過去と戒め
貴族の結婚は家と家の事業だ。愛する人と結ばれる──それがいかに困難か。
カートライト侯爵家嫡男、ロデリック・エメリー=ガーランドはそれを知っている。なぜなら彼は、わずか十歳のころより七年ものあいだ、たゆまぬ努力をし続けて、愛する人を伴侶にしたからだ。
公私にわたり、身を切るような問題が起きようとも、妻との日々を思えば幸せでいられる。彼にとって妻は最も重要で、彼女さえそばにいれば、あらゆる困難に立ち向かえたし、がんばれた。
たぐい稀な美貌と才能、秀でた頭脳を持つ彼は、その高貴な生まれから、社交界でも綺羅星の筆頭にあげられる。内からにじみ出る自信に満ちた風格は、目にする者を圧倒し、たとえ既婚者だとしても数多くの婦人をとりこにしてやまない。そのなかには絶世の美女ともてはやされる令嬢もいる。だが、彼はありとあらゆる秋波をはねのけて、よそ見をせずに、ただひとりを見つめている。それは決して揺らぐことはない。
いつ、いかなるときでも求めるのはただひとり。妻のリズベスだけだった。
目を閉じれば、すぐに眼裏に彼女があらわれる。
『ロディ、好きっ』
心を通わせてからというもの、リズベスは毎日せっせと作ったサシェを、彼の上着のポケットにぎゅうぎゅうにして入れてくれる。あまりに数が多いので、外套などにも分散させているが、大変うれしいものだった。時々『ロディを守るの』と、香炉を焚かれ、けむりのなかで倒れかけても、彼女のいじらしい想いが感じられるから耐えしのんでいられたし、うれしいことには変わりない。
リズベスは、毎日愛を伝えてくれるし、惜しみない愛をくれている。
甘えてこちらにぴとりとくっつき、頬ずりをして、やわらかな唇でくちづけてくれることもしばしばだ。
そして、彼女は何度も口にする。
『大好きなの。ロディ……愛してる』
薄い薔薇色に染まった艶やかな頬、鮮やかで、きらきらしている神秘的な緑の瞳。そして、ふるいつきたくなるぷっくりとした可憐な唇。
鮮明に思い出してはもうだめだ。ロデリックは、毎日家で会っているにもかかわらず、一秒でも早くリズベスに会いたくてたまらなくなってきた。もう外出などしていられない。いますぐこの溢れる愛を伝えなければ。
そんな、彼女と結婚して四か月が経とうとしているころだった。この日、何かが起きてしまうなど、彼は想定していないし気づいていない。彼はあまりにも幸せな日々にどっぷりつかりすぎていた。
完全無欠の貴公子たるロデリックは、すっかり油断し、失念していたのだ。彼の愛しの妻が、規格外の突飛な性格であることを。
ロディ、わたしね、ばかだった。愚かな娘でごめんなさい。思い出したの。あなたに愛人がいないいま、こうしてはいられないって。代わりに、新たに罰を受ける必要があるわ。だからね、何が一番わたしにとってつらいのかをしばらく考えてみたの。でね、わたし、思ったの。一番つらいのは、ロディと一緒にいられないこと。想像だけで、胸がはりさけてしまいそう。だからね、しばらく罰を受けるためにこのお屋敷を出ることにしたの。愛するロディと離れて、自分をうんとこらしめて、いましめてくるわ。きっと泣いてしまうけれど、それがわたしの罰なの。だから、しばらくさようなら。
離れていても大好きよ。
愛するロディへ。あなたの親愛なるリズベスより。
これは、ロデリック・エメリー=ガーランドが生まれて初めて愛する妻からもらった手紙だ。帰路を急ぐ途中で見かけた評判の店で、彼女の喜ぶ顔が見たくてファッジを買ってきたのに、肝心のリズベスはおらず、空っぽな部屋にはくだんの手紙のみが残されていた。
