旦那様の愛玩
──ここ数日、ティナは寝不足が続いていた。
もうすぐオリヴィエの誕生日だと聞き、何か手作りのものを贈りたいと思って彼に内緒でこっそり準備しているからだった。
「……あ、なんだか形が変だわ。どうしてこうなってしまうの?」
しかし、悪戦苦闘すること五日間。
日中、彼がいないときを見計らって寝室に籠もってはこそこそと試行錯誤を繰り返してきたものの、はっきり言ってほとんど進んでいない。
侍女のナターシャに頼み込んで教えてもらったマフラーの編み方。
やり方を忘れないようにと、一言一句、すべてをメモに残して書いたとおりに編んでいるというのに、何度やり直しても不格好なまでに曲がってしまうのだ。
「どうしよう……。このままだと間に合わないわ」
彼の誕生日まであと二日しかない。
ぐにゃりと曲がった編みかけのマフラーを膝に置き、ティナは大きなため息をついた。
──一体何が悪いの……? ナターシャさんはあんなに簡単そうに編んでいたのに……。
ティナに教えながら器用に編むナターシャの動きを思い浮かべ、さらに深いため息をつき、今さらながら自分の不器用さを痛感する。
こんなことなら、違うものにしておけばよかった。
初心者が一週間で仕上げるのは難しいのではとナターシャは言ってくれたのに、彼の喜ぶ顔が見たいという気持ちが先走って、なんとかなるだろうと甘く考えていたのだ。
「──ティナ? 寝室にいるのか?」
「……っ!」
そのとき、扉の向こうから自分を呼ぶ声がした。
オリヴィエだ。
窓の外を見れば、すでに陽が傾きかけている。
今日は人と会う約束があって夕方まで戻らないと言っていたから、時間があると思ってのんびりしてしまったみたいだ。
ティナは編みかけのマフラーを籠に入れてベッドの下に隠し、急いで寝室を出ようとした。
「あ…ッ」
ドアノブに手を伸ばした途端に扉が開き、オリヴィエが目の前に現れる。
「あぁ、ティナ。やっぱりこっちにいたのか。どうかしたの? 体調が悪い?」
ティナは挙動不審に目を泳がせ、ふるふると首を横に振ってぎこちない笑みを浮かべた。
「いっ、いえ、なんでも……っ。その……、部屋の空気を入れ換えようかと……」
「空気?」
「はい、……あ、あの…、おかえりなさい……」
「……ただいま」
その場で考えたティナの誤魔化しを、オリヴィエはどこか観察するような眼差しで見ている。
だが、彼はそれ以上は何も聞かない。
窓のほうに目を向けて、寝室をぐるりと見回しながら「そう…」と呟き、フロックコートのボタンに手をかけた。
「あっ、手伝います…っ!」
「あぁ、うん」
オリヴィエの動きにティナはハッとして声を上げる。
彼は思いだした様子で頷くと、外しかけのボタンをそのままに自身の手をコートから放した。
少しでも彼の役に立ちたいと思って、三か月ほど前からティナはこうしてオリヴィエの着替えの手伝いをするようになった。
それなのに、何度繰り返してもなかなか手際よく脱がせられず、毎回もたついてしまう。
「……え、と。……次は……」
フロックコートのボタンをなんとか外し終えると、ティナはふぅ…と息をつき、続けてジャケットのボタンに手をかける。
オリヴィエはその間、ティナをじっと見つめていた。
そんなふうに見られると、ドキドキしてよけいに動きが硬くなってしまう。
ティナは彼の視線に頬を紅潮させ、たどたどしい手つきでジャケットのボタンを外していった。
「ねぇ、ティナ。今日は僕が出かけている間、どんなことをしていたの?」
「えっ!? ……えっと……、あっ、本を読んだりしていました…っ」
「それだけ? 他には?」
「他…? 他は……、……」
問いかけられ、ティナは視線を彷徨わせる。
「……他に…は……」
実際は違うことをしていたから、聞かれてもすぐには思いつかない。
それに、やましいことは何もしていなくとも、オリヴィエに嘘をついていると思うと、次第に罪悪感で胸の奥がズキズキと痛みだす。
初めはしどろもどろになりながらも誤魔化そうとしていたティナだったが、途中から言葉を継げなくなってしまった。
「ティナ、向こうで話そうか……」
「ん…っ」
俯いて彼のジャケットを握り締めていると、耳元で囁かれる。
熱い息が耳にかかり、ティナは思わず小さな声を上げた。
オリヴィエはくすっと笑い、ティナの手を取ってベッドに向かう。
帰ってきたばかりなのに…と、その先の行為を想像してドキドキしていると、彼はベッドに腰掛け、いつものようにティナを自分の膝にのせた。
「一人で寂しくなかった?」
「それは……、あ、でも、ナターシャさんがときどき様子を見に来てくれたので……」
「そう、僕は早くティナに会いたかったけれどね」
「ほ、本当ですか?」
「当然だろう? 君と結婚してまだ三か月しか経っていないんだ。できることなら一日中こうして抱きしめていたいと思っているよ」
「あ…ッん」
「ふふ、かわいい声。少し触れただけなのに、ずいぶん敏感になってしまったね」
「や…、オリヴィエさま……ッ」
腰を引き寄せられ、彼の指先が脇腹に触れる。
それだけでティナは甘い声を出してしまい、それを指摘されて顔を真っ赤にしながらオリヴィエの胸に顔を埋めた。
──君と結婚してまだ三か月。
オリヴィエの口から出た言葉に、胸がきゅうっと締め付けられる。
なんだか、いまだに夢の中を歩いているようだ。
四か月ほど前、彼は確かにティナに結婚しようと言ってくれたが、こんなにも早く事が進むとは思ってもいなかった。
思い返してみても、こうと決めてからの彼の行動は驚くほど早かった。
義父のケビンや母ローズに自分たちの関係を正式に打ち明け、それから数日も経たないうちに近しい親類に結婚の報告をし、さらに一週間後、ティナたちは身内だけの小さな式を挙げていた。
当然ながら、オリヴィエの相手が義妹と知った周囲の驚きはかなりのものだったようだ。
ティナはあとで知ったが、オリヴィエに結婚を考え直すようにと、彼の親戚たちが何人もの女性を紹介しにサーペント家の屋敷に押しかける一幕があったという。
しかし、オリヴィエはそれらすべてを突っぱね、自分は好きな女性としか結婚するつもりはないと言ってティナを選んでくれたのだ。
──それを見ていたナターシャさんは、そのときのオリヴィエさまは惚れ惚れするほど素敵だったと言っていたけれど……。
ティナは彼のジャケットを握り締め、さらに深く胸に顔を埋める。
ほのかに香るオリヴィエの匂いに胸が高鳴るのを感じながら、同時に罪悪感も覚えた。
誰が見てもオリヴィエと自分は釣り合っていない。
それなのに、彼のような人を独り占めしてしまった。
少しでも何かできることはないかと思って着替えを手伝ったり、紅茶を淹れてみたり、部屋に飾る花を育ててみたりと、考えつくことはあれこれやっているものの、どれもこれも上手くこなせていない。
オリヴィエの誕生日のことだってそうだ。
一週間前になるまで夫の誕生日も知らず、手作りのものを贈ろうと張り切ってみても思うように進まない。あれはもはやマフラーではない別の何かだった。
「ティナ、どうしたの?」
「……オリヴィエさまっ、私……、いろいろ下手で……ごめんなさい……」
「なんのこと?」
「着替えも、他のことも……ナターシャさんみたいに器用にできなくて……っ」
「……どうしてティナがナターシャのようになる必要があるの?」
「だって…ッ」
「ティナ、また馬鹿なことを考えてるね」
「でも、いろいろできたほうが……」
「そう? 僕は今でも充分だと思ってるけど」
「え…?」
思わぬ言葉にティナは目を丸くする。
自分でも情けなく思うほど不器用なのに、どこをどう見れば充分だと言えるのかわからなかった。
「……ンッ」
と、そのときオリヴィエの大きな手で太股を撫でられた。
びくんと身体を震わせ、ティナは思わず甘い声を上げる。
その反応に彼は唇を綻ばせ、ゆっくり顔を近づけると、ティナの頬に口づけてから互いの唇を重ねた。
「……あ、…ふ」
彼の唇は柔らかくて甘い。
初めは触れるだけの口づけだったが、すぐにそれでは足りなくなる。
もっとほしくなってティナは唇を開いて彼を誘った。
すると、オリヴィエはそれを褒めるようにティナの唇を舐めてくれる。
その柔らかな舌が自分の中に差し込まれると、ティナも自ら彼の舌と絡め合った。
オリヴィエと触れ合うことは、どんなことよりも気持ちがいい。
ティナは彼とのキスに夢中になり、もっともっととせがむようにその首に腕を回した。
「ほら…、ティナはキスがとても上手になったね……」
「ん、ん…っ、……え?」
「それに、どこを触ってもかわいく反応してくれる」
「あぁ…んっ」
「……ね、君は不器用なんかじゃない。教えればなんだってできる。キスも、それ以上のことも、どんどん上手になっていく。いつの間にか、僕を誘うことまで覚えてしまったね」
「……ッ」
耳元で囁かれ、ティナは顔が熱くなるのを感じた。
キスも、それ以上のことも、教えたのはすべてオリヴィエだ。
身体も心も、どんどん淫らになっていく。
こんな自分は、オリヴィエと出会うまで知らなかった。
彼を好きだと自覚する前から触れられることに快感を覚え、この想いに気づいてからはむしろ自分のほうが触れたがっていた。
「ふ、ぁ、…あぁ……ッ」
指先がティナの内股を撫でさすり、ドロワーズの裾を引っ張っている。
それだけで身体が熱を持ち、自分の中心がじわりと濡れていくのがわかった。
「ティナ…、僕たちは始まったばかりだろう……?」
「あぁ…う…」
「だから、急がなくていいんだよ。焦る必要もない」
「オリヴィエ…さま…」
「少しずつ……。ね?」
「……はい」
優しく諭されて、ティナは涙を浮かべて頷く。
何度も甘い口づけをされ、舌を絡め合い、心の奥まで蕩かされていくようだった。
──それでも私、一日でも早くオリヴィエさまに似合う女性になりたい……。
そんな思いを胸に抱き、ティナは彼と見つめ合う。
しかし、密かに続きを期待しかけたそのとき、
「……あ、そろそろ夕食の時間か」
彼は思いだしたようにそう言って顔を上げた。
「え…っ」
「残念だけど、続きはあとにしよう。出かけた先で美味しそうなお菓子を買ってきたんだ。ここに来る前にナターシャに会って、食後に出してもらうようにお願いしておいたから、一緒に食べよう」
「……お菓子…」
「きっとすごく美味しいよ」
「……っ」
知っている。
彼の選ぶお菓子はなんでも美味しい。
想像してごくっと唾を飲み込むと、オリヴィエはくすくす笑って身体を離した。
けれど、ティナは彼の膝から下りずに、その顔をじっと見上げていた。
オリヴィエはよくお菓子をくれる。
そのこと自体はとても嬉しいのだが、小さな子供でもないのにどうしてだろうと、ずっと不思議だったのだ。
「僕の顔に何かついてる?」
「……あっ、……いえ、あの…、どうしていつも私にお菓子をくれるのかと思って……」
「え?」
「あ…、こっ、これはイヤだとかそういうことではなくて……っ」
目が合った途端、ティナは慌てて言葉を加える。
折角買ってきてくれたのに、こんなことを言っては気分を害してしまうかもしれない。
しかし、オリヴィエは特に気にする様子もなくふっと表情を和らげて、思わぬことを口にした。
「……初めてお菓子をあげたとき、とても幸せそうに食べてくれたからかな」
「幸せそうに…?」
「今もそうだよ。美味しい、幸せって顔をして食べてくれる」
「そう…なんですか?」
「だから君を喜ばせたくて、外に出ると美味しそうなお菓子はないかと思って、つい探し回ってしまうんだ」
「……っ!」
「……あぁ、だけどそうか。疑問に思って当然だ。ティナは子供ではないものね。他のものがいいなら、次からはそうするよ。指輪でもドレスでも……、ほしいものはなんでも買ってあげる」
「えっ!? いえ…ッ、そんなっ、ほしいものなんてありません…っ。私、オリヴィエさまのくれるお菓子、大好きです……ッ」
いきなりの話に、ティナは驚いてぶんぶんと首を横に振る。
別に高価なものがほしくて聞いたわけではなかった。
服も装飾品も、これ以上はいらない。
ただ純粋にどうしてお菓子なのだろうと思っていただけで、その理由が子供扱いしていたわけではなかったとわかって嬉しかった。
「ティナは欲がないね」
「そんなことないですっ、私、お菓子がいいです!」
「……そう? なら、ほしいものがあったら言ってね」
「はいっ」
「じゃあ、食事にしようか」
「はい…、あ、でもオリヴィエさまの着替えがまだ……」
「今日はいいよ。それよりも、紅茶の用意をお願いできるかな? ティナの淹れた紅茶、とても美味しいから」
「…ッ、はいっ!」
ティナは顔を真っ赤にして大きく頷く。
紅茶を淹れると彼はいつもニコニコして飲んでくれるが、あれは美味しいと思ってくれていたからだったのか。
まだ身体は熱かったが、そうは言っていられない。
一気に気分が浮上し、ティナはオリヴィエから下りる。
早く準備しなくてはと、そのまま部屋を出ようとして、途中でふと振り返った。
「あの、オリヴィエさま」
「どうかしたの?」
「はい…、あの……、二日後のオリヴィエさまのお誕生日……、何か欲しいものはありますか?」
「……知ってたの?」
「少し前にナターシャさんから聞きました」
「そう…」
彼はベッドに腰掛けたままで、ティナの様子を目で追いかけている。
考え込んでいるのか、しばし沈黙が流れたが、オリヴィエは僅かに顔を上げると、蕩けるような笑みで囁いた。
「その日は、ずっと僕の傍にいてくれる? 他には何もいらないから」
「……ッ、……は、はい…ッ」
ティナはますます顔を赤くしてコクコクと頷いた。
自分のほうが一日中でも一年中でも傍にいたいくらいなのに、彼のほうこそどうしてこんなにも無欲なのだろう。
それでも、自分にできることでよかったと内心ホッとしてしまう。
あのマフラー、今のままではとても渡せそうにない。
優しいオリヴィエのことだ。それでも気遣って使ってくれるかもしれないが、あんなものを身につけて恥を掻かせるわけにはいかなかった。
──けれど、私、諦めない。あれは絶対完成させるわ。
もっともっと、オリヴィエの笑顔が見たい。
次の誕生日までにたくさん練習して上手になって、そうしたら今度こそ笑顔で彼に贈ろう。
だからせめて、今は彼のために美味しい紅茶を……。
ティナは小さく頷くと、オリヴィエを残して部屋をあとにしたのだった。
──一方、部屋に残ったオリヴィエは、なかなかベッドから動かずにいた。
やがて大きく息をつくと、ゆっくり立ち上がって部屋の隅に置かれた衣装掛けに脱いだコートを掛ける。
そのまま部屋を出て行くでもなく、彼は窓のほうに目を向けた。
その視線は徐々にベッドの下へと移り、オリヴィエは途端に唇を綻ばせる。
もう一度ベッドに戻って床に膝をつくと、ティナが隠した籠をそっと取り出したのだった。
「……これは……、……マフラー……か?」
おそらくそうだと思うが断言はできない。
力の入れ具合が悪いのか、不思議なほど曲がっていて、編み目の大きさも見事にバラバラだった。
「かわいい人…。僕を驚かせたかったの……?」
オリヴィエはくすりと笑って、編みかけのマフラーを手に取る。
本当は、ティナが自分の誕生日に合わせて何かを贈ろうとしていることは、とうに気づいていた。
日中、一人になると、寝室で必死になって何かをしていたことも、毎夜激しく抱かれながら、夜中にこっそり起きて部屋の隅で灯りもつけずに作業していることも知っていた。
「……残念、これは来年までおあずけかな。僕はどんなものだって嬉しいのにね……」
オリヴィエはマフラーに口づけ、眩しげに目を細める。
努力のあとが堪らなく愛しい。
彼女のやることなすことすべてが微笑ましくてかわいかった。
宝物のようにマフラーを見つめ、オリヴィエは名残惜しそうにそれを籠に戻して、ベッドの下に仕舞う。
そうしてティナのもとに向かうべく、温かな気持ちを持って彼もまた部屋をあとにしたのだった──。