愛しい天使
一つの恐れもなかったと言えば、嘘になる。
ブランシュは腕の中にある宝物を、そっと抱き直した。
柔らかく甘い匂いを放つそれは、ご機嫌な様子でふにゃふにゃと言葉にならない声を発する。どうやらお気に召したらしい。
「ふふ……風が気持ちいいわね」
よく手入れされた庭園には、緑と花の香りが漂っていた。規則正しく並べられた石畳を進み、ブランシュは辿り着いた東屋で腰を下ろす。
ほっと一息吐き、白く滑らかな頬を朱に染めて両手を伸ばしてくる我が子に、優しく微笑みかけた。
シルヴァンと結婚して三年。待望の子供を授かった今、これ以上の幸福はないのではないかと思うほど、満ち足りた毎日を過ごしている。夫である彼は爵位を継ぎ、正式にモンフォール辺境伯になった。つまりブランシュは辺境伯夫人になり、生まれた子供は後継ぎということになる。
「ブランシュ様、寒くはありませんか?」
「大丈夫よ、モニク。ありがとう。でもそろそろシルヴァン様が戻られる頃かしら?」
肩にショールを掛けてくれた使用人に礼を言い、ブランシュは首を傾げた。
「はい、そろそろお帰りになられる時間です」
今日はとても陽気が良いので、初めて赤子を連れて散歩に出ていた。と言っても、庭園を軽く散歩しただけだ。しかし自分一人で出歩くのとは、まったく景色が違って見える。
大切なものを抱えていると思えば身が引き締まる心地がするし、世界が輝いているかの如く感じられた。
ブランシュは我が子に頬ずりし、立ちあがる。
「ではお出迎えの準備をしましょう」
「はい。お疲れでしたら、私が坊ちゃまをお抱きしましょうか?」
「いいえ。この重みも愛おしくて堪らないの」
気遣ってくれるモニクの手を断り、ブランシュは歩き出した。小柄な彼女が後ろからついてくる。
モンフォール家に嫁いだ当初は、ブランシュにとってモニクも『恐ろしい異形』の一人だった。頭では分かっていても、心が怯え萎縮してしまっていたのだ。
自分にだけ見える、あるはずのない後頭部の大きな眼は、恐怖を呼ぶものでしかない。いくらブランシュに親切にしてくれていても、根底の部分で心を許しきれなかった。けれども今は。
「ああ、可愛らしい。私、坊ちゃまのためなら何でもできます」
「モニクったら……大袈裟だわ」
ブランシュの腕の中を覗きこむモニクは、うっとりとした声を漏らした。彼女の頭にある瞳は蕩けるように細められている。異形であることは間違いない。以前と変わらず、ブランシュにだけ見える幻だ。しかしかつてのような気味の悪さは感じなかった。
むしろ感情がよく現れ、微笑ましいとさえ思える。見慣れただけかもしれないが、これはモニクだけに言えることではなかった。
ブランシュは昔よりも遥かに肩の力を抜いていられる。俯くことなく顏を上げ、相手の眼を見ることへの抵抗も薄れていた。歩みは遅くても少しずつ前へ進んでいる実感がある。小さな積み重ねは、ブランシュに勇気を与えてくれていた。
だからこそ子供が宿ったと知った時、微かな恐れはあっても大きな喜びに包まれたのだ。
ばたばたと手足を動かす元気な息子を見下ろし、ブランシュの胸の内は温もってゆく。
約一年前、医師から妊娠の可能性を告げられた際、きっと自分は我が子の本当の姿をこの眼に映すことはないのだろうと思った。
諦念の中、じわじわと喜びを噛み締め、そして僅かに悩みもした。
もしも、生まれた赤子が耐え難いほどの異形に見えたらどうしよう。
触れることさえためらわれるほど恐怖を掻き立てる姿であったなら、自分は受け入れられるだろうか。
一瞬の逡巡は、すぐに『問題ない』という答えに辿り着いた。
仮に未だかつてない恐ろしい化け物に見えたとしても、大丈夫だ。必ず愛せる。大切なのは、容姿などではない。