ロデリックは、その手紙の封を開ける前、彼女がかわいいいたずらを仕掛けているのだと考えた。手紙に謎をのこして、きっとどこかに隠れているのだろう。見つければ、ご褒美のキスをくれるはずだ。彼は初めての手紙に浮かれていた。ほほえみながら深読みするほどに。
そんなこんなで、ロデリックは頬を薄く染めながら、うれしそうにペーパーナイフで開封したのだが、くねくねとした特徴的な文字を追ううちに顔色を失い、やがて呆然と固まった。頭のなかが白くなる。
「何これ」
知らずにひとりごちたほどだった。
「……罰? 何の?」
彼は片手で両目を覆った。リズベスの考えはいつも彼の予想をはるかに超えていた。
どんなに頭を働かせても、リズベスの思考は謎だ。まったくもってわからない。──否。ただひとつだけ、彼にもわかることがある。それは彼女の行き先だ。
彼は深く息を吐いたあと、漆黒の髪をぐしゃりとかきあげた。
リズベスと一緒にいられないのは、間違いなく、彼女ではなく彼への大きすぎる罰となる。
衝撃的な手紙により、こらしめられるばかりか、いましめられたロデリックは、脱いだばかりの帽子と外套を再び身につけ、乗馬鞭を握りしめた。冬を含みつつある外気で冷えた身体は、手紙のせいでふつふつと燃えあがる。
ロデリックは、執事フランシスの問いかけもろくに聞かずに、勢いよく外へ飛び出した。
辺りは徐々に昼が色褪せ、夜が広がりをみせはじめていた。
黒馬を駆るロデリックは、確信のもと、ミルウッド子爵邸にたどり着いた。
ちょうど馬車を整備していた馬丁のジョンに出くわして、馬を預け、頑丈な樫のとびらにつく真鍮のノッカーを鋭く二回打ち鳴らす。
出迎えた老執事は歓迎してくれたが、子爵は一筋縄ではいかない人物だ。あやうく門前払いにされるところを、巧みな話術で切り抜けた。子爵は娘婿に対するいじわるを楽しんでいるふしがある。
「少々大人気ないのではありませんか」
帽子と外套を預け終えたロデリックが苛立ちを隠して言えば、子爵は眉をつり上げた。
「きみには前科があるからね。忘れてもらっては困るよ」
「覚えていますよ。『激怒』なのでしょう?」
「当然だね」
子爵は客間にロデリックを通すと、部屋を歩き回り、ろうそくの火を次々と灯していった。薄暗い部屋が、徐々に明るくなっていく。
「ロデリックくん、ここでしばらく待っていてくれないか。リズを連れてくるからね。ああ、飲み物がほしければ呼び鈴で申しつけてくれ。酒でよければ後ろの棚から適当に」
すんなり彼女を連れてくると言う子爵を意外に思う。彼はいぶかしみながら子爵を目で追いかけた。
その思いを感じ取ったのか、子爵は言葉を付け足した。
「リズの話を聞いてあげてほしい」
「もちろんです」
「そうでもしないと、あの子はあらゆる好物を拒否し、さほど好きでもないパンしか口にしないからね。自分へのいましめと言って、バターすらつけない。……ゆゆしき事態だ」
子爵とて、ロデリックにこんな話をしたいわけではないのだろう。心なしか不本意そうだ。
よくよく話を聞けば、リズベスは、「お父さまといると罰にならない」と言って、暖炉のない寒い屋根裏部屋に閉じこもってしまったとのことだった。
ロデリックは、子爵と顔を見合わせた。そして疑問を口にする。
「どうしてリズは罰を受けなければならないのでしょうか。彼女から聞いていますか」
「それがわからないんだよ。いくら聞いても言おうとしない。とにかくきみに関する罰らしい。きみも知らないのかい?」
「ええ」
ロデリックは口もとにこぶしをあてて思い出そうとしたけれど、まったく心当たりはなかった。いつだって、リズベスはひたすら愛らしく、いとおしい妻だった。
子爵にすら語らないなんて、よほどのことだ。その上、結婚前に毛布に包まっていた彼女のことを思えば、おいそれと屋根裏部屋から出てこないと断言できる。彼女がこの客間に来たがらないのは、火を見るよりも明らかだ。リズベスは、素直だとしても気難しく頑固な面を持っている。おそらくこれは父親ゆずりだ。
