ソーニャ文庫

歪んだ愛は美しい。

会員限定特典小説

その子の名前

 ドサリ、と音を立てて本が持ち主の手から滑り落ちた。
 本の持ち主は、目の前の妻をじっと見る。彼女は頬を染めて俯いていた。
「セルマ……。今、なんて……」
 ようやくそう尋ねると、妻のセルマは両手を自分の下腹部に当てて、先ほど夫に告げた言葉を繰り返した。
「……お医者さまがおっしゃいますには、お腹に子どもがいると……」
「子ども」
「あの、クリストファーさま……、ご心配をおかけして申し訳ありません……。病気ではなかったので、あの……」
 セルマは顔を下に向けたまま恥ずかしそうに続ける。夫クリストファーは、どのように声をかければいいのか分からずに困った。
 ここ数日、セルマは口に出しては言わなかったが、軽い不調を感じていたようだった。彼女が口元に手を当てて何かに耐えるような素振りを見せる度に、クリストファーは心配になって大丈夫かと尋ねた。セルマはなんでもないと繰り返していたのだが、今朝はベッドから体を起こすのも難儀な様子であったので、大丈夫だと言い張る妻の言葉を聞かず、使用人に医者を呼びに行かせた。クリストファーはやって来た医者から「診察中は立ち入りをご遠慮いただきます」と寝室を追い出されてしまう。彼は、不安を紛らわせることができず、かといって何もできることがないので、とにかく落ち着かねばと図書室に入っていたという次第だ。こういう日に限って、ケイヒルを使いで外に出している。悪い病気でなければいいがと不安ばかりが大きくなっていき、本の文字を読むことができない。
 そうこうしている内に、セルマが医者と一緒に図書室にやって来た。
 にこにことしている医者の隣で、セルマは恥ずかしそうに妊娠していると夫に告げたのである。クリストファーは持っていた本を床に落とした。
「おめでとうございます。エンゲイトさま」
 セルマを診た医者が頭を下げて祝福の言葉を言う。クリストファーは何を言われたのか分からず、ただ「ああ……」と答えることしかできなかった。医者は呆れたように苦笑し、妊婦の過ごし方について一方的に喋ると「それではわたくしはこれで」と図書室を去った。
 ふたりきりになった図書室で、夫妻は無言になってしまう。沈黙に耐え切れなくなったのか、セルマがクリストファーを恐る恐る呼んだ。
「あの、クリストファーさま……お怒りですか……?」
「え?」
 セルマは戸惑いの表情を見せる。そして、言いにくそうに言葉を続けた。
「……やはり、子どもは……お望みではなかったのかと……」
「そ……!」
 そんなはずがないではないか、と妻を叱ろうとしてクリストファーは自分の失敗に気づいた。セルマは夫が無言になったので、この妊娠を歓迎していないと思ったのだ。
「いや、すまない。驚いてしまって……。それより体の具合はどうなんだ」
 クリストファーは少し慌てたように本を拾い上げ、近くにあった椅子を引いて来ると、セルマを座らせながら尋ねる。セルマは椅子に腰を下ろし、にこりと微笑んだ。
「今朝、起きた時には少しつらかったのですが、もう大丈夫です」
「そうか」
 クリストファーは安堵の表情を浮かべた。セルマはまた自分の腹部に手を当てる。その手の奥に、自分の血を引いた命がいるのだと思うとクリストファーは、胸が締め付けられるような気持ちになった。なんと言えばいいのか分からない感覚だ。
 ――喜び……。
 その表現が最も相応しい気がする。セルマは穏やかな顔で自分の腹部を見ている。クリストファーは妻の肩に手を置いた。セルマが顔を上げると、ふたりの視線が優しく絡んだ。セルマが言う。
「クリストファーさま、お願いがあります」
「願い? なんだ。何か欲しいものがあるのか?」
 クリストファーはセルマから何かを求められることが嬉しい。妻は物欲とほぼ無縁であるようで、これまで彼に物をねだるということがなかったからだ。そんな妻の《お願い》に、彼はセルマの希望を聞く前から、なんでも手に入れてやるという返事を用意した。
 セルマは、笑みを深くして肩にのっているクリストファーの手に触れた。
「この子の名前を考えていただきたいのです」
 クリストファーは目を大きくして妻を見る。セルマはやはり笑顔で彼を見ていた。
「……名前?」
「はい。赤ちゃんの名前です」
 赤ちゃんの名前。予想もしていなかった《お願い》にクリストファーは眩暈を覚える。どうにか転倒を免れ、彼は妻に言った。
「俺は、人名に明るくない。《クリストファー》以外ならなんでもいい。お前が決めろ」
「駄目です。ケイヒルさんからも言われたのでしょう? 子どもができたら、ご自身と違う名前をつけてあげるようにって」
「……いや、そんなことを言われてもな。大体、男女どっちが生まれるんだ」
「分かりません」
 セルマは笑顔を崩さずクリストファーを見る。
「お願いします、クリストファーさま」
「……か、考えておく」
 そうは答えたが、クリストファーは激しく困惑した。
 ――子どもの名前なんて、何も思いつかないぞ……。
 クリストファーは、ふと本棚を見た。大量の本があり、その中には新しいものから古いものまで物語も多い。物語の中には登場人物がいる。登場人物には当然名前が付いている。
 ――そうだ、あの辺りから探せばいい。
 自分のひらめきに自分で感心して、彼はセルマを見た。
「考えておく」
 今度ははっきりと妻にそう告げる。セルマは幸せそうに深く笑んだ。
「いい名前をお願いします」
「いい名前……」
 クリストファーは、酷いプレッシャーを両肩に感じた。