この世で一番愛しいシルヴァンの血を引く我が子―――愛情を抱かないはずがなかった。
心が定まればもうブランシュに迷いはなく、日々腹の中で健やかに育つ子供を慈しみ、生まれてくる日を心待ちにする日々を過ごした。
指折り日数を数え、母になる心構えを整え、産着や靴下を用意して、やがて訪れたその日。
出産の疲れでぐったりと横たわっていたブランシュが眼を覚ますと、傍らにはシルヴァンが腰かけ、こちらをじっと見守っていた。
『―――身体は大丈夫か? ああ、無理に動こうとするな』
『はい……あの、赤ちゃんは……』
『男の子だ。元気な子を産んでくれて、ありがとう』
額を撫でられ、ブランシュは眼を細めた。彼の手の重みが心地いい。
一刻も早く我が子に会いたい、そんな気持ちをこめてじっとシルヴァンを見上げた。
『……連れてこさせよう』
ほんの僅かな間に宿る想いを、ブランシュは正確に読み取っていた。たぶん彼は、心配してくれている。赤子の姿を見たブランシュが衝撃を受け、傷つかないかと案じてくれているのだ。
獣面の中、紫色の瞳が揺れる。シルヴァンの懸念を如実に表し、迷っているのが伝わってきた。
本当は優しい人だから、真実を見ることが叶わないブランシュを慮ってくれているのだろう。
『私なら、大丈夫です。何度も話し合ったでしょう? シルヴァン様の……貴方の子供だから、愛おしくないはずがありません』
ブランシュがきっぱりと言い切れば、彼は苦笑した。
『……そうだな。私が惹かれた君は、しなやかな強さを持つ人だった』
シルヴァンの指示に従い、赤子を抱いた使用人が入室してくる。真っ白な布に包まれた子供は驚くほど軽い。それなのに、受け取った瞬間ブランシュは質量ではない重さを感じた。
生きている、命の重みだ。
『……っ』
瞬きもせず、自らの腕の中を凝視する。赤子は小さな手を握り締め、何やら口を動かしているが眼は閉じられていた。柔らかくぐにゃぐにゃしていて、簡単に壊れそうなほど頼りない。誰かに頼らねば生きていかれない脆弱な存在。何一つ自力ではできない脆い生き物。
名状し難い愛おしさがこみ上げた。
『……可愛いっ……』
無条件にそう思えた。
直前まで完全には払拭できなかった不安が、霧散する。後に残るのは、はち切れそうなほどに溢れる愛情だった。こんなに心奪われるものがこの世にあったなんて、知らなかった。何もかもが胸を締めつける。
きっとこの子のためなら命も惜しくないとブランシュは確信し、気づけば頬に涙が伝っていた。
『シルヴァン様、見てください。何て愛らしいのでしょう……!』
おそらく、自分の眼に映る赤子の姿は真実ではない。壊れてしまった視覚は、正しい現実を認識してはくれない。歪められ、現実とは程遠いのだろう。だが、それは些末なことだと思えた。
ブランシュは瞬きで涙を振り払い、我が子の姿を瞳に焼きつける。
その姿は、『人』とは違う。化け物ではないが、人間ではあり得ない姿形をしていた。
まず、黄金の髪を生やした頭の上に輝く輪が浮いている。そして背中からは、小さな羽根が生えている。どちらも触れられない幻覚だ。羽根に至っては、服から突き出す状態になっており、荒唐無稽も甚だしい。
―――まるで、天使みたい……
神々しく発光する赤子は、聖なる御使いそのものだった。陶器のように滑らかな白い肌も相まって、尚更神聖な存在に思える。
怖々頬を撫でれば、子供はふにゃりと口角を上げた。
『笑ったわ……!』
『奥様、生まれたての子はまだ笑えませんよ』
赤子を連れてきてくれた使用人に言われても、あれは間違いなく笑顔だった。ブランシュは興奮気味に夫を振り仰ぐ。