ロデリックは子爵に目をすべらせた。
「子爵、リズをこちらに連れてくる必要はありません。ぼくが向かいます。彼女のもとへ案内していただけますか」
「屋根裏部屋へ?」
腕を組み、しばらく思案した子爵は、渋々といったていで同意した。
「案内しよう。ああ、きみ。リズは罰を望んでいるが、くれぐれも厳しくしすぎないでくれ。あの子を傷つけるような真似をしたなら……わかっているね」
私が相手になる──。そう言わんばかりの鋭い視線に、ロデリックは深々とため息を落とした。
「見誤らないでください。ぼくは何よりも彼女が大切なんです。傷つける? ありえない」
傍目にみて犬猿の仲といえるふたりには、最大の共通点があった。彼らはもれなくリズベスに甘いのだ。
子爵はとびらを開けてロデリックをあごで促した。
「では行こうか。ついてきて」
燭台を持つ子爵のあとについて、古い裏階段をのぼりきれば、蔦とぶどうの模様が彫られたとびらの前に行き着いた。ロデリックは、振り向いた子爵に燭台を手渡され、続いて鍵も握らされた。リズベスは内から鍵をかけて閉じこもっているらしいのだ。
目配せをした後で去っていく子爵を見送ると、彼は早速指の背で、続けざまにとびらを二度ノックした。しばらく反応はなかったものの、耳をすませば「だめ」とたしなめる声がした。
「リズ、ぼくだよ」
「…………ロディ?」
困惑が感じられる、か細い声だった。
「どうして……ロディがいるの?」
「リズ、手紙を読んだよ」
静まるリズベスの反応を辛抱強く待つと、ようやく答えが返ってきた。
「……帰って。罰を受けるまでは、ひとりになるの」
「だめだよ。帰るときはきみと一緒。そうでなければ、ぼくは帰らないよ」
「だめ。ロディと一緒にいると罰にならないもの……自分をこらしめて、いましめるの」
ロデリックは「やさしく、やさしく」と己に言い聞かせた。彼はリズベスの手紙や言葉にまったく納得できずにいる。気を抜けば、厳しく問い詰めてしまうかもしれない。
「リズ、わかっているのかな。ぼくはね、きみを愛しているんだよ」
「わたしも……ロディを愛してる」
「ぼくのほうがきみを愛しているんだ」
「違う。わたしのほうがもっと」
ロデリックは、とびらに額をこつりとつけた。とびらごしの彼女が狂おしいほど愛しく感じられ、ほほえみを浮かべる。
「ねえリズ、ぼくたちは同じくらいの気持ちで愛し合っているんだね」
「ん。同じくらい……」
「それを前提に、少し考えてみて。きみは手紙に、ぼくと離れて自分をこらしめるって書いていたよね。でもね、それはきみだけじゃなくて、ぼくにとってもつらいんだ。ぼくたちは愛し合っているでしょう? きみに離れられてしまったぼくはどうなると思う? ぼくだってこらしめられるよ」
「でも……」
「きみは、ぼくに罰を与えたい? ぼくはリズと離れたくないよ」
だんまりを決めこむリズベスに、かまわず彼は続ける。
「どうしてきみは罰が必要なの? ぼくはきみの夫だから、一緒に解決したいと思う。……だめかな?」
その後、五分ほど返事をしないリズベスにじれて、ロデリックは意を決し、鍵を握りしめた。屋根裏部屋のとびらを密かに開錠する。
「リズ、入るね」
とびらをゆっくり開き、中を覗いた彼は、ひとつため息をこぼした。雑多な物が置かれた埃っぽい部屋に、短めのろうそくが一本だけ灯るなか、リズベスはすみっこで小さく縮こまっていた。寒かったのだろう、大きなトランクがふたつほど開けられ、そこから前世紀の分厚いビロードのドレスを三枚ほど引っ張り出して、毛布のように包まり、顔だけ出している。彼は、かつて快活だった彼女が、どうしてこんなに臆病になってしまったのだろうと疑問を深めた。
