牽牛の物思い
七夕を数日後に控え、知澄は悩んでいた。
昨年までの知澄はこの祭りを特に意識したことがなかった。伝説の恋人たちの会合を祝うなど、女子どもしか喜ばない浮かれた騒ぎだと、いささか冷ややかな目で見てさえいたのだ。
だが、今年は違う。
彼には、牽牛と織姫のように会えぬ時を経て、再び見(まみ)え、思いがけず結ばれた愛しい妻がいた。彼女は知澄に可愛い男の子まで与えてくれたのだが、無欲なことこの上なく、欲しいものひとつ口に出すことをしなかった。
その妻に、七夕の祝いにかこつけて何か贈り物をしたいと考えているのだが、一向に妙案が思い浮かばない。あわよくば、贈り物を手渡すついでに、ほんの僅かでもふたりきりで過ごす時間があればよいと思うのだが。
そう思い立ち、最初に助言を仰いだ相手は父だった。
妻が喜ぶ贈り物とは何か、と知澄が尋ねたところ、父は迷うことなくこう答えた。
「武家の妻を喜ばせるなど簡単なこと。夫たるそなたが武功を立てるのだ」
「板東と和平を結んだ今、武功を立てたくとも戦は当分ありませぬ」
知澄がそう言い返すと、父は嬉しそうに笑った。
「おお、そうであった。だがそれが何よりではないか。そなたも妻子を持ったからには、一日でも長く妻子と民が心安らかに過ごせるよう励めよ」
うまいこと言いくるめられたような気になりながら、知澄は頷いた。
次に意見を求めた相手は、芹の父である伴内だった。
知澄は、季節の挨拶にという名目で孫の顔を見に来ていた伴内を呼び止めた。
「何か、あれが喜んでくれる贈り物がないだろうか」
「あの娘は赤子の世話に明け暮れて疲れているでしょうから、しばしの休養を与えては? 春千代様とともに、我が家にほんの十日ばかり宿下がりでもすれば、ゆるりと過ごせると思うのですが」
その返答は至極まっとうなものだったが、孫と娘に里帰りをさせたい伴内の下心が明らかに透けて見えていた。
知澄は少し釈然としない気がしつつも、「検討する」と頷いて見せた。
次に相談を持ちかけた相手は、鹿毛山城の普請役だった。
知澄は、自身の守役の弟であるこの男を春千代の守役に任じている。子の誕生より前から芹とも交流の深い男である。
「そうですなあ、つつましいお方ですから、仰々しい贈り物でなくともよいのではないでしょうか」
男が芹の性格を言い当てたことに知澄は素直に頷き、続きを促した。
「例えば?」
「そう、若君様が手ずからお摘みになった花とか……」
普請役は腕組みをして考え込みはじめた。
「ただ、お優しい方ですから、むやみに花を手折ってもおかわいそうと思われるやも。ここは、ご一緒に花を愛でに行かれるのもよいかも。いや、これからの季節なら蛍もよいかも」
波に揺れる船のように、普請役の意見は固まらない。
「川まで行かれるならばいっそ、宵闇の中で灯籠を流してみるのも風流かも。いやいや、もっと……」
無骨な見た目に似合わぬ詩的な提案はいつまでも止まらなそうだった。
知澄は、もう十分、と礼を言ってその場を離れた。
次に知恵を借りようとした相手は、老女の鶴だった。芹の亡き実母の側に長くおり、今は芹の最も近くに仕えている。
「ありきたりなことしか言えず申し訳ございませんが、女人への贈り物といえばやはり美しい反物かと……」
鶴はいつもの能面のような顔のまま、頬に手を当てて首を傾けた。
「奥方様は、鹿毛山では厨仕事や春千代様のお世話で活発に働いておられますが、ひとたび青佐目に赴かれれば、奥の諸事を淑やかに粛々とこなされています。いわばふたつのお顔を持っておられますゆえ、お着物も時々に応じてお召し替えなさいます」
「着物ならば、伴内が輿入れ道具に山のように詰めてきたのではなかったか」
知澄が言ったとおり、伴内は、娘の嫁入りに際し、日に三度着替えたとしてもしばらくは袖すら通せないほどの打掛けや小袖を用意していた。その行為には、婚家で不自由なく暮らせるようにとの親心と、嫁ぎ先で周囲に侮られることのないように実家の財力を示すという牽制の意図があった。
「確かに、さようでございました」
鶴は一瞬で困り顔になった。
「奥方様はもう当分は新しい着物はいらないとおっしゃっているのですが、伴内様が何かにつけ新しい反物を手に入れてこられて、仕立てが追いつかないのです」
知澄は鶴の愚痴を聞きながら、贈り物とは別にお針子を増やしてやろうと思うのだった。
次の人物には、藁にも縋る思いでこれまでの経過を打ち明け、教えを乞うた。
栄庵は、知澄の話を聞いたあと朗らかに笑った。
「実はこの爺には心当たりがございます」
「なに、本当か」
知澄は初めての手応えに思わず身を乗り出すが、白髭の好々爺は穏やかに笑うだけだ。
