二人の夜
ベッドの脇に置いてある一人掛けのソファに座っていたサラは、物音を聞いた気がして、読んでいた資料から顔を上げた。
夜の帳が降りてもうずいぶんと経った。
夫婦となってから二人の寝室となったサラの寝室は、灯りは煌々としていて、ものを読むのにも充分の明るさだ。だが集中していて、いつの間にかけっこうな時間が過ぎてしまったらしい。入浴後も休むことなく仕事を続けるサラを心配して、侍女がお茶を淹れてくれたのだが、すっかり冷めてしまっている。
これまでサラが無気力だったせいで信頼関係を築けないできた侍女たちとも、女主人としての務めを果たすようになったことで、ようやく関係が改善され始めた。サラ付きの侍女は、最近はケヴィンではなくサラの言葉を聞いて動くようになってきた。
サラはため息を吐いて資料をサイドテーブルに置き、ぎゅっとこめかみを押す。集中していた時は気にならなかったが、さすがに目が疲れたようだ。
甘いお茶でも飲んで疲れをとろうとティーカップに手を伸ばした時、寝室のドアがカチャリと開いた。
夫婦の寝室をノックなしに開けられる人物は、サラの他にはただ一人だ。
「あ……!」
夜が更けても寝ずに待っていたその人が現れて、サラはお茶に伸ばした手を引っ込めて、パッと立ち上がった。
「おかえりなさい、ケヴィン」
満面の笑みでそう言ったサラを、ケヴィンは驚いた顔で見返した。
執務を終え、入浴を済ませたのか、濡れた金の髪をそのままに、室内着にゆるくガウンを羽織っただけという出で立ちだ。だが何を着ていたって、この男の美しさが損なわれることはないのだろう。今だって、神話の中の美貌の男神のように見える。
「まだ起きていたのですか」
「ええ。少しやり残したことがあって……それに、あなたを待っていたかったの」
はにかんでそう答えれば、ケヴィンは凛々しい眉をわずかに顰める。
「待っていなくていいのですよ。ただでさえ忙しい御身なのだから、休める時に休むべきです」
困った子どもを諭すような言い方に、サラはむっと唇を尖らせた。
「まあ。あなたに会いたくて待っていたのに」
「毎日会っているでしょう?」
言いながらケヴィンは大股でサラの傍に歩み寄って来た。ソファの肘掛けに掛けてあったひざ掛けを取って広げると、サラの肩をそれで包みこむ。
その所作がどうしようもなく優しくて、サラは言おうとしていた文句を忘れそうになった。だがすんでのところで思い出し、頭一つ分高い場所にあるケヴィンの美貌を覗き込んだ。
「あなたは私が寝た後にベッドに入り、私が起きる頃にはベッドを出て仕事に行ってしまっているわ。顔も見ていないのに、会ったことになるはずないでしょう?」
唇を尖らせて主張すれば、ケヴィンは目を丸くして、それから苦笑を零した。
「すみません。俺の方はいつもあなたの寝顔を堪能しているから、気がつきませんでした」
「ね、寝顔を堪能って……」
思いがけないことを暴露され、サラは狼狽してしまう。
――寝顔、だなんて。
寝ている時、自分はどんな顔をしているのか。口を開けていなかっただろうか。涎は出ていなかっただろうか。もしかしたら、いびきだってかいていたかもしれない。
「わ、私、変な顔をしていなかった……?」
思わずそんなことを口走ってしまい、サラはしまったと臍を噛む。怒ったように見せていたのに、台無しだ。
ケヴィンはと言えば、サラの発言にぷっと噴き出すと、長い腕を広げて、サラの華奢な身体をぎゅうっと抱き締めた。
「あなたはいつも可愛いですよ」
「そ、そんなはずは……」
誤魔化そうと言ってもそうはいかない、と反論するが、ケヴィンの厚い胸板に顔を押し付けている状況では迫力に欠ける。ケヴィンはクスクスと笑いながら、サラを抱き締める腕を細い腰まで移動し、力を入れてその身を持ち上げた。
「あなたは本当に、いつまで経っても可愛らしいままだな」
子どものように抱き上げられ、サラはぷぅっと頬を膨らませる。
「ケヴィン、子ども扱いをしないで。それに、話を逸らすのもやめてちょうだい。私が言いたかったのは、あなたは少し働きすぎだってこと。少しお休みをとるべきよ」
そこまで言って、サラは小さく嘆息した。
「……とはいっても、なかなかお休みがとれない立場ですものね」
働きづめの夫が心配で、サラはそっと彼の頬を撫でる。
ケヴィンは瞼を閉じて、サラの手の感触を味わうように頬を傾ける。
その表情を美しいと思いながら、久し振りに触れた愛しい人の肌に、愛しさが込み上げてくる。
やがてゆっくりと瞼が開き、海色の瞳がサラをまっすぐに見つめる。
「俺に会いたかった?」
思いがけず問われ、サラの心臓がドクンと音を立てて跳ねる。
ケヴィンの眼差しは凪いだ海のように静かだ。それなのに、どうしてその奥に熱く燻るものが見えるのか。
サラは見えない糸が柔らかく全身に絡み付いていくのを感じた。
それはケヴィンの欲情の罠だ。
サラが気づいた時にはいつも、既にその罠にかかっていて、逃げられなくなっている。
ごくりと唾を飲んで、サラは小さな唇を開いて答えた。
「……会いたかったわ。ずっと、恋しかったの」
サラの答えに、ケヴィンがふわりと破顔する。
その笑みのあまりの艶やかさに、この人はもしかしたら本当に人ではないのかもしれない思うことがある。美の神は女神だが、男だったらきっとこんなふうだろう。