ロデリックが近づくと、彼女の肩はぴくりとはねた。その懐いていない猫のような態度に、胸がちくりと痛む。
「リズ、来て」
眉根を寄せた彼女の目はうるんでいる。
「ロディ……」
たちまちしずくが頬を伝った。
「ごめんなさい」
彼は燭台を古い棚に置き、両手を広げて彼女を迎え入れようと試みる。
「おいで」
動こうとしない彼女に言葉を重ねる。
「謝る必要はないんだよ。きみに触れたいからここに来て?」
リズベスはおずおずと立ち上がり、ゆっくりと彼に近づいて、その腕のなかに入ってきた。背中に手が回されたところで、彼は彼女を力強く抱きしめる。
「ありがとう。ね、リズ。どうしてきみはいま謝ったの?」
「……わたしのばかな行動で」
「ん? 小さくて聞こえないよ」
「わたし、ロディに罰を与えてしまうことになると思ったから……。ロディをこらしめたいわけじゃない……わたし、ばかだった。ごめんなさい」
彼は「ごめんなさい」をくり返すリズベスを抱え上げ、そのまま趣のある長椅子にぎしりと腰掛けた。
「もう謝らないで。『ごめん』よりも、愛の言葉を聞きたいな。ぼくはね、きみがどんなことをしても許すよ。その代わり、いままで以上にもっとぼくを好きになってほしいんだ。ぼくは欲張りだから、さらにきみと一緒に幸せになりたい」
「でも」と言いたげな緑の瞳を見つめながら、ロデリックは彼女のくちびるを指で押した。
「リズはわかってない。きみが仕出かすことはね、ぼくにとってかわいいだけなんだ。罰を受けようなんてしないで。そんな暇があるのなら、その分、ぼくのことだけを考えて。ぼくはね、自分でも呆れるほどにきみが好きだし愛しているんだ。……ねえ、キスしてくれる?」
こくんとうなずいたリズベスは、彼の頬を両手で包み、唇に唇を重ねてきた。彼はすかさず彼女の後頭部に手を回し、触れるだけのくちづけを深いものに変えていく。それは、ふたりが高まり、息が荒くなるまで続けられた。
ぎゅうぎゅうに抱きしめあえば、このままいつもの夜を迎えたくなってくる。彼は凶暴ともいえる欲望を無理やり払った。
「……は。リズ、幸せ」
「わたしも、幸せ」
「ねえ教えて。どうしてきみは、罰を受けようとしているの?」
桜色に頬を染めているリズベスは、ちゅっと彼に再びキスをしてから、首にしがみついてきた。
幸せに浸る彼だが、次第にぐすぐすと鼻をすする音がして、彼女の背を撫でる手を止めた。華奢な身体は震えている。
「リズ?」
濡れている彼女のまつげが彼の頬に当たった。
「ごめんなさい。百二十二通……」
「え?」
「手紙を……三年、出し続けてくれたのに。約束を守って、ロディは手紙を書いてくれたのに」
「ああ、そのこと? あれは」
彼は言葉を続けようとしたけれど、リズベスがまだ話し続けているため、言い止した。
「わたし……返事を書かなくてごめんなさい。ずっと、怖くて……なかったことに……してた。謝って済むことじゃないから……ロディは、返事がこなくてつらかったと思うから……だから、自分をこらしめて、いましめなくちゃ……罰を受けるべきだって、思うの。ごめんなさい」
「いいんだ。リズ、聞いて」
彼はリズベスの両目の涙を、唇でそれぞれ受け止めた。
「たしかに遊学中の三年間、手紙の返事が一通もこなくてつらかったよ。でもね、いまこうしてきみと結婚できているからどうでもいい。手紙の返事なんて些細な問題でしかないよ。罰を受けるべきだなんて思わないで。きみはぼくをこんなにも幸せにしてくれているんだから」
彼はリズベスの金茶色の髪をゆっくり撫でながら、段々と別のことが気になり出した。
