ソーニャ文庫

歪んだ愛は美しい。

会員限定特典小説

子守歌

 ぽかぽかの陽気。
 アトリエで過ごす穏やかな時間。
 窓から降り注ぐ柔らかな日差しが気持ちいい。
 ──なんだかとても眠いわ……。
 春になって陽気がいい日が続いていることもあり、最近のユーニスは日中でもウトウトしてしまうことが多くなっていた。
「ユーニス、大丈夫? 少し疲れた?」
「……ん、そういうわけではないのだけど……」
 眠気に逆らえず瞼を閉じると、リオンが心配そうに声をかけてくる。
 目を瞑っていても、彼が今どんな顔をしているのかわかるようだ。
 夢心地になりながらユーニスの唇は自然と綻んでいく。
 絵筆を握っているであろうその手は、今日はどんなふうに自分を描いてくれるのだろう。
 ──そういえば、こうしてリオンの絵の練習につきあうようになってから、もうどれくらい経つのかしら……?
 ユーニスは彼の視線を感じながら、二人で過ごした日々を思い返した。
 リオンは今も毎日のようにユーニスを描き続ける。
 想いを綴るように描かれるその絵はまるで恋文のようで、ユーニスは彼が描く自分が大好きだった。
 けれど、最近の自分は少し気が緩んでいるのかもしれない。
 結婚当初は隅から隅まで観察されることを恥ずかしく感じていたのに、今は彼に見つめられていても、うたた寝しそうになっている。あの頃の自分が見たら緊張感が足りないと怒るのではないかと考え、ユーニスはくすっと笑った。
「なに? ユーニス、楽しそうだね。何か良いことがあったの?」
「……ええ、……たくさん」
「そう、良かったね」
 ユーニスはうつらうつらしながら、彼の言葉に小さく頷く。
 すると、そこへ不意にアトリエの扉が開く音がして、パタパタと小さな足音が近づいてくる。
 気配はユーニスのすぐ傍でとまった。
 当たり前のように腕を伸ばすと、互いの手が触れ合う。その手をそっと握ると、やわらかな頬が手の甲に押し当てられたのがわかった。
「母上、大丈夫…? ベッドでお休みする?」
 心配そうな声。
 もしかして、具合が悪そうに見えたのだろうか。
 ユーニスは眠気を振り払い、なんとか目を開けた。
「……平気よ、テオ。陽気がよくって、ついウトウトしてしまうだけなの」
「ほんとう?」
「えぇ、本当よ」
「無理をしたらだめだよ? 疲れたら僕を頼ってね。母上を抱っこしてベッドまで連れていくからね」
「まぁ、ありがとう」
 キラキラと輝く金色の大きな瞳。
 柔らかそうな薄茶の髪。
 ──リオンの幼い頃はこんなふうだったのかしら?
 想像しただけで笑みがこぼれてくる。
 リオンとテオ。
 髪の色が違うだけの、まるで生き写しのようによく似た二人。
 テオは三年前、リオンとユーニスとの間に授かった子だ。
 活発だがとても優しい性格で、最近はリオンを真似して自分がまだ出来そうもないことまでやろうとしてくれていた。
「テオ…ッ、メイが遊んでほしいって言ってるよ…っ!」
「え?」
 そのとき、リオンが唐突に声を上げる。
 ユーニスはテオと同時に彼に目を向けた。
 リオンは「ほら」と言いながら、窓辺を指差していた。
 メイというのは猫のことだ。
 昔、足を引きずっていたところをリオンに助けられ、以来アトリエに遊びに来るようになったのだが、そのメイは先ほどまで窓辺ですやすやと眠っていたはずだった。
「ね、ほら、メイが言ってる。今日はテオと遊びに来たのに姿を見せやしない。あー、暇だなーって…っ」
 そう言われて、ユーニスもテオと同じように窓辺に目を向ける。
 メイは眠たげにあくびをしてむくりと顔を上げると、「ニャー…」と小さく鳴いた。
「メイ、僕と遊びたいの?」
「……、……ニャー…」
「……父上。メイ、すごく眠そうだよ?」
「そ、そんなことないよ。ほら、メイおいで」
 リオンが声をかけると、途端にメイは耳をぴくつかせる。
 大きく伸びをしてからのそのそと近づき、彼の足に身体をこすりつけると、喉をくすぐられて至福の表情でゴロゴロと音を鳴らしていた。
「メイ、テオと遊ぶ? 遊びたいだろう?」
「……ニャー」
 リオンが問いかけると、メイは甘え声を上げながらテオに目を向けた。
 やがてメイは促されるようにテオのほうに向かう。撫でてほしいとばかりにふわふわの茶色い身体を押しつけ、テオの手をペロペロと舐め始めた。
「わぁ…、くすぐったい…っ」
「ね? 遊んでほしいって言ってる」
「父上、すごい…っ! どうして父上はいろんな動物とお話ができるの?」
「えっ? え…と、それは……、たぶん、小さなときからさまざまな動物と過ごすことが多かったからじゃないかな」