 翌日から彼は、セルマが午睡に入ると紙とペンを持って図書室に籠るようになった。本棚から適当な本を取り出し、中にある人物名を片っ端から紙に書き取った。
 セルマが起きる時間になるとその紙をひきだしに仕舞う。必死に名前を漁っていることが、どうにも格好悪いような気がして隠したかったからだ。クリストファーは自分の想像力をもって、我が子の名を考えたのだとセルマに思って欲しかった。
「全く、馬鹿馬鹿しい見栄ですな。本から名前を取ったってセルマさまは気になさらないでしょうに」
 数日後、ひとりではたくさんの人名を拾えないと悟ったクリストファーはケイヒルにも本の中から名前を拾わせメモを取らせるようにしていた。
「うるさい。さっさと全部拾え。次はこの本を見ろよ」
「……はぁ」
 ケイヒルは呆れながらも主人の見栄に付き合い、三十年以上前に出された小説のページから、男性名、女性名を拾い、余さず紙に書いていく。
「本当に馬鹿馬鹿しい見栄ですな……」
 クリストファーの代理人は、何度も同じ言葉を繰り返した。
 そんなケイヒルだが、彼はセルマに対して「一日一回、二時間ほど昼寝をなさってください。旦那さまが父親としての見栄を張りたいようなので」とこっそり頼んでいる。その結果、セルマは眠たくない日の昼間も、二時間ベッドに入る毎日だった。夫がどんな名前を選んでくれるのか、楽しみにしながら。
 しかし、クリストファーはそれを知らない。

 セルマの腹部が出てきて、妊婦らしくなってきたころ。
 クリストファーはやはり妻の昼寝時間に図書室にいた。デスクの上には紙の束。
 彼はその束を前に腕を組み眉間にしわを寄せている。
「いかがなさいました、クリストファーさま。それで、この部屋にある本の中にある名前はほぼ書き出しましたよ」
 ケイヒルの問いにクリストファーはますます眉を寄せる。
「……決められない」
「はい?」
「多すぎて、どれがいいのか分からない。どれがエンゲイトという姓に合うのか……」
「気に入った名前でよろしいのでは」
「気に入った……?」
 ない。というか、名前というものに関心がなかったので、どれが良いのか分からない。そもそも、親が気に入る、気に入らないで子どもの名前を決めていいとは思えない。一生使う名前だ。そういえばセルマは「いい名前をお願いします」と言った。
「おい、ケイヒル。いい名前とはどういうものをいうんだ」
「……差し当たって、呼びやすく、書きやすい名前ではないでしょうか」
 呆れたように答えるケイヒルに、クリストファーはひとつ頷くと、目の前の紙をじっと見た。