「ねえ、きみはいま、『ずっと怖くて』って言ったよね。ぼくの手紙が怖かった? どうしてだろう?」
リズベスはゆるゆると顔を持ち上げ、すんと鼻を鳴らした。固く引き結んだ唇は、何も言うまいとしているようだ。
ロデリックはリズベスの涙をハンカチで拭いながら、思いをめぐらせた。
再会してからの彼女は、何かにつけひどく怯えていた。三年前から悪魔を怖がっていると子爵から聞いていたけれど、以前の彼女は好奇心旺盛で度胸があり、怯んだりなどしなかった。あまりに警戒心がないため、ロデリックが気を張らなければならなかったほどだ。それが一変、いまは香炉で悪魔を撃退しようとするほど、警戒心の塊と化している。
彼女の言葉を待っていたが、どれだけ待っても返事がない。彼は涙に濡れる瞳を窺った。
「リズは悪魔を怖がっていたよね。いまも怖い?」
「……怖いわ」
「ぼくが遊学に行く前のきみは、悪魔なんてひと言も言わなかったよね。いつからきみのもとに悪魔が出てきたの?」
「悪魔はいるわ。だって……」
しおれるリズベスの口もとに、彼は耳を近づけた。
「ほら、こうしてしまえば、悪魔には聞こえないから。怖がらないでぼくだけに教えて」
すると、リズベスはひとしきりまごまごしたあとで、彼を驚愕させたのだった。
「悪魔は……ロディを、悪魔に変えた。だから……怖い」
内心、「ぼくが悪魔? なぜ?」と信じられない思いでいっぱいのロデリックだったが、持ち前の強靭な精神力で心を見事に隠し、リズベスから悪魔に関する話を引き出した。断片的にしか語られなかったが、聡明な彼は頭を働かせて繋ぎ合わせ、リズベスが三年ものあいだ閉じこもった原因を導き出した。そうしてすべてを理解した途端、平静ではいられなくなった。鈍器で殴られたかのように茫然自失に陥った。なぜならリズベスとの最高ともいえる初めての夜が、彼女を奈落の底に突き落とす結果となっていたからだ。
彼女と離ればなれになっているあいだ、手紙の返事がなくとも、あのひとつになれた夜があったからこそ耐えられたし、己を奮い立たせることができた。彼女を自分のものだと、三年後に迎えにいくのだと強く思えたからこそ、困難な状況を不屈の精神で切り抜けられた。思い出をよすがにし、厄介な両親をも凌駕するほど知識と力を蓄えられたのだ。
目の前が真っ暗になったロデリックは、知らずと額に手を押し当てた。衝撃が大きすぎて何も考えることができない。「ごめん」などではすまないとんでもないことを仕出かした。
そんななかでも、彼は頭のなかである答えを導き出していた。あの夜の、すばらしいと思っていた行為は一方的なものだった。ひとりよがり──
とどのつまり、強姦だ。
思った途端に全身に痛みが走り、彼は顔をゆがめた。
「ロディ……?」
いきなり様子が変わってしまったロデリックに、リズベスはうろたえている。彼女は夫にぎゅうとしがみついた。
「どうしたの、ロディ」
「……リズ」
絞り出した声に嫌悪する。醜悪だ。彼は己がこの上なく汚らわしいと思った。それでも声を出し、彼女に言わねばならないことがある。
「罰を受けるのはきみじゃない……ぼくだ」
「どうして? 違うわ」
リズベスはロデリックの心の機微を敏感に察知したのかもしれない。必死な面持ちで首を振る。
「ロディは悪いことしてない。悪いのは、わたし」
「したんだ」
彼は弱々しく彼女の肩に手を置いた。上体を離して見つめ合う。
「したんだよ。ぼくは三年前、初めて結ばれた夜……浅ましくも行為のあいだ中、生きていてよかっただなんて思っていたんだ。ぼくは愚かだ。大切なきみを無視して、きみを気遣わず、自分のことばかり……。ぼくは悪魔だ。ぼくのしたことは許されない。あれはただの強…」
「ロディ!」