「なら僕もわかるようになる? 父上みたいになりたい……っ!」
「ん、なれるよ。きっと」
「……ッ! メイ、僕とたくさんお話ししよう! 僕のこと、お兄さまって呼んでもいいよ?」
「ニャー」
 テオはキラキラした目でメイに話しかける。
 実際にはメイのほうが年上なのだが、それなりに会話は成立しているらしく、テオとメイは仲良く窓辺で寄り添う。
 頭を撫でられて、うっとりしたメイにすり寄られてテオは嬉しそうに笑っている。その微笑ましい姿にユーニスはニコニコと笑っていた。
「あの……、ユーニス、隣…、座ってもいい?」
「え…? ええ、もちろん」
 リオンが不意に立ち上がり、小さな声で問いかけてきた。
 それまで彼は少し離れた場所からユーニスを描いていたのだが、テオが窓辺に行った途端、急にソワソワし始めた。不思議に思っていると、彼はなぜか恥ずかしそうに隣に座った。
「あのさ…」
「えぇ」
「……本当は、動物と会話できるわけじゃないんだ……。なんとなく、僕の言うことを向こうが理解してくれてるだけで……」
「そうだったんですね」
「ん…」
「でも、私の目には、あなたも彼らの気持ちを理解しているように見えますよ?」
「それは…、多少はわかる気はするけど……、さっきのはなんていうか……」
 リオンはそう言って、窓辺にチラッと目を移す。
 テオはメイと何やら楽しげに語り合っているようだ。
 それを見てリオンはさり気なくユーニスの手をとり、やや顔を赤くしてぽそっと呟いた。
「……君が頼るのは僕じゃないといやだ……」
「え…」
「あ…ッ、え…っと、その、違う。だってテオじゃ君を抱っこできないし…っ! 君をベッドまで運ぶのは僕の役目というか……っ」
 首を傾げると、リオンはハッとしてごまかすように言い繕う。
 その顔はますます赤くなっていく。
 ユーニスは次第に彼が何を思ってメイがテオと遊びたいと言い始めたのか、なんとなくわかった気がした。
 ──リオンったら、テオに焼きもちを……?
 もしかして、自分の役目を取られてしまうと焦ったのだろうか。
 テオはまだ三歳になったばかりなのに…と思い、ユーニスは彼の肩に寄りかかってクスクスと笑う。
 リオンは拗ねた顔でそっぽを向いたが、その横顔がかわいくてユーニスは思わず彼の頬にキスをした。
「……ッ! ……テ、テオに見られてしまうよ?」
「……だめですか?」
 リオンは目を泳がせて動揺している。
 それを見て囁くように問いかけると、彼は肩をびくつかせ、平静を装って首を横に振った。
「別に…ッ、だめじゃない」
「よかった」
「……っ」
 リオンは耳まで赤くしていた。
 彼のこういうところは何年経っても変わらない。
 けれど、それを無性に愛しく思ってしまう自分も同じなのだろう。
 ──私たち、出会った頃とそれほど変わってないのかも……。
 ユーニスは唇を綻ばせ、広い肩に頬を寄せる。
 もちろん、今日まで何事もなかったわけではない。
 テオが生まれたこともそうだが、今から三年半ほど前、リオンの両親が長年住み慣れたこの屋敷を出て行ったことも大きな出来事だった。
「……」
 不意にそのときのことを思い出し、ユーニスは密かに息をつく。
 当然ながら、それにはわけがある。
 リオンの父ブラウンは、マクレガー家の当主だった頃、かなり派手な生活を送っていたらしく、その散財ぶりに眉をひそめる者も多かったのだという。税を徴収するばかりで領主らしいことは何一つしなかったため、領民たちは不満を募らせていったようだった。
 リオンが跡を継ぎ、人々から慕われていく一方で、当主から退いてもなおブラウンを恨む者がおり、テオが生まれる少し前に暴漢に襲われて酷い怪我を負ってしまったのだ。
 犯人は間もなく捕まった。
 だが、その若い男は「おまえのせいで妹が死んだ」「俺たちから金を吸い上げていただけの役立たず」といった怨嗟の声を漏らしながら自害してしまった。
 その噂は見る間に広まり、人々の同情は犯人のほうへと寄せられた。ブラウンの足は襲われたときの後遺症でまともに動かなくなってしまったが、誰からも同情されることなく、それどころか、これまでつきあいのあった貴族からも自業自得だと囁かれる始末で、そのときになって彼は己に人望がないことを思い知ったようだった。以来、ブラウンは周囲の視線に怯えるようになり、妻のフローラと共に身を隠すように別邸に移ったのだ。
 それから、義父たちは滅多にこの屋敷には来なくなった。
 だからテオは義父たちのことをよく知らない。
 リオンも、彼らのことは関心がないようで話題にもしない。