 毎日の昼寝のあとのセルマは、とても機嫌がいいようにクリストファーには見える。それを彼は《疲れが取れたから》だと勝手に思っていた。
「長く眠ってしまってすみません。今日は何をしてお過ごしでしたか?」
 そう尋ねられると、クリストファーは「釣りに行っていた」と答えるのが常だった。セルマは「そうでしたか」と答え、やはり幸せそうに夫を見る。
 この日も、ゆったりとしたドレスの腹部に手を当て、彼女はまた微笑んだ。
「クリストファーさま」
「なんだ」
 セルマはクリストファーの手を取り、膨らんだ腹に手のひらを触れさせた。ドレスの布越しに、妻の体温を感じる。少しすると、その手のひらを押し返すような感覚があった。
「あ……動いた」
「最近、よく動くんですよ」
 ふふ、と笑いながらセルマは言った。
 手のひらに命の動きを感じる。クリストファーは息をのんだ。ここに、新しい家族がいる。過去の自分が憧れ、しかし手に入らないと諦めていたもの。
 クリストファーはセルマと一緒になって、それまで知らなかった多くの感情を知ることになった。この時もそうだ。
 胸の中に溢れる感情。その正体を彼は心の中で確かめる。
 ――愛しい……。
 そうだ。この命は、祝福されて生まれるべき命だ。《クリストファー・エンゲイト》ではない、完全なひとりの人として生きるべき命だ。
 ――これは。
 クリストファーは手のひらを妻の腹部につけながら考えた。
 ――半端な気持ちでは名前など選べないぞ。
 自分に課せられた責任の重さに、少しの間無言になってしまう。セルマが首を傾げた。
「クリストファーさま? どうなさいました?」
「……なんでもない」
 クリストファーの手のひらを、また胎児が蹴る。
 ――ああ、なんて……。
 彼は妻を見た。ここには、身の内に命を育む人がいる。神々しいまでに美しいと思った。
「セルマ」
「はい、クリストファーさま」
「体を大事にしろ。お前とこの子は、俺の……」
 ――宝だ。
 最後まで言葉にすることができず、クリストファーはそっとセルマの体を抱き寄せた。セルマの手が、彼の背中に回される。
「クリストファーさま……」
 妻を腕の中に抱きながら、彼は妻子の幸福のためにできることの全てをしようと改めて決意した。

 翌日からも、午後になるとクリストファー・エンゲイトは図書室で紙の束と格闘している。
「決まりましたか、クリストファーさま」
 ケイヒルが言った。
「いや、まだ決められない」
「……決めきれない内に生まれてしまいますよ?」
「分かっている。だが、決められないものは仕方がない。候補が多すぎるんだ」
 自分でこの量の名前を拾ってきたくせに、クリストファーは不機嫌に紙の束を指で弾きながら言った。
 実は、これがいいだろうと思った名前を男女ひとつずつ選んだのだが、彼はそれをセルマにもケイヒルにも告げられていない。センスがないと思われたらつらいからだ。
 結局彼はセルマが産気づくその日まで、一日二時間、紙の束とにらめっこをすることになった。


 時が流れ、ベッドの上には生まれたばかりの息子と、その子を抱いたセルマがいる。
 授乳を終えたセルマが夫を呼んだので、クリストファーは椅子から立ち上がり妻子に近づいた。我が子の小さな頭に手をのせ、妻の体調を気遣う。少し話をすると、セルマはクリストファーに尋ねた。
「それより、この子の名前、決めてくださいましたか?」
 父になったクリストファーは、選んだ名前を頭の中に思い浮かべた。口にしようとするが、自信が持てない。「考えていなかった」と答えると、セルマは困ったような顔をして夫に文句を言った。
 彼は、心の中で名前を繰り返す。
 ――いい名前だと言ってくれるだろうか……。
 不安に思いながら、その不安を誤魔化したくて、クリストファーは不機嫌を装い小さく告げた。
 そして、彼はセルマが心から幸せそうに笑むのを見る。
「とても、いい名前だわ……」
 その声を、彼は幸福の中で聞いた。

一覧へ戻る