いきなりリズベスに抱き寄せられて、唇が塞がれた。ぎこちない、しかし、やさしいくちづけだ。何度も、何度も押し当てられる。
その熱が彼を揺さぶった。
「わたし、ロディが好き。大好きっ。愛してる!」
「でも、リズ。ぼくは…」
「でもじゃない。でもは禁止っ」
「あのね」
「あのねじゃない!」
先を言わせてもらえない。
頬を膨らませて、ことごとく言葉を遮ってくるリズベスに、どこか救われるような気がした。
「ぼくは……きみにどう償えばいい?」
「ロディ!」
「それでもぼくは──」
ロデリックはリズベスの肩に顎を乗せ、黒いまつげを伏せた。そのとき目からこぼれたものは、彼女の肩に染みを作った。
「ごめん。それでもきみの夫でいたいんだ」
「当たり前だわ。わたしの夫はロディだけ!」
「ごめん。……ごめんね」
リズベスはすうと息を吸いこんだ。
「謝らないでっ。わたし、『ごめん』よりも、愛の言葉を聞きたい。わたし、ロディがどんなことをしても許すわ。その代わり、もっとわたしを好きになって。わたし、欲張りだもの……」
それは、ロデリックが先ほどリズベスに告げた言葉だ。
「リズ……」
「ロディは悪いことなんてしてない。わたしを幸せにしてくれているだけだもの。いっぱい、幸せをくれているだけ。わたし、欲張りなの。もっとロディに愛してほしいから、毎日おまじないもたくさんしているし、サシェにもいっぱいお願いごとを詰めているの。わたし、ロディにもっと好きになってもらって、いつまでも、一緒に幸せでいたい」
「リズ、ぼくを許してくれるの?」
リズベスは力強くうんとうなずき、彼の額に、額をこつんと合わせてきた。
「ロディ。あのね、わたし、ロディが大好きだし愛しているし、ずっと一緒にいたいの。わかった?」
「……うん」
「いちじくの葉だって前は怖かったけれど、いまは好きなの。大好き」
「ぼくが怖くないの?」
「怖くない。愛しているから」
「ぼくもきみを愛してる」
「ロディ、して?」
ロデリックは銀の眼を見開いた。
「…………え?」
「ここ……」
彼女が指差すのは自身の胸だ。彼は戸惑いをあらわにした。
「でも……」
「でもは禁止っ」
「待って、リズ」
「ロディはこれを、愛を伝え合う行為だと言ったわ」
「そうだけど」
何を思ったのか、リズベスは胸もとに手を当てて、生地をぐいっとずり下げた。すると、可憐な突起がつく胸がつんとまろびでる。
「……リズ」
「わたし、愛しているから伝え合いたい」
上体を持ち上げたリズベスは、ちょうど彼の唇の位置に、自身の胸の頂を近づけた。陰影がひどく艶かしい。
過去の真実を知り、どんなに深く気落ちしていても、彼女を愛してやまない彼はリズベスの誘惑にはかなわない。絶対に。だって、彼女は彼のすべてだ。
ロデリックは彼女のほっそりとした腰に手を置き、むきだしの胸に頬ずりをした。
「いいの? 愛しても」
「ん。ロディ、いっぱい愛して……」
リズベスは、りんごのように真っ赤になっている。おそらく、彼を誘うのは相当な勇気が必要だったはずだ。
いつだって彼女は予想外の行動で彼を動揺させるし、振り回す。そして、図らずとも彼をひどく夢中にさせる。そんな彼女にどれほど救われてきただろう。ロデリックは、幼少期の彼女を導いていたけれど、その実、彼も導かれた。それを知るのは彼だけだ。
「リズ……」
どちらからともなく、若い夫婦は唇を合わせた。飽きることなく、何度でも。
「ロディ、幸せ」
「ぼくもだよ。幸せ」
彼はひそかに、先ほど三年前の事実を知ったときから、己に当面の禁欲を課していた。が、その決意はわずか十分もしないうちに脆くも崩れ去る。
「愛してる」
ほどなく埃にまみれた屋根裏部屋は、熱くて甘いささやきと、淫靡な音で満たされた。