 哀しいことだが、リオンには両親に対する情や、彼らと家族だという意識がほとんどないようだった。
 ブラウンが怪我を負ったとき、『父上が悪いのに……』と彼が呟いたのをユーニスは一度だけ耳にした。彼は家族である父よりも、犯人に同情していたのだ。
 リオンは幼い頃より家族から不遇な扱いを受けてきた。
 その年月があまりにも長すぎたのかもしれなかった。
「ユーニス? どうか…した?」
 そのとき、リオンが顔を覗き込んでくる。
 久しぶりに義父たちのことを思い出したからだろうか。
 暗い顔をしていたようで、心配をかけてしまったようだ。
「いえ…、なんでも……」
 ユーニスは首を横に振り、彼の手を握り返す。
 楽しい気分でいたのに、どうして今、こんなことを思い出したのだろう。
 その大きな手に頬を寄せ、ユーニスはリオンを見つめた。
「リオン…、お願いをしてもいいですか?」
「え? うん、なんでも」
「……ベッドに運んでくれますか? なんだかすごく眠くて……、少し休みたいんです」
「わ、わかった…っ」
 リオンは大きく頷き、ユーニスを抱き上げる。
 このままアトリエの奥にある寝室に運ぼうとしてくれているのだ。
「あ…、ごめんなさい。やっぱり、少しだけ待ってもらえますか?」
「え、…うん」
 だが、部屋の中ほどまで来たところで、ユーニスは声を上げた。
 リオンはすぐに立ち止まり、不思議そうな顔をしている。そんな彼を横目にユーニスはアトリエを振り返った。
 イーゼルに立てかけられたキャンバス。
 そこには先ほどまでリオンが描いていた自分がいた。
 けれど、彼が描いていたのは自分だけではない。
 膝の上ではテオが眠っていて、足下には猫のメイもいた。
 キラキラとした光の中で過ごす日常。
 彼と共に築いてきた、いつもの風景だった。
 それが、今のリオンが何よりも大切にしているものだということは、言葉にせずとも充分伝わってくる。
「ちょっとは上手になったかな……」
 ユーニスの視線が何を捉えているのか気づいたのだろう。
 リオンは遠慮がちに問いかけてくる。
 ユーニスは彼の首に腕を回し、その耳元でそっと囁いた。
「えぇ、とても」
「そう…かな」
「だって私、年々、あなたの絵が好きになっていくんです。テオも、あなたの絵が大好きなんですよ。あなたに直接言うのは恥ずかしいみたいで、いつも顔を真っ赤にして私にこっそり言うんです」
「……そ、…そうなんだ」
 ユーニスが答えると、リオンは照れくさそうに窓辺に目を向ける。
 テオはメイを膝にのせてこっくりこっくりと船を漕いでいた。
 大人しいと思ったら眠ってしまっていたようだ。
 かわいい寝顔に、リオンもユーニスも自然と笑みが零れた。
 二人ともしばしその光景を見つめていたが、程なくしてリオンはユーニスを抱えて寝室の扉を開ける。
 そのままベッドまで運ばれ、ユーニスはゆっくり横になった。
 腕を伸ばすと、リオンはすかさず手を握ってくれた。
「……あのさ」
「はい」
「お腹の子が生まれたら……、今度はその子も一緒の絵を描きたいと思ってるんだ」
「まぁ、それは楽しみですね」
「……ん」
 笑みを浮かべると、リオンはユーニスのお腹を見つめた。
 予定ではあと半月後。
 自分たちには二人目の子が産まれるのだ。
 最近やけに眠いのはそのためだろうか。いつもウトウトしているものだから、リオンやテオに心配をかけてしまっていた。
「楽しみにしていてくださいね。もうすぐですから」
「僕は君が無事ならそれでいい」
「大丈夫、私はずっとあなたの傍にいます。赤ちゃんも元気に産まれます」
「……そうだね」
 リオンは頷き、ふわりと微笑む。
 ユーニスも彼に笑いかけ、掴んだ手に少しだけ力を込めた。
 彼といると、自分はこんなにも幸せだ。
 胸が痛むこともあったけれど、笑顔でいられることのほうが遙かに多い日々だった。
 これからも、こうして共に歩いていくのだろう。
「……おやすみ、ユーニス……」
 優しい眼差しに安心しきって、徐々にユーニスの瞼が閉じていく。
 彼はずっと手を握ってくれていた。
 眠りに落ちたユーニスのお腹の傍で、歌を口ずさんでいたようだった。
 その歌を、ユーニスは夢の中で聞いていた。
 リオンはそれをどこで覚えたのだろう。
 それとも、即興で作ったものだろうか。
 もしかしたら、両親の愛を知らない彼が、自分たちを心より愛し、その想いが自然と出たものだったのかもしれない。
 とても穏やかで幸福な音色。
 彼の子守歌だった──。

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