「儂の口から聞くよりも、直に奥方様にお尋ねになるがよろしゅうございましょう」
そう言い残し、栄庵は足取り軽やかに知澄の前を辞去していった。
芹の欲するものとは何なのか。
夕方、知澄は頭を抱えつつ、芹がいるはずの春千代の部屋へ足を向けた。
そこにいたのは、眠る春千代と子守の女だけ。
芹は子が夕寝をしている間にと、湯浴みに行っているらしい。
知澄は息子の布団の隣に腰を下ろし、妻を待つことにした。
生まれてまだ二月ほどの赤ん坊は、父の懊悩など知らぬげにすやすやと眠っている。
知澄はその柔らかい頬を指先でつつき、囁くように話しかける。
「おまえは、母上の欲しいものを知っていたか……?」
幼子に弱音を吐く自分が何とも不甲斐なく思えて、知澄はため息をついた。
「――若君さま?」
澄んだ声が側から聞こえ、知澄ははっと顔を上げた。
いつの間にか、芹が湯殿から戻ってきていたらしい。湯上がりの肌はほんのりと桃色に染まり、半乾きの黒髪が額にかかっているのも艶めいて見える。子を産んだばかりとは思えないほど初々しく、透明感があった。
芹は知澄の隣に寄り添って座り、春千代の頭をそっと撫でる。
「急にどうなさったのですか? 今日は、栄庵先生とお会いになっていたと聞きましたが……」
「そのことだが」
知澄が改まった調子で切り出すと、芹は微かに小首を傾げた。
「おまえには、何か欲しいものがあるのではないか? 何でも取り寄せてやろう」
「えっ……?」
「栄庵から聞いたのだ。遠慮などするな、何でも言ってみるがいい」
芹は大きく目を見開き、言葉に詰まった様子を見せた。
「それは……」
「おまえは私の妻としての勤めも、春千代の世話もよくやってくれている。その、礼というのは大げさだが」
言いながら、知澄の胸に不安が過ぎる。ひょっとして、芹の欲しいものとは、自分には与えてやれないものなのではないか。
「私では手に入れられぬものか?」
「いいえ、いいえ。決して、そんなことはないのです」
「では何だ。栄庵には話せて、私には言えぬか」
知澄が言うと、芹は一瞬だけ息を詰めた。視線を春千代に向け、俯く。
「いいえ、むしろ、若君さまにお願いするしかないと言うか……」
「うん?」
「……その……、先生にお話ししたのは……」
芹は遠慮がちに口を開いた。
「わたしは、両親の間のひとりきりの子でしたので、兄弟がいたらどんなに楽しいだろうと小さな頃に思ったことがあって……」
話は知澄が思いもかけないところから始まっている。
「それに、もうここにはいない子のことを思い出して、できることならあの子と春千代に弟や妹をたくさん作ってあげたいと思って、栄庵先生にお尋ねしたのです。その、いつから……」
芹は頬と耳を茹だったように真っ赤に染める。
「いつから、その、若君さまと、――……してもよいかと……」
小さな唇が消え入るような声で紡いだのは、『同衾』という言葉。
今度は知澄が息を止める番だった。
数瞬の後にその意味が理解できたとき、妻がたまらなくいじらしく、愛らしく思えた。
「それで、栄庵は何と言った?」
「子は月のものが戻らなければ授からないから、しばらく先だと。ただ、わたしの身体はもうすっかり健やかなので……、その……」
芹は長い睫毛を伏せたまま答えなかった。
「同衾はしてもよいのだな」
沈黙は何より雄弁な答えだった。
知澄には、芹が拒みようもなかったかつての一方的な関係を、彼女が今でも怖れ、嫌っているのではないかという心配があった。妻が望んでくれるようになるまで待たねばならないと覚悟したこともあった。
「――おまえは、子を授かるためでなければ、閨のことに意味がないと思うか? 例えば、私がおまえに触れたいと言ったら、いやか?」
知澄は、そっと問いかける。
もしも芹が許してくれるときが来たならば、真綿でくるむように、壊れ物に触れるように、愛おしみたいと思っていた。これまでできなかったことをしたいと。
長い沈黙のあと、芹が微かに首を振った。
「……いいえ……、きっと、嬉しいと思います」
知澄は深く嘆息する。愛おしさが溢れるままに手を伸ばし、妻の肩に触れた。
驚いたように顔を上げた芹と視線が交わる。柔らかなその唇を奪いつつ、華奢な身体を掬うように抱き上げた。
「若君さま……っ」
「今すぐ抱きたい。春千代のことは、しばし人に任せよう」
知澄は困り顔の芹を抱く腕に力を込め、真っ直ぐに寝所に向かう。
七夕を前にした牽牛だって、今の自分ほどには浮かれてはいないだろう。
年長者たちから受けた数多の助言を行動に移すのは、とりあえずは明日以降にするつもりだ。全てを叶えたとしても、妻に愛と感謝を伝えるには足りないほどなのだが。