書斎にて、書類に裁可のサインをしていた子爵は、あらわれた娘と婿を見るなり、さわやかな笑みを向けたが、決して目は笑っていなかった。火照りを隠しきれないふたりが何をしていたのかなど、お見通しと言わんばかりの鋭い視線だ。
子爵はリズベスにやさしく接したあと、続いてロデリックをあごでくいと呼び寄せた。案の定、冷ややかな眼光を放ちながら対峙し、それを彼は飄々と受け止める。
「ずいぶん遅かったじゃないか」
「……そうですね」
ロデリックは、物怖じしない性格だが、いまばかりは逆らおうとは思わなかった。そればかりか、子爵がリズベスをこの世に生み出してくれたことに、感謝したい気分だった。
「きみ、いい度胸だね。私に殺されたいのかな」
声はロデリック以外には聞こえないようにひそめられている。よって、彼も子爵にならって声をひそめた。
「待ってください、ぼくとリズは夫婦ですよ」
「だからといって、うちで……しかも、屋根裏部屋? 頭が痛む。イーニッドと私の最高傑作でもある大切なリズを、けだものに手込めにされる気持ちといったら、きみにははかりしれないものがあるのだよ。きみには親の気持ちなどわからないと思うが」
「それは謝りますが」
「結婚前に約束を交わしておくべきだった」
ロデリックが思わず鼻先を上げると、子爵はこちらをにらみながら付け足した。
「三年間、行為は禁止だとね」
「ぼくが二十歳になるまで禁止ですか? 冗談でしょう?」
ぞんざいに上着からスナッフボックスを取り出した子爵は、荒々しく嗅ぎたばこをつまんで鼻腔に近づけた。
「……ふん。言っておくが、私はきみに腹を立てている」
「知っていますよ。『激怒』なのでしょう?」
「当然だ。今日の一件でますます激怒だね。いますぐにでもきみをつまみ出したいくらいだ」
部屋の片隅で、剣呑にふたりの会話は進んでいたのだが、リズベスがとことこ近づいてくれば、打って変わって彼らは穏やかな笑みを浮かべ、貴族らしく何事もなかったように振る舞った。傍目から見れば和やかな談笑だ。
リズベスがロデリックの腕に手をかけ、巻きつけたときに、子爵は近くにある呼び鈴を鳴らした。
「お父さま、ロディと何を話していたの?」
「ああ、いかにきみがいいこでかわいいかを話していたんだよ」
目をまるくしたリズベスは、頬を染めてうつむいた。もじもじとロデリックの上着の裾をいじくる。
「リズは世界で一番素敵な女の子だからね。私たちの意見は当然一致したよ。──ね、ロデリックくん」
子爵から話を振られた彼は、優雅にあとを引き取った。
「もちろんです。……リズ、侯爵邸でのきみの様子を話したよ。リズは子爵の自慢の娘だけれど、ぼくの自慢の妻でもあるんだ。誇らしいよ」
「ああ、そうだ。こんなに誇らしい娘の父親になれて私は最高に幸せだね。……ところでリズ、きみはこの屋敷を訪ねて来たときには、ずいぶん落ちこんでいてキスをくれなかったね。見たところ、問題は解決したようだ」
嫌な予感がしてロデリックは子爵をにらむが、彼は気に留めずに娘に手を差し出した。リズベスはぱっとロデリックから離れて父の手に手を重ねる。
「改めておかえり。私にキスをくれるね?」
「もちろんよ、お父さま」
目の前で父娘の仲睦まじい挨拶のキスを見せつけられたロデリックは、額に手を押し当てた。日々こっそりと、リズベスが親離れするように働きかけているが、まったく効果がみられない。言わずもがな、子爵も子離れしていない。
そのときノックの音がした。子爵が「入れ」と声をあげれば、老執事が入室する。
ロデリックは、リズベスが老執事が運んできたファッジをつまみに向かったすきに、子爵に小声で抗議した。
「あなたこそいい度胸ですよね。夫のぼくの前でキスとは」
「何も聞こえないね。父親に嫉妬とは大変見苦しい行為だよ、きみ」