『シルヴァン様もご覧になりましたよね……っ?』
『ああ。ブランシュに似て、愛らしい子だ』
『私はシルヴァン様にそっくりだと思います。ほら、この髪の色なんて、まさしく……』
『ご両親、どちらにも似ておりますよ。将来はさぞ大勢の女性を魅了なさるでしょう』
見つめ合う夫婦を嗜め、使用人はブランシュに横になるよう促した。
『さ、奥様はお休みになってくださいませ。出産という大変なことを成し遂げた後ですから、充分に休息を取らないと。また後程、坊ちゃまはお連れいたします』
『待って、あと少しだけ……』
感動を、噛み締めたい。
援護射撃を求めてシルヴァンを見つめれば、彼はブランシュの手から赤子を抱き上げた。
『数分なら、構わないだろう。三人だけにしてくれ』
『仕方ありませんね……くれぐれも奥様を疲れさせてはいけませんよ、旦那様』
年配の使用人はシルヴァンに釘を刺し、部屋を出て行った。室内には親子だけが残される。
『……よく頑張った。本当にありがとう』
鋭い紫色の双眸が、微かに潤んでいた。赤くなった目尻からも彼の心情が漏れてくる。
『私こそ、こんな幸福を与えてくださり、ありがとうございます』
シルヴァンがブランシュをベアトリクス家から強引に連れ出してくれなければ、きっと今でも暗い部屋の片隅で縮こまっているだけだった。いや、もしかしたら俗世を捨て、全てに背を向けていたかもしれない。さもなければ、義母だった人に殺されていても不思議はなかった。
不意に、家族であった人たちのことを思い出しそうになり、ブランシュは頭を振る。
当時のことを思い出すのはまだ辛い。色々なことがあったけれど、最後は何とも心苦しい結末を迎えてしまった。
ブランシュの両親は離婚し、父の子でなかったマリエットと共に義母は屋敷を追い出されたと言う。彼女たちのことを好いていたかと問われれば頷くことは難しいが、路頭に迷うと知っていて無関心でいられるほど冷淡にもなれない。
ブランシュはひっそり救いの手を伸ばそうとしたが、結局は叶わなかった。シルヴァンの弟、ローアンに全て任せるように言われたからだ。
悪いようにはしないという言葉を信じたけれども、その後母娘の行方は分からないし、『義姉さんが知らなくていいことです。これは兄の意思でもありますから』と告げられてしまえば、無理に聞き出すこともできなかった。
父はすっかり老けこみ、騒動の後一度だけ会った際には随分痩せていた。顔色も悪く、病気を心配したほどだ。しかし祖父母から大丈夫だから妊婦は自分の身体だけを気にしていなさいと言われ、以降こちらから連絡は取っていない。あちらから手紙も届かないから、疎遠になったまま。
ブランシュ自身、積極的に関わろうと努力できる時期は逸してしまった。
寂しいけれど、この距離感がお互い傷つけ合わずに済む適切なものなのかもしれない。
「―――ブランシュ! こんな所にいたのか」
もの思いに耽っていると、屋敷の方から歩いてくる背の高い男性が眼に入った。
逞しい身体つきに均整の取れた長い手足。趣味の良い服を纏った堂々とした佇まいの彼は、黄金の鬣を持っている。そして頭上には、螺旋を描く角が生えていた。
ブランシュだけの、愛しい異形だ。
「シルヴァン様、お帰りなさいませ。お出迎えが遅れてしまって申し訳ありません」
待ち焦がれた夫の帰宅に、ブランシュは満面の笑みで駆け寄った。
「構わない。君たちに会いたくて、予定より早く帰ってきただけだ」
ブランシュの手から赤子を抱き取った彼は、愛らしい我が子の額にキスを落とした。そして妻にも口づける。
「ただいま。私が不在の間、何も問題はなかったか?」
「はい。少し、寂しかっただけです」
