態度についてだとわかっている。そして政喜が謝ることではないとも、わかっている。
まだ正式に結婚はしていないけれど、妻と紹介されたことが詩子の心を熱くしていた。
詩子とそれ以外という、はっきりとした政喜の態度を、子供っぽいと思いながらも、詩子はそれを喜んでしまっていた。
もう後ろは振り向かなかったけれど、詩子は背中に視線を感じていた。
そして、気づかないふりをしていたけれど、常に周囲から視線を集めていることもわかっていた。
どこにいようと、政喜は目立ってしまうのだ。
これほど格好いい人は他にいないと、詩子だって知っている。
でも――でも、政喜さんは、私のなんだもの。
今更、他の誰かに渡すこともできない。
政喜に振られたら、きっと詩子の人生は終わってしまうだろうと思ってしまうほど、詩子の心は政喜でいっぱいになっていた。
「――詩子さん?」
詩子はもう絵を見ることもなく、政喜の腕をぎゅうっと強く抱きしめていた。
どうしたのか、と心配してくる政喜に、彼の気持ちを詩子はようやく理解した。
密室から密室のデート。
でもそれは、政喜の気持ちの表れだったのだ。
詩子は今更、それを理解する。
何故なら詩子も今、同じように思っているからだ。
もう、他の誰にも、政喜さんを見せたくない……!
詩子は大きな手を確かめるように握り締め、政喜を見上げた。
「……あの、ごめんなさい、デート、途中だけど……」
「……はい?」
受け答える政喜は、どこか緊張したような声になっていた。
それを珍しいと思いながらも、詩子は自分の止められない気持ちを告げる。
「……早くふたりきりになりたい」
「―――――」
政喜の行動は速かった。
詩子の声を聞くなり、攫うように展覧会の会場を後にして、道に出るなりタクシーを拾った。
乗り込んでから運転手に告げたのは、自分の泊まるホテルだ。
タクシーという密室に入ってから、詩子はほっとしたように息を吐いた。
詩子が握っていた手が、さらに強く詩子を握り締めてくる。
「……詩子さん、今日は我慢できませんよ。しなくて、いいんですよね」
政喜の囁くような声は、問いかけではなかった。
詩子はこの先に待ち受けている事態が予想できて顔を真っ赤にしたが、それを拒否することなどできない。
私、すごく、はしたなくなりそう――
詩子はすでに、政喜の色に変えられていたのかもしれない。
けれどそれを口にできるほど、理性は捨てきれていないようだった。
ただ、政喜の執拗で濃い愛撫と愛情に埋もれることは覚悟する。
そして改めて、詩子は思う。
普通のデート、一生できないかも……
でもそれでもいいかな、と考えながら、もっと速く走ればいいのに、とタクシーから流れる景色に目をやって、温かな身体にすり寄った。