ふたりはじっと見合っていたが、リズベスが戻ってきたところで緊張を解いた。
「きみたち、ディナーの支度が整ったようだ。そのまえに……アーウェル、至急シャンペンを用意してくれないか」
「かしこまりました」と告げる老執事に、子爵は「アーウェル、きみの分もね」と言い添えた。
ロデリックがわずかに首を傾げれば、子爵は唇の端を綺麗に上げる。
「仕方がないじゃないか。私はきみたちの結婚が決まった際に、シャンペンを放棄したからね。心残りだったのだよ」
発言後、すぐに子爵は「ほんの少しだけね」と訂正した。
「ロデリックくん、そんな感激とでも言いたげな顔をして、勘違いしないでもらえるかな。リズがここに帰りたいと言えば受け入れるし、受け入れたが最後、私はきみを鮮やかに門前払いにするよ。ことごとくね」
ロデリックはリズベスの手を握りながら、得意げに顎を持ち上げた。
「あなたはぼくたちの仲をよくご存知ないようですね。一生その日は来ないですよ」
「わからないよ、きみは多感な十七歳だからね。しかも夜会では、みつばちたちを夢中にさせる花のごとく、令嬢たちを集めているじゃないか。この先、愛人を囲わないとは言い切れない。私はリズをその他大勢に貶めるのは許さないからね」
あまりの言いぶりに抗議しようとすると、リズベスが心配そうにロデリックを振り仰ぐ。
「…………ロディ…………愛人なの?」
「待って、そんなわけないじゃないか! ぼくはきみを愛している。心から」
彼は、ぎっと子爵をにらみつける。だが、当の子爵は悪びれもせず、ロデリックの眼光などどこ吹く風だ。
「子爵、あなたがへんなことを言うから……見てください。リズが」
不安に駆られているのだろう、リズベスはしょんぼりしている。
「おや、シャンペンが来たようだ」
「子爵!」
子爵は、「誤解を解いてください!」と言い募る彼を、年長者の余裕をみせて軽々あしらった。
「きみがやましい動きをするからだ。わたしのせいにされては困る」
「やましい動きだなんて、ぼくがいつ……」
「胸に手を当てて聞いてみるんだね」
「そんな言い方をしては、余計にぼくが怪しくなるじゃないですか!」
そこで、ますます意気消沈するリズベスに気づいたロデリックは、慌てて彼女の肩を抱き寄せた。
「違うよ! 違うからね、リズ。ぼくを信じて。ぼくはきみだけを愛しているんだ」
「ロデリックくん、不測の事態やありとあらゆる波風をものともしないことこそ紳士というものだ。よく覚えておくといい」
「あなたというひとは……」
ふたりがじりじりと目を合わせて無言の言い合いをしているあいだに、銀色のトレイにシャンペンを乗せた老執事は、全員にグラスを配り、最後に自らもグラスを手に持った。
「整ったね」
子爵はすうと息を吸いこんだ。
「──では、少々遅れてしまったが」
子爵がシャンペンを上に掲げると、一同、ならってグラスを持ち上げた。リズベスも、ロデリックに支えられながら小さく掲げる。
「ロデリックくんとリズ、ふたりの前途を祝って。いついかなるときも、私はきみたちの幸せを願おう」
子爵と執事がぐっと飲み干すなか、与えられた祝福に、ロデリックとリズベスはどちらともなく顔を見合わせた。そこには、彼が大好きな花もほころぶ彼女の笑みがある。
「ロディ」
「ん?」
可憐な唇が言葉をつむぐ。
「あのね、わたしね、ずっとずっと、あなたを一生愛するわ」
やはり、いつだって自分をこの上なく幸せにしてくれるのはリズベスだ。十歳のころより大切な宝物。日を重ねるごとに彼女のことが好きになる。
「リズ……ぼくもだよ。ぼくは、この先もずっと、一生、きみを愛し続けるよ」
ロデリックはにじんでくる涙をこらえ、うっとりと、それは幸せそうに笑った。