「義姉さん、僕にはおかえりなさいと言ってくれないのですか?」
シルヴァンをうっとりと見上げていたブランシュは、ローアンの声に慌てて背筋を正した。完全に視界から漏れていたが、義弟も一緒に出先から戻っていたのだ。
「お、お帰りなさいませ。すぐにお茶の用意をいたしますね」
「まったく……兄さんのことしか眼中にないのは、相変わらずですね」
のっぺりとした卵の顔はそのままに、ぼやくローアンの雰囲気はどこか柔らかい。久し振りに母親と会ってきたからだろうか。
「あの……お義母様はお元気でいらっしゃいましたか?」
「元気過ぎて、当分は長生きしそうです。兄さん共々散々罵倒されて帰ってきましたよ」
前モンフォール辺境伯が亡くなり、シルヴァンが跡を継ぐにあたって、火種が何もなかったわけではない。ローアンを推す義母との確執が表面化し、揉めたのだ。彼女の誤算は、完全に意のままに操れていると信じていた実の子が、腹違いの兄に寝返ったことだろう。
最後まで恨み言を吐いていたが、最終的にはモンフォール家が所有する別荘の一つに幽閉同然で追いやられた。今回、ご機嫌伺いという名目で息子二人が監視に行っていたのだが、未だ義母の怒りはおさまっていないらしい。
「あれだけ騒げれば、健康そのものでしょう。安心しました」
いつもなかなか真意を窺わせないローアンだが、本心から言っているらしく上機嫌で屋敷に入ってゆく。ブランシュとシルヴァンは顔を見合わせて笑った。
「あいつの考えは、私でも読み切れない」
「ですが、皆さま無事帰られて良かったです」
たった数日ではあっても、離れているのは心配で堪らなかった。できるならブランシュも一緒に行きたかったが、赤子がいるのでは諦めるしかない。
―――でも考えてみれば、悪魔のように見えるシルヴァン様の子が天使だなんて、面白い冗談だわ。
両極端に位置しながら、どちらもブランシュにとっては大切な宝物。片方が欠けても生きていかれない。失いたくないと、改めて思う。
幸せだ。幸福すぎて、時々恐ろしくなるほどに。これ以上を望むのは、贅沢でしかない。けれども願わくば―――
「……いつか、私もこの子の本当の姿を眼にすることができるでしょうか」
永遠に叶わなくても愛情に変わりはないが、シルヴァンに似ているという我が子の姿を眼に焼きつけたいとも願ってしまう。ブランシュはそっと睫毛を伏せた。かつて一度だけ起きた奇跡が、再びこの身に舞い降りないかと祈りたくなる。
「……今回の目的は、義母の様子を見に行くことだけではない。それだけなら、ローアン一人が向かえば十分だ。本当は、腕のいい医師がいると聞いたから私も同行した」
「……!」
弾かれたようにブランシュが顏を上げると、シルヴァンは小さく顎を引いた。
「君が望むのなら、直ぐにでも呼び寄せられる」
「ありがとうございます……! シルヴァン様……!」
感激で胸がいっぱいになり、涙が溢れる。思わず彼に抱きつくと、息苦しかったのか赤子がうにゃうにゃと抗議の声を上げた。
「あ……ごめんなさい。痛かった? 大丈夫?」
「大好きな母親を独占されて、生意気に妬いているのだろう」
「シルヴァン様ったら……」
「本当は、ブランシュが直接私に医師を探してほしいとねだってくれるまで秘密にしようかと思ったが、君が喜ぶ顔をいち早く見たくなってしまった私の負けだ。頑張った私を、今夜はたっぷり褒めてくれ」
冗談めかしつつ、惜しみない愛情を彼は注いでくれる。再び胸が温かくなり、ブランシュは今度は子供を潰さないよう気をつけてシルヴァンの背中に腕を回した。
「はい。旦那様のお望みのままに」
「愛している。君の幸福が私の幸せだ」
ブランシュはかけがえのない家族に囲まれて、満面の笑みを浮かべた。