艶やかで、色っぽくて、見る人を魅了する美しさだ。
どこかぼんやりとその美しい笑顔に見入っていると、ケヴィンが顔を寄せてちゅ、とサラの唇を啄んできた。
目を瞠れば、ケヴィンは微笑んだまま言った。
「俺もです。あなたが恋しかった。ずっと、あなたに触れたかった」
「まぁ……」
あからさまな告白に、サラは頬を染めた。
そんなサラのブルネットの髪を撫でながら、ケヴィンはサラを抱えてベッドに腰掛ける。そのまま押し倒されそうになったので、サラは慌ててケヴィンの胸を押した。
「ま、待って、ケヴィン。あなた、明日も忙しいのでしょう? こんなことをしていてはダメ。少しでも眠らなきゃ」
彼が自分よりも睡眠時間が少ないのは明らかな上、自分よりもずっと体力も気力も使っているはずだ。なにより、さきほど顔を撫でた時、その目の下にある隈に気づいてしまった。明日も忙しいのに、余計な体力を使ってほしくなかったのだ。
だがケヴィンは自分を押しやろうとするサラの手首を掴むと、白い掌にキスを落として囁いた。
「あなたは、俺と触れ合いたくはない? サラ」
そう言われてしまえば、サラには押し黙るよりほかない。
――ケヴィンと抱き合いたい。
愛を確かめ合う行為の幸福感を知ってしまえば、その欲求は常にサラを苛んでいる。
だがそれを口にできるほど、サラはあけすけな性格ではない。
悔しげに睨みつければ、ケヴィンは愛しくて仕方ないと言わんばかりに微笑み、圧し掛かるようにしてサラの唇を奪った。
息もつけないほど激しく深く口付けられ、息も絶え絶えになったところで、再び囁き声で訊ねられる。
「俺が欲しいなら、命じればいい。『明日は休め。そして今夜は思う存分、私を貪れ』と」
「なっ……」
なにをばかなことを、と言いかけた唇は、はく、と一度上下してから、動きを止めた。
ケヴィンの透明な眼差しが、熱を孕んでこちらを射貫いていたからだ。
「あなたは俺に命じられる。あなただけが」
「……ケヴィン」
サラは名を呼んで、それから次の言葉を見つけられず沈黙する。
『命じる』
それは二人が主従の時、サラがケヴィンを得るために使った手段だ。
卑怯だった自分を責めたサラは、立場が変わってから彼に何かを命じたことは一度もない。ケヴィンにとっても、命じられて従わされたことは良い記憶ではないと思っていたからだ。
だがケヴィンは微笑んだままだ。半ばうっとりとさえして、サラを見つめている。
「命じて、サラ。あなたが命じてくれたから、俺は今こうしてあなたを手にしている。あの時俺に命じてくれたあなたの勇気を、俺は誇りに思ってる」
「なにをばかなことを」
信じられない気持ちで首を横に振れば、ケヴィンがその両頬を包み込むようにして抑える。
「ばかなんかじゃない。俺はあなたに命じられるのが好きだ。だから、命じて。サラ。そうすれば、俺はなんだってするだろう」
なんだって、という言葉に、サラはハッとする。
そうだ。今までだって、ケヴィンはサラのためになんだってしてくれた。サラを生かすために彼がしてきてくれた数々のことを思い返せば、どうしてそこまで、と不思議になるくらい。
――だから、今のこの言葉も、決して嘘ではないのだ。
サラは、自分も同じようにケヴィンの頬を両手で包み込んだ。
「ケヴィン。明日は休みなさい。丸一日よ」
命じれば、ケヴィンは目を更に細めた。
「仰せのままに」
そう答えながらも、ケヴィンの目はその先を期待して言葉もなく促している。
サラは目を逸らしたくなったが、自分とケヴィンとの間に既に灯ってしまっている欲情の炎を感じて、観念して口をひらく。
「それから」
「それから?」
催促のおうむ返しが憎らしい。やに下がっても美貌の顔をじとりと睨みつけ、低い声でサラは命じる。
「……私を、抱きなさい」
ケヴィンが蕩けるように笑った。
「喜んで、我が姫君」
そう請け負うと同時に、唇を唇で塞がれて、サラは眩暈がしそうだった。
翻弄されるように口内を舐られながら、それでもどうしようもない多幸感に包まれて、サラは思う。
自分たちは、ずっとどこか歪な関係だった。
最初は、権力のある『役立たず』の主と、権力のない有能な従者。
それから、ありもしない罪で縛り『命じる』主と、冤罪を自ら受け入れあがなう従者。
立場が変わった今、その歪さが改善されたはずなのに、こうして『命じ、従う』ことを再現することで、愛を確かめている。
――でも、それが私たちに相応しい在り方なのだわ。
自分達の間に常にある、罪の意識。
ケヴィンから、サラへ。そしてサラからケヴィンへ、互いに持ち続けていくだろうその罪悪感がある以上、自分たちの愛の在り方は、他の人とは違うのだ。
「愛しているわ」
キスの合間に囁けば、ケヴィンが同じだけの熱をもって返してくれる。
「俺も愛している」
歪でありながらもこうして互いに想い合える奇跡のような幸福を、目を閉じてぎゅっと噛み締めて、サラはケヴィンの首に腕を回す。
こうして、久方振りのレトワルダ王国の王と王妃の愛の夜は、熱く濃く、更けていくのだった。
翌日、王妃は疲労のあまりベッドの住人となったが、王の方は疲れなどどこかへ消えたかのように溌剌としていた。疲れのため公務を一日休むと言い渡された者たちは、一様に不可解そうに首を傾